幽霊ー10
10
そのあと僕と彼女は言い合いになった。同じことの蒸返しだった。僕は彼女が幻覚であることを主張し続け、けっきょく、わからず屋のオタンチンという彼女の一言で物別れになった。
二、三日冷戦状態が続いた。といっても、お互いに無視しあうぐらいである。これまでも僕は彼女を無視してきたので、どうってことないと思っていたのだが、それは間違いであることに気づかされた。無視するのはいいのだが、無視されるのは、なんかこうやっぱりいやな気持ちのするものである。あんたなんかいなくていいのよと無言で言われている気がしてくる。幽霊か幻覚かわからないが、そういう存在から無視されたのは古今東西僕が初めてではなかろうか。まったく自分勝手な言い分だが、するほうとされるほうでは大違いだ。自分がそういう仕打ちを彼女にしていたのだと思うと、少しばかり反省したい気になったりした。もちろん、だからといって僕はなにもせず、現状を成り行きに任せていた。
そして四日目の夜になって、彼女のほうから話しかけてくれた時には、僕は内心ほっとした。
もう言い争いはやめて、とにかく仲良くしましょうというのが彼女の提案だった。一もにもなく同意し、互いにどこかしこりを残したままではあるものの、僕と彼女は和平に成功した。
そうやって僕と彼女は、借家での日々をすごし始めた。噛み合わない部分は多々あったけど、お互いのことがわかるにつれ、そういうことはさほど気にならなくなってきた。無人島でやっと人に会えたみたいなものと、彼女は自分の心境をたとえた。生憎とその人物が救援隊でなかったことが残念そうだったが、そのことについて、もう彼女は触れようとはしなかった。
本来夜行性らしく、彼女が昼間に出ることは少なくなっていた。夕暮れから深夜までの時間を彼女は僕とすごした。僕のほうもワープロに向かうのは日中にし、夜は彼女との時間に当てることにしていた。とりとめないことを話したり、ビデオを借りてきて一緒に見たりした。実体のない彼女は物に触れることができない。食事もしないなら、地縛霊らしくこの家から離れることもできず、外出してショッピングなんてかなうはずもない。気を紛らわすには、僕と接触するより他にはなかった。もし彼女が幽霊だとしたら、幽霊というのはつくづく不便なものだと僕は思う。彼女の言う通り、人と接触しないとなにもできやしない。人の手を借りなくては、まともに本のページすらめくることができないのだ。そういう意味では、怖がるより憐れむべき存在なのかもしれない。
また、彼女は牢獄に囚われる身で、僕はそこの鍵を預かる番人みたいだった。囚人の彼女が接することができるのは僕だけで、僕は鍵を使えばいつでも彼女を牢から出すことができる。彼女は無実を訴えるが、僕はかたくなに彼女の有罪を信じている。そう考えると、彼女のことがよくわかる気がした。
しかし僕はなにもしない。わかるだけで満足していた。所詮僕はそんな人間だった。なにもしない。
それでも彼女は、僕と話すことを楽しんでくれているようだった。いろいろと話した。記憶のない彼女には話すことは限られたものしかなかった。そのせいか、彼女はむかしの僕のことをよく聞きたがった。僕も彼女に合わせ、子供の時のことや、学生時代のころのこと、社会人になっての失敗談なんかを面白可笑しく話した。そうやって話すと、ダメな僕でもダメなりの思い出があることに気づかされた。それはちょっとした驚きだった。やはり、なんのかんのいっても、僕は三十数年確かに生きてきていた。くだらなくてしょうもない日々だったかもしれないが、それでも僕にとって、それらがかけがえのない時間であったことに変わりはなかった。
その時間が失われてしまったら、いったい自分はどうなるだろう。僕はたまにそんなことを考えるようになった。僕の話に耳を傾けながらも、彼女の半透明の横顔にどこか淋しそうなものが浮かんだ時や、彼女がひとりで窓辺に漂い、暮れゆく景色を黙ったまま眺めていたりする時に、僕はそういうことを感じるようになっていた。記憶を失うというのは、これまでの時間を失うことかもしれなかった。そしてそれはもしかしたら、自分自身を失うことかもしれなかった。
