ⅩLⅤー8 エピローグ――アリエル・コムの逆襲
■スヒョンの苛立ち
二度も失敗した。
彪吾を奪えなかった。
ラクル地下都市の閑静な屋敷で、ホン・スヒョンは臍をかんでいた。胸の奥で、焦りと悔しさが燻り続けている。
「アリエル・コムさま。お客さまです」
美貌の中年女性が姿を現した。
「これはこれは、弓月御前」
「憂いに沈んでおられたようですね。ほほほ。耳よりのお話を持ってまいりましたよ」
「九鬼彪吾がカトマールの離宮に?」
「ええ。副大統領夫人の私邸には、発掘責任者の親族も迎えられているようです。夫人はほとんど来ず、老女が留守を預かっているとか」
「なぜ、九鬼彪吾が?」
「離宮には特別なピアノがあるらしく、それを気に入って逗留することになったそうです。離宮近くにお住まいをご用意いたしました。ただ、その前に――かねてよりお願いしていた件を」
「承知しました」
櫻館には銀麗月がいる。九孤族宗主もいる。強力な結界が張られ、手出しはできない。
だが離宮なら――音で酔わせることなど造作もない。
――ルキア近郊。
さすが元皇帝家の離宮だ。高い塀に囲まれ、忍び込む隙はない。
スヒョン自身に異能はない。
だがアリエル・コムには、千里眼の金鬼と念力の銀鬼という二人の異能者がついている。
そしてスヒョンは、異様に広い可調音域と驚異的な聴力を持つ。普段は眠らせている力を、必要とあらば呼び覚ませる。
すぐに動くわけにはいかない。
まず弓月御前との約束を果たさねばならない。
離宮近くの小さな家を下見したあと、スヒョンは西へ向かった。
――カランへ。
新年祭で訪れた古都は、相変わらず賑やかな商業都市だった。
弓月財閥の最大支店があり、天志教団も近い。
ホン・スヒョンには見向きもしなかった者が、アリエル・コムを大歓声で迎えた。
教団が用意した隠れ家に身を寄せ、アリエル・コムとして初の大仕事に取りかかる。
新年祭の日――最終的には彪吾を取り戻された。
だが、彪吾もレオンも、自分の音に動かされた。
その快感は、忘れがたい。
胸の奥から湧き上がる甘い希望に酔うように、スヒョンは鍵盤に指を落とした。
音が立ち上がり、部屋の空気が震える。その震えに、自身が酔っていく。
■山岳部族
バルジャ軍は途方に暮れていた。
当初の予想とはまったく違う事態が起こったからだ。
十日間の熟慮期間など口実にすぎない。
すでにカトマール副大統領エリナとは話がついていた。
反独立派にテロを起こさせ、それを口実にカトマール軍がカランに介入する――その筋書きだった。押し出されたバルジャ軍は後退を装い、山岳少数部族と合流する。合同軍に押し切られたカトマール軍は「民意」を尊重し、カラン盆地西半分と山岳地帯の暫定独立を認める。東半分はカトマールが領有し、和平成立。
計画通りなら、バルジャ軍はほとんど血を流さず、有力部族を従え、交渉材料を得られるはずだった。
だが、山岳部族は次々と離反した。
兵士は疲弊し、バルジャ将軍のもとへエリナの使者がひそかに訪れた。
「話が違うではないか!」
将軍は激怒した。使者は平身低頭で弁明する。
「ラウ財団とシャオ・レンが動いたようです。しかも数年にわたり周到に備えていた模様」
「どういうことだ?」
「部族の領有地域を確定し、自治権を認める命令に大統領が署名しました。エリナ副大統領も知らなかったようです。結果、ほとんどの部族がカトマール政権に流れ、バルジャの支援も介入も拒否すると……」
「ぬぬぬ……あのレオンとかいう若造の仕業か?」
「そのようです」
レオンは数年来の計画を実行に移した。
シャオ・レンとク・ヘジンの協力を得て、大統領の不正蓄財の証拠を固め、署名しなければ公表すると脅したのだ。
