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借家幽霊  作者: 愛理 修
12/19

事件ー7

 

  7


 駐車場の片隅に自転車を止め、僕はファミリーレストランの扉を開いた。涼子の姿はなく、メニューを手にテーブルに案内しようとするウエイトレスに、待ち合わせなので入り口が見える席をと頼んだ。

 時刻は八時になろうとしていた。テーブルにつき、メニューを見ずに珈琲を注文した。何杯でもお代わりできる代物だけにすぐ運ばれてきた。頂戴してきた和菓子を、こっそりと僕は口に入れた。

 客はまばらで、家族連れ、友人連れが三組、男女のペアが三組、それ以外が二組、別な見方をすると、ひとりでテーブルにいるのは僕しかいなかった。

 珈琲を飲みながら、これまでのことをつらつら考えた。いくぶん具体化してきた、といっても、おおまかな内容と周辺の事情だった。それらが彼女の記憶とどう結びついてくれるかだ。

 涼子が来たのは、一杯目の珈琲を飲み終えた時だった。僕が案内された席は、座るところが半円形のソファになった、俗にいうアベック席であった。いまになってそのことに気づき、まずいかと思ったが、涼子は既知の人であるかのように、なんのためらいも見せずに僕の隣にすいっと座った。

「おなか空いていませんか?」

 革のブリーフケースを脇に置いて、涼子はメニューを開いた。

 僕は首を横に振った。外食するような金銭のゆとりはない。

「軽いものなら、おつきあいしてもらえますよね。伯父様のお詫びのしるしに、わたしにご馳走させてください」

 珈琲とミックスサンドを二つ涼子は註文し、僕は珈琲のお代わりを頼んだ。

「話というのはどういうことなんですか」

 僕が言うと、涼子は微笑んだ。メガネが魅力を損ねているような気がしていたが、それはそれでさまになっているようにも思われる。男っぽい黒のメガネフレームと対照的に、水色のニットのVネックラインからのぞく肌と、くっきり浮き上がった鎖骨は女らしい艶めかしさを放っていた。

「あなたに協力しようと思ってですね」

 涼子の言葉に、僕は首を傾げた。

「お知りになりたいことを、教えてあげることができるかもしれません。わたしは裕子さんや事件のことに詳しいんです」

「でも、確か先ほどは裕子さんのことはよく知らないと」

「ええ、そう言いました。実際の事件や裕子さんのことについては知りません。話に聞いた事件や裕子さんのことについて詳しいだけです」

 僕は涼子を新たに眺めた。こうやってそばで見ると、メガネの下は、人形のような面立ちをしている。

「涼子さん、あなたは何者なんです?」

「古寺貝蔵の姪で、ハワイ生まれの三十三になる女です」

 ウエイトレスが来て、僕のカップに珈琲を注いだ。

 それを待ってから、涼子は口を開いた。

 涼子が貝蔵氏の邸宅に来るようになったのは、事件が起こったあとだった。最初のうちはハワイの実家とこっちを行ったり来たりで、どちらかというとこっちにいるほうが少なかったらしい。それが三年ほど前からは、日本にいる期間のほうが長くなっている。

「わたしさえよかったら、養女にならないかと誘われていたんです。つまり、亡くなった裕子さんの替わりなんですよ。わたしには兄がいて、父の事業のほうはその兄が継ぎますから、伯父様の養女になってもなんの問題もないわけです。かえって父も母もいい話だと喜んでいるくらいです。あとはわたしの気持ちひとつということになります」

