LⅠー8 〈聖なる水〉と碧緑神亀
■憑依
――このまま滝に飛び込んだりしたら、ヤツらの思うつぼだ。
刻々と時間が迫る。緊急招集された対策会議はあと十分で始まる。前例がないのだろう。対策の方針を決めるための資料がないようだ。誰もが責任をとろうとしない。そんなときには、大きな声で断言する者の意見が通りやすい。
総勢十人ほどが集まった。議長は総監。文化大臣、情報管理大臣など、都市の最高幹部が顔をそろえている。
開口一番。文化大臣がこう述べた。いつもは寡黙な目立たぬ大臣だが、本日の議題は神亀――自らの晴れ舞台と意気込んでいるようだ。
「一千年ぶりに碧緑神亀が現れたのは、神のご意思。改めて神亀を探し出し、〈聖なる水〉を浄めてはいかがでしょうか?」
「見つかるのか?」と情報管理大臣。常日頃から文化大臣をライバル視している。
「それができれば最善であるな」と総監は鷹揚に構えるフリをする。
「見つけます。神亀を見つけたのはシオン博士の孫。その担任は教育局のエリートですぞ。専門は生物学。その担任教師をチーフに神亀を捜索させましょう。どなたか、〈聖なる水〉の浄め方の儀式をご存知の方はおられますかな?」
会議室がざわめいた。一番末席にいた老人が発言許可を求めた。都市大学総長だ。
「わが都市大学に神話学者がおります。その者であれば儀式を知っているのではないかと存じます」
閉会。すぐにエリート校の担任教師と大学の神話学者が中央行政府に呼び出された。
透明な魂がスッと文化大臣から離れ、駆け付けた担任教師に乗り移った。文化大臣から急に気迫が失せ、若い担任教師の目が強く輝いた。
担任が自信満々の面持ちで言いのけた。
「お任せください、大臣。神亀は湖にまだおられると思われます。丁重にお迎えし、儀式の場にお連れいたします」
湖での担任教師の活躍ぶりは目覚ましかった。多数の捜査員を的確に配置し、指示を出す。
(まさか彼女にあんな能力があったとは……)と同僚たちが妬み混じりに噂する。
ほどなく総監に報告があった。
「神亀を発見いたしました」
碧緑神亀は、緋色の絹座布団の上に置かれ、丁重な扱いで、文化大臣の前にもたらされた。同行していた他の大臣たちが感嘆した。第一発見者の生徒ソアもその祖母シオン博士も同席した。
「これは、じつに美しい。宝石のようですね」とシオン博士が感嘆すると、文化大臣は鼻高々だ。
「まことに。博士のお孫さまのご功績は大きい。ソアさま、よく見つけられました」と文化大臣はまず博士とその孫におべっかを使い、その後、担任を慰労した。
「よくやった!」
「ありがとうございます。お役に立てて光栄です」
そのとき、担任とカメがひそかに目くばせしたことには誰も気づかなかった。
神亀は最高級車の後部座席に世話役の担任教師とともに乗せられ、儀礼場へと案内された。
■浄めの儀式
「儀式に適するのは夜――満月の下です」
神話学者は中年女性だった。あわただしく儀式の準備がなされた。都市南部の城壁には結界が張られ、関係者以外は立ち入り禁止とされた。城壁の上に観覧席が設けられ、総監や文化大臣、シオン博士など賓客が招かれた。
一千年に一度の聖なる儀式に参加できる。これほど稀な名誉はない。
ソアも招かれた。興奮のあまり、頬が紅潮している。
やがて、月が真上に上った。それとともに白い靄が消え、見事な滝が姿を現した。下方には遠くへと流れる河が見える。
音はない。城壁の中段が静かにせり出した。せり出した石組の上に賓客が降り立つと透明な球体のアクリル板で覆われる。
ソアが振り返ると、虹色の光を放ちながら幾筋もの水が上から下へと落ちてゆく。銀色の月光が、水しぶきを無数のダイヤのように煌めかせる。
ソアはわれを失って、その荘厳な美に見入った。
小さな球体が下りてきた。滝のほぼ中央で止まる。
球体の中央で、神官らしき者が膝を屈している。その両脇に、神話学者が立ち、ソアの担任教師が神亀を捧げていた。神官は何度が跪拝したあと、立ち上がった。それを合図に、球体は滝の中に吸い込まれるように入っていく。
(子カメ、聞こえるか?)と、担任から神亀に思念が送られた。
(うん!)と、神亀が答える。
(いまはおとなしく神官のいう通りにしろ)
担任教師にはすでにアイリが憑依していた。神官はみずから神亀を持とうとしたが、なぜか神亀が激しく抵抗し、やむなく担任が同行することになったのである。すべてアイリの計略だった。
滝の奥には、壮麗な空間。間口はさほど広くないが、奥行きがある。球体が開き、神官を筆頭に奥へと歩んでゆく。
しずしずと列をなして進む一行を物陰から見つめる者がいた。
(アイリ、わたしだ! 聞こえるか?)
(サキ先生?)
(そうだ。おまえたちを待っていた。じいちゃんカメもいるぞ)
(どうすればいい?)
