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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第四十六章 西の地下神殿
279/286

ⅩLⅥー4 大統領のアキレス腱とタダキの決意――〈ミグルの舞〉に魅せられた青年

■大統領の茶

 カトマール大統領府は新しい建物だ。

 白い壁に青い瓦の三階建ての堂々たるたたずまいだ――旧帝政や旧軍事政権とは一線を画するという意味で、広大な皇宮は使わなかった。現代的なビルというわけにもいかない。

 選ばれたのは、皇室が持つ狩場付きの広大な庭園であった。由緒ある庭園にふさわしい格式のある建物をということで、品のある大統領府が建てられた。この大統領府の設計・建築・内装には、カトマール随一のプロ職人が選ばれた。表には出ていないが、すべてを取り仕切ったのは、シャオ・レン――事実上、アユ夫人だ。


 エリナ副大統領が去った部屋で、大統領は唸っていた。


――どこで、どう、バレた?

 完璧なはずだった。カトマールの関係者を避け、わざわざアカデメイアの黒獅子組を使い、狙った土地はミン国とアカデメイアに分散した。ミン国では港湾開発にからんで投機を行った。インサイザー取引だ。アカデメイアでは天志教団の教会用地取得にからんで莫大な裏金を得た。こちらは政治資金不記載にあたる。いずれも外国での資産形成だ。大統領の立場ではさまざまな制約がかかる。これゆえ、幾重にも回路を設定し、絶対に自分にはたどり着けないようにしたはずだった。


 なのに、あのレオンとかいう青年がミン国での投機に気づいたようだ。報告を受けたのだろう。シャオ・レンは、涼しい顔でわたしに署名を要求してきた。

 山岳少数部族の自治権を認める大統領令だ。


 かねてからこの議論はあった。部族代表が何度も陳情していたからだ。ゆえに無謀な提案とは言えない。だが、後回しにしてきた。山岳地帯が事実上独立すると、そこに眠る資源に手をつけられなくなる。バルジャが手を出してきたのも資源目当てだ。

 シャオ・レンがつきつけたのは、資源を含めた土地の管理を山岳部族自身にゆだね、国はその調整をするだけという提案だ。この方針だと、資源開発は自主管理となるが、開発の技術を持たないため、事実上、ラウ財団傘下の資源開発会社に任されることになろう。理想主義者のシャオ・レンのことだ。利権は求めないだろう。彼には富裕な夫人がついている。ラウ財団も資源開発で無茶はするまい。十年前に事を急ぎすぎ、火の山の村で反発を受けて全面謝罪したことは記憶に新しい。こうした事情がわかったうえで、山岳部族は広範な自治権を求めているのだ。


 ラウ財団筆頭秘書レオンは、思った以上に有能なようだ。わたしにもちゃんと見返りを用意した。違法投機の利益を放棄し、大統領令に署名すれば、ラウ財団から公式に寄付金を提供するという。その額として、投機利益相当を提示してきた。

 応じざるを得なかった。大統領選を一年後に控えた今、スキャンダルを起こすわけにはいかない。わたしの地位は首の皮一枚でつながったようなものだ。だが、シャオ・レンとレオンに弱みを握られてしまった。


――エリナは激怒した。

 この大事なときに、なんということをしてくれたのだ、と。

 確かに、エリナに言うとおりにしておけば、「バルジャの介入」という外圧と「部族の要求」という正当化根拠で、山岳地帯の利権をバルジャと分け合うことができたはずだ。エリナがそのために周到な準備を重ねてきたことも知っている。

 だが、わたしは誘惑に負けた。

 次の大統領選に出ようとすれば、憲法改正が必要だ。憲法改正には国民投票が必要で、その必然性は弱い。エリナは今回の「バルジャ介入」によりいったん和平を確立したうえで、「祖国を取り戻すために強い大統領が必要だ」と国民に訴え、わたしの三選を狙うつもりだった。その切り札を失ったに等しい。


 エリナの言うことはたしかに正論だ。けれども、そのシナリオ通りに行くとは限らない。その場合、わたしはすべてを失う。わたしにはエリナやシャオ・レンほどの才覚はない。たまたま年長だっただけだ。

 大統領としての十年間、わたしはわたしなりに誠実に政務をこなした。気が付くと、何も残っていない。わたしにへつらう人間はわたしに対してではなく、大統領という地位にへつらっている。地位を失えば、だれもわたしに見向きもせず、わたしは歴史の中で「無能なのに、たまたま運がよかった大統領」の評価を受けることだろう。

 自分の人生を再設計するだけの財力がほしかった。それを過ぎた欲だというのか?