 三年前から貝蔵氏の会社で、研修という形で働いていることを涼子は話した。

「まだまだ遊びみたいなもんですけど」

「このファミレスはライバルでしょう。いいんですか」

「そんなことをいちいち気にしていたら、どこも利用できません」

「養女にはなられるつもりなんですか」

 それには答えず、メガネの向こうで涼子は目を伏せただけだった。

 サンドイッチと珈琲が運ばれてきた。サンドイッチには、つけ合わせのつもりか、パセリと一緒にポテトチップスが添えられていた。

 涼子はサンドイッチを取ると、僕にも食べるように勧めた。礼を言って、僕は手を伸ばした。食べながら話をする。

「それで、裕子さんのことが気になったので調べたわけです。詳しいの意味はおわかりいただけました」

「で、その涼子さんが、どうして僕に協力してくれるんですか」

「あなたと同じ幽霊退治です」

 涼子はさらりと言った。

「古寺の家には、あなたとは別な意味で裕子さんの幽霊がさ迷っているんです。伯父様も伯母様も洋介さんも、その幽霊にいまだにおびやかされています。伯父様と違いわたしは、あなたに協力するほうがいいことだと思うんです」

「ここで僕と会っていることは、どなたもご存じないんですか」

「いまのところはそうです。いずれ明かさなければならないかもしれませんけど」

 涼子はメガネをずり上げ、サンドイッチを口にした。

「でも、僕はあなたのお役に立てないかもしれない」

 僕は珈琲を飲んだ。

「それでもかまいません。わたしもあなたに尋ねたいことがありますし、少しでも事実を明らかにすることが重要ですから。ゴーストハンター同士の情報交換みたいなものと考えてもらえませんか」

「あなたにそこまでさせる動機はなんです」

 僕はサンドイッチの端に齧りついた。

「愛です」きっぱりと涼子は言った。「さきほどの養女の件ですけど、わたし養女にはなりません。洋介さんとの結婚を望んでいます。じつは、わたしと洋介さんは最近婚約したばかりなのです。戸籍上とはいえ、兄妹になったのではそれは無理ですから、伯父様たちもわかってくれました。洋介さんも、ようやく裕子さんのことを吹っ切れたみたいだったんです。時間がかかりました。わたしがそれをどれほど待ったかわかってもらえますか。それなのに、あなたのせいであの人の気持ちはまた揺らいでいます。――わたしもです」

 古寺家の家庭内の事情を、またひとつ覗いたようだった。涼子が今夜の席に一緒にいたことも、ここで僕と待ち合わせしたことも、すべてわかった気がした。

「悪い結果を招くことになるかもしれませんよ」

「その時はその時になって考えればすむことです」

 涼子は微笑んだ。

「ひとつだけ約束してください」僕は言った。「僕の家に裕子さんの幽霊がいることを認めてください。それを前提にしていただかないと、僕のほうとしては話の進めようがありません。さっきみたいな腹の探り合いはごめんです」

 涼子は数秒考えてうなずいた。革のブリーフケースをテーブルの上に置き、留め金に指をかけた。留め金のやや上に、R・Wの金色の刻印があった。イニシャルだと思った。が、Rは涼子のRだとしても、Wが合わない。橋本ならHのはずで、R・Hの表記となる。Wとすることに、なにか意味があるんだろうか。それとも、日本と違いハワイには、特殊な表記法なり事情があるのだろうか。

 涼子の声が、そんな僕の思考を中断させた。

「これで協力関係は成立ですね。先にあなたのほうからお聞きください。わたしが知っていることはお話ししますから」

 涼子がファイルとノートを取り出し、僕は事件の詳細を聞いていった。

 まず、洋介の愛人の名が浅岡ナオミだとわかった。当時二十二歳で、≪亜美≫という会員制クラブのホステスである。≪亜美≫は福岡市の中心地天神にあり、洋介の高校時代の同級生が経営している店であった。洋介もクライアントの接待などによく使い、そこでナオミと顔見知りになったのだった。

 裕子の遺体が発見されるまでを、時間の経過で辿るとつぎのようになった。

 洋介とナオミがひどい言い争いをしたのが、九月二十八日で、その夜洋介は自宅には帰らずスタジオの二階に泊まった。翌日の二十九日は、朝からスタジオでの仕事が続き、撮影する商品の入荷が遅れたこともあって一日仕事になった。帰途に着いたのが深夜の零時四十分ごろで、洋介が自宅に戻ったのは一時近い時刻だった。その時点で裕子の姿がないことに気づいた。しかし実家のほうに戻っているのだろうと思い、洋介はそれほど気にすることなくその夜は床についた。翌朝、日付にすれば九月三十日、洋介は貝蔵氏の自宅へ電話をかけ裕子が自宅に戻っていないのを知った。事態が普通でないことに洋介が気づいたのは、その時が初めてだった。

