エッシャーの城>>黎明>>8
コルレルは立ち上がり、診察室の隅にある戸棚に歩み寄った。
「今から十数年前の話になるが……」
固太りした気深い両手がガラス戸を開き、ファイルをかき分けている。アレクは丸椅子を揺すりながら、コルレルがファイルを見つけるのを待った。
「あった、こいつだ」
コルレルが取り出したのは、青く日に焼けたファイルだった。コルレルの払った埃は白熱灯の光に漂い、渦を巻きながら空気に溶けてゆく。茶色く日焼けしたシールの上にはサインペンで一言『調査用』と書かれている。
「演算素子理論という名前は聞いたことがあるか?」
コルレルはファイルに目を通しながら訊ねた。ビニールをめくる薄っぺらい音が、診察室を横切ってゆく。
「まさか。俺にそんな学はありませんよ」
だろうな。コルレルは僅かに手を止めてアレクに目をやり、それから再びファイルに目を戻した。
「ポーランドにヨハン・バウアーという数学者がいてな。その男の研究は、本来電子回路に関するものだった。バウアーは回路の規模に応じた処理能力の限界を算出し、電子工学に寄与したわけだが、その先にとある副産物があった」
コルレルの話を聞く内に、アレクの目は少しずつ開いていった。
「ああ、それなら主治医に教えてもらったことがあります。本当は脳細胞が5倍いるって話でしょ」
人間の大脳はエッシャーの城と通信することで初めて複雑な思考や結論を引き出せる。テルミンは廃れた学説だと言っていたが、ユレシュは間違っていなかった。
「なんだ、知ってるんじゃねえか」
ニコライは軽く笑い、アレクの背中を叩いた。
「そうだ。人間の脳にはおよそ30億個の神経細胞が含まれているが、バウアーの試算によれば、それは迷路を解いたりリンゴの皮を剥くだけで使い尽くされてしまう規模なのだそうだ」
コルレルはファイルを開いたままアレクに手渡した。『第37回ハバロフスク大脳生理学大会、ユレシュ教授の新説発表に騒然』。大写しにされた白黒のユレシュはやや骨ばった顔をしており、鋭いまなざしは色あせた誌面に今なおはっきりと焼き付いている。言い伝えの中から浮かび上がった男の影を忘れぬよう、アレクはスクラップをじっと見据えた。
「だが、知っての通り人間には知識を蓄え、理論を用いて演繹することも出来る。両者の間横たわった断絶はあまりにも大きかった。バウアーの定理が間違っていたのか、神経細胞には我々が想定している以上の機能があるのか、脳の中には我々の知らない何かがあるのか、それとも――」
昔話の切れ間に気付いてアレクがふと上を向くと、そこにはコルレルの眼差しが待ち受けていた。
「……脳味噌以外の何かが考えているのか?」
その通り。コルレルは再び話し出した。
「マウリ・ユレシュは人間の思考の大部分が、脳の外側で行われていると主張した。大脳新皮質に分布する機能を特定されていないグリア細胞が、未発見の信号を送受信している可能性がある、とな。既に実践的行動工学の分野で幾つかの業績を上げていたユレシュは、政府の本格的なバックアップを受けて新たな研究所を開設した。外部から市民の脳にアクセスすることが出来れば、あるいは脳のアクセスしている「何か」に働きかけることが出来れば、政府の人民誘導政策は真に完成される。西側の残存勢力を巻き込んだ、地球連邦が生まれる。当時総書記を務めていたイブレフスキは、ユレシュの研究所に国家予算の1割をつぎ込んだ」
アレクは人差し指で唇を押さえ、コルレルの顔を見守った。歴史の闇に葬られた科学者、ニコライ達の宿敵、カルラが警戒しているのも、恐らくはこのユレシュという男だろう。コルレルの話はどうやら嘘ではなさそうだ。
「連邦中から被験者がかき集められ、危険なロボトミーや投薬実験が繰り返されたそうだ。実験の詳細は秘匿……されていたが、要は結果が芳しくないのだろうと、同業者も見切りをつけ始めた頃だった。ユレシュは突如として学会に舞い戻り、そして報告した。他人の意識を覗くことが出来る、一人の被験者の出現を」