――ああ、茶がうまい。

 この大統領府で最初に飲んだ茶は至福の味がした。爾来十年、わたしは行き詰まるたびにこうして茶を飲んだ。

 この部屋にいる限り、この茶を味わえる。部屋を失えば、茶も失う。すべて失う。


――さあ、どう巻き返すか。

 幸い、シャオ・レンもレオンもアカデメイアのことにまでは気づいていないようだ。これまで以上に慎重に動こう。そうすれば、きっと露見するまい。

 エリナは言っていた。ラウとシャオ・レンを切り離す工作を進めていると。そして、あのアユ夫人の素性も徹底的に洗うつもりのようだ。

 この前の演説で、アユ夫人の評判は沸騰した。だが、沸騰した湯にかざした手はすぐに火傷する。火傷を負った人は、湯を沸かした自分を責めるのではなく、沸かされた湯を責める。ほんの一押しでよい。アユ夫人の正体を知ろうとだれかが手をかざすように仕向ければよい。


■パーティの夜

 カランの祖母の家で、タダキは心からホッとしていた。もしあのとき逃げていなければ、このほのぼのとした時間はなかったはずだ。


 数日前、父の命令を受けた女性秘書にむりやり着飾らされて、市長主催のパーティに連れていかれた。勝手に婚約者を名乗る相手女性に会ったとたん、拉致されるのは目に見えている。周りは監視だらけだ。逃げるのを織り込み済みで見張っているのがありありだ。トイレからの逃亡など陳腐な方法は通用しない。使用人に化ける?――時間的に無理だ。


 拉致されたと装い、途中で逃げるのが一番逃げやすい。どうせ、定番の薬物入り飲み物でも飲ませるつもりだろう。そんなものはわたしには効かない。


 華やかな女性が目の前に立った。瞳は恋心でいっぱいなのだろう。わたしを見る目に打算は感じられない。

 アカデメイアにきてすぐに紹介された少女は、いまや二十代半ばの美女に成長していた。彼女がわたしに好意を持っていることはわかっていた。誕生日だの、バレンタインだの、クリスマスだの、やたらとプレゼント攻めにしてくる。しかも、相当高価なものを。彼女なりの必死の告白だった。わかっていて、わたしは無視した。


 長年の宿敵同士である鷹丸組と黒獅子組が縁組を結ぶなど、到底あり得ない。楽観していた。放置すれば、相手の熱も冷めるはずだ――冷めなかった。むしろ煽られたらしい。ついに、彼女は父親を動かした。年を取ってやっと恵まれたかわいい子に、黒獅子組組長は逆らえないらしい。組長はプライドを曲げ、娘のためにわが父に膝を屈した。


――そんな大人の事情で人生を決められてたまるか!


 案の定、渡されたカクテルには薬物が仕込まれていた。この匂いとわずかに残る味は、三十分もたてばふうっと意識が遠のくタイプに間違いない。二時間くらいは効果が続くので、その間、見張りは息を抜くだろう。


 このホテルはアカデメイア一の最高級ホテル。配置図は完璧に頭に入っている。おそらくその最上階の最高級の部屋に「介抱」と称して運び込まれるはずだ。あちこちに黒獅子組の関係者が張り込んでいるだろう。部屋に入ってしまったら、逃げ場はない。なにせ三十階だ。飛び降りるわけにはいかない。


 部屋の入り口には二人の屈強な男が立っていた。気を失った(ふりをしている)わたしは、その二人の男に預けられ、室内に担ぎ込まれた。

 靴を脱がされ、薔薇の香りがするベッドの上に横たえられた。

 わたしが目を覚まさないのを確認して、二人は部屋を出た。彼らがドアを開けようとした瞬間、わたしは後ろから二人の後頭部を強く打ち据えた。すぐに失神した。声を上げる間もなかったようだ。


 鷹丸組は武闘を誇りにしている。わたしも幼い時から護身術を徹底された。

 父や組員からわたしを守るために母はひそかにわたしに師範をつけてくれた。だから、鷹丸組のだれも、わたしに武芸ができるとは思っていないはずだ。


 師範は口癖のように言っていた。

「護身術では天月武術がよく知られますが、ミグル武術というのもございましてな」

「ミグル武術?」

「さよう。〈ミグルの舞〉と呼ばれるそうな。部族もろともとうに滅んでしまったと聞きます。一度でいい。見てみたいものですなあ」


 わたしは一人の服を剥ぎ、着替えて部屋を出た。普通のスーツ姿だ。逃亡用に用意していたメガネや変装用具はしっかりとポケットに入れて持ってきていた。


 完璧だった。

 わたしはだれにも怪しまれず、ホテルを出た。すぐにタクシーで駅に向かい、長距離トラックの荷台に乗り込んだ。飛行機では身元が割れる。列車でも国境検査がある。荷物に紛れて移動するのが最良だった。