 それでも裕子から連絡があるのを待ってみることにし、仕事に出かけ、合間合間に心当たりの裕子の友人たちに電話で聞いてみたりしたが、そのどこからも裕子の消息は知れなかった。不安になった洋介は,その日の夕刻に裕子の捜索願いを届けた。警察では、愛人などの問題があったこともあり、一週間ほど様子を見られたらどうですかと言われた。しかしその後も裕子から連絡は入らず、近所の主婦が二十九日の朝方に、庭の掃除をしている裕子の姿を見たという話がもたらされただけだった。洋介は、いくつかの仕事をキャンセルしてまで裕子の行方を探しまわった。そして、消息がわからなくなってから七日後の十月六日に、裕子は遺体となって発見されることになった。

「いまの話は洋介さん側から見たものですよね」

 僕は確認した。

「ええ、そうですけど。それがどうかしましたか」

「裏付けみたいなものはすべて取れているんですか」

 涼子が唇の間から舌をのぞかせた。

「洋介さんを疑っているのですね」

「妻が殺されたら、まずご主人を疑うのがセオリーです」

 僕は両手を広げ、笑んでみせた。

「警察の方と同じですね。でも、不和があったとはいえ、洋介さんは裕子さんを愛していたのですから動機がありません。ナオミという女と関係したのも、裕子さんを愛していたせいです」

「涼子さんがそう思われる気持ちはわかります。しかし人の内面は誰にもわかりません。愛していると、見せることができたかもしれません」

「ええ、でも洋介さんの場合は違います。本心から裕子さんを愛していたのです。そして裕子さんもそれをわかっていたはずです。だから、あんな悲劇的な結果を生むことになってしまったんです。それに第一、洋介さんに裕子さんを殺すことはできません。いいですか。裕子さんが亡くなったのは九月二十九日。正確には、午前十一時ごろに生前の姿を見たという目撃証言が得られていますから、二十九日の十一時から深夜の零時までが死亡時刻になるわけです」

「ちょっと待ってください。十一時の目撃証言とはなんですか」

「高宮駅前に≪ももたん≫という洋菓子店があって、そこの店員が、二十九日の十一時に裕子さんがケーキを買いに来たと証言しているんです。警察の周辺各所の聞き込み調査でわかったことらしいですけど、裕子さんはチーズケーキとショートケーキを二つずつ購入したそうです」

「日付とか時間とかに間違いはないんですか。それに人違いとかは」

 涼子はかすかに笑んだ。

「ないですね。証言されたのは二人の女の店員さんなのですが、ひとりの方が、その前日に髪を切ったこともあって、日付のほうは間違いないそうです。時間に関しては、一週間も経ってますからやや曖昧ですが、お昼少し前だったということで二人の方の証言が一致しています。レジの記録用紙では、二十九日の十一時七分にチーズとショートのケーキが二個ずつ購入された記録が残っていました。裕子さんは常連客のひとりでしたから、見間違えはないと断言されています。古寺という名前もご存じで、時には、二言三言の会話をすることもあったみたいです」

 仏壇にあった生前の裕子の姿が思い出された。あれほどの美人だったら、確かに見間違えるはずがない。

「その時の裕子さんの様子はどうだったんですか。店員さんたちはなにか言ってませんか」

「べつにこれといって、裕子さんはそういうことはあまり表に出さない……」

 涼子は言葉を途切らせた。目が宙を見、思いつめたような表情が浮かんだ。そして、はっきりと言い直した。

「明るかったそうです。なにかいいことでもあるかのように、明るく嬉しそうだったと言われてます」

 涼子は僕を見た。

「ごめんなさい。わたし、つい記憶を取り違えたみたいで。ケーキを買う時の裕子さんは明るく嬉しそうだった。それが事実です」

 謝る必要などまったくないのだが、涼子のいまの表情や言い方が僕は気にかかった。どうしてかはわからない。ただ、なにか大切な部分に触れたような感触があった。≪ももたん≫でケーキを買う時裕子は明るかった。それを僕は記憶に刻んだ。

