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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第四十六章 西の地下神殿
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ⅩLⅥー3 政局と神話――カトマール第一副大統領エリナとアユ夫人

■苛立ち

 大統領が、すべてを潰した!


 カトマール第一副大統領エリナの指がわなわなと震えた。自分の利害で動いていたわけではない。隣国バルジャと手を打ち、カトマールの利権も確保できる折衷案を苦労してお膳立てしたのだ。天志教団の顔色さえ窺った。それなのに――。


「不法蓄財だと……?」

 寝耳に水だった。たしかに、このところ、大統領はあとわずかな任期で最大の利益を得ようと画策するようになった。だが、それはエリナのコントロール下であったはずだ。エリナも知らぬところで不正蓄財を行い、あろうことか、その証拠をライバルの第二副大統領シャオ・レンにつかまれるなど――愚かにもほどがある。


 ディーン――密偵〈青年局長〉――を呼び出したが連絡がつかない。学生サークルで天月に行って以来、戻ってきていないという。あれだけ目をかけてきたのだ。よもや裏切るとは思えない。だが、念には念を――あの者を失えば、長年の計画が破綻する。


 驚くべき情報が入った。ディーンは櫻館の面々と行動をともにしているらしい。ほどなく本人から短い連絡が届いた。

――シャオ・レンとラウ伯爵の仲を違えさせる材料を探しています。

 以前話していた作戦を実行しているのだろう。ならば任せるしかない。


 だが、ディーン以上に使える手駒はいない。エリナは、彼にどれほど多くを依存していたかを、いまさらながら痛感した。


 ともかく、最大の懸念は大統領だ。不正蓄財から手を引かせ、証拠を消し、任期延長の野望も断念させねばならない。


 不正蓄財にはアカデメイアの闇組織――黒獅子組が関わっているという。天志教団の影もちらつく。黒獅子組は、アカデメイアの行政訴訟――ドロップ違法開発事件――の黒幕である恐れも高い。そのような危うい組織に近づくこと自体が、すでに資質を疑われる。


 原告市民グループの代理人は、アカデメイアの小さな法律事務所。無能と噂されるイ・ジェシンと、敏腕で名高いタダキが共同受任している。二人は大学同期だが犬猿の仲のはず。レオンとも同期らしい。ただしレオンは訴訟とは無縁で、いまもカトマール西部で奔走している。


 新たに届けられた書類を手にし、エリナは息を呑んだ。

 イ・ジェシンは不動産界の女帝ク・ヘジンの孫。タダキは黒獅子組と張り合う鷹丸組の御曹司。しかも黒獅子組の娘との婚約を嫌がり、逃げ回っているという。最近は行方不明らしい。


 黒獅子組、天志教団、アカデメイアの訴訟――裏社会と宗教が複雑に絡み合い、事態はもはや政治の範疇を超えつつあるようだ。


――うーむ。

 複雑な人間関係が渦巻く。さて、どう読み解くべきか。


 カランでのあの夜を思い出す。

 未明、天から音楽が響いたように感じたのだ。恍惚とし、不思議な高揚感が残った。しかし多くの人々は暴動へと向かった。


――あれが、アリエル・コムが奏でるという〈天の曲〉なのか?


 カランを拠点とする天志教団は厄介だ。古い起源をもつが、近年はカルト的要素を強め、信者数が急速に膨らんでいる。政治的影響力も大きく、バルジャ対策にも山岳少数部族対策にも、彼らの協力は欠かせない。


 エリナは深くため息をついた。

 大統領のもとへ出向き、不正蓄財の件を秘密裏に処理しなければならない。同類と見なされるわけにはいかない。

 あの愚かな大統領は、事態の深刻さをどこまで理解しているのだろうか。


 窓から銀月が見えた。カランでの光景がよみがえる。鮮烈な記憶だ。


 暴徒の前に、アユ夫人は身をさらした。

 いきり立つ群衆を前に一歩も退かず、争いをやめよと訴えた。


 現大統領には決してできない行為だ。

 あの男は、暴動にはエリナを向かわせ、自分は安全なルキアから一歩も動こうとしなかった。そこまでは計算通りだった。だが、まさかアユ夫人が出てくるとは思いもしなかった。


 ライバルはシャオ・レンではない。その妻――アユ夫人だ。

 勇敢で決断力に富むあの美貌の女人だ。


――アユ夫人……いったい何者だ?


