幽霊ー11
11
悪寒で僕は目を覚ました。畳の上に、体の右側を下にして横たわっていた。顔から二十センチほど離れた位置に開いたままのアルバムがあり、なにがあったのかを思い出した。どうやら死ななかったみたいだ。苦笑した。幽霊なんかとつきあうと、やっぱりロクなことはない。また苦笑する。三度ほど大きく息をした。肺の中に空気が入り込むのがわかり、なんとか動けそうだった。まずうつ伏せになり、両手を畳について体を起こす。それだけで息がぜいぜい鳴った。さむけがし、額に手をやると熱っぽかった。どれくらい時間が経過したのかわからないが、いまが日中であることは間違いなかった。柱に手をかけ立ち上がると、ふらつきながら台所にいった。コックを捻り、そのまま蛇口に口をもっていって水を飲んだ。人心地つくことができ、まだ生きていることを体感した。いつ死んでもいいと思っていたのに、そういうふうに感じる自分がおかしかった。流し台に両手をついて体を支え、少し休んだ。重い頭を持ち上げ、彼女の姿を求めたが見当たらない。這って四畳半に戻り、毛布と掛布団を引っ張り出した。それにくるまり、畳の上にじかに横になった。しなくてはいけないことがある。ぜがひでも、しなくてはいけないことが。が、それ以前に身体を休ませなくてはならない。とにかくいまは回復につとめるべきだ。このまま死ぬわけにはいかないと思っている自分がいた。生まれて初めてそう思った。僕は瞼を閉じた。
つぎに目を覚ましたのは夜だった。いつの夜なのかまったくわからない。布団から這い出て、水分を補給する。空腹感はなく、ポカリスエットを飲みたかったが、買いに行くほどの気力はない。排泄をすませ、また横になる。熱は下がっているようだが、手足に力が入らない。相変わらず彼女の姿は見えない。人が寝込んでいるのになんて奴だと思いながら、僕はふたたび寝入った。
そうやって僕はひたすら回復につとめた。翌日には、念願のポカリスエットを買いに行くこともでき、一緒にリンゴも購入した。ポカリとリンゴの組み合わせが、病院の点滴ほどの効果があるのを、一時期民間療法師の下で働いたことのある僕は知っていた。軽い絶食状態にあることも効果的になっていた。消化器官を休ませることで、身体の細胞がリセットされたような感じになる。ヨガの行者の絶食がそれにあたる。
それでも体調を戻すのに三日かかってしまっていた。その間彼女が、僕の前に姿を見せることは一度もなかった。薄情者めと思いつつ、淋しい気もした。
四日目の夜になって、久しぶりに風呂に入ってさっぱりした僕のところに、ようやく彼女が姿を見せた。
<大丈夫?>
遠慮がちに、ぼうっとした、いつもより薄い像で、彼女は僕の正面の畳に上で漂っていた。ほんとうにすまなそうな表情を浮かべている。
「かえって調子がよくなったぐらいさ」
僕は皮肉っぽく微笑んでみせた。
<そんなふうに言わないで。ほんとうに心配していたんだから。あなたがたいへんなことになったらどう仕様って、わたし気が気じゃなかったのよ>
泣きだしそうな彼女に、僕は慌てた。
「わかった。わかったけど、いままでどうしていたんだい。どこか遠くにでも行ってたのかい」
<もちろんこの家にいたわ。あなたに近づかないように、そしてできるだけ見えないようにしていたの>彼女は唇を噛み、悲しい声がした。<ごめんなさい。看病もなにもしてあげれなくて>
「それはかまわないんだけど……」
気まずい空気がその場に生じた。彼女の態度に切迫したものを感じた。
彼女が言った。
<お願い。この家から出て行って>
唐突な成り行きに、僕は固唾を呑んだ。
「僕に引っ越せといっているのかい」問い返した。
<ええ、そうよ>彼女は気持ちを抑えた表情で言った。<あなたに出て行ってもらいたいの。でないと、あなた死ぬわよ>
最後通告を言い渡されたようだった。それが嘘や冗談でないことを僕は瞬時に悟った。
「どういうことだい。説明してほしい」
<わたしがあなたの生気を吸い取るからよ。この四日間わたしがあなたを避けていたのもそのせい。わたしがそばにいたんじゃ、悪化することはあっても治ることはないんですもの。悲しいわね。幽霊になった自分がつくづく恨めしいわ>
