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エッシャーの城>>黎明>>9

 被験者とは、カルラのことなのだろうか。それともかつては他の人間が城に出入りしていたのだろうか。専門用語だらけの入り組んだ記事にアレクは目を走らせたが、全く話の流れがつかめない。

「その、被験者というのは、どんな人だったんですか」 

 諦めて訊ねると、答えはすんなりと返ってきた。

「記録によれば、8歳の少女だそうだ。学会では専らЭ(エー)と呼ばれとったな。ほら、そこに写真が載っとるだろう。この子は……ブローカー野三角部の一部を切除された被験者のうちの一人で、術後すぐに奇妙な夢を見始めたという本人の証言がどこかに――」

 明るい部屋で、研究者の質問に答える少女。間違いない。十年以上も前の写真だが、長い黒髪と眠たげな眼差しはカルラのものだ。アレクは目を見開き白黒写真に食いついたが、ファイルはコルレルによって取り上げられてしまった。アレクの刺々しい眼差しに気付く由もなく、コルレルは素早くページをめくっている。

「――あった。読むぞ。『気が付くと、大きな鏡の前に立っていました。渡り廊下は空に浮かんだお城に繋がっていて、そのお城はとても変な……』、うむ。やはり似とる」

 コルレルは座ったまま椅子を引きずり、アレクに開いたページを見せた。短いト書きには、筆者とЭの名前が交互に並んでいる。

「見ろ、ここのところだ。『変なの? そのお城はどこが変だったのかな?』、『どこって……向きがでたらめなんです。いろんな方に向かって屋根が飛び出していて、お城の中も、壁が曲って床と繋がっていたり、床に扉があったりするの……』」

 コルレルは指さしながら、スクラップされた記事を読み聞かせた。些か舌足らずではあるが、確かにアレクが見た通りの物を、この少女は語っている。

「Эの観察にあたった研究者は、そのときこう言って笑ったそうだ。これではまるでエッシャーの騙し絵ではないか、とな。『玄室』『イデア界』『世界精神』……仮説上のそれには様々な名前があったが、それ以降、その場所は仲間内で『エッシャーの城』と呼ばれるようになったという。もっとも、この時点で城に注目したものは殆どおらず、残っとったのは担当者の観察記録だけだそうだ」

 エッシャーの城にようこそ。カルラと出会たとき、アレクはまるで分かっていなかった。アレクは今になって、やっとエッシャーの城に辿り着くことが出来たのだ。老人が手にしたファイルにすっかり見入ったアレクに向かって、ニコライは声をかけた。

「オイ、見覚えがあるんじゃねえのか? お前のカルテにも似たようなことが書いてあったぜ」

 アレクは振り向き、ニコライに向かってこわばった顔で頷いた。ブローカー野の三角部といえば、アレクが事故でやられたのと同じ部位だ。

「ああ。作業中に感電して……いや? おかしいな……」

 アレクが失神したのは、ガス中毒のためだ。冷媒が漏れていたと、テルミンが教えてくれたではないか。アレクが眉を寄せて口ごもってしまったのを見て、コルレルは鼻を鳴らした。

「ガス中毒の筈だったと? 見てみろ。これがお前さんのカルテだ」

 コルレルは机の上の赤いファイルから書類を取り出し、アレクの目の前に差し出した。コピーの画質は荒いが、それでもピョートルの字なのは見て取れる。

「どうやってこんなものを?」

 アレクがコルレルに尋ねると、ニコライが代わりに答えた。

「国安の中にいる仲間がお前の情報を回してくれたんだ。軍の研究機関と国安が冴えない一般人を追い回してる、詳しい事は分からないがユレシュがらみの案件らしいってな。そいつは病院から国安に回ってきたカルテのコピーを、もう一度コピーした孫写しだ……それより、その備考欄を見てみろよ」

 アレクは間延びした相槌を打ち、それからカルテに目を通した。アレク。19歳、男性。ハバロフスク大学病院内で基盤の交換作業中に手違いで感電。

「感電……そうだよな。目の前で思いっきりスパークしたよな……」

 だが、確かにあの事故はガス中毒だったのだ。アレクは書類の上に失われた二つ目の事故を求め、その代わりにある一文を見つけた。

「『心的外傷後ストレス障害が職務に影響を与える恐れあり』……『別途記憶の書き換えが必要』? いや、でも確かにガス中毒だった筈だし……ほら、今でもガスの匂いを思い出せるんだ」

 額から汗が流れ落ち、アレクは瞬きして汗を渡した。アレクの影は書類を手にしたまま、緑色の床の上で小刻みに震えている。

「治療とやらの詳細は二枚目以降だ」

 ニコライに促されて、アレクは一枚目の書類を左手で掴んだ。街で治療を受けていたころ穏やかな日々の裏で一体何が起こっていたのか。その答えがこの下に隠されている。凍える手で不器用に一枚目を下に送ると、そこには几帳面なテルミンの字が並んでいた。催眠療法を行い、偽記憶の定着に成功。以後、昏倒の原因はガス中毒とする。少し下り、水滴への接触により事故当時の記憶が夢に漏出した可能性あり。

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