■ラウ伯爵とアユ夫人

「命が縮みましたよ」

 ラウ伯爵は、アユ夫人の離宮で小言を漏らした。

「まあ。あらゆる危難を乗り越えてこられた伯爵でも、そんなことをおっしゃるのですね?」

 アユ夫人は優雅にティーカップを傾ける。


「一歩間違えば、あなたの命はなかったのですからね」

「そうかもしれませんわ。あのときは、とっさに動きましたので」

「レンがどれほど心配したか……」

「ええ、わかっています」

 夫人はやわらかな微笑みを絶やさない。


「いまは、レオンと大統領対策の後始末に奔走しているようですね――」

「ええ」

「エリナ副大統領は大統領ほど愚かではありませんよ」

「そうですね。彼女は大統領降ろしに動くでしょう。きっと、わたしたちができないことをやってのけます」


――夫人のこのゆとりは何からくるのだろう……。

 そう思いながら、伯爵はふと話題を変えた。


「櫻館の連中もカランにいたとか?」

「そのようですね。わたくしはお会いしていませんけれど」

「よくご存じですね」

 伯爵はわずかな違和感を覚えた。夫人のまなざしはいささかも揺らがない。


「九鬼教授が心配なさって、サキ先生に何度も連絡を取っておられたようですわ」

「へえ……九鬼彪吾が、なぜここに?」

「珍しいピアノを手に入れましたの。お見せしたらお気に召して、しばらくご逗留になることに」


 ちょうどそのとき、彪吾が姿を現した。

「やあ。ラウ伯爵、こんにちは」

「九鬼教授。お久しぶりですな。夫人から、すばらしいピアノがあると伺いましたよ」

「そうなのです。一曲いかがですか? さきほど作った新しい曲があります」

「聞かせていただけるのですか?」

「ええ。ご感想など伺えれば」


 見事なピアノだった。彪吾は目を閉じ、鍵盤に指をすべらせる。


 ふくよかで、やわらかい音が響いた。やがて、細く強い張り詰めた音に変わり、跳ねるようなリズムにあわせて軽妙なタッチが続くと、きらめくように一音一音がくっきりと浮かびながら、光に溶けるように閉じられた。


 ラウ伯爵は目を閉じ、じっと余韻に浸った。ややあって一言ぽつりと言った。遠い昔、どこかで耳に響いた音を思い起こさせる。

「美しい……まもなく訪れる春の息吹を感じるようです……」


 彪吾がうれしそうに頬を染めた。

「ありがとう! この離宮の早春をイメージしながら作った曲なんですよ!」


■離宮のサロン

――夜。

 カランからレオンとカイが駆け付け、ルキアからはシャオ・レンがやってきた。

 離宮の小さな居間で、五人の者が会談を始めた――アユ夫人、ラウ伯爵、シャオ・レン、レオンそしてカイ。


「まるで〈青薔薇の館〉のサロンに戻ってきたようだな」

 ラウ伯爵が感慨深げに言った。シャオ・レンも遠い目をした。

「そうだな。ロアンの代わりにレオン秘書とカイ修士がいるみたいだ……」


 二十年前――アカデメイアの瀟洒な館では、アカデメイア大学に通う若きラウ伯爵とカトマールからの留学生シャオ・レン、そしてシャンラ王太子ロアンが、主のアメリアを囲んで、政治や文化を論じていた。館の女主人アメリアこそ、いまのアユ夫人そのひとだ。


「山岳少数部族の協力を得られるかもしれないというのか?」

 シャオ・レンが驚いた。

「そうです」とカイが静かに言った。

「カランに住む、ある古い一族が間に立ってくれるそうです」

「古い一族?」

「はい、詳しくは申せません。彼らの命に関わりますので」

「よかろう。天月至高の銀麗月の言葉だ。信じるしかあるまい」


「天志教団のアリエル・コムという音楽家が人びとの心を惑わす音楽を奏でているようです」

 レオンが続けた。

「じつは、九鬼教授も二度ほど拉致されました」


 伯爵とレンが同時に叫んだ。

「天志教団だったのか!」

 レオンが抑揚もつけずに答えた。

「はい。これゆえ、この離宮に教授をお預けしたのです。櫻館よりも警備が厳重ですので」

「そうだったのか……」

 伯爵はアユ夫人をそっと見た。


――あの時と同じだ。微笑みながらすべてを包み込み、信念を貫こうとする。


 かつて、カトマール政府から迫害された亡命学生シャオ・レンをアメリアとして匿い、カトマール独立戦争に名もなき民として参加した。そしていま、アユ夫人としてあえて表に出ることにより、教団のターゲットになる道を選んだ――九鬼彪吾を守るために、そしてそれがカトマールの人びとを救うと信じて。


「あの暴動が起こった日の未明、カランの空に不思議な音楽が鳴り響いたという噂があります。それが、アリエル・コムの曲だというのですか?」とアユ夫人が静かに尋ねた。

 カイが目を上げて答えた。

「そうです。アリエル・コムは古代ウル大帝国時代の天才音楽家です。その名が代々継承され、いまは、ミン国出身のホン・スヒョンという青年がアリエル・コムを名乗っています」

