事件1~2
1
その写真スタジオは、空港への幹線道路から左に入った。不燃焼物の処理場や自動車の修理工場などが建ち並ぶ地帯にあった。
表のシャッターが閉じられ、右脇に扉のある、元は倉庫だったと思える二階建ての構造物がそうだった。くすんだ灰色で華やかさは微塵もない。婚礼家具の三点セットなど、わけなくワンカットで撮れそうな大きなスタジオであるのが外観からでもわかる。一時期カメラマンの助手をしたことがあり、その程度のことなら僕にも見て取ることができた。シャッターの前に、ワゴンとバンの車が止めてある。車体にネームは入っておらず、扉のガラスに≪古寺洋介フォトオフィス≫と記されているだけだった。
飛行機の耳を聾する騒音に、自転車に鍵をかけていた僕は上空を見上げた。
チャイムらしきものもないので、扉を開きそのまま入ると、コンクリートの床の土間があり、クリップボードを手にした女がいた。カタログ用だろうか、贈答品と思われる品々が、ビニールシートを敷いた床一面に並べられ、どうやらそれをチェックしている最中のようだった。奥は天井の高いスタジオで、白色の壁面を背景にプロ用のライトやストロボが雑然と配置されていた。思っていた通り大型のスタジオだった。もしかしたら、乗用車一台を人口照明で撮影できる規模かもしれない。左手に二階に通じる金属製の階段があった。
女は怪訝そうな顔で僕を見た。短髪で細身のジーンズが似合っている。二十歳そこそこで見習い中という感じだ。名前を言って古寺洋介氏に会いたいことを告げると、女が言った。
「先生にどういうご用件でしょうか」
直に話したい旨を言うと、女の目に警戒の色が浮かんだ。
「お約束かなにかですか」
「突然お邪魔させてもらいました。よろしかったらお話しできないかと思ってですね」
紺色のジャンパーにバッグを斜めにからった三十男を前に、女は額に皺を刻んだ。僕の顔から爪先までをうさん臭そうに検分する。女が口を開く前に僕は言った。
「先生の奥さんが、八年前に殺されているのはご存知ですか」
亡くなったではなく、わざと殺されているという言葉を使った。
効果はあった。女の目の色が警戒から不安に変わった。古寺裕子の夫が、このスタジオの先生であることに、僕はその時確信を持った。電話帳で、古寺という名のついたスタジオはここしかなかったという、それだけのあてで僕はここを訪ねていた。
「あのう、それはどういうことでしょう」
女は、口調も丁寧なものに変わっていた。
「いまも言ったように、直にお話を。なにぶんそういうことなので」
「警察の方ですか……」
間を取り、暗に含ませた調子で答えた。
「いいえ、違いますよ」
どう判断したのかはわからなかったが、女はクリップボードを床におくと、こちらへと、そそくさと左手の階段に足をかけ僕を二階へ案内した。
藤色のパーティションで仕切られた部屋だった。事務機があり、テーブルがあり、ネガやポジを見るための透過光の台があったりする。ぱっと見たところ四人の男女が、それぞれ自分たちの仕事に従事していた。写真業界なだけに服装はカジュアルなものだった。彼らがちらっと僕を見た。人が入ってきたので目を向けた程度のものだ。見えないところで声がし、人がまだいるようだった。女は、観葉植物と応接セットのあるコーナーに僕を通した。一度去り、珈琲を運んできた。
「いま先生はクライアントとの打ち合わせ中ですので、二十分ほどお待ちください」
しおらしくそう言って立ち去った。
僕はソファに座って遠慮なく珈琲をいただいた。自転車で、五十分もかけて来ている。少しぐらい待つのは気にならなかった。バッグからB5サイズのノートを取り出し、僕は話を聞くための準備をした。
彼女のことを調べるために僕がまず最初にしたのは、図書館に行って八年前の事件に関する新聞記事を読むことだった。縮小版があり、それに目を通した。内容的には親父の話と大差なかったが、より詳しい情報を得ることができた。
