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モナドの鏡>>擬装>>5

 キノコの熱が冷めやらぬせいか、昼食の間際になるまでアグラーヤは服を着ようとさえしなかった。帰る代わりに何をしたかと言えば、頭も呂律も回らないまま城の様子を尋ねては細切れの話を齧り、味気のない相槌を返すばかり。二日目の青臭い水は時化の重みをかき立てるが、せめて頭を冷やさなければ煮崩れた受け答えをして奥さんに怪しまれる。傷だらけの白いピッチャーを空にして、アレクは漸く腹の底から胸のつかえを吐き出した。

 昼の検温をやり過ごした後も元の重力は戻ってこず、ひつじ雲は苦し気にワルツを踊っている。耳をすませば、風と鳥の声だけでなく仲間たちの工具の音も微かに聞こえて来ないだろうか。ベッドに手をついて恐る恐る窓辺に近づいたとき、聞きなれた声に呼び止められた。

「早まんな早まんな、生きてりゃそのうち新たな出会いもあるって」

 こんな僻地に潜伏していて新たな出会など望むべくもないのだが、それ以上の事件が起こってしまったばかりでは言い返す言葉もない。

「飛び降りたりしないよ……せめて、皆が作業してる音だけでも聞こえないかと思ってさ」

 これはこれで正直な返事ではないか。何といっても、この事情通はゴシップに飢えているどころか、ゴシップを断たれて久しいのだ。今朝のことを話せば、アジート一スキャンダラスな有名人のスキャンダルはたちどころに皆人の知るところとなるだろう。

「何てこったい。アレクくぅん、チミはこともあろうに、俺達を恋しがってたのかい?」

 レフは天を仰ぎ、左手で顔を覆った。実際ツナギに沁み込んだ鉄粉とオイルの臭いは、猛烈にハンガーを思い起こさせる。

「それもあるけど、俺だけ甘やかされてるみたいで、なんか申し訳なくてさ」

 作業に参加させてもらえたら、どんなに気が楽になるだろう。レフを失望させたとしても、これもまた嘘偽りのない本音だ。

「まあ、多少は皆も喜ぶだろうぜぇ。俺様はてっきり、失恋のショックだと思ってたけど」

 頭がふらついているせいか、かわすことが出来ないばかりか容易く顔が引きつってしまう。

「失恋って……どこから出て来たんだ? その彼女とやらは」 

 そりゃ、アジートに来たばっかりの頃は辛かったけどさ。

 逃げ道を付け足すのに、アレクは3秒ばかり手間取った。

 こんな大根芝居でかわすには、勿論、レフの読みはあまりに鋭い。

「お客さん、舐めてもらっちゃ困りますよぅ? レフ様は何でもお見通しだっての」

 お見舞いに来てた子だろぅ? こうも見事に急所を突かれては、どんなに我慢したところで口元が引きつってしまう。レフは一体どこまで知っているのか。そして何より――

「ど、どこでそんな話を聞いたんだ?」

 口にしてから、アレクは溜息をついた。調べて得た情報ではない。カルラを案内して来たのは、他ならぬこの遊び人だ。

「おいおい、なんで忘れちゃうかな、全く。今チミの目の前に恋のキューピッドがいるじゃないの」

 レフにとっては、アレクが普通に暮らしていて出会ったアジートの女の子かもしれない。

「ああ、ごめんごめん。あの子は単なるファンみたいなもんでさ」

 だから、失恋とか言われてもすぐに思い当たらなかったんだよ。いつの間にか、本当の雲行きまで怪しくなってきた。今更でも繕える最大限の嘘だが、裏目に出ないとも限らない。

「なーる、お嬢がキレ散らかしてたから、てっきり出来てんのかと思っちゃったぜぇ」

 レフにしては珍しく、矛先はアグラーヤに向かった。曰く、チャンスは幾らでもあったというのに後から慌てているようでは、男を見る目がなかったことを自白しているようなものだと。

「勿論、俺様は最初から分かってたけどねん」

 それが己の眼ではなくエカチェリーナから聞いた話なのを、呆れるべきなのか恐れるべきなのか。アレクが二の句を継ぐ前に、肩に腕が乗っていた。

「まあ、せっかくだからさ、タダ乗りさせてもらえばいいじゃないの」

 他にアテがあるわけでもないんでしょ? アグラーヤの事だ、遠からず飽きて手放す未来が目に見えている。断って不興を買うくらいなら、適当に付き合った方が余程賢い。

「ジョブジョブ、心配しなくても、向こうが先に飽きて解放してくれるって」

 正しい。こんな言い方でも、レフの忠告は何も間違っていない。

「でも……」

 それはカルラを裏切ることではないのか。微かな風の音に混じって、遠くの雷が窓枠に残ったガラス片を震わせる。

「俺様はアレク君のそういうお堅いところも好きヨン? でも、フられた娘だって当然傷つくんだぜぇ……」

 お嬢の場合は、プライドだろうけど。フられた娘? 裏切る? 今更アグラーヤと寝たからといって、裏切ったことになるのか? 裏切られたのは、アレクの方ではないか。

「おーい、アレクくぅん?」

 濡れ衣は重く、冷たく、腹の底に澱が積もる度、病室は暗くなってゆく。

「……じゃない」

 俺じゃない。カルラはアレクを愛してなどいなかったのだから。ニコライ達が疑っていなかったとしても、ユレシュと繋がっていなかったとしても。

「カルラが裏切った……ずっと俺を騙していたんだ」

 鉛の空が硬い音を立て、黴だらけの壁を真っ白に染め上げた。恨み言を覆う錆の厚みが阻まなければ、二人とも目を瞑っていただろう。迂闊な気休めも、長々とした弱音も続かず、氷雨が粗いノイズとして稲光の間を流れ過ぎるだけ。風が部屋に吹き込まないのはただ一つの救いだったが、それでも寝巻はじっとりと冷たい背中に張り付いている。


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