モナドの鏡>>擬装>>6
「やっぱ駄目だねぇ、出世してから寄ってきたような女は」
どうせ当分会えないのだから自分からフったとでも思えばよいというのが、レフ先生の唱える科学的刹那主義の本旨だ。カルラが見舞いに来たのはニコライ達がサハリンから戻ってきた後だから、傍から見ればせいぜい一週間余りの付き合いなのだろう。
「え? 違うの? いや、でもその前……」
慎重かつ多角的にアレクの表情を分析した結論は余りにも明晰判明で、文字通りアレクを震撼させた。
「お? おー! アレクくぅんがドライブ・マイ・カー! した時の! あの子だったってワケ!?」
誰ヨン? アジートの子だとか言ってたヤツは。いつも通りの冗談めかした言い回しで、レフは何を誤魔化そうとしているのか。強張った体は肘で小突かれても微動だにせず、気合をふり絞っても止せよの一言さえ出てこない。
「まあ、そうガッカリしなさんなってぇ。十年以上経ってからバッタリ出くわして再燃しちゃったなんて話、珍しくも何ともないんだからさ」
再会した途端に愛が蘇るというなら、そんな奇跡はとうの昔に起きている筈だ。雑に肩を叩く手を、アレクは力任せに振り払った。
「そんな、じゃあ俺はどうなんだ? なんでずっと避けられてんだよ!」
怒鳴り声に肩を竦めてベッドの上に腰かけたたきり、レフは気の抜けた微笑みを湛えてアレクの目を見つめている。この村にいない女が、なぜアレクを避けているのか。気付いているはずなのに、訝しがりも驚きもしない。おどけた返事をいくら待っても、冷たく重い静けさが体の芯に響くばかりだ。
「ごめん、他人の記憶が混ざってるみたいだ……」
コルレルの言いつけを破り、勝手に調査を再開したのが間違いだったのだろう。都合のよい言い訳だが、イポリートが死んだ後におかしくなったアレクを見つけたのは、目の前のレフに外ならない。ぐったりと項垂れたまま前髪の間から顔色を伺うと、そこには眠たげな垂れ目があった。
「いいのいいの、オレ様とアレク君の仲じゃないの。辛いのに我慢しなくてもいいのヨン」
愚痴の一つも聞けないんじゃ、友達甲斐がないってもんだろ? 奥の手も見破られてしまったのでは、文字通りの打つ手なしだ。白状すると決めてしまえば、コルレルとニコライにもう明かした秘密を、未だに隠し続けていることの方がよほど馬鹿々々しいではないか。
「本当に、ここ最近なんだよ」
重さを忘れていられるのは背負っている間だけだと、肩の荷を下すに至ってはじめて思い知らされた。アレクが押し黙っている間も、レフはいつものように口を挟まず雨音に耳を傾けている。
「急に待ち合わせの場所に来なくなって、しばらくして様子を見に行ってみたらさ……」
なるほどねぇ。アレクが再び躓いたのを見かね、レフは一人で膝を打った。
「お客さん、それには二つの可能性がありますぞ」
一つ目、気が付かない間に何かやらかして嫌われた。二つ目、気が付かない間に何かをしてやって用済みになった。レフ様がいきなりふられた事例は、統計上概ねいずれかのパターンに該当する。
「いずれにせよ、会わなくなる直前に何かがあったってワケよ」
村役場を抜け出そうとして、アグラーヤに見つかった日だ。一度答えかけてから、アレクは考えるふりをした。
「こっそり村を抜け出してさ、イルクーツクで会う約束だったんだよ」
僅かの間に差し替えられたたった一つの歯車で、首を繋げるものだろうか。それでも村の場所を教えたことがニコライまで伝われば、どんな目に会うか知れたものではない。
「ああ、村外れの車ね。道理で熱心に聞いてくれるハズだわ」
溜め息交じりで補足しながら、レフは一人で頷いている。アレクは胸を撫で下す一方、冷たい雨が窓から吹き込み、背中を濡らすのを感じた。二つ目、何かをしてやって用済みになった。その何かが、村の場所を教えることだったとしたら。
「でも、ラーニャに見つかって、結局行けなかったんだ」
見られた通りの話をしなければ、後から話が食い違うかもしれない。出来るだけ正直な話をしたことが、後々功を奏するだろうか。
「なるへそ、確かにチミは悪くない。なーんにも悪くないぞぉ」
後ろから不意に光が差し、アレクの影が大きく床に広がった。雷の硬い石突が雨音を砕き、空白に静けさが押し寄せ、また雨へと引いてゆく。
「んで彼女、その後チミが来なかった理由を問い質したりはしなかったワケ?」
驚くほどあっさりした口ぶりだ。アレクは首を横に振り、レフは目を伏せ口元に手をあてた。
「それも早とちりというか……いや、やっぱり言わぬが花かね……」
懐から出しかけた答えを再び仕舞い込まれてしまったのでは、流石のアレクも聞き返さずにはいられない。
「勿体ぶるなよ。却って気になるじゃないか」
歯の間から息を吸う、微かな音が薄闇をよぎった。
「文句の一つも出ないってのは、随分と執着心がないっていうか……」
初めから、本命じゃなかったのかもね。独り言とも取られかねない呟きが、埃の上を転がり、雨音の中に沈んでゆく。
「本命って、それじゃ、前からずっと――」
そこまで口をついて出たきり、救いのない思いつきはとりとめもなく渦巻くだけだ。足元に床を見つけられず、立ち尽くすことしかできない。
「まあまあ、まだ決めつけるには早いかもよ。実際、アレク君には心当たり、あんの?」
カルラの周りに男がいたか問われて、真っ先に浮かんだのはあの研究医だ。
「いたかって? お偉い天使様だらけだよ。大学病院だぞ?」
他人と関わることは避けているというが、エリートに囲まれているのは間違いない。さしものレフも、暗い推察を覆す屁理屈は持ち合わせていないようだ。
「まあまあ、女なんて他にいくらでもいるんだし、何なら男だっていい、スッパリ忘れて新たなラブを探そうぜぇ!」
誰だって、そんな女よりはマシだって。軽やかに立ち上がり、雑に肩を叩いては、紋切型の一般論を後にそそくさと逃げ出した。何も間違ってはいない。アレクとて他人には似たようなことしか言えないだろう。他人事だと思えるようになる日が、一体いつになればやってくるのか。それが分からないことだけがたった一つの問題なのだ。




