神域からの帰還
あたしがどうにかこうにか御先様の広間から出ると、兄ちゃんが「りんー」と手を振っているのに出会った。
「あ、兄ちゃんはもう聞いたっけ。あたし……」
「帰るって言ってたよなあ。お前。おじちゃんが帰りたいって言う際も烏丸さん通してようやくだったのに、お前よく許可降りたなあ……」
そう言って兄ちゃんが肩を竦める。兄ちゃんはそうやって何人もご飯係が帰るのを見て来たのかしらん。あたしは口を開いてみる。
「そう言えば、兄ちゃんは? おじちゃん達に会いたくないの?」
「んー……そりゃ。俺も親父達に顔見せてえって言うのはあるけどなあ……まあ就職決めたようなもんだって考えたら別に」
「兄ちゃんだって神隠しされたんでしょうが」
「そりゃそうだけどなあ。でもお前だって最初は似たようなもんだったじゃねえか。何もないから料理できないって、騒いでがなってあっちこっちからもらいものしてきたり調味料作ったりして料理作る環境整えてきたの」
「うん、まあ……そうなんだけど」
「だからさ、これだけ持って帰ってくれたら充分だって」
兄ちゃんはそう言いながら、あたしに一升瓶を渡してきた。揺らせばトプンという音がする。これってどう見たって。
あたしは思わず顔を上げると、兄ちゃんはニヤリと笑っていた。
「俺も昔はやんちゃしてて、親父には迷惑かけたしさ。どこぞで修業してるって分かれば大丈夫だろ」
「うーん……渡す方法どうするか考えるけど、まあ、持って帰るよ」
まさか神様の蔵で酒造ってるなんて説明、できる訳ないしねえ。そしてそんな酒を奉納し続けてるなんて。
あたしは「いいんだね?」と言うと、兄ちゃんは手をひらひらとさせてくる。
「どっちかというと、お前のが大変だろうが。あそこの神社、マジで皆から怖がられているのに、あそこで祭りしようってする方が。迷信深い年寄り連中だったら怖がるし、若い奴らはそもそも神社で祭りって言われてもピンと来ないだろ。味方だってどれだけいるのか分からねえしな」
「まあね。でも。頑張ってみるよ。御先様のためだし」
「御先様なあ……うん。ほんっとうにどうしようもないって言う時になったら、俺も何とかしてみるから。りんも頑張れよ」
「うへぁ……!」
背中を思いっきり叩かれて、思わずつんのめる。
うん。今までも神社をどうにかしたいって思っても、何ともならなかったとは、御先様も言ってたしね。あたしが帰ってどうにかなるかはまだ分からないけど。何とかなるって考えないと、何も始まらないから。
あたしは兄ちゃんに手を振ってから、自室替わりに使っていた部屋に戻って、荷物をまとめた。
こっちにはくーちゃんがいたし、ころんがいたし、火の神もいたけど、あっちには付喪神は当然いないしなあ。あたしはこっちで作った料理をまとめたノートをめくりながら、今までやった事を思い出す。
……本当に、「美味しい」って言葉は強い。その一言のために、何だってできるって思うから。鞄をまとめ、あたしは元の服に着替えた。
トレーナーにジーンズ、その上に春先のダッフルコート。そのシンプルな格好をして、ぱたぱたと出て行った。
普段は氷室にいる氷室姐さんが、ちりとりの上にくーちゃんを載せて畑に出てきている。
「あらまあ、本当にあんたも帰るんだねえ」
「姐さん、くーちゃんも!」
「まあ、見送りさねえ。神域から現世に戻って、また帰ってくる例って、滅多にないから」
「あたしは、またこっちに帰ってきますよ!」
「……あんたも、前にも言ってたろう? できない約束をしたら、祟られるよ?」
「皆そう言いますけど、あたし帰りますからね……!」
氷室姐さんはそれ以上は何も言わなかった。替わりにちりとりの上のくーちゃんがこてりと首を傾げている。
「りんー、くーちゃんりんがいなくなったら寂しいー」
「ちょっと待っててね。用事終わったら、ね」
「うんー」
しゃべっているやり取りの中、こちらに足音が近付いてきた。
「りん、皆に挨拶は済んだか?」
「烏丸さん。一応は」
「そうかそうか。それじゃあ、お前さんを連れて帰るぞ」
「はいっ!」
あたしを抱えると、烏丸さんの黒い羽がばさりと音を立てる。途端に身体から重力が消えたような違和感。すぐに飛んで、辺り一面が霞がかってくるのが分かった。
下を見下ろせば、付喪神達が畑の世話をしているのが見える。多分くーちゃんもその中で働いてるんだろう。季節感がバラバラな畑も見えた。滅茶苦茶な花畑も見えた。でもそれらはどんどん遠ざかっていく。
御先様をどうにかする方法、考えないと。あたしはそう思いながら、押し黙った。
「本当に」
何故だかひどく楽しそうに烏丸さんが口を開く。何で楽しそうなんだろう。この人に対して、無茶ぶりばっかりしているような気がするけど。
「──も、喜ぶだろうな」
誰かの名前を言ったような気がしたけど、あたしには聞き取れなかった。
漠然と、思い出す。そう言えば、烏丸さんってどうして御先様の世話をしてるんだっけ。神域にいた際随分お世話になっていた気がするけど、あたしそう言えば御先様以上にこの人の事知らなかったな。
ふと沸いた疑問は、唐突な眠気にかき消されて、思い出せなくなってしまった。
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赤、黄色、橙。辺りを色とりどりの落ち葉が落ちているのに気付き、あたしはうっすらと目を開く。
倒れていたのは、土の上じゃない。アスファルトの上……ひび割れた神社の石碑が目に飛び込んだ事で、ようやくあたしはがばりと起き上がった。
そこは神社の……確か、八咫烏神社の、前。あれだけ長い間花を付けていた桜は、今は色とりどりの落ち葉を落としている最中だった。
「も、戻ったぁぁぁぁぁぁ…………!」
あたしは、ずっと持っていた酒瓶を抱えて、空を見上げた。
霞のない青空は、ひどく澄み切った色をしていた。