 涼子は珈琲に口をつけて続けた。

「裕子さんの死亡時刻が十一時から零時までの間であるのはわかってもらえましたか。それを元に話を先に進めると、十一時にはすでに洋介さんは仕事に従事していて、零時四十分に仕事を終えるまで、トイレ以外は誰かがずっと一緒にいたことがわかっています。つまり洋介さんには、裕子さんを殺害するのは時間的に不可能です」

「自宅に戻ったのが一時だというのは確かなんですか」

「スタジオに零時四十分までいたことはみなさんが証言されています。それから車で帰ると、自宅に着くのが一時ごろになるのは、警察のほうでも確認されたようです」

 洋介には二十九日の十一時から翌日の一時までアリバイがある。しかし零時が犯行可能なタイムリミットだとして、一時との差は一時間ほどだ。

「裕子さんが死んだのがほんとうは三十日の一時過ぎで、遺体を風呂につけるなり、ストーブで温めるなりして腐敗を進行させ、犯行時間を早くみせたとは考えられませんか」

「まるで推理小説みたいなお話ですね」

 涼子はメガネを一度はずし、頭を振ってかけ直した。人形のような整った面立ちがつかの間あらわになった。

「警察のほうでもそういう考えはあったみたいです。確かにそういうアリバイ工作もあるかもしれません。ただ立証はできませんでした。洋介さんが自宅に戻った直後の犯行と考え、殺害現場として自宅が調べられたのですが、なにも出てこなかったのです。遺体が発見されるまでに七日あったので、証拠隠滅の時間は十分にありましたから、すでに遅すぎる調査ではあったんですけど」

「ルミノール反応とかは出なかったのですか」

「ええ、それもありません。裕子さんの死因となった後頭部の打撲は内出血ですから、反応が出なくても当然です。ただ別な場所でルミノール反応が出ています。血液型も遺体と一致しました」

「どこです」

「浅岡ナオミさんの部屋からです」

 どうやらナオミが犯人として疑われているのは、姿をくらませているせいだけではないようだった。

「ナオミさんの住んでいたのは、南区の香×女子短期大学近くの那珂川沿いのワンルームコーポだったのですけど、そこのバスルームに反応が出たのです。死亡したあとでも出血はありますから、そのバスルームで遺体は傷つけられたものと警察では見ているようです。それ以外ではナオミさんの部屋から、凶器みたいな直接殺人の証拠となるようなものはなにも見つかっていません。家電や家具はそのままで、下着や衣類などの身のまわりのものがなくなっている形跡があり、部屋には指紋がひとつも残っていませんでした」

「ひとつもですか」

「ええ、ひとつもです。警察の話では、逃走に際して、ナオミさんは手がかりになりそうなものをなにひとつ残していないらしいんです。写真一枚もです。指紋などというのは特に大事ですから、清めたみたいに部屋中どこもかしこも拭かれていたそうです」

 人を殺害した者としては、失踪するのにそれぐらい神経を尖らせるのは当然かもしれない。しかし、誰かがナオミが失踪したと思わせるためにそうしたと考えることもできる。

「しかし、そんなナオミさんにもミスはありました」

 僕が顔を向けると、涼子は唇の両端を持ち上げてみせた。

「≪亜美≫のほうにナオミさんの履歴書があったんです。そこから、ナオミさんのものと思われる指紋をいくつか警察は入手したみたいです」

 なるほど、やはり殺人者はへまをするのか。

「洋介さんの疑いは晴れましたか?」

 涼子が尋ね、それに答えず僕は言った。

「ナオミさんが最後に目撃されたのはいつです」

「裕子さんの遺体が発見される四日前になります。≪亜美≫のマダムに電話があり、毬子さんっていうんですけど、彼女がナオミさんに会っています。それが最後ですね」

「どういう話があったんですか」

「お金の相談だったらしいです。毬子さんは十万円ほど貸したと言っています。もちろん遺体はその時点では発見されてませんから、それが逃走資金だとは思っていなかったんです。詳しい話をお聞きになりたいのでしたら、あとで毬子さんの連絡先をお教えします。ナオミさんのことについては毬子さんから聞くのが一番でしょう」

