エッシャーの城>>髄質>>5
翌朝アレクは目を覚ますと、シリアルをかき込んでレフのハッチバックを街まで飛ばした。バザールで買った水色のアロハシャツ。細身のホワイトデニム。起きがけに鏡を見て確かめた。黒染めはまだ落ちていない。スリーピースとはいかないが、何しろ天使の同伴なのだ。滅多な格好では出てゆけない。バトゥの走った道を辿り川沿いの道に出ると、遠目にビルの群が見えた。
アジートを出てから、ものの数十分で着いてしまった。街並みが目に入っただけで小指が震え出し、あれから何日も経っていないことを思い知らされる。臨海地区に入ってすぐの交差点を左に曲がり、アレクは橋の上を流し気味に走った。イポリートは何のため、キリールを欺いたのか。アレクを受け取ったのは、本当は誰だったのか。ニコライは、何をどこまで知っているのか。アレクには無理でも、見破ることができるかもしれない。絡み合った謀の隙間をかいくぐってきたカルラには。
橋の両側には高い柱が立ち並び、円錐状に張られたケーブルが円いデッキを支えている。店や広場もまばらに見えるが、ほとんどは天使たちの別荘だ。7月に入れば賑やかになるのだろうが、人のいる家は少ない。橋は緩やかなカーブを描き、フロントガラスに白いアーチが滑り込んできた。
カルラの言っていたカフェだ。交差したアーチからたくさんのケーブルが下がり、細い足場でつながった小さな鳥かごを支えている。容赦なく高そうな店構えに息をのみ、アレクはポケットの偽配給券を確かめた。大丈夫だ。ドレスコードはともかくとして、勘定は誤魔化せる。
アレクは駐車場に車を停め、中央のエレベーターに乗り込んだ。ここまでのこのこ出てきたからには、恥をかくことなど気にしていられない。諦めて名前を伝えると、しかし、受付はアレクを素通りさせた。
「お連れ様がお待ちです。係りの者がご案内いたしますので、あちらへどうぞ」
待たせてしまっているらしいが、お陰で関所を抜けられた。川面を滑るガラスの廊下を、ウェイターは軽やかに渡ってゆく。白い背中を追ううちに、いつの間にか息が軽くなっていた。
そういえば、カルラは何を着ているだろう。ある物で間に合わせたアレクと同じ筈はないが、白衣以外を着ている姿はどうしても浮かばない。本題とはかけ離れた呑気な悩みを抱えたまま、アレクは個室についてしまった。
「すんません。遅くなりました」
鳥かごの奥には、果たしてカルラが座っていた。
「いえいえ。無理を押して来て頂いたのですから」
実際に会ったのは病院ですれ違って以来だが、間違いない。これはカルラだ。顔も声も話し方も、アレクがよく知っている通りの。せめて平凡な服装をしていれば、迷うこともなかっただろう。
「天使様、ええと、その格好は……」
壊滅的と言うべきか。ピンクと緑がのたうち回る黄色い花柄のワンピース。しかも丸襟だ。今時、6歳児でもこんな服は選ばないだろう。
「このワンピースですか? 着る機会がずっとなかったものを引っ張りだして来たのですが、今思うと少し派手過ぎたかもしれませんね」
すました顔でティーカップを手に取り、冷めた紅茶を飲み干しながらカルラはアレクを窺った。
「いや、よくお似合いですよ。なんというか、その、とてもガーリィな感じで」
こんなところで躓いている場合ではない。アレクはうろ覚えの単語で急場を凌いだ。
「それより、この間の話ですよ」
あの男が、一体誰と繋がっているのか。迂闊な言葉を吸い込み、アレクは外を窺った。開けっ放しの入り口にも、白い格子の向うにも、ウェイターの姿はない。
「そうですね。一応話しやすい場所を選んだつもりですが、あなたはもう知っています。どこで誰の聞いた言葉が、どんな形で襲いかかってくるのかを」
ソーサーにカップを戻したとき、そこにはいつものカルラがいた。花薫る庭にあって、険しさを忘れさせないカルラ。このテーブルに始めから用意された話題を、わざわざ取り出す必要がなかった。
「イポリートが協力した相手は、一体誰だったんでしょう」
可燃物を扱うときの引き締まった低い声で、アレクはカルラに聞きなおした。
「順当に納まるなら、党の研究機関の筈です。城を狙っていた者が、アレクさんに興味を持った。そして捉えようとしたと」
ですが。カルラは宙を睨んでから、続けた。
「実際に起こったことは、それとは逆のことだった。アレクさんは党の手を逃れ、むしろテロリストに加わりつつあります」
軽い相槌を引っ込め、アレクは歪な眼差しを向けた。カルラはニコライ達のことを、知っていてテロリストと呼ぶのだ。
「でも、ニコライはグルじゃない……です、多分。イポリートには、怨みがあるみたいですし」
声を荒げたアレクの口から、ほんのわずかに犬歯が覗いた。格子の隙間に覗く川面が、過ぎた風にまだ揺れている。