夕日を透かして窓辺にたたずむ鴇色に染まった彼女を見つめながら、僕はひそかにため息をついたりしていた。
若原礼子さんの名が出たのは、高校時代のことを話題にしていた時だった。
<つきあったり、片思いの好きな子とはいなかったの>
「残念ながらそういう思い出はないね。若原礼子さんという感じがいいなと思う娘がいたぐらいかな」
僕がその名を口にすると、いきなり彼女の目に変化が生じた。遠くを見つめるような目つきになった。ぼうっとし、見えないものを見極めようとするみたいに目を細め、それから視線を下げ、額に右手をあてがった。なにかを思い出そうとしているのが、僕にもわかる仕草だった。
彼女は眉を寄せた。
<その人のことを話してくれない。若原礼子という名前に聞き覚えがある気がするの>
「そりゃ、そうだよ。だって君は僕の幻覚なんだもの、彼女のことを知っていても当然だよ」
彼女は軽くいなすように笑ってみせた。僕の幻覚説に、もうこだわる気はないみたいだった。子供を諭すようにする。
<わかったから、その若原礼子さんのことをもっと話して>
「いいけど。それほど彼女のことを知っているわけじゃないよ」
僕はそう前置きして若原さんのことを話していった。
本の匂いと、図書室と、風にそよぐ若葉の記憶が伴う。
僕が若原さんと接したのは高校生の時だった。クラスは違ったが同学年だった。若原さんは文芸部に所属し、図書室の一画に部室が設けてあったので、図書室通いを常としていた僕はよく彼女の姿を見かけた。どうやって名前を知ったのかは覚えていない。たぶん同じクラスの女子にでもそれとなく聞いたのだと思う。文芸部は図書係も兼ねていて、彼女は放課後になると、貸出コーナーの席にいることが多かった。制服の似合う清楚な感じの女学生だった。貸出コーナーが、僕と若原さんの唯一の接点だった。本と図書カードを渡し彼女が記録する。それだけの関係だった。それでも僕にとって若原さんが、印象が強い女子であることに違いはなかった。もともと女の子と接する機会が少なかったせいもあるだろけど、彼女はなにか特別だった。他の女子学生にない雰囲気みたいなものを身につけているようだった。そう感じているのは僕だけだったかもしれない。
貸出コーナーの背後に窓があり、そこから若葉が茂っているさまがのぞいていた。ほんとうは若葉じゃなくて、常緑樹の灌木の葉なんだろうけど、僕にとっていつもそれは若葉だった。窓が開いていたりすると、微風が吹き込み、葉がそよぐさまが見えていた。彼女がハイと記帳した本を僕に手渡す時、つい視線を逸らし窓の外の若葉に目をやってしまう。そんな些末なことを覚えている。そのくせ、「本好きなんですね」と一度声をかけられたことがあったが、どう返事をしたのかは覚えていない。「好きなのは本だけじゃないんです」、なんてことを言っていないのだけは確かだ。それができるなら、僕の人生はもっと潤いのあるものになっていた。彼女のことが好きだったんだろうか。いまでも、そのへんの気持ちはわからない。彼女ともっと話してみたかったなという思いが残っている程度だ。誰だって学生時代のことを振り返ってみたら、そういう女の子のひとりぐらいはいるんじゃないかと思う。もしあの時こうしていたらと思い返してみる異性。ちょっとした言動や表情を、いまでも思い出すことのできる異性――。
卒業後の若原さんがどうなったのかは知らない。三年のクラス編成の時に就職クラスだったのは覚えている。
僕はそこまで話すと、六畳の部屋の本棚から卒業アルバムを引っ張り出してきた。畳の上で、県立筑紫東高校の校章が刻印された紺色の表紙を開くと、なつかしい匂いが立ちのぼってくるかのようだった。ページをめくり、若原さんの肖像を彼女に見せた。
前髪を額に垂らした、頬のラインが柔らかな顔だった。くりっとした目をし、笑うとその目が弓形になるのを僕は思い出した。こうやってあらためて見ると、記憶にあるより幼い気がする。鼻先が丸いが気になるほどではない。小さめの唇には恥ずかしそうな笑みが漂っている。アルバムの向こうからじっとこちらを見つめてくる若原さんは、爽やかな風をまとった印象がした。もっと親しくしておくべきだったと、いまさらながら思ったりする。もしあの時に戻れたら、僕は若原さんに声をかけるだろうか。どうしようもないことはわかっているが、ついそんな空想に浸りたくなる。時が過ぎ去り、あのころの日々がかえることはもうない。それが叶うなら――なんてね。