 涼子は続けて言った。

「ナオミさんが事件の犯人で、洋介さんでないのはおわかりいただけましたか」

「警察はどう見ているんです」

「強情な方ですね。二十九日に、ナオミさんが裕子さんを自宅のワンルームに呼び出し、そこで二人の間に諍いが生じ、なんらかの理由でナオミさんが裕子さんを殺害したと見るのが有力です。ナオミさんの部屋から、≪ももたん≫のケーキの箱の一部が見つかっています。箱を破いて処分する際に、つい見落としてしまったのでしょう。それと、電話の通話記録から、二十九日の午前十時ごろにナオミさんが洋介さんの家のほうに電話をかけていることがわかっています」

 ケーキの箱の破片と十時の電話――。

「つまり、十時にナオミさんから電話を受けた裕子さんは、ケーキを買って彼女の住まいを訪ねた。ケーキは手土産というわけですね」

「そういうことです。住まいが香×短大近辺ですから、ナオミさんが高宮駅前の≪ももたん≫を利用していたと考えるよりも、裕子さんが持ち込んだと考えるほうが自然です。あとのことに関して警察は、ナオミさんは遺体を自宅にそのまま置き、逃走の手筈を整えてから、川原に遺体を放置して失踪したと見ています。犯行現場も遺体の隠蔽場所も、ナオミさんのワンルームだという見解です。ただ、公平を期すために申し上げますが、そうすると疑問があるのも事実です。ナオミさんのコーポと遺体が発見された川原は距離にしてわずかなのですけど、車の免許を持っていない彼女が、どうやってそこまで遺体を運んだのかがわかっていません。それに、どうして川原に遺体を放置したのかもわからないのです。そのまま部屋に置いて逃走してもよかったはずです。かえってそのほうが、発見が遅れて、逃げる彼女にとっては有利だったはずです。それなのに、なぜナオミさんは遺体を川原に捨てたりしたのか」

 確かにそうだ。ナオミの犯行とした場合、遺体はバスルームにそのまま残しておいたほうがいい。それなのに、どうしてわざわざ川原まで運ぶ必要があったのか。いやそれは、よく考えると、誰かかがナオミを犯人にしようとした場合にもいえることだ。ナオミを犯人と思わせるには、同じくバスルームに遺体を残したほうがいいはずだ。それにそうすれば、免許証を持っていないナオミがいかにして遺体を運んだのかという疑問も生じなかったのだから。それなのになぜ遺体は川原に放置されたのか?

 僕は言った。

「遺体の傷と、両腕の切断の説明はついているのですか」

「それに関しては、遺体を傷つけ切断することによって、最初は身元がわからないようにしたものと見られています。バラバラ殺人を目論んでいたということですね。それがやっているうちに、あまりに大変だということがわかって断念したのではないかと警察では考えているようです。つまり、中途半端なバラバラ殺人というわけです。ただこういう見解は、あくまでナオミさんひとりを犯人とした場合のことで、いまだに、洋介さん、もしくは洋介さんとナオミさんの共犯とする意見も警察にはあります。わたしに言わせれば、そちらのほうが疑問ですけどね」

「どうしてです」

「何度も言いましたように、洋介さんには裕子さんを殺害する動機がないからです。まして、ナオミさんとの共犯というのは、ちょっと想像もつきません」

「衝動による殺人、つまり事故みたいなものだったとは考えられませんか。たとえば、三十日の一時に戻った洋介さんと裕子さんの間で言い争いがあり、はずみで洋介さんは裕子さんを死なせてしまった。一時までのアリバイがあることに気づいた洋介さんは、遺体を温めて死亡推定時刻を実際より早く見せることを思いつく。同時に、殺人の罪をナオミさんになすりつける計画を立て、ナオミさんの部屋に遺体を運び、ルミノール反応が出るのを期待して、浴室で遺体を刃物で切り裂き、腕を切断する。そしてナオミさんが失踪したように工作をほどこした」