 未明にカランに着いた。


■タダキの逃亡

――宿敵の黒獅子組息女との縁組に父が乗り気になったのも、わからないではない。

 いまのアカデメイアで急成長しているのは黒獅子組傘下の企業だ。鷹丸組は大きく後れを取っている。


 苦労人の父は、相当に屈折した思考の持ち主だ。

 鷹丸組組長として、父は、長年、アカデメイアからカトマールにかけての海洋交易を取り仕切り、独自のネットワークを構築して闇取引を牛耳ってきた。

 父の手腕は見事というほかない。母の婿にふさわしいと必死で証明しようとしてきたのだろう。だが、母には見向きもされなかった。美貌と才知に恵まれた母には、父など必要なかったからだ。


 父にとって、わたしは母そっくりの自慢の長男――だが、自分を愛してくれない息子。必死で守ってきた鷹丸組を潰し、TMカンパニーとやらに衣替えして表舞台に立つ息子。息子の活躍はうれしいが、それはすべて父たる自分を否定する行為……。


 父はいつもこう思っていたはずだ。次男は自分そっくりで、かわいくて仕方がない。だが、長男はやっかいだ、と。


 なんとか、父の威厳を取り戻したかったのか。それとも、わたしと母に対する報復か。あろうことか、黒獅子組組長の息女との縁談をまとめてしまった。鷹丸組がなくなってしまった以上、黒獅子組を事実上乗っ取り、すべての闇取引をわが手に収めるつもりだったか。

 皮肉なことだ。この縁談騒ぎで、母は父に頻繁に会うようになり――喧嘩するためだが――、わたしは父に初めて本気で抗議した。


 母は望んで父と結婚したわけではない。祖父を失い、瓦解しかけた鷹丸組を守るために、父を婿にした。わたしを生んでまもなく、母は父と別居し、一人でアカデメイアの夜の街を取り仕切るようになった。

 母は、後継ぎであるわたしが父の影響を受けるのを嫌がった。わたしは祖母に庇護されて育った。二歳の時だ。カトマールクーデターで祖母の実家が没落して、祖母が帰国を余儀なくされた。そのとき、母はわたしを祖母に託した。


 カランの片田舎は快適だった。貧しかったが、みんな貧しいので、〈貧困〉が恥だとも苦痛だとも思わなかった。食べ物はみなで分け合い、何かあればみなで協力して村を守った。けれども、隣村でわたしをかわいがってくれたおばさんは、次に行ったときにはいなくなっていた。コウゲゾクとか、なんとか。当時はわからなかった。のちに本香華粛清の被害にあったと知った。


 祖母はいろいろなことを教えてくれた。村の由来、カランの歴史、白虎の伝説――。

 十二歳を迎えたばかりの頃、テレビが大騒ぎを伝えていた――大統領暗殺。村には遠い出来事だった。なのに、影響はすぐに表れた。ものが届かなくなったのだ。

 わずかだった食べ物も底をついた。祖母はありったけのものを村人に提供した。やがて、どこからかひそかに物資が届けられるようになった。母が鷹丸組の闇取引ルートを使って物資を届けてくれたのだ。

 町の市場にもモノが戻ってきた。けれども、高すぎてほとんど買えない。これもあとで知った――黒獅子組が、鷹丸組とは別ルートで闇市場を支配し、軍事政権と結びついて、法外な利益を上げていると。


 アカデメイア大学法学部に入ったのには目的があった。むろん、弁護士資格を取って、冤罪事件をなくすことはとても大事な動機だった。子どもの頃にかわいがってくれた隣村のおばさんのことを忘れたことはない。

 だが、それ以上に大きな目的は、黒獅子組の実態を調べることだった。調べるほどに、鷹丸組の立ち位置も見えてきた。このままでは、鷹丸組は黒獅子組に喰われる――そうなる前に、黒獅子組が手を出せないような組織に変える必要がある――TMカンパニー設立に向けて周到に準備した。


 理想はラウ財団だった。利益と福利の塩梅をとりながら巧みに両立をはかっている。とりわけ、大学同期のレオンの活躍は、強力なロールモデルだった。イ・ジェシンは、大富豪の祖母の金で遊んでいるだけのおバカなボンボンにしか見えなかった。