「こうやっているいまもそうなのかい。つまり君は、僕の生気とやらを吸い取っているんだ」
<そうよ。ほんとうはあなたと接しないのが一番なのよ。幽霊というのは、人の生気をエネルギーとしているみたい。そういう意味でも幽霊に人間は必要なの。人にとっての食べ物が、わたしにしてみれば生気。調整はできるのだけど、呼吸みたいなものだからやめることはできない。このまえの夜みたいに、異常に興奮したりすると、余計に生気を吸い取っちゃうことになるのよ。あなたも、急激にそれをされたから寝込んでしまった――ごめんなさい>
「でも、いまこうして元に戻っているじゃないか」
<ええ。生気には回復力があるのよ。でも、急激に吸い取られたり、長期間続けていたりしたら、それもかなわなくなるんじゃないかと思う。幽霊にとり殺された話って聞いたことない。どっちみち、牡丹灯籠の怪談みたいに、幽霊とつきあっていたりしたら長くもちそうにないのは、あなたにもわかるでしょう>
『怪談・牡丹灯籠』の最後で、お露の亡霊に新三郎がとり殺されたのか助かったのか、僕は思い出せなかった。
「しかし……しかしだよ。君はどうなるんだい。僕がいなくなると生気を取れなくなるだろう。そうしたら君はどうなるんだ」
<死ぬの>
彼女があっさり答え、僕はしんから震えた。
「し、死ぬって……」
<幽霊が死ぬなんておかしいわよね。でも、そういうふうにしか言いようがないの。意識もなにもなくなるから。それにそうなっていくのがわかるし。だけど安心して、死ぬって言っても、また復活するの。人と接触できる状態ができて、生気をもらえるようになったら甦るのよ。いままでそれの繰り返し。いやんなっちゃう。ここに人が住むようになっては甦り、その住人が去ると死んでいくというわけ。だからわたしが死んで八年も経っているらしいけど、わたしにしてみればそんなに経っていないのよ。死んだり甦ったりしていたんじゃ、年月の感覚がなくなるのも仕方ないわ>
「でもそういうことって、あくまで君の考えであって、違う考え方もできるんじゃないのかい」
<そうだったらいいなとわたしも思うわ。だけど、いま話したことは考えたことじゃなくて、わたしの経験なの。死んで甦ったし、生気にしても、わたしにはそれが見えるの。いまも、あなたの身体から生気がわたしのほうに流れているのが見えている。へんな喩えだけど、タバコの煙が吸引器に流れていくみたいと言えばわかってもらえるかしら。ごめんなさい。いままでこんな大事なこと黙っていたりして>
彼女はばつの悪そうな色を顔に浮かべた。
「他に、僕みたいな人に見えていなくて、君に見えているものはあるかい」
<光の粒子みたいなものが見えているわ。始終じゃないけど。微小な塵が光の具合できらきら光って見える時があるじゃない、そういうものよ。それが空中を漂い流れていくのが見える。それがなにかわからないけど、見ていると、わたしもああならなくちゃいけないという気がしてくるの。わたしが、幽霊は霊になる前の段階と考えたのもそのせい。夜に見えたりすると、ほんと綺麗よ>
彼女はうっとりと目を細めた。その表情を見ているだけで、僕にもその光の粒子が見えたような気がした。蛍火のような光が帯となって夜の大気の中を流れていく。それは大自然の摂理のような光景に違いない。星が誕生し果てるまで、これまでも、そしてこれから先も続けられていく。僕と彼女は、その夢幻を感じさせる光の景色に思いを馳せた。
「君が僕の生気を吸い終わってしまうのは、どれぐらいだと思う」
僕が尋ねたのはしばらくたってからだった。
<はっきりわからないわ。おかげさまで、まだ一人も死なせてないもの。普段通りだとして、あとひと月ほどじゃないかしら。でも、少しずつ弱まってくると思うから、早いにこしたことはないわ>
「じゃ、ある程度急いだほうがいいわけだ」
<ええ、一日でも早く引き払ったほうがあなたのためよ>
「悪いけど引っ越すつもりはないよ」
彼女が怪訝そうに僕を見つめた。
「君のことを、早急に調べなくちゃいけないってことさ」
僕はそう言った。若原さんの時みたいに、あとになって後悔するのはいやだった。