 言葉にしながら僕は気づいた。そう推理すれば、遺体にあれほどの傷がつけられ腕が切断された説明はつく。犯行現場をナオミの自宅だと思わせるのが目的だ。そのために血を流す必要があり、切り裂くだけでは思ったより血が出なかったので、両腕を切断した。

「それでナオミさんはどうなったのですか」

「二時間ドラマではこういう場合、ナオミさんは殺されていて、ダムの底か山の中に遺体が隠されているのがオチです」

 僕は少し茶化した。涼子を前に、憶測だけで洋介を冷酷な殺人者にするのはいささか抵抗があった。

「わたしには、ありえないとしか言いようのない話です。洋介さんがそんなことをするはずがありません。あやまって裕子さんを殺害したとしたら、隠そうとせず、みずからその罪を背負われるはずです。それに、裕子さんが殺害されて三日後にナオミさんの姿は確認されていますから、殺されてなどいません」

「そのあとで殺されたとすれば辻褄は合いますよ」

「じゃあその間の三日間、ナオミさんは、洋介さんに犯人に仕立てられるのを黙って許していたと言われるのですか。部屋に遺体を運ぶのを認め、洋介さんの言うなりに、毬子さんにお金の無心をしたと。さも自分が犯人であるみたいに」

 そのへんをつかれると、さすがに僕もなにも言えなくなった。そんなことあるはずがない。

 涼子は背すじを伸ばし、僕を腹立たしげに見やった。

「どうして洋介さんのことを、そんなに疑うんです」

「僕の家に裕子さんの幽霊がいるからです」

 僕は言ってのけた。

「殺された裕子さんが、洋介さんの所有している家だからという理由だけで、幽霊となってあの家に出没するのはおかしいと思うんです。あの家と裕子さんの死になにかつながりがあると考えたほうが自然ですよね。それで考えていたのが、あの家で裕子さんは殺されたのではないかということです。そうすれば、裕子さんの幽霊があの家に出る理由もわかります。奥まっていて人目につかない家なので、犯行に使うのには適していますしね。そしてあの家を犯行現場にする人物となると、ナオミさんでなく洋介さんが第一候補です。わかってもらえますか」

「言われていることはわかります。あくまで、あなたの住まわれている家に幽霊が出ると仮定しての話ですけど。ただそれだと、あの家を最初から犯行現場に選んでいることになり、計画的な殺人の様相が強くなって、いまあなたが言われた衝動殺人という説は成り立たないことになりますよ」

「ええ、その通りです。だから困っているんです。あそこが犯行現場でないとしたら、あとは遺体が床下に埋められているぐらいしか思いつきません」

 涼子が目を丸くした。確かに、そんな顔をされても仕方がない。

「もちろんそんなことがありえないのはわかっています。裕子さんの遺体は、川原で発見されていますから」

 僕はお手上げのポーズをしてみせた。

「あなたの推理は、どこかとんでもなく飛躍しているところがあります。話の流れで、衝動殺人であったり計画殺人であったりして一貫性がありません。推理というより、その場の思いつきみたいに聞こえます」

「そうかもしれません。たぶん幽霊を中心にしているせいでしょう」

 涼子が僕をメガネ越しにじっと見つめ、あらたまったようにして口にした。

「その幽霊のことを話してもらえませんか」

 僕は涼子の質問に答えていった。いつごろから出るのかとか、あなたと幽霊の関係はとか、たいして意味のない、やはり幽霊の存在に疑いを抱いている質問に思えた。

「でも、伯父様も言っていたように、どうして裕子さんの霊は自分のことをそんなに知りたがるのですか。それと、事件の真相を知るには、それこそ幽霊に聞けばすべて解決ですよね」

