エッシャーの城>>黎明>>7
ニコライは振り返りもせず薄汚れた通りを突き進み、やがてカドルスキ整形外科と書かれた緑の看板の前で立ち止まった。白い壁には男性器の落書きがそそり立ち、少し奥にはさっきのエレベーターが見える。
「ここだ。順番待ちの患者がいなけりゃいいんだが」
建付けの悪い引き戸が金切り声を上げて開くと、医院の中からは懐かしい消毒液の香りが滲み出してきた。外と違って、中はある程度清潔らしい。アレクは胸いっぱいに医院の空気を吸い込み、ニコライを訝しがらせた。
「あら親方さん、こんにちは。近頃あまり戦闘員が担ぎ込まれてこないと思ったら、病人を連れて見えるなんてね」
声に気付いて、アレクは受付に目を向けた。受付の夫人は髪が短く、職務に引き締められた顔をしている。
「ああ、まあそういうことだ。今すぐ見てもらえるか?」
そんなに顔色が悪いのか、アレクは病人ということにされてしまった。エカチェリーナたちもついて来ていたのだろう、表から小さな笑い声が聞こえる。
「ええ。目を刺された男が来てさっきまでドタバタしていたけど、手術も終わった所ですよ」
夫人は冷めた返事を寄越し、それからアレクに名前を訊ねた。アレクも一応答えはしたが、カルテが作られることはないだろう。ニコライが自分から診察室に向かったのを見て、夫人は勝手に相槌を打ち、書類をまとめてアレクを急き立てた。
「先生、俺だ。例の男を連れてきたぞ!」
ニコライがノックすると、内側から低く短い返事が返ってきた。こんな街に住んでいる医師だ。訳ありにせよ、物好きにせよ、ピョートルやクロトのような人当たりのいい男は出てくるまい。アレクは密かにため息をつき、ニコライに続いて部屋に入った。
「適当にかけてくれ。大将と……そっちがアレクか」
果たしてコルレルは、目つきの険しい角顔の老人だった。
「初めまして。コルレル……先生?」
歯切れの悪い挨拶に、コルレルは小さく鼻を鳴らした。
「イマイチ頼りない小僧だな。大丈夫なのか? こんな奴に任せて」
コルレルに尋ねられて、ニコライは笑いをかみ殺した。
「まあそういってやるなよ、しばらくすれば馴染むさ……それに、まだコイツは状況が今一つ飲み込めていないみたいでな。詳しい話を聞かせてやれば、少しは身の振り方も見えてくるだろう」
椅子を引きずって机を回り込み、コルレルはアレクの目を覗き込んだ。顔中の深い皺は長きにわたる風化との戦いによって刻み込まれたものだろうか。
「いいだろう。ワシも当事者の話は聞いてみたい――アレク、お前さん、城についてどれだけのことを知っとる?」
コルレルは背筋を伸ばし、アレクを問い質した。
「バトゥがいろいろ話してくれたけど……他人の考えていることを変えられるとか。でも、俺が見たのは城の夢だけで、そんな実感はありません」
アレクはコルレルにできるだけ目を合わせながら、控えめな答えを返した。何もこちらから期待を膨らませてやることはない。
「やはりな。知らされている筈が無い。が、城の外観くらいは覚えとるだろう」
コルレルが椅子にもたれかかると、錆びついたバネが重苦しいうめき声を上げた。聞き手に回ることにしたのか、ニコライは口を挟まず、押し黙って膝を組んでいる。
「気がついた時には、鏡の前にいました。回廊に囲まれた、鏡で出来た立体……数学に出てくるような……」
アレクは時々詰まりながら、城の構造について話し続けた。宙に浮かんだ城、四方に突き出した尖塔、反り返った床、二つの面を持つ階段、幾つもの階段に貫かれたホール、床から天井に向かって並ぶ扉。そして自分の扉の事を話した時、コルレルはわずかに目を細めた。
「その扉、扉の中には何があった? お前さんはそこで何を見た?」
コルレルの質問に、アレクの目が僅かの間だけ止まった。悪夢のことを説明すると、どうしてもカルラが出てきてしまう。
「俺にもよく分かりません。工場の中で怪物に追い回されたかと思ったら、いつの間にか部屋の外に戻ってて……それっきり、ヤバいから出口以外は触らないようにしてます」
半端に本当のことを話したせいで、余計に疑わしげな説明になってしまった。額に手を当て、コルレルは低い声でうなっている。
「心当たりはねえのか? 先生」
ニコライは力を入れずに訊ね、コルレルは小さく首を振った。
「工場だの怪物だのは分からんが、少なくとも城の特徴はユレシュの論文と一致しとる。しかし、嘘ではないとすると……」
これ以上疑われては不味い。アレクはコルレルに聞き返し、話をカルラから遠ざけた。
「何にせよ、俺にはやたらとデカい迷路としか思えませんでした。それがどうして人類洗脳計画みたいな話になってるんです?」