(適宜、指示する。いまは神官についてゆけ)
滝にしつらえられた神殿の奥に祭壇がおかれていた。神話学者が興奮している。
「ラクル神話秘録に書かれている通りです!」
神官の声すら上ずっているようだ。
「まさか、この神殿が実在するとは、考えたこともございませんでした」
神殿の中には発光輝石が埋められ、いたるところに宝玉が飾られている。
全体がほの明るい中で、随所に小さな明るい光が煌めている。
真正面の祭壇――両脇に大きな発光輝石の結晶が立ち、すぐ後ろに湧水が小さな流れとなって祭壇の盆を満たしては下に落ちてゆく。
かぐわしい匂いがする。盆が水を受けながら、得も言われぬ芳香を発しているようだ。
(匂いを嗅ぐな! 気を失うぞ。口で息をしろ!)サキの思念が飛ぶ。
(カメは匂いを嗅いでも大丈夫なようだ。ただ、カメが好きな匂いらしい。ネコのマタタビみたいなもんだ。酔うぞ)
見ると、神官も神話学者もすでに目がトロンとしている。子カメが恍惚となり始めた。じいちゃんカメが走り寄り、子カメを抱き寄せる。
教師は自我を失っており、憑依したアイリの言いなりだ。アイリは命じた。
(箱を開けろ!)
子カメを乗せた絹座布団は、供え用の箱台の上に置かれていた。その箱には、意識を失ったままのグリが横たわっていた。
(祭壇の盆にカメを浸せ)
担任教師はゆっくりとグリを盆に浸した。
ゆっくりと流れ落ちる水は宝石のように雫を煌めかせながら、盆に横たわるグリの身体を解きほぐしてゆく。固まっていたグリの手足の硬直が解け、頭に血色が戻り始めた。
(いいぞ!)
匂いがいっそう強まった。神官も神話学者もすでに意識はない。サキヘビは思念を飛ばした。
(これ以上、ここにいては危険だ。戻るぞ!)
アイリが命じるまま、担任教師は、来た時のように緋色座布団に子カメを乗せ、じいちゃんカメとグリとサキヘビを箱に詰めて、球体に戻った。意識のない神官と神話学者を球体に引っ張り込む。
球体は出口に向かってふわふわと動き始めた。滝から球体が現れたとき、観覧席から歓声が上がった。
「町は浄められた!」
「碧緑神亀さまのおかげだ!」
「次の一千年間、この町は安泰だ!」
緋色座布団に乗せられた子カメは下にも置かぬ扱いで、総監貴賓室に運ばれることとなった。その途中、まだ暗いうちに中央行政府そばの水路に逃げ込んだ者がいた。グリを背負ったじいちゃんカメだ。アイリが憑依した教師の助けで、箱からそっと抜け出したのだ。
緋色座布団の上の子カメと台箱のサキヘビは残った。アイリは、教師から出迎えた秘書に憑依先を変えた。ピシッとしたスーツを着込んだエリート丸出しの男性秘書の眉がピクリと動いた。
貴賓室は総監室に隣接し、総監室のそばには総監秘書室。秘書室は中央情報局に直結する。
しらじらと夜が明けた。山の洞窟から、じいちゃんカメが都市の高層ビルを眺めた。
「ご無事であればよいがのう……」
「大丈夫だ。サキ先生とアイリさまは、そう簡単にへこたれぬ」
グリはすでにもとに戻っていた。
「さあ、われらも最後の仕上げだ!」
「御意」
総監秘書室は早朝からあわただしかった。一千年に一度の神事に成功し、歓喜する総監は、都市幹部を集めて自画自賛の演説をすることにした。そばに最高の縁起物――碧色神亀を侍らせる。近年、人気を失いつつある総監にとって起死回生の一手だった。
アイリが憑依した秘書は、パソコンに向かっていた。この種の儀式に関する演説原稿を書くためだ。むろん、演説など書いちゃいない。中央情報局の機密情報にアクセスした。総監権限を利用した。地下通路から都市に出入りするゲートをはじめ、セキュリティを解除する方法を盗んだのだ。侵入痕跡はすべて消し、秘書への憑依を解いた。秘書はうっかり演説原稿を書くのを失念していたことに気づき、大慌てで原稿を仕上げた。
総監は美しいカメを見てご満悦だ。秘書室長が入ってきた。
「総監、まもなく演説のお時間です」
「うむ」
「神亀さまはわたしがお持ちします」
「いや、よい! わたしがじかにお運びする」
秘書室長は恭しく頭を下げ、入り口の戸を開けた。なのに、あろうことか、総監はクルリと向きを変え、窓の方にむかった。なぜか窓を開ける。
「そ、総監! 何をなさるのです?」
秘書室長が叫んだ。
総監が台箱を開けると、白い隼が飛び出た。あっけにとられる秘書室長の前で、隼は旋回し、緋色座布団の上から子カメをひっつかみ、空高く舞い上がった。
秘書室長が絶叫し、秘書全員が室内を覗き込む中で、総監が膝をついた。
「わ、わたしは、いったい、何を?」
総監からスルリと透明な魂が抜け出た。明るい光を帯びながら、魂は見えない尾を引いて、隼の後を追った。
早春の明るい日差しが今日も湖に降り注ぐ。
「うわああ! きれいな鳥だ!」
「隼だよ!」
「ホントだね! 今日はいいことがありそうだ!」
エリート校の子どもたちが空を指さし、口々に隼を称える。
ソアもまた隼を見上げた。昨日、なにかとてもきれいなものを見た気がする。けれども、記憶がはっきりしない。大きな流れだったような気がする。でも、幻だったのかもしれない。
――だって、ちっとも音がしなかったもの。