 僕は涼子に打ち明けるべきか悩んだ。ここまで協力的なのだから、僕も正直に話すべきだった。また、古寺の家にひとりぐらい味方が欲しかった。

「笑わないと約束してくれますか」

 ええと涼子はうなずいて、膝を僕のほうへすすめた。

「どうやら記憶喪失らしいんですよ」

 黒いフレームで枠どられた涼子の目が真ん丸になった。形のよい眉も、それにつられて動いた。それから俯き、笑いが出そうになるのをこらえているようだった。

「そんなこと信じられません。幽霊のうえに記憶喪失だなんて」

 また笑いが込み上げたらしく、涼子は口元を掌でおおった。そのままで言う。

「記憶喪失の幽霊というのは、わたしも初めて耳にしましたわ」

「でも、ほんとうだから仕方ありません。後頭部を強打されて脳の記憶回路が損なわれてから死亡したと考えれば、なんとか説明はつくんじゃないかと……」

 僕はこうなった事情を手短に話した。はしょった部分もある。信じられないを涼子は連発した。

「それであなたは、幽霊の記憶を取り戻すためにこうしていると言うのですね。聞く順番があとになってしまいましたけど、あなたご自身はなにをされている人なんです」

 またしても信じられないの繰り返しだった。

「突然小説を書くと決めて仕事を辞められたのですか」

「ええ、そうです」僕は少々やけになっていた。「そんなにおかしいですか。明治や大正時代にはそんな人もいたみたいですよ」

「いまは明治や大正ではありませんもの。無茶すぎます」

 そのことについて議論を交わすつもりはなかった。話を戻し、裕子のことを聞いた。

 それによると、裕子は小中学校を地元の校区内の学校で卒業し、大濠おおほり女学院を経て同系列の大濠女子大の経済学部に進学した。その後は貝蔵氏の会社に就職し宣伝部に勤務していたが、洋介との結婚を機に専業主婦となっていた。大濠女学院、大濠女子大といえば、こちらでは名門のお嬢様学校である。卒業式には、国内外の高級車がずらっと並ぶと言われている。

 僕は彼女のことを思い浮かべた。彼女がそんなご令嬢だとすると気おくれを感じてしまう。それにあの貝蔵氏の邸宅。生前の彼女と僕とでは住む世界が違っていた。彼女が記憶を取り戻した時のことを僕は想像した。一気に距離が離れた。

「どうかしましたか」

 涼子に言われて、僕はいえと首を横に振った。

 舌で唇をなぞり、涼子がためらいがちに言った。

「若原礼子さんのことを話してもらえませんか」

 唐突に若原さんの名が出たことに、僕は興味をおぼえた。洋介といい、涼子といい、それに彼女にしても、若原さんのことになると神経質になる部分がある。

「逆に僕から尋ねたいですね。若原さんと裕子さんのつながりはなんです」

「ご存じないんですか?」

 涼子が探るようにした。

「想像はあります」

「どういう想像でしょう」

「たぶん、若原さんと裕子さんは仲のよい友人だったろうと思っています。それも小中学校が同じの、幼なじみみたいな関係だったんじゃないかと。いま話を聞いて、裕子さんが大濠女学院だと知ったんですが、若原さんは筑紫東高校ですから、高校時代からの友だちではないでしょう。その後も二人の人生は交わることがないように見えます。裕子さんは大学に進み父親の会社に就職。かたや若原さんは、高校を卒業して印刷会社に勤務していましたから。そうすると、二人に友人になる機会があったのは小中時代だろうという公算が高くなります。高宮地区に住んでいるのですから、小中学校は同じだったでしょうし、二人は同学年のはずですから」

「どうして同学年だと言えるんですの」

「裕子さんが亡くなったのは二十五歳の時です。そして当時の僕も二十五歳。若原さんは僕とおない年ですから、僕と、裕子さんと若原さんは同年代です。違いますか」

「ええ、その通りです。裕子さんと若原礼子さんは幼なじみです。伯母様から聞きました。小学校の時にクラスが一緒になってからのことです。二人の仲は小中高校のころまでは親密に続いていましたが、裕子さんが進学し若原さんが就職したあたりから、やはり互いに足が遠のくようになって、事件当時は交際がほとんど途絶えていました。しかしそれでも、子供のころからの友人というのは心がゆるせるものです。二人ともひとり娘で、他に兄弟がなかったせいかもしれませんが、二人は特別に親しかったようです。いつも一緒で、なんでも話すことのできる、双子の片割れのような思いを互いに抱いていたみたいです」