僕の甘っちょろい後悔に似た感傷とはべつに、彼女は真剣に若原さんの肖像に見入っていた。頭を下げ、食い入るようにして、僕の脇からアルバムに視線を落としている。このまま、一夜中でも見続けていそうだった。
「なにか思い出した」僕は声をかけた。
はっとして、僕がいることに初めて気づいたというふうに、彼女は興奮した面持ちの顔を上げた。
<わからない。でも、この人のことわたし知っている。それもかなり詳しく。間違いない。わたしこの人を知っているのよ>
彼女は気持ちが高ぶった様子で訴えた。じっとしておれないように、こめかみを叩いたり、指先を合わせ打ったり、口にもっていったり、両手をせわしなく動かした。そうしても、実体がないので音はしない。サイレント映画を見ているようだ。
<なんて言ったらいいのか、とても懐かしい気がしてくるの。そのうえで悲しいの。ううん、わからない。よく知っているはずなのに、なにも思い出せない。彼女のことをわたしは知っているのよ。それなのに思い出せない。いったいなんだろう。どこで彼女と会ったんだろう>
声と像にずれが生じていた。声がし、そのあとで彼女の唇が動いていた。音声と映像が微妙に狂いだし、なにかが壊れていく不安が僕を捉えた。
子供のころ、『宇宙家族ロビンソン』という米のテレビドラマが放映されていた。僕が見たのは再々再放送あたりではないかと思う。その番組の名脇役にロボットのフライデーがいた。毎回ドラマの終わりのほうになると、危機を察知したフライデーが蛇腹になった機械の腕を伸ばし、危険! 危険! 危険! と警告を発するシーンは、僕ら子供たちに強烈なインパクトを与えていた。両腕を上下に振って、危険! 危険! と、友だち同士でよく真似をしたものだ。
そのフライデーが、いま僕の頭の中で警告を発していた。機械の腕を狂ったように上下に振っている。危険! 危険! 危険! 危険!
「そのう……君の勘違いってことはないかい」
考えもなしにそう言い、彼女が怒った顔で振り向いた。
<そんなことないわ。校門を入ってすぐに大きな欅の木があって、別館の前には花壇が……>
彼女自身が目を丸くした。彼女の言う通り、筑紫東高校の正門には欅の大木があった。図書室の入った別館の前には花壇があった。
危険! 危険! 危険! 危険!
警告が差し迫る。フライデーの腕は、いまにも引き千切れそうだ。
<どうしてわたし知っているんだろう。なぜ、なぜなの>
惚けた顔で彼女は僕に問うた。
<わからない。なにもわからない。どうしてなの! 若原さんとわたしになにがあったの。わたしは誰なの。どうしてこんなになったのよ!>
彼女は顔を歪めると、両手で髪の毛を掻きむしった。像が激しくゆらめき、彼女の形が崩れていく。
部屋や家具が震動しだした。窓やガラス戸や襖が音を立てて震動しだした。台所のほうでは、食器がカチャカチャと鳴りだしている。もしかして、ポルターガイスト現象。
危険! 危険! 危険! 危険! 警鐘が臨界点に達する。
耳の奥で、ごうっという鈍い音がした。
なにか言おうとしたが、間に合わなかった。彼女が叫び、それと一緒に彼女の思いがぶつけられた。それは文字通りぶつかってきた。伝わるとかそういうものではない。彼女の千千に乱れた悲しみと怒り、それに苛立ちが僕を直撃した。自分のものでない感情が体内に侵入してくる経験に、僕はふらつき眩暈をおぼえた。身体が急激に冷えていく。一度頭に上がった血液が、一気に下がる。どうやら彼女は、イメージだけでなく感情も発信できるらしい。それにしても凄まじい。残念なことに、受けとめてやれるほど僕はタフガイにはできてないみたいだ。フライデーなら、なんとかできただろうか。
こりゃ死ぬなと思い、意識が遠のく前に僕が目にしたのは、アルバムに写った若原さんの微笑している顔であった。