 だが、黒獅子組対策で二つのことを知った。

 一つは、カラン盆地をバルジャ軍やカトマール政府から守ってくれたのは、イ・ジェシンの祖母ク・ヘジンであること。

 もう一つは、黒獅子組のルーツが「はぐれミグル」と呼ばれるカトマールの放浪の民であること、そして、鷹丸組は古代に「はぐれミグル」と分離した「島ミグル」であること。これら二つのミグル族が古代から連綿と築いてきた交易路がいまは「闇取引」ルートとして維持されている。これらの交易路の情報をどちらのミグルも大国には渡さず、自分たちの歴史として守り続けたのだろう。


 衝撃だった。

 政治が金を動かすだけではない。金は政治を動かす。どちらが民を見るかは、意思決定に携わる者の覚悟で決まる。

 〈闇〉は相対的だ。

 国家によって正当化されないものが〈闇〉とされるが、それは国家に伝統や権利を渡さないという決断の結果でもある。


 いまでは、黒獅子組も表向きは合法的な会社組織に名を変え、多くの傘下企業を持つまでに成長した。黒獅子組組長息女は、表向きは、アカデメイア最大の建設会社の会長令嬢だ。港湾会社のTMカンパニーとは事業上の相性が良い。


――だが、イヤだ。わたしは人生で初めて逃げ出した。仕事は、事前に事務所の有能なパートナー弁護士に割り振った。


 これほど自由とは思わなかった。イ・ジェシンが無能と言われても気にも留めなかった理由がよくわかる。


■初恋

 父母の不仲を見て育ったせいか、わたしは愛や恋や結婚にまったく夢をもたない人間となった。男に頼ったり、媚びたりする女性をみると虫唾が走った。母のように自立した強い女性などほかにいない――そう思っていた。


 彼女は衝撃だった。

 スラさんに初めて会ったのは五年前――小さな銀行で三人組の強盗がたてこもった。たまたまわたしはそこに居合わせた。強盗は手慣れているようだった。このタイプは人殺しはしないが、暴力をふるうことは厭わない。この三人の弱点は何だ?――わたしは見定めようとしていた。


 要求額の一億円が用意されているうちに、人質の一人が恐怖のあまり、逃げ出そうとした。犯人の一人がその者を狙って発砲しようとした。だが、即座に腕を捻りあげられた。アッという間もなく、残る二人も飛び蹴りをされて転倒した。一人は完全に気を失い、もう一人は蹴られた腹を抑えて、落とした拳銃を拾い上げようとした。その前に拳銃が蹴り飛ばされて遠くに転がった。犯人はこんどは背中からエルボーアタックを撃ち込まれ、完全にノックアウト。最初の男は、片腕を抑えて呻いている。脱臼したようだ。

 人質をとられて何もできなかった警備員が駆け付け、三人を縛り上げているうちに、パトカーが到着した。


 初老の刑事が、犯人退治に協力した人にお礼を言っている。背が高かった。背後から見ていた時は、細身の男性だと思った。正面を向けた顔に驚いた。美貌の女性だった――それがスラさんだった。

 彼女は、いままで見たことがないほどの武芸の腕前だった。しかも、笑わない。照れもしない。客の中に影のように潜んでいたのに、他人が踏みにじられようとしたとたん、あざやかに躍り出て、あっという間にすべてを片付けた。


 刑事が感心したように言っていた。

「ほう……血も流さず、武器も使わずに、とは、すごいですな」


 震えが止まらなかった。師範に教えられていた武術の理想の極致を見せられたのだから。

 ……これは、まさか〈ミグルの舞〉? 

 その日から、わたしはスラさんを忘れたことはない。


 カランで出会った櫻館のメンバーは、相当の変わり者ぞろいだが、あのスラさんの仲間だ。あれくらいは不思議じゃない。

 なによりうれしかったのは、祖母の笑顔だ。

 洞窟の話を聞いたとき、祖母は長年の苦労が報われたように、晴れ晴れとした顔をした。白虎伝説が今を生きる物語であることには驚いたが、わたしにも何かできそうな気がする。


 イ・ジェシンが好きなサキ先生は、予想以上に手ごわい。でも、ジェシンはめげない。どう考えてもサキ先生がジェシンに振り向くとは思えないが、ジェシンはそれでもいいそうだ。サキ先生が好きで、サキ先生がうれしそうにするのが、この上なく快感らしい――レオンに対しても、彼は同じだった。まったく相手にされない自分を、とことん愛でていた気がする。


 わたしもそれでいい。スラさんに袖にされてもいいじゃないか。わたしがスラさんを好きなのだから。いまのわたしは、スラさんを思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。この櫻館のメンバーに役立つことは、スラさんのためになる。それは、大きな励みだ。

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