遺体が発見されたのは十月六日の早朝。死亡日時が七日前の九月二十九日で、捜索願いは九月三十日の午後に出されていた。夫との間に不和があったらしく、特異家出人とはみなされなかった。つまり、届けが受理されただけで、その時点で警察は動いていない。
遺体が発見された川原というのは市の中心を流れる那珂川で、その日の深夜に放置されたとみられていた。古寺裕子は二十九日に殺害され、遺体は翌月の六日の深夜に捨てられたことになる。その間遺体はどこにあったのか。それが疑問だった。また、犯人はどうして七日後になって遺体を放置したりしたのか。それも疑問だった。
遺体は全裸で、そばにバッグと衣服が一緒に捨てられ、ともに裕子のものだった。性的な暴行を受けた痕跡はなく、死因は頭部強打による脳内の内出血で、刃物による創傷は、髪、顔、手足、胴体とほぼ全身に及び、数にして百十数か所もあった。また、親父が言い忘れたのかわざと言わなかったのか、遺体には極めて特異な点があった。両腕の肘から先が切断されていたのだ。といっても無くなっているわけではなく、切断されているだけで、遺体の傍らに、肘から先の切断された部分も放置されていた。傷も切断も、死後かなりの時間が経過しての行為であることが判明していた。
僕はため息をついた。読んだだけで気が滅入った。遺体を裸にし、ナイフを振るう犯人の姿が浮かぶ。死後とはいえ血がかなり出たに違いない。スーパーで売っている牛肉や豚肉は死後硬直がとれたあとの肉である。牛や豚も哺乳類なんだから、僕たち人間と同じく死後硬直はある。そんな死後硬直がとれたお肉でも血は出る。焼き加減レアの血の滴るビーフステーキがいい例だ。まして、それが人間ひとり、火も通さず切り刻むとなると。想像しただけでウエッッである。しかしなぜそんなことをしたんだろう。切るだけ切って、そのうえ両腕を切断するなんて。どう考えても正気の沙汰とは思えない。まてよ、犯人は七日目になって遺体を放置した、そこになにかあるのか。とにかく、遺体と同じ、二目と見れぬご面相の、両腕が肘から先が切断された姿で彼女が現れなかったことを、僕は感謝した。
十日ほど裕子の事件は記事として取り上げられ、その後はたち消えとなっていた。被害者の古寺裕子の顔写真が掲載されていたが、縮小版ということもあり小さく、かろうじて僕の家にいる彼女の顔だと判別できる。人間関係や事件の背景については各紙とも慎重な扱いだった。古寺裕子という名は明らかにされているが、その夫や両親の名は伏せられていた。勤務先も曖昧にしてある。親父が話していた夫の愛人の話はどこにもなく、紙上では、事件に関与していると思われる女性の行方がわからなくなっており、警察がその女性を探していると触れられているだけであった。裕子の年齢が二十五であることと、一紙だけ夫の職業がカメラマンであることを記載していた。
読んでいくうちに、そういえばこの事件報道されていたなという感慨があった。当時僕は居酒屋で働いていた。焼き鳥の串をひっくり返していた自分が、その事件にこうやって関与するなんて思ってもいなかった。ほんと、巡り合わせとは不思議なものである。八年前といえば、僕が二十五の時だ。
必要なとこをコピーさせてもらい、借りていた本を返して僕は図書館を出た。素人探偵の出だしとしては、まずまずではないかと思えた。
私立探偵といえば、僕はロスマクのリュウ・アーチャーが贔屓である。映画『動く標的』では、ハーパーと名前を変えてポール・ニューマンが演じていた。しかし、僕がどんなに頑張っても、アーチャーの真似ごとすらできるはずもない。事件を解決するなんて、どだい無理。僕にできるのは、彼女の記憶を取り戻す手助けをすることぐらいだった。彼女に関する情報を集め、それを開示し反応を見ながら進めていく。それが僕にできる最善だった。どれほの効果があるものかはわからない。が、彼女の記憶を呼び戻すにはやってみるしかない。幸い、記憶喪失といっても、彼女の場合名前がわかっているぶん調べやすいといえた。名前すらわからなかったら、どこから手をつけたらいいのか見当もつかなかっただろう。
