ⅩLⅦー4 老女と博士――北の大地の甘き水
■目覚め
見慣れぬ天井だ。
ここはどこだろう――?
粗末ながら布団の上に寝かされていた。毛布も掛けられている。空気はほんのりと温かだ。どこかでカタカタと音がする。
ハッと身を起こすと、小柄な背中が見えた。かまどの前で何かを煮込んでいるようだ。
「ああ、お目覚めかい?」
張りのある声だった。髪は銀色。目は青みがかった灰色だ。
「ここは?」
「わしの小屋さ。安心しな」
「ありがとうございます――助けてくださったんですね」
マキ・ロウは深く頭を下げた。ズキン。右肩が痛む。思わず顔を歪めた。
「無理しなさんな。あんた、崖を転がり落ちたんだよ。肩だけのケガですんだなんて驚きだ」
うっすらと記憶が蘇る。カランに行き、バルジャ軍との銃撃に巻き込まれ、森に逃げ込んだ。スマホも含め、荷物はすべて失った。命が助かっただけでも奇跡だ。
「あんた、獣道がわかるんだね? あの森を抜けるとは、よほど森を知らなきゃ無理だよ」
「多少……です。崖には気づきませんでした」
「あはは、そりゃそうさ。あの崖はこの小屋を守るための砦みたいなもんだ。見破られるような代物じゃないさ」
「そうでしたか……」
「あんた、どこから来たんだい?」
老女の口調は柔らかいが、警戒心は解いていない。突然転がり込んできた中年女性――ほったらかしにはできない。ひとまず引き取ったものの、何者か見極めきれない――老女は目を動かさず、気配で何かを感じ取ろうとしている。
「ルキアです。カランに来たとき、たまたま戦に巻き込まれて、森に逃げ込んだのです」
「戦かい……性懲りも無く、またバルジャが来たのかい?」
「そうです。また、とは、何度も攻めてきているのですか?」
「本気で攻めてきたのは一回キリだね。あとは〈フリ〉さ。あるいは――密約かの?」
老女の声から張り詰めた雰囲気が一瞬消えた。誰も入らぬ森に、何の変哲もない中年女が迷い込んだ理由に納得したようだった。
老女の背中で大きく湯気が上がり始めた。
「ああ、できたようだ。雑炊だ。茸しかはいっていないが、一緒に食うかね?」
「はい、いただきます」
温かな柔らかい雑炊は、五臓六腑に染みこむようだった。そういえば、しばらく何も食べていない。春はまだ遠い。森にはほとんど食べ物はない。
「ほら、肩を見せな」
老女はマキの右肩をむき出しにして、薬草をペタペタと塗り始めた。
滲みる――。
何とか歯を食いしばりながら、マキは堪えた。これは、裂傷に効く薬草だ。ここまで滲みるとは、傷はよほど深いのだろう。
だが、この薬草はそう簡単に手に入るものではない。険しい山に生え、採取が難しい。効用は高いが、毒抜きが難しい。火の谷の村でも、長たるばあちゃん以外に扱える者はいなかった。
「よし! 二、三日もすりゃ、腫れも痛みも引くだろうて。治るまでは、ここにおりゃええ。毎日、雑炊ばかりじゃがな」
■囲炉裏端
日射しが暖かだった。マキは小屋から外に出てみた。この小屋は、すり鉢状の谷の中にポツンと一軒だけが建っている。交易路からも閉ざされ、周りは崖と森だ。これほどまでにして外界との接触を断つのはなぜなのだろう?
崖からは清水が湧き、柔らかな土の上で野菜が育っている。田んぼも一枚ある。果樹もいくつか植えられている。自給自足は十分可能だ。
フッと風が渡った。かすかな声を乗せて――。
マキは思わず声を挙げた。
「サアム――?」
水を汲もうとしていた老女が顔を上げ、マキの後ろ姿を見つめた。
マキは必死でサアムという名を呼び続け、すり鉢のような谷の底を歩き続ける。
だが、ふたたび声を聞くことはなかった。
夜は囲炉裏のそばが暖かい。板敷きの一間に煮炊きをする土間がくっついているだけの粗末な小屋だった。
昼間の憔悴を残すマキの顔を朱い火が照らす。熱で頬がほてってゆく。
火の谷の村のばあちゃんの家みたい――凍り付いたマキの心がそれだけで和む。
「あんた、またどうしてこんなところまで来たのかね?」
「……ひとを探してるんです」
「ここにはわし以外、だれもおらんぞ」
「ええ。そのひとがどこにいるか、わたしにもわからないんです。もう十五年――でも、死んだはずはないんです」
「どうしてじゃ?」
「――声が聞こえるんです。フッと風に乗って、あのひとの声が……わたしには聞こえる」
「声か――きっと、そのおひともあんたを探しておるんじゃろうな」
マキは老女を見た。皮膚の色は抜けるように白い。優雅な美貌が漂っている。だが、白湯を入れる手は、働く者の手だった。節々が高くなり、指先が硬くなっている。
「あ、わたしが入れます」
あわてて腰を上げたマキを、老女はやんわりと制した。
