第5話「帰る場所、待つ人」
ファルデン村の朝は静かだった。
鳥のさえずりと木々の葉擦れだけが、かすかに窓から聞こえてくる。
システィーンは、村の外れにある自宅の窓辺に座っていた。
ブリシンガーが王都に旅立ってから約一週間。
彼の残した湯呑み、彼が折りたたんだ毛布、そして聞こえていた足音のない家。すべてが静かで、すこしだけ寒い。
ぽつりと、彼女は言葉を漏らした。
「……やっぱり、寂しいな」
そのとき、玄関をノックする音が響いた。
こんな朝に誰だろうと立ち上がり扉を開けると、そこに立っていたのは―
「なんだ、ブリシンガーいないのか」
バルダーだった。
肩に荷物を担ぎ、相変わらず無愛想な表情で、しかしどこか所在なげに立っている。
スティーンは微笑みながら、少し驚いたように言った。
「……うん。少し前に王都へ旅立ったの」
「へぇ。前に言ってた、兵に教えるってやつか。つまんねぇの」
彼はふっと鼻を鳴らすが、別に帰る気配はない。
システィーンは言った。
「せっかくだから、入って。まだ朝ごはんの片付け、終わってないけど……よかったら、お茶でも」
「ブリシンガーから借りてた道具を返しに来たつもりだったんだけどな……ま、暇だし」
小さく頷いてバルダーは中へ入る。
温かい茶を淹れながら、システィーンはふと問いかけた。
「ねえ、バルダー。村での生活、どう?慣れた?」
問いに答えるまで、彼は少し間を置いた。
窓から差し込む朝の光の中、バルダーは腕を組み、視線を外に投げる。
「……最初はな、正直、落ち着かねぇって思ったよ」
ぽつりと口を開き、続けた。
「毎日が静かすぎるんだ。鳥の鳴き声とか風の音とか……それしか聞こえねぇ夜なんて、俺にはなかったからな」
彼の目がかすかに揺れた。
「お前らと一緒に旅してた頃は……毎日が戦いみたいだったよな。誰かが剣を振るってて、誰かが声を張ってて、誰かが笑ってて。とにかく、賑やかだった」
そこまで言って、彼はふっと鼻で笑う。
「……だから、最初はこの村の静けさが、怖いくらいだったんだ。何も起きねぇ、誰も騒がねぇ。まるで、時間が止まってるみたいでさ」
システィーンは黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。
「でもな、慣れてくると……これが案外、悪くねぇって思えてきた」
バルダーは、窓の外の風景を眺めながら、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「朝はちゃんと来るし、飯は温かいし、誰かが死ぬこともない。そういう普通の毎日って、俺は知らなかったんだよ。子どもの頃から、戦場がすべてだったからな」
彼は腕を解いて、背もたれに身を預けた。
「……だから、今はこういうのも、悪くないって思ってる。少なくとも、“本当の意味で生きてる”って気がするんだ。ここじゃ」
その言葉には、どこか照れくささを押し殺したような、ぎこちない誠実さがあった。
システィーンは、そっと目を細めて笑った。
「……そう。そう思ってくれるなら、嬉しいな」
バルダーの言葉にシスティーンが穏やかに微笑んだそのとき、彼はふっと口元を緩めて、わざとらしく視線を逸らしながら言った。
「……でさ。逆に聞くけど、お前のほうはどうなんだよ?」
システィーンがきょとんと目を瞬かせる。
「えっ、私……?」
「ブリシンガーとの新生活だよ」
バルダーはニヤリと笑い、わざとらしく咳払いを一つ。
「一緒に暮らし始めて、いい感じなんじゃねーの?」
その瞬間、システィーンの頬がぱっと桜色に染まった。
「そ、そんなこと……っ!」
彼女は慌てて視線を逸らし、膝の上で指をもじもじと絡ませた。
「い、一緒にいるだけで……その、まだ特別なことなんて、なにも……」
「“まだ”か。へえ~、顔真っ赤じゃん」
バルダーがニヤニヤと肘で軽くつつくと、システィーンは小さく悲鳴を上げて身体を震わせた。
「うぅ、ちょっと……バルダー……!」
そんな彼女の様子をからかうのはほどほどにして、バルダーは天井を見上げるように言葉を継いだ。
「……けどまあ、あいつ、変わったよな。前よりずっと、話すようになったし。笑ってるのも見た」
それに、と付け加えて彼は微笑む。
「お前の前だと、特にな」