さしずめつぎにすることは、彼女の近親者から話を聞くことぐらいしかないように思えた。裕子の夫がカメラマンだという手がかりをもとに電話帳を繰った。≪古寺洋介フォトオフィス≫という写真スタジオが一件あった。住所と電話番号をメモし、ついでに個人名の電話帳でコデラを引いてみた。小寺という漢字では九件ほど記載されているが、古い寺のほうは、フルデラという読みのほうが一般的らしく、古寺貝蔵と古寺洋介の二件だけであった。番地は違うが、二件とも中央区の高宮の所在になっていた。洋介という名は写真スタジオと同じで、両者が同一人の可能性が高い。裕子の夫であるかどうかは、なんともいえなかった。
それからしばらくの間検討した。古寺裕子は八年前の九月二十九日に行方がわからなくなり、七日後の十月六日になって発見された。これが事件の大筋である。彼女がどうしてそんな目にあったのか。そのへんの情報が、いまのところ僕には皆無であった。つぎに、彼女の幽霊と称するものがこの家にいる。殺された彼女が、なぜこの家に出没するのか。それについては、可能性というか、思いつき程度のものは僕にもあった。あと、若原礼子さんがどうつながるかが問題だった。思考を続けようにも、いまの段階では手がかりが少なすぎた。
夜になって、彼女にそれらの情報を伝えた。話を聞き、新聞記事のコピーに目を通していたが、彼女には他人事のようにしか感じることができないみたいだった。さすがに、全裸で放置され、切り刻まれたうえに両腕を切断されたという文面には、穏やかならぬ表情をしていた。
<生前のわたしって、よほど恨みをかっていたのかしら>
苦いものでも口にしたように、唇を歪めた。ちょっと心配そうでもある。
「古寺裕子というのは、稀に見る悪女だったのかもしれない」
<やな言い方。でも、もしそうだったらどうしよう>
「反省すればいいさ。生前の罪を悔い改めるのが成仏への近道だよ」
<あなたにそう言われると、やけに簡単そうに聞こえるわ>
「生前の君がどういう女であったにしろ。いまの君は君。それぐらいできるんじゃないの」
僕は軽く元気づけた。
<ねえ>彼女がおもむろに口を開いた。<どうしてわたしを助けてくれる気になったの>
うまく説明できなかった。
「さあ、気まぐれみたいなもんかな」そう言った。
アルバムを見せ意識を失った夜に、とにかくそうしなくてはいけないと僕は思ったのだった。理屈でなく感情だった。いつまでも、あとになって後悔するのはもういやだという思いだった。それがどうして彼女を助けることになるのかと問われればわからない。あえて言うなら、そう思った時、彼女がいたからとしか答えようがない。若原さんのこともあるのかもしれない。
彼女もそれ以上尋ねようとはしなかった。いいことである。僕は明日、電話帳で調べたスタジオを訪ねてみることを彼女に話した。
2
二十分を三分ほどオーバーして、古寺洋介は僕の前に登場した。
一七五センチほどの身長と中肉で、僕より年長に見えた。といっても、四十にはなっていないようだ。焦げ茶のジャケットに同色系のネクタイをし、カメラマンっぽくない。櫛目の入った髪を右に流し、眉の太い誠実そうな顔は誰にでも好感を持たれそうだった。この人物が彼女の夫と思うと、こそばゆいものを僕は感じた。
「どういうお話でしょう。亡くなった私の妻のことでなにか」
洋介が僕の正面に腰をおろして言った。感じのよい、明瞭な聞き取りやすい声をしている。テレビのナレーションを耳にしているようだ。
「警察の方ではないみたいですね」
どう切り出したものかとまごついている僕を見、笑顔をみせた。
「ええ、牛三津町のあなたの家をお借りしている者です」
僕は名前を告げた。
「ああ、そうなんですか。大場不動産のほうから借り手がついた話は聞いていましたが、あなたがそうなんですね。それでどういうご用件でしょう。家のことに関しては大場さんに任せていますので、そちらに言ってもらわないと私じゃわかりませんが」