「遠慮はいらん。利き手が使えんのじゃ。まずは治せ。わしに白湯を入れるのはそれからでも遅うない」
老女はニッと笑って、茶碗に入れた白湯を勧めた。
マキは湯を口に含み、思わず笑顔になった。
「この白湯はおいしいですね。お水の甘さが引き立っています」
「おう、水が甘いのがわかるか?」
「はい。わたしはあちこちを旅してきました。北の湿地帯は塩分が多いと聞いていましたが、ここは地質が違うのですね。分厚い火山灰土帯が広がっているので、農耕には最適です」
「ほう。では、水は?」
「崖でむき出しになった地層を見る限り、名水を生み出すのに理想的な多層構造ですね」
「名水か――なるほどの」
「火山灰土の下にマサ土と呼ばれる風化花崗岩があって、その下に伏流水の通り道となる砂礫層、さらに下に水を通さない粘土質の古い溶岩帯があります。玄武岩や安山岩ですね。水は自然に濾過され、非常にまろやかな良い軟水になったのでしょう。このあたりはもとは火山帯。火山活動はすでに終わっているようですが、地質はその名残を留めています」
「フォホッホッ。こりゃ、驚いた。あんた、学者かね?」
老女は豪快に笑った。マキは思わず赤面した。
(つい、いつもの調子でしゃべってしまった――)
「はい。研究者のはしくれです。地質学が専門です」
「そうか。地質学か……では、このあたりの地質もわかるのかの?」
「調べればわかります」
「ふむ。では、頼みがあるんじゃが、聞いてくれるか?」
■北の地質調査
「気をつけて歩け。足を踏み外すと落ちるぞ」
老女とマキは、崖の途中にいた。すり鉢状の谷から崖の上に、細い道が穿たれている。老女は軽快な足取りで先を進む。マキも遅れずについてゆく。
頂上に着いた。崖の上から見た光景は谷面と大地側でまるで異なる。
谷面は急峻な崖であったが、大地側には緩やかな勾配の大きな森が広がっていた。森の向こうには広い大地が広がる。遠く、見慣れぬ高層ビルが林立し、その手前にはひび割れた大地がむき出しになっていた。粒のような廃屋が点在する。南方に見える山の向こうがカランだろう。山から出た大きな河が湾曲し、森の南部をめぐる。自然が生み出した境界だ。
崖の岩肌は多層構造をなしていた。太古に褶曲運動で隆起したのだろう。反対面には火山灰土とその上に育った森が育んだ肥沃な土地が弓なりに広がる。
だが、大地は途中で地質が変わるようだ。北の大地の間には、低いが明瞭な岩の線が走っている。一方は肥沃な土地、他方は塩漬けの土地――塩漬けの土地はあとで海が隆起した結果か。肥沃な土地も、いまでは、森を除いてひび割れている。これでは農業はおぼつかない。人びとは村を捨てざるを得なかったのだろう。
「このひび割れた大地――どうすれば、元に戻るかの?」
「大地のひび割れは世界各地で起こっています。理由はいろいろあるのですが、よくあるのが、人間が水の流れを止めたケースです。地下水を取り過ぎて地下水位が下がるとか、人工物を作って水の通り道を塞ぐとか――」
老女が指さした。
「あれかの?」
マキは頷いた。老女の指先の向こうには、ひび割れた大地の向こうに聳える不釣り合いな高層ビル群があった。
「可能性は高いと思います。塩漬けの土地を再開発するために相当深くまで掘り込んだのでしょう。あのビル群の水を確保するために地下水が吸い上げられ、周辺の地下水が涸れたと思われます」
「ふむ」
老女はマジマジとマキを見た。
「わしには学はないが、あんたの説明はストンと腑に落ちる」
「ありがとうございます」マキはめずらしくちょっと照れた。
老女はふたたび向こうを指さした。
「あれはバルジャ人の町。じゃが、町を運営しておるのはカトマール――東部のラクルという町の者じゃ」
「ラクル? たくさんの財閥からなるというあのラクル町衆のことですか?」
「そうじゃ。あの町は、バルジャとラクルの経済取引をカトマール大統領が認めた結果じゃ。世界的なラウ財団を排除して、カトマールの国内財閥を優先的にバルジャに張り付けようとしたんじゃな。じゃが、いかんせん。ラクルからは遠すぎる。入ってきた外国企業もほぼバルジャに限られた。うまみがなく、途中で計画から抜けた財閥も多かったそうじゃ」
「そうだったのですか」
「町は消えん――じゃが、森のそばにあった村は消えてしもうた」
マキは老女を見た。老女の深い皺が眉間に寄り、超現代都市に挑むようなまなざしに変わった。
返す言葉を探しあぐねていると、老女は一転して明るいまなざしをマキに向けた。
「あんたにもっといろいろ聞きたいことがある。しばらく、わしにつきおうてくれんかの?」
「もちろんです。お世話になったお礼です。わたしにもとても興味深いことがいろいろありそうです。どうぞ連れて行ってください」




