モナドの鏡>>憔悴>>2
アレクがうっすらと目を開け首を起こすと、視界の隅にコルレルが映った。
「目を覚ましたか。気分はどうだ、アレク」
気分がある場所は、遮られていてよく見えない。ベッドの周りだけが薄闇の中に浮かび、電球の光を弾いて鉄製の棚が五月蠅く輝いている。
「体が遠くに感じる。遠くで、波に揺れてるような……」
そこまで話してから、アレクは腕が圧迫されていることに気が付いた。上腕に巻きつけられた、幅の広いナイロン地のバンド。血圧計だろうか。
「ふむ。確かに七十をきっとる」
バンドから力が抜け、ゆっくりと萎んでゆく。青ざめたアレクの頬が、僅かに緩んだ。白い間仕切りと消毒液の匂いは、恐らく診療所のものだ。
「しかし、お前さんが担ぎ込まれたときには流石のワシも肝を冷やしたぞ」
レフが様子を見に行った所、アレクは床の上で白目を向き、汗だくで震えていたそうだ。当然第一に薬物中毒が疑われたが、血液からは何も検出されなかった。半日して容体が落ち着いてからも意識不明の状態が続き、今日でもう五日になるのだという。
「思い出せるか。失神する前、何があったか」
血圧計をしまいながら、コルレルはアレクに尋ねた。
「俺は……真っ暗なところを、ずっと漂っていた気がする」
いつものように、エッシャーの城から戻って来たわけではない。はっきりと覚えているのは、逆に城を探索していたことだ。人体実験が明るみになった今、追い詰められたイポリート達が、一体どうしているのか。乱雑に折り畳まれ、塗り重った印象に触れ、アレクは叫び声を上げた。
「殺された! イポリートは、ユーリに殺されたんだ!」
頭を抱え、目を剥いて、ベッドの上で縮こまるアレク。コルレルは点滴が刺さった右腕を掴み、アレクの背中を震えが収まるまでさすった。
「大丈夫だ、ワシから二コライに伝える。それにアレク、殺されたのは敵だ。お前さんには無関係の男だ」
コルレルはゆっくりと、繰り返し言って聞かせた。襲われたのはイポリートであり、アレクに手が及ぶことはない。アジートに居るのが一番安全なのだ、と。だがアレクは、確かに撃たれたのだ。胸の銃創が熱を持ち、とめどなく血が流れ出るのを感じた。そして銃声が、命を終わらせる音を。
「空っぽなんだ、あの先には、空っぽしかない」
ベッドの上に座ったままシーツにくるまって震えていると、わざわざニコライが尋ねてきた。イブレフスキはイポリートを首謀者に仕立て上げ、身代わりにした可能性が高い。いかに工作が露骨であっても、イブレフスキが多数派である以上、追及は難しいというのがニコライの見立てだ。
「だがこうなると厄介なのは内輪だぜ。明日は我が身と思ってる奴は少なかねえだろうしな」
イポリートが逆らったというのは、本当に方便に過ぎないのだろうか。ダリアとイポリートのやり取りを断片的に伝えると、ニコライは首を傾げた。
「イポリートはユレシュの存在を匂わせ、ダリアは自分が撃ったと言い張り、ね」
額面通りに受け取るなら、ダリアやキリールはユレシュの味方ではないということになるが、問題はイブレフスキがどちらの側についているのかだ。
「暫く休めとも言えなくなっちまったな。アレク、早く治せよ」
ニコライは手を挙げ、踵を返した。敵と味方。党とアジート。極東派とモスクワ派。多数派と『守る会』。イポリートとキリール。散乱した対立構造を眺めているうちに、アレクはたった一度だけ、イポリートとキリールの電話を盗み聞きしたことを思い出した。
「そうだ、ニコライ、今の今まで忘れてたけど――」
足を止め、振り返るニコライ。
「俺が逃げたって話をキリールから聞いた後で、イポリートがほっとしてたんだ。『受け渡しは上手く行った』って」
あれは結局、どういう意味だったんだろう。アレクが尋ねるより早く、ニコライは低く怒鳴った。
「馬鹿野郎、そういうこたぁいの一番に言うもんだ」
部屋中に張り巡らされた鋭い気配に、アレクはそれ以上何も言えなくなってしまった。ニコライはもう、敵を探し始めている。