 涼子は遠くを見つめるように目を細めた。自分のことを照らし合わせて思い出しているのかもしれない。涼子はどんな子供だったのだろうと僕は考えた。幼いころからメガネをかけていたのだろうか。

「それで、あなたと若原さんはどういう知り合いなのですか」

 涼子が言った。

 僕は若原さんについて知っていることを伝えた。高校が同じこと、彼女に卒業アルバムを見せたこと、先日アパートを訪ねた時のことも話した。事件と引っ越しの時期が重なり、現在若原さんの所在が不明なことを、涼子は注意深く聞いていた。

「若原さんと事件になにか関係があると思いますか」

 涼子が口にした。

「幼なじみのひとりが殺害され、それと同じ時期にもうひとりは慌ただしく引っ越しをしている。しかも居所は不明です。気にならないと言えば嘘になります。でも、たんなる偶然かもしれません」

 そう言いながら、それがただの偶然と思えないことを、僕と涼子のお互いが気づいていた。

「若原さんになにがあったと思います」涼子が僕に問う。

「いまの時点ではわからないとしか言いようがありません」

 そう答えるしかなかった。そこから先を考えるのを、僕は避けていた。

 涼子は慎重になった。無意識に、右手の親指と人差し指をこすりつけていた。

「裕子さんのお葬式に、若原さんが出席したかどうかわかりませんか」

 ふと思いついて僕は聞いた。そこから、若原さんの引っ越しの日にちがわかるかもしれなかった。

「亡くなられた理由がああいうふうだったので、葬儀は家族だけの密葬にされたみたいです。友人の方たちにも遠慮してもらい、わたしの両親にも亡くなった連絡があっただけでしたから」

 僕と涼子は、少しの間自分の世界に入り込んでいた。涼子が珈琲を飲み、僕も同じことをした。珈琲はすでにぬるくなっていた。

 おもむろに涼子が言った。

「若原さんになにがあったのかも、幽霊ならすべてを知っているかもしれませんね」

 どこか思わせぶりな感じが漂っていた。

「彼女の記憶が戻ればですね」

「どうすればそうなるでしょう」

 貝蔵氏との会話を繰り返しているみたいだった。ただ貝蔵氏の場合お金という解答がすでにあったのに、涼子はその方法を僕に尋ねていた。

「僕に裕子さんの情報を提供してくれるか」もっと簡単な方法を思いついた。「そうだ。直接あなた方が幽霊と会って話されたらどうです」

 涼子の眉が上がった。目の奥に光が浮かんだようにも見えた。

「そんなことできるんですか」

「そちらさえよかったらできると思いますよ。ただ彼女は地縛霊らしく、家の周囲に縛られていますから、来ていただかないといけませんけどね」

「あなたの家で直接幽霊に会う」

 涼子は独り言のように呟いた。そして僕を見た。

「その段取りはあなたがしてくれるんですか」

「そうです。来てもらえると僕も助かります。その目で見てもらったほうが、あなた方も僕が言っていることを信じてくれるでしょうから」

「なにを見るんですか」

「幽霊ですよ。裕子さんの幽霊です」

「あ、幽霊ですね」

 どこか噛み合っていないところがあった。涼子と僕の間でなにか誤解がある気がする。しかし、そうかもしれない。幽霊をそう簡単に信用する人のほうが変だろう。

「わかりました。あなたの言う方法が一番の早道かもしれません。お互いのためにもそのほうがいいような気がします。ただ、わたしだけの一存では決めれませんので、相談してからでいいでしょうか」

「ええ、かまいません。相談されてください」

「あと、これを片づけてもらえませんか」

 涼子はポテトチップスを一片つまむと、サンドイッチの残っている自分の皿を僕のほうに指で押しやった。


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