ⅩLⅥー8 エピローグ――漆黒神殿の夜
■神殿の夜
銀月の光が痛い。黒く輝く神殿の柱に反射して、わたしの目を射す。
この地下の神殿には、月の光が届く。ほんのわずかな光を受け止め、鮮やかに八方に光を散らす。
〈黒〉は光を呑みこむ――その条理はこの神殿では通用しない。
もうすぐ彼が来るだろう。愛してやまぬわたしの半身。ほら、月が翳り始めた。
玄武の黒と弦月の闇――二つ揃って〈夜〉が生まれる。
音がする。忍びやかな衣擦れの音。扉に手をかけたようだ。
わたしは寝台から立ち上がり、両手を広げる。
青銅の扉が開く。ほんのわずかのきしんだ音。
彼が立っていた。深い紫の衣に身を包み、黒く長い髪が肩に這う。
彼が微笑んだ。最後の光が、ほんの一瞬、彼の全身をかすめながら舞い散る。
「来たよ、玄武」
「待っていたよ、弦月」
彼の衣が闇の中でひらめき、わたしは腕のなかに彼の重さを感じた。
■癒しの薬草
「なぜ、弦月さまが?」
最側近のヘビ兄弟がわなないている。
国王は、わたしに追討の令を出した。応じたのは弦月。まもなく彼がここに来るだろう。将軍の緋色の衣をまとって。
「お逃げくださいませ」
ヘビ兄弟が必死でわたしに縋る。
わたしは首を振った。
「いや。弦月に敵うはずもない」
ヘビ兄弟が泣き崩れる。
「玄武さまはなにも悪くござりませぬ。北の大地の人びとを守るために、お力を発揮しただけのこと――それがなぜ謀反なのでござりまするか?」
「だから謀反なのだよ」
わたしの言葉にヘビ兄弟は納得せず、わたしの旅装束を用意し、早くと急かす。
――癒しの異能は王家たる〈月の一族〉だけのもの。
わたしは、王の薬草園でのみ栽培されていた薬草と同じものを探し出し、はやり病に苦しむ人びとに届けた。人びとは深く感謝した。王以上のお方だと崇める者まで現れた。
それがどれほど危険なことか、そのときはわからなかった。わたしはあまりに政治を知らなかった。
南部の険しい山間で群生していた珍しい薬草をわたしはひそかに自分の薬草園で育てた。月の夜にはかぐわしい香りを放つ美しい薬草だった。
人びとは、〈玄武の智〉を称えた。
弦月が矢傷を負ったときも、わたしは薬草で手当てした。矢に仕込まれた毒が消され、赤く腫れた腕がみるみる快癒した。弦月は喜びながらも、妙に顔を曇らせた。
「キミのこの薬草を王に知られてはならない。王の力に匹敵する」
――智も武も人望も過ぎれば秩序を脅かす。
妬みやそねみと無縁だったわたしはあまりに無防備だったのだろう。弦月の忠告を受けたときにはすでに遅かった。王はわたしの薬草をどこかで耳にしたようだ。
〈月の一族〉を上回る力は、王国の根本を揺るがす。王の善意も好意も理解も、王国という政治の前では意味をなさぬ。
北の大地を猛烈な疫病が襲った。
水が原因らしい。人びとがバタバタと倒れてゆく。薬草を煎じても効き目はなかった。わたしを奉じる神殿が潰され始めた。人びとの恨みは無能なわたしに集中した。
叫び声が聞こえる。
「玄武を信じたのが間違いだ!」
「王のみが救いの神。王こそを奉れ!」
――そうだったのか。
秘密の薬草園は焼かれた。わたしは謀反者となった。
■追放
「来たか」
寝台に腰かけたまま、わたしは弦月を見た。彼は、緋色のマントを翻し、漆黒神殿の扉を開けたばかり。
弦月はじっとわたしを見た。
「なぜ――なぜだ?」
「この王国に逃げ場などない。つかまるならキミの手で――そう思った」
わたしは紫色の衣をまとっていた。深い闇に黒御影の列柱がほの浮かぶ。
「最後に頼みがある」
「なんだ?」
「水をもとに戻してほしい」
「水?」
「水に毒が仕込まれている。王の命令だったんだろう?」
弦月は何も言わず、わたしを見つめた。
「この石を渡す。水を浄化する力がある」
虹色の石だ。玄武だけが持つ秘宝。
はるか遠い昔、〈月の村〉を出た五人の若者はそれぞれの能力にふさわしい宝物を与えられた。玄武が手にしたのは虹色の石――この石こそが、玄武とその子孫に神たる位格を与える。これを喪えば、玄武という存在が消える。
「これを泉に沈めてほしい。水が甘くなるはずだ。これ以上、人が死なずにすむ」
弦月の緋色のマントがおぼろな光に揺れた。
「だが、これすらも手放せば、キミはもはや玄武ではなくなる。とてもできない」
わたしは虹色の石を乗せた手を差し出した。
「キミしかいない」
一瞬、虹色の石が強く光り、弦月の目を照らした。真っ赤に濡れている。
掌の石の上に水滴が落ちた。わたしの涙だ。涙は水晶のように煌めき、石が放つ虹色の光に包まれて消えた。
弦月は強くわたしの手を引き、固く抱きしめた。
「愛している。未来永劫、わたしはキミを愛し続ける。だから、死ぬな!」
これまで何度も抱き締め合った。だが、その夜の弦月の胸は悲しいほど激しく震えていた。
弦月はわたしに縄をかけなかった。ただそばに寄り添い、わたしをいたわり続ける。ふたりで手を取り、並んで神殿を出た。背後の黒き神殿は最後の光を放ち、闇に埋もれた。
王国の果て――天月山の洞窟の前に、わたしは二人の従者とともに立っていた。弦月が手を挙げると、洞窟の岩戸が開いた。従者二人は膝をついて頭を垂れた。弦月は静かにわたしを抱きしめ、口づけた。
――そのまま記憶が途絶えた。
気づくと、従者のいでたちで、洞窟の外に一人取り残されていた。山は静まり返っている。銀月の淡い光が足許に落ちる。
見ると、一筋の光の道が続いていた。月の光の雫を集めたような細き道。天月の黒き森を抜ける銀の道――いずこに続くか見通せぬ。
どこからか声が聞こえる。
――玄武。その道をゆけ! さすれば、いつかふたたび相まみえることができよう。




