ⅩLⅤー5 音の謎――美しき音曲に仕掛けられた罠
■いくつかの音
「アリエル・コムの曲は、どうしてひとの行動や意識を支配できるんだろう?」
ピアノの前に座った彪吾が、そばに立つレオンを見上げて言った。
「そうですね。何か思い当たることはありますか?」
「うーん、二つ方法がある気がする。一つは、人が聞こえる範囲を超えた音で誘導する方法。もう一つは、聞こえる範囲内の音に呪力みたいなものを忍ばせる方法。最初に拉致されたときは前者、カランのときは後者だったよ」
「そうでしたね。わたしも含め、全員が前者しか想定していなかったために、あなたを拉致されてしまいました。音楽を聴いたときのことは覚えていますか?」
「一度目は頭が混乱した。音が渦を巻いて、頭の奥がぐらぐらして、吐きそうになった。車酔いみたいだった」
「そうでしたか……」
「でも、二度目は身体がほどけるように軽くなった。きれいな草原が見えて、青い蝶がひらひら舞っていた」
「……〈閉ざされた園〉が見えたのですか?」
「わからない。でも、夢を見ているみたいで、すごくワクワクしたのを覚えてる」
「ほかに何か?」
「その草原でも音が聞こえてきた。とてもきれいな曲で、ボクはキミが弾いてるのかと思ったほどだ」
「わたしが……?」
「うん。孤島の古い神殿に小さな琵琶があったろ? ボク、よく弾いてたじゃないか」
「ええ。覚えています。動物たちが集まってきましたね」
「それと同じ感じ。でも、だれが弾いてるのかはわからなかった。あの虹色の石の音は、その音に近いんだ。だからフッと意識を失うんだけど、気分は悪くならない。キミはどうだった?」
「カランではアリエル・コムの曲で硬直してしまいました。記憶が途切れています。ただ、我に戻ったとき、妙に昂揚していました。けれど、石の音はまったく影響がありませんでした」
「オロくんやグリちゃんには、どの音も効かないんだろ?」
「そのようです」
「リクちゃんは?」
「そういえば、石の音が響いたとき、耳を抑えることもなく立っていました。ふらついた風子さんがリクさんに縋っていましたので――」
「どうしてそんなに差が出るのかな?」
「音声を分析する必要がありますが……アイリさんが危険です。さて、どうしたものか」
■音の分析
「おい、あたしの言う通りに動かすんだぞ!」
アイリが何度も念を押す。
例の音声の分析許可が出た。待ち望んだ実験だが、厳しい制限つきだ。
――アイリは音を聞いてはならん。画像で判断してオロに指示を出せ。いいな、グリ。二人が命令に反したら、すぐに音を止めろ。
サキの声はいつになく厳しかった。
櫻館の一室に特製の防音室が設けられた。室内に入るのは、アリエル・コムの音に反応しないオロ。パソコン操作の実力はアイリに劣らないが、何をしでかすかわからない。キリリと律儀なグリがお目付役として張り付いた。オロは龍族、グリはカメ族――音を聞き取る身体能力がひととは違うのだろう。
別室のモニターに映像が転送される。アイリは画面を睨み、波長に注意しながらオロに指示を飛ばす。ほとんど喧嘩腰だ。
「アホ!」
「バカ!」
「間抜け!」
サキでさえ、さすがにオロが気の毒になった。
だが、アイリのヘッドホンから漏れ聞こえるオロの声に我に戻った。
「アホはおまえだ!」
「なんだと、このバカ!」
「大間抜けが!」
サキは自戒した。
(こいつらに一瞬でも同情したわたしがバカだった)
分析には数時間かかった。
慎重を期した――と言えば聞こえはいいが、その大半は罵倒合戦だった。
アイリが結果をまとめる。カイたちもばあちゃんズも聞き入る。離宮の彪吾ともオンラインでつながっている。盗聴もハッキングもできないよう、アイリが最高レベルのセキュリティを敷いた。
■アリエル・コムの音
画面に映る音の波を見て、みながほうっと目を見張った。
自然界には多様な音が溢れている。ひとにはその一部しか聞き取れない。
ひとの耳で聞き取ることができる音――可聴音――の範囲は、二十ヘルツから二万ヘルツとかなり狭い。二万ヘルツ以上の超音波は、小刻みで鋭い高周波の音だ。モモやキキのようなイヌやネコは六万ヘルツほどまで聞きとり、暗闇でも獲物の場所や形を把握する。狩りに適した能力だ。
二十ヘルツ以下の低周波音は遠くまで震動として伝わる。ひとには地鳴りのように感じるが、クジラや象は低周波で通信するという。
アリエル・コムの曲には、三つの音――超音波、低周波、可聴音――が巧妙に仕込まれていた。
第一の音――超音波。
アリエル・コムの教会音楽に埋め込まれていた超音波は、ある種の命令信号として機能し、ひとや動物の行動をコントロールする。大脳皮質の運動野・前頭葉に対応する周波数であり、脳波の特定パターンに同調するよう設計された信号が組み込まれていた。組み合わせ次第で、歩く・立つ・眠るなどの行動を指示できる。
第二の音――低周波。
感情をコントロールするのは低周波。自律神経系・扁桃体の反応を誘発し、不安・恐怖・高揚・恍惚などの感情を呼び起こす。この「音のない音」――波長の長い振動だけの音は、耳ではなく身体全体に作用し、呼吸さえ止まるほどだ。五感も生命反応も完全停止する。長くは続けられず、せいぜい一分。彪吾が拉致されたカランの新年祭で使われたものだ。
第三の音――可聴音。
アリエル・コムの曲はすべて波長すら美しいメロディだ。耳に心地よく、抵抗感も警戒心も薄れる。音曲にうっとりすることは、超音波と低周波の命令信号が脳に届きやすい回路を開くことを意味する。音は、ほとんど無防備となった脳の深層に作用し、行動と感情と意識を制御する。
「ものすごく高度な脳科学だ。脳の特定分野に確実に作用するこれほど精密な音響技術を編み出すなど、ちょっと考えられん!」
理系音痴の風子にはほとんどわからないが、アイリがこれほど興奮しているのだ。きっとすごいことなんだろう。
「だが、虹色の石はもっとすごいぞ」とアイリの興奮が続く。
■神秘の音
虹色の石の音は、人が美しいと感じる究極の音色らしい。その余韻は、脳の深層に沈み込み、快楽をもたらす。〈神秘の音〉と称えられる所以だ。
「石の音は本来は可聴音じゃない。超音波と低周波の組み合わせなんだ。だけど、超音波の分数倍、低周波の整数倍の高調波となってハーモニーをなす。これが可聴音となる」
「は?」とみなが首を傾げる。風子などはさっぱりわからないらしく、目が泳いでいる。
「要するに、本来は聞こえない音が組み合わさって、聞こえるようになるってことさ」とオロ。
「その通りだ。超音波部分は快楽を呼び起こすし、低周波部分は恍惚とした浮遊感をもたらす」とアイリが解説した。
ますますわからなさそうな風子を見て、オロが言葉を足した。
「つまり、ものすごーく気持ちが良くなるんだ――オレには効かないけど……」
「オロの言う通りだ」とアイリが満足げに頷いた。
(さっきまでの罵倒合戦はどこにいった? なぜにそんなにコロッと協力できる?)