「ホン・スヒョンだと? この前の音楽祭で大賞を取った人物か?」と伯爵が驚いた。

「さようです」


 シャオ・レンが眉を寄せた。

「なぜ九鬼教授を狙う?」

 レオンが答える。

「教授には未発表の曲が多数あります。それらを教授自身に弾かせるためでしょう」

「まさか、教授の曲を悪用するつもりなのか?」


「はい。もしそうなれば、今回の暴動の比ではありません。九鬼教授の音楽は、ホン・スヒョンのそれをはるかに上回ります」

「そうだろうな……」

 ラウ伯爵は深く頷いた。


 先ほど聴いた音楽が胸に蘇る。しばらく動けなかったほどだ。

――あれほどの音なら、人の心を操ることなど造作もない。


 レオンが皆を見回した。

「大統領の不正蓄財については、すでに集めた証拠に加え、新たな証拠も得られそうです。この件は私にお任せください」

「問題はエリナ副大統領か?」

 ラウ伯爵が問う。


「いえ。彼女は不正にも蓄財にも関わっていません。今回のバルジャとの取引も、彼女なりの祖国への思いからです」

 伯爵は沈痛な面持ちで続けた。

「では、敵は別にいるのか?」

「はい……ですが、まだ確信が持てません。わかり次第ご報告します」


 レオンがここまで慎重になるのは珍しい。


――国も、ラウ財団も、アカデメイアも巻き込む深い闇があるのだろう。

 伯爵は思わず身震いした。


■密談

――深夜。

 ファウン皇帝の私室に、アユ夫人とレオン、カイが集まった。カイが結界を張った。


 皇帝の前では、アユ夫人は本来の名を取り戻す――カトマール皇女リリアンヌ(通称リリア)。レオンの姉、カイの母にして、本来のカトマール皇位継承者。


 皇帝が問う。

「そなたの曲が狙われていると?」

 レオンが答える。

「はい。私は覚えていないのですが、彪吾がすべて覚えています。しかも、彪吾が弾くと効果がいっそう強まるようです」


「真の敵とは?」

 皇帝の声が低く響く。

「おそらく……弓月御前です」

 レオンが言い、カイが静かに頷いた。

「弓月御前? ラクルの弓月財閥の長のことですか?」

 リリアが尋ねる。

「さようです。ただし、これは極秘に。カイが調べていますが、情報が漏れれば命に関わります」


 カイが資料を広げた。

「弓月御前は天月にも入り込んでいます。現宗主は絹の里と深い縁があるようです。ルナ大祭典では、天月から初代銀麗月の秘宝が出展されますが、弓月御前はそれを奪うつもりのようです。対策は講じていますので、ご安心を」


「なぜ天月秘宝を?」

 皇帝と夫君が同時に眉をひそめる。

「弓月御前は天明会と関わりがあるのではないでしょうか」

「天明会……?」

 皇帝が低くつぶやく。


「絹の里には近未来的な地下都市が存在します。こちらがその図面です」

 カイの言葉に、夫君シュン殿下が珍しく声を上げた。

「地下都市と申したか?」

「はい。そしてカランには古代の地下神殿が存在します。殿下、何かご存じでしょうか?」


 シュン殿下は、遠い記憶を取り戻すように目を閉じ、静かに語り始めた。

 古代神話に通じる彼の声は、どこか祈りのようだった。


――ルナ異本の物語だ。


 大地が生まれて間もないころ

 地上には強い光が降り注ぎ

 神々は生きられなかった。

 光が届かぬ地の底にこそ救いがある。

 神々は地底に降り立ち

 地下に神殿を作った。

 その数五つ。

 沈黙の宮だった。


 宮に仕える者が必要だ。

 神々は人を選び始めた。

 音曲が響き

 会話がさざめき

 賑やかな往来が増えていった。

 小さな神殿はやがて町となった。


 五つの神殿は地下の道でつながった。

 地下に流れる時間は地上とは異なる。

 数日かかる場所へも

 地下でなら数時間でたどり着けた。

 町はさらに大きくなり

 都市が生まれた。


 カイが問う。

「五つとは?」

「天月、青龍、白虎、玄武、朱雀の宮だ」


 カイは息を呑んだ。

「カランは白虎。青龍は東海の海底。朱雀は火の山、玄武は北の湿地帯……とすれば、ラクルの地下都市は天月の宮……?」


 シュン殿下はゆっくりと頷いた。

「ラクルと天月の間には、深い因縁があるようだ。気をつけて調べなさい」

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