モナドの鏡>>憔悴>>3
ニコライが帰った後、アレクはポタージュスープを出されたが、干上がった胃袋は液体すら受け付けなかった。眠気と共に忍び寄る、あの暗闇に抗いながら、二日。アレクの身体は日増しに弱るばかりだ。目と脳が干上がり、人からかけられた言葉も、頭に浮かぶ考えも読みとれないほどに掠れている。
「アレクくぅ~ん、今日はヤバイお見舞いを持ってきたぜぇ。余りにもヤバイから、バレても俺の名前は黙っててくれよん」
レフだ。アジートがお祭り騒ぎに浮かれる中、レフは昨日も見舞いに来てくれた。ボルゾイの整備も、部品待ちの作業が再開され忙しいに違いない。少なくとも菓子ではないレフの手土産に、自ずとアレクの興味は向かった。
「ああ、ありがとう。俺の方は、相変わらずだ。早くハンガーに戻らなきゃいけないのに」
ところがいくら待っても、手土産どころか、レフ自身入ってくる様子がない。アレクが身体を起こしてレフを呼ぶと、思いがけない人物が現れた。
「カルラさん?」
パーカーにジーンズという、見慣れない格好だ。変装になっているのかなっていないのか、フードを目深に被っている。
「アレクさん……待っていても来ないから、私の方から来ちゃいましたよ」
精一杯の、ぎこちない笑顔。一足遅れて焦点が定まり、アレクは危険性を思い出した。
「来ちゃったって、まずくないですか? アジートに出入りしたりして」
カルラの正体は、レジスタンスにも明かしていない。アレクと不用意に会って、怪しまれないものだろうか。
「大丈夫ですよ。ついでの用事がありましたから」
救出作戦の事後報告と謝礼に加え、善後策について『守る会』から内密の連絡があったらしい。カルラは事もなげに話し、椅子の埃を払った。
「カルラ様は、前からニコライ達とも知り合いだったんですか」
自分からは絶対アジートに近づきそうにもなかった女が、コルレルの診療所にしれっと座っている。アレクが目を白黒させるのを見て、カルラが逆に首を傾げた。
「いえ。『守る会』は以前から他の組織と情報の共有を続けていますが、私のように研究機関に内偵しているものがメッセンジャーを務めることは稀です」
実のところ、この訪問にも少なからぬ危険があるという。
「それでも、無理を言って替わって貰ったんです。アレクさんの身に何かがあったのではないかと思って」
カルラは恐る恐る、骨の浮いた背中をさすった。静かな掌から、穏やかな温もりが伝わってくる。
「イポリートが殺されたのは、もう伝わってますよね」
ええ。返事を待って、アレクは話し出した。
「俺はその時、イポリートの扉の中にいたんです」
逃亡したイポリートを、ダリアが暗殺しに来たこと。ダリアが自ら殺したはずのユレシュが生きていると、イポリートが仄めかしたこと。ユーリが寝返って、イポリートを撃ったこと。夥しい血が流れ、とにかく寒かったこと。そして再び撃たれた瞬間、全てが真っ暗になったこと。
「思うんです。俺はひょっとしたらあのまま、戻ってこれなかったかもしれないって……一瞬でも眠ったら、今度こそ戻って来れないかもしれないって」
カルラはアレクの肩を抱き、強張った体をゆっくりと寝かしつけた。
「道理で酷い隈だと思いました」
吐息に耳をくすぐられて目を開けると、ほっそりとした顔が間近にあった。黒い瞳の輝きに、何もかも明け渡してしまいそうになる。
「格好悪いとこ、見られちゃったな……」
ばつの悪さを、アレクは笑って誤魔化した。倒れてから一週間になるのだ。髪は油染み、唇は荒れ果て、口も乾いて酷い臭いに違いない。
「それなら私が、アレクさんを迎えに行きましょう」
そんなことはお構いなしにカルラはアレクの肩に手をつき、顔を覗きこんだ。
「どこかに閉じ込められても、私が必ず助け出します」
それで少しは、安心して眠れませんか。頬にかかった黒髪を間違えて咥えないよう、アレクは小さく口を動かした。
「それ以上心強いものなんて、何もありませんよ」




