エッシャーの城>>髄質>>6
「イポリートが宗旨替えしたのなら、隠す必要もありません。一番分かりやすい可能性は、この場合頼りにならないようですね」
溜息をつくと共に、カルラは外を指さした。ウェイターだ。そういえば、アレクはまだ何も注文していない。ブレンドを一杯頼んでウェイターが帰っていくまでの間、アレクは抜け道を探し続けた。レジスタンスを増長させるためにアレクを利用した可能性。誰かの目を欺くため、アレクを一旦ニコライの手に委ねた可能性。アジートの中に内通者を用意している可能性。どれも自分から手間を増やしているだけだ。
「――ていないと考えるべきでしょう」
アレクが気付いたとき、カルラの話は終わっていた。この矛盾をすり抜ける道が、カルラには見えているのか。アレクが聞き返すと、カルラは首を振った。
「こういう場合は、分かっているところから埋めていくべきです。第一に、現在の状況はイポリートの狙った結果だということ。第二に、ニコライはそのことを知らず、一方的に利用されているということ」
研究者の推測は、堅実で的確だ。分かることは洩らさず、分からないことには踏み込まず。たとえ答えが矛盾に見えても、事実として受け止める。
「でも、わざわざアジートを使う理由がない。イポリートの地位があれば、自分の息がかかった施設がそのへんにゴロゴロしてるでしょ」
カルラは頷き、それから顔の前で手を組んだ。
「そこでアジートを選択したところに、彼の真意を読み解く鍵があります」
イポリートの筋書の中で、最も作為的な部分。アレクがアジートにいることが、イポリートにとって一体何を意味しているのか。水鳥の鳴き声が、立ち込めた謎を横切っていく。アレクは膝を叩いて、テーブルの上の静けさを払った。
「よし。その辺りはまた今度調べましょう。腹が読めないってことだって、城を探してて分かったことなんだし」
カルラは熱のこもった溜息を吐き出し、それから対岸の街を見やった。今、あそこでイポリートは何をして、何を考えているのだろう。
「ええ、答えを出すには、まだ証拠が足りません」
ですが。小さなつぶやきが、風の中にほどけて消えた。
「気を付けて下さい。彼には必ず、アレクさんを連れ戻す算段があります。手下を潜り込ませるにせよ、外部から襲撃するにせよ……何も来ないということはありえません」
そう。全ては決まっているのだ。あの男の頭の中で。カルラの眼差しを追いかけて、アレクも姿の見えない敵を探した。格子の向うに見えるビル群は、心なしか色あせて見える。
「アジートの中でも安全とは言えない、か。でも不思議です。俺、街に来てるのに、なんか安心しちゃってる。不用心ですかね」
アレクが苦笑を浮かべると、カルラは口を尖らせた。
「当たり前です。ほら、さっそくウェイターが戻ってきましたよ」
慌てて口をつぐむのも、かえって怪しく見えるかもしれない。足音を背後に捉えながら、アレクはデートを装った。
「そういえば、この後どこに行くかまだ決めてませんでしたね」
失敗だ。発音が浮足立っている。
「コーヒーをお持ちしました」
白磁のソーサーは、音もなく青いクロスの上にとまった。濃厚な飴色から仄かな湯気が立ち上り、そっと息を吹きかけると静けさに溶けてゆく。ご注文の品は以上です。ウェイターが行ってしまうと、部屋にはいつもの静けさが戻った。風と、葉擦れと木漏れ日だけが囁きかける長閑なひととき。意外な余裕のありかを見付け、アレクは間抜けな声を上げた。
「中庭か……中庭にいるような気になってました。目の前に、天使様がいるから」
エッシャーの城。この世の外から、謀を眺めることができる場所。アレクを狙う敵はなく、カルラだけが中庭で、待っている。
「呆れました。本当に呑気な人ですね」
口先で咎める割に、随分と気の抜けた声だ。カルラの投げ出した左手を見て、アレクはしかし、目を丸くした。
「天使様、腕輪、腕輪を忘れてますよ」