離反の報告は次々と届いた。
丘陵地帯最大の部族では、族長がバルジャ軍を歓迎した。
「手はず通り、カトマール軍を足止めせよ。我らの悲願――独立国家をつくるのだ。他部族にも連絡を」
だが側近中の側近が族長を阻む。
「他の部族が参りません。このままでは持ちこたえられません」
「ならばどうなる」
「捕らえられ、処刑されるかと……わが部族にも離反者が」
「なんだと。卑怯者がいるのか?」
「はい」
「どやつだ」
「わたしです。ごめん!」
族長の遺体が転がる。男は静かにつぶやいた。
「あんたが利権で動いているのを、誰も知らぬと思ったか。我が部族をバルジャに売り渡すなど許さん」
険しい谷の部族では宗教対立が起きた。
「ルナ神だけを信奉する天志教には与せぬ。我らの守り神は山の神と大地の女神。それを棄てるわけにはいかぬ」
若きリーダーの言葉に人心は流れ、天志教の庇護で利益を得ようとしていた勢力は一掃された。
援軍もない敵地で戦い続けることはできない。
――撤退しかない。
将軍は悩んだ。
大統領は決して許すまい。
国際社会の笑いものになるのは国だけではない。大統領自身も愚か者とそしられる。将軍は処刑――。
――振り上げた拳をただで下ろすわけにはいかない。
独裁者は引き際を知らない。
カトマール、バルジャ、カラン、山岳部族――血を賭けたその駆け引きを、ほくそ笑む者がいた。
――すべてもくろみ通り。エリナの思い通りにはさせぬ。
報告を受けた弓月御前は、秀麗な眉ひとつ動かさず言い放つ。
「手は打ってある。しばらく待たれよとバルジャ大統領に伝えよ」
瞳の奥で、一瞬、冷たい光がひらめいた。
雲のない夜、不思議なことが起こった。
どこからともなく、美しい調べが響き、人びとは空を見上げた。
星が瞬き、銀月が燦然と輝く。
ふっと意識が遠のき、気づけばあちこちで火の手が上がっていた。
「カトマール軍だ! 我らを裏切ったぞ!」
パニックが起こった。
団結を誓ったはずの人びとが殺し合う。
疑いが疑いを呼び、憎悪は連鎖した。
夜明けには、山岳地帯のほとんどの村が焼け落ち、村人はうつろな表情で佇んでいた。
歌が聞こえる。
誰が村を焼いた?
誰が村人を殺した?
誰が子どもをさらった?
嘆きに沈む人びとを包むように、今度は悲しい調べが空を流れた。
人びとは空を見上げる。
敵は東――ルキアだ。
うつろな瞳に炎のような怒りが灯り、嘆きと恨みが怒濤のように舞い上がる。
そこへバルジャ軍がやってきた。村人は跪き、将軍は厳かに告げる。
――案ずるな。我がバルジャ軍が村も村人も守ろう。
■〈忘れられた村〉
一夜にして形勢は逆転した。
だが、その騒ぎから距離を置いた村があった。
――数日前。
「長さま、レオンさまから連絡がありました」
「うむ」
「数日内にバルジャ軍が入るゆえ、避難せよとのことです」
「そうか……みなに伝えよ。村を棄て、隠れ村へ移る。極秘に動け、とな」
(リエンスキー将軍。〈戦うな〉――あなたの教えは、この村に生きております。名誉の死などいらぬ。生きてこそ未来がある。ゆえに逃げよ、隠れよ――あなたはそう教えてくださった。三十年前、村の者は誰一人傷つかずに生き延びました。わしもその一人。戦が終われば、また戻ってまいりまする)
長は遠く山をみやった。霞がたなびくかなた――朧に将軍の声が響く。静かに霧が下りてきて、村人の旅立ちを隠した。
■作られた憎悪
「外出禁止だ!」
サキが厳命した。
十五歳たちが口々に叫ぶ。
「なんでだよ。せっかくここまで来たのに!」
「どこも危険じゃなかったじゃないか!」
「戒厳令が出た。一夜ですべて変わったらしい。ニュースを見ろ」