「じつは、亡くなられた奥さんの裕子さんのことについて調べているんです。それでお話を聞かせてもらえないかとうかがったんです」
洋介の目が浮かない色を示した。
当然である。見知らぬ人物が突然やってきて、借家人と名乗り、死んだ妻のことを話して欲しいではわけがわからない。かといって、どうやって話をもっていったらいいのか僕にも見当がつかない。
「あなたは、雑誌記者とかフリーランスのライターとか、そういうご職業のかたなのですか」
取材と間違われているようだった。ここはある程度正直に話すしかないように思えた。
「じつは……信じられないでしょうけど、あの家に裕子さんの幽霊が出るんです」
幽霊という言葉に、明らかに洋介は鼻白んだ。やはり逆効果だったようだ。昼日中に怪談話もないだろう。洋介が苦笑いした。
「それで、幽霊が出るとして、どうしてあなたが裕子のことを調べる必要があるんです」
声に馬鹿にしたような響きが含まれている。
「だから、そのう、裕子さんがそれを望まれているんです」
記憶喪失とは言えなかった。幽霊のうえにそれでは、なおさら不信感を招くに違いない。
「申し訳ありませんが、お帰り願えませんか。私ではお役に立てそうにもありません。あなたに必要なのは霊媒師……でなかったら心理カウンセラーだと思いますよ」
ちょっとむかっとした。つい口調が強くなった。
「僕もあなたの立場だったらそう言うでしょうね。なにしろあなたは、裕子さんの幽霊を見ていないんですから。彼女は非業の死を遂げ、浮かばれることなくこの世をさ迷っているんですよ。気にならないんですか」
そして僕は彼女の容姿を説明した。左目の下の黒子を言い添えた。
「なにが言いたいんです」洋介の言い方も荒っぽくなった。「どこでそんなことを調べてきたのか知らないが、どういう料簡なんだ。あの家に裕子の幽霊が出るという噂があるのは聞いたことがある。まったくいまいましい話だよ。殺されたうえに化けて出るなんて噂されたんでは、興味本位でもて遊ばれているのも同じじゃないか。八年前に死んだとはいえ、私の妻を愚弄するのはやめてくれ」
「お気持ちはわかります。でも、裕子さんの霊が困っているんですよ。あなたの助けを必要としているんですよ」
「あんた正気か。私になにをしろと言うんだ」
「ですからいまも言ったように、裕子さんのことを話してもらえませんか。それとも、なんだったら、直接お会いになって話されますか」
洋介は僕から視線を逸らし、背すじを伸ばすと大きくため息をついた。
「帰ってくれませんか。これ以上話すことはなにもありませんので」
洋介の邪険な態度に僕は言った。
「ほんとうに、このまま帰ってもいいんですか」
悪質セールスのテクニックのひとつだった。意味ありげな言葉で、相手を不安にさせるというものだ。そうやって話を引き延ばす。しかしこれも逆効果だった。
洋介は一瞬眉をしかめたが、すぐに立ち上がり階段を指差した。
「とっとと帰りたまえ。君のくだらん戯言につきあう暇はない」
なにか切り札はないかと僕は焦った。話題を変えたらと思い、咄嗟に口にした。
「若原礼子さんをご存知ですか」
洋介の顔に動揺が走った。唇がぎゅっと結ばれ蒼白になった。まるで、信じられないものを目の当たりにしたかのようだった。目が射るように僕を見ている。が、たちまちのうちに怒りが顔に現われ、洋介は僕のほうへ一歩足を踏み出した。両手を握りしめ、ジャケットの肩が震えている。
「なんのつもりだ。帰らないと、警察を呼ぶぞ」
これ以上ここにいても事態を悪化させるだけなのがわかった。それに考えたいこともあった。僕は腰を上げ、階段へと向かった。
階段をおりると、女がいまだに商品のチェックをしていた。
「ごめんね」と僕が声をかけると、女はクリップボードを手にしたままきょとんとした。
「先に謝っておこうと思って」
そう言って僕はスタジオをあとにした。
変な奴を通すんじゃないと彼女が怒られるのは必定だった。それが軽くすむことを僕は願った。