システィーンはますます顔を真っ赤にしながら、小さな声でぽつりと答える。
「……私も、そう思うの。前よりずっと、彼が心を開いてくれてるって……」
「そっか。今までが戦いばっかで、それが本来のアイツの性格なのかもな。やっぱ、お前が傍にいてくれてよかったんだな」
バルダーは優しい目でシスティーンを見た。
彼女は胸に手を当て、そっと呟く。
「……あの人ね、最近は“今日は良い日だった”とか、“この景色、好きだ”とか……昔じゃ考えられないくらい、穏やかな声で言ってくれるの。夜、家の前で星を見ながら静かに話す時間が……本当に、幸せで……」
彼女の声は照れと喜びに震えていた。
まるで、小さな夢を語る少女のように。そして、空いた窓から静かな村の風がそっと二人の間を通り抜けた。 バルダーはそれを聞いて目を細めた。
「……そっか。なら、良かった」
そして、すぐにいつもの軽口が戻る。
「まぁ、たまに冷やかしに来るわ、ドゥガルと一緒に」
それを聞いたシスティーンの顔が再び真っ赤に染まる。
「ちょ、ちょっとバルダー!」
「ははは!悪い悪い」
そして、二日後。
朝靄が晴れ、澄んだ空に小鳥のさえずりが響く頃。ファルデン村の南門に一台の馬車が現れた。
「おい、見ろよ!あれ……王都の馬車じゃないか?」
村人のひとりが声を上げ、周囲がざわめく。
その馬車は、立派な黒塗りの車体に王家の紋章が刻まれており、後部には布で覆われた大量の荷が積まれていた。
そして、手綱を引いていたのは、見覚えのある男。
「……ブリシンガー様だ!」
その声と共に、村の子どもたちが駆け寄る。
馬上のブリシンガーは、変わらぬ精悍な表情で子どもたちに穏やかに手を振ると、馬車をゆっくりと村の広場に進めていく。
彼の後ろには、まるで小さな山のように積まれた褒美の数々。
金銀の箱、王印の入った書簡、布に包まれた高級な食材や調度品、そして魔法具らしきものまで。
馬車を止め、村人たちに見守られる中でブリシンガーは一言、照れ臭そうに笑いながら呟いた。
「……これでも、相当断ったんだがな」
村人たちは一瞬沈黙し、次の瞬間、笑いが巻き起こる。
「これで!?」
「断ってこれなのか!?」
「あんた、どんだけ特別扱いされてんだよ!」
「さすがに王様に手ぶらで帰るわけにはいかんと言われてな……礼儀として、これだけはって。ほら、あの書状にも“これを受け取らないとグランヘイムの民が納得せぬ”とか書いてあるしな……」
ちょうど朝食の支度をしていたシスティーンは、戸口からその声を聞いた瞬間、手にしていた木の匙をカランと落とした。
「えっ……」
心の奥が熱くなる。次の瞬間、彼女は反射的に玄関の扉を開け放ち、裸足のまま飛び出した。
金色の髪が朝日を浴びて光を放ち、白と茶色のワンピースが風にふわりと舞う。
村の石畳を小さな足で駆け抜けるその姿は、まるで春の精のようだった。
「ブリシンガーっ……!!おかえりなさ……えっ?」
村の広場に辿り着いた彼女の瞳に映ったのは、今まさに馬車を止めたばかりのブリシンガーの姿。
そしてその後ろに山のように積み上げられた、想像を絶する量の褒美。
システィーンは足を止め、ポカンと口を開けて固まった。
目が点になるという言葉が、これほどまでに似合う場面があるだろうか。
「そんなに……!?な、何箱あるのこれ……っ?」
彼女のあまりの驚きに、隣の村人たちも思わず笑う。
だが、次の瞬間には彼女の視線はまっすぐにブリシンガーへと向けられた。
「……ほんとに、おかえりなさい……!」
今度は、ふわりと笑みがこぼれた。
頬は紅潮し、目には涙が浮かびかけている。ブリシンガーはそんな彼女の姿を見つけると、やわらかな笑みを返して、馬車からゆっくりと降りてきた。
「ただいま。……待たせたな、システィーン」
その声は明るく、王都へ向かう前よりも柔らかく、言葉数も増えていた。
「すまん。これ、どうするか困るよな」
システィーンは口元に手を当てて笑い出すと、すぐにまた赤くなった。
「ふふっ……もう、ブリシンガーったら……!」
広場に、穏やかな風と、柔らかな笑い声が広がっていった。
人目があるせいか、システィーンは飛びつく代わりに、そっと彼の袖を握った。
ブリシンガーは一瞬だけ考え、それから約束を思い出したように、彼女の肩を優しく抱き寄せた。