映し出された山岳風景は一変していた。
煙がくすぶり、家も田畑も破壊されている。
「こ……これは?」
「十日間の停戦って言ってたのに?」
「突然、どの村にも火がつけられた。村人は疑心暗鬼になり、紛争が激化したようだ」
「まさか、一日で?」
「うむ。怒りはカトマール政府とラウ財団へ向いている。ルキアも離宮も危ない」
「ど、どうしたら」
「ひとまず動くな。われわれが動けば、レオンたちが危険になる」
「う、うん」
「ここは安全だ。銀麗月が結界を張っている。森が守っているゆえ、発見されまい」
オロが腕組みをしながらサキに訴える。
「一夜ってのが怪しすぎるよ!」
「そうだな。リト、何か気づいたか?」
「うん。昨日の晩と今日の朝、どこかで音楽が響いた。どっちも真っ黒だった」
隣でディ―ンも頷いた。
「ボクも聞きました。耳に心地よいのに、妙なメッセージが――《タ・タ・カ・エ》」
「アリエル・コムか?」
「おそらく」
「煽動したと見える。もう一度流れれば取り返しがつかん」
「対抗の音楽を聴かせるしかないよ!」オロが言い募る。
「そりゃそうだが、どうする?」
サキに応えて、アイリがすっくと立ちあがった。
「任せろ。レオンの〈神曲〉をアレンジする。オロが龍の姿で飛んで、空から歌え!」
一瞬、サキが身を乗り出し、すぐ引っ込めた。
「なるほど……いや、だめだ。〈神曲〉の手がかりを渡すようなものだ。アリエル・コムが待っている可能性もある」
オロが断言する。
「アリエル・コムは単純だ。そこまで考えていない」
アイリが首を振る。
「だが背後のヤツは相当の切れ者だ。たしかに、〈神曲〉を引き出すために騒動を起こしたのかもしれん」
風子が泣きそうに叫ぶ。
「騒動って……戦争だよ! 人が死ぬよ!」
キュロスが冷静に分析した。
「たしかに、戦争です。ですが、いまはまだ死者は出ていません。火は村の端からつけられ、村人に逃げよと促したも同然。ただ、人心がパニックになり、手がつけられない。暴動拡大を抑えるための戒厳令でしょう」
「ならば対策は?」
「まず人心の動揺を抑えることです。このままでは、少数部族が中央政府に反乱した形になり、バルジャに介入の口実を与えます。何十年もかけて取り戻した安定が崩れます」
みな黙り込んだ。
戦術を知り尽くすキュロスの言葉はそれぞれの胸に重く響いた。
シュウが叫ぶ。
「あ! テレビ!」
画面に美貌の女性――アユ夫人が映る。
暴徒と化した人びとに向かい、朗々と、しかし真摯に語りかけた。
「みなさん。わたしたちは仲間です。互いを信じませんか? カトマール軍は、国内に住む人の家に火を放ったりなどしません。カトマール国籍をもつ、持たないにかかわらずです。カトマール国家は、みなさんを守ります。どうぞ信じてください。幸い、命は失われていません。ですが、このままでは、命が失われます。奪われてよい命などありません。どうぞ、もとの村にお戻りください。このたびの火災や騒動で家や財産を失った方には、国が責任をもって保障することでしょう」
人びとは目が覚めたように立ち止まり、互いを見まわし、万歳を叫びながら、家路についた。
「心のこもった言葉は、異能を超えるな……」
サキの言葉に、十五歳たちは深く頷いた。
そのそばで、カイはひとり不安にかられていた。
――アユ夫人……本来のカトマール皇帝――母上がついに表に出られた。
弓月御前は、母上を最大の敵とみなすに違いない。
銀月に浮かぶ影が揺れる。
御前の冷たい目が母に合わされ、深い紫色を宿した母の瞳が御前のまなざしを跳ね返す。
銀色の細い光が長い尾を引きながら、母を守るようにその周りをめぐっていた。