サキは首を捻ったものの、すぐに思考を停止した。どうせ、彼ら二人の行動は理解の範囲を超えている。
「オロくんにはどのように聞こえるのですか?」とカイが尋ねた。
(え? 聞くの? わけのわからない答えしか返ってこないぞ)とサキはカイを見ながらひそかに思ったが、予想は覆された。
「オレにはどの音も聞こえるよ――アリエル・コムの音も虹色の石の音も。何かヘンなものが脳に届いたというのもわかる。頭の中で微妙に響くから。だけど、やめろって意識を集中したら、そのヘンなモヤモヤが消えちゃうんだ」
カイは静かに言った。
「なるほど……オロくんにはアリエル・コムの音楽に仕込まれた命令信号を情報として選り分ける能力があるようです。虹色の石に対しても耐性がある。彪吾さんはどんな音にも敏感に反応する繊細な耳を持ち、オロくんはどの音も情報として分解できる耳を持つ。お二人が音楽の天才である所以でしょう」
■リトの力
部屋の片隅で、リトはディーンと並んで立っていた。
弦月の耳を持つリトにはどの音も効かなかった。玄武のディーンにも、オロやグリほどではないが、ほとんど影響がない。だが、石の音は、遠く離れていても空気の微妙な揺れとして感じたという。
――これは、どう説明できるのだろうか?
カイがリトを見た。
「どうだ、リト。キミも音の影響を受けなかったようだが、オロくんと同じだったのか?」
リトが首を横に振った。
「ううん。ちょっと違う……どれも〈音〉として聞こえるのは一緒だ。でも、快も不快も感じない。単なる〈音〉だ」
サキが驚いてリトを凝視した。
「虹色の石の音にうっとりしないのか?」
リトが頭を掻きながら頷いた。
「そうだよ。石もアリエル・コムの音も、きれいとか、心地いいって感じがしないんだ……どっかヘンかな?」
リト自身が相当に困惑しているようだ。
傍らのディーンが口を開いた。
「ボクはアリエル・コムの歌は聞いていませんが、虹色の石の音は聞きました。石の音は、ボクには、音ではなく、空気振動として伝わりました。とても微細な振動です。いくつもの波に分かれて次々と押し寄せてきました。それは、心地よいというよりも、厳粛な印象でした」
カイが絶句した。
アイリが立ち上がって叫んだ。
「きっと、石の音を和音としてじゃなく、もとの単音として聞き取っているということだ!」
「……それはどういう……?」とディーンが戸惑っている。
アイリがまくしたてた。興奮が最高度に達したらしい。
「異能が関係するんだろう! あんたは玄武――ヘビとカメの合体だ。爬虫類のルーツをもつが、オロやグリとは違い、きっと音の命令信号の意味を判別できるんだ。しかも、信号の命令を無視したり、否定することもできる!」
ディーンはわからなそうに首を傾げている。
アイリはリトに訊ねた。
「リト、あんたの目と耳は常人の能力をはるかに超えるらしいな」
「ああ、そうみたいだ」
「だからだ! リトはディーンやオロたちとは違う。爬虫類のルーツをもたないにもかかわらず、音の影響を受けないのは独特の〈音痴〉だからだ!」
リトがヘナヘナとくずおれるようにつぶやいた。
「お……音痴……?」
みながプッと吹き出した。
あのツネさんの誕生会準備会のとき、リトが意気揚々とギターを出してきて弾き語りをした。だが、すぐにみなに止められた。あまりに下手だったからだ。アイリは自分より下手な者がいてずいぶん喜んだ。
その〈音痴〉が、アリエル・コムの音対策になるだと?
リトは真っ赤になった。
「た……たしかにオレは音痴だけど、音楽は好きだぞ。ルルの歌にはいつも聞き惚れるし、〈レオ〉の〈五月の歌〉も大好きだ!」
オロ(ルル)がうれしそうに飛び跳ねた。
「音楽好きの音痴など五万といる。おそらく、あんたの耳の構造や音を識別する脳機能が常人とは違うんだ。どうだ? ディーンと同じように、音が〈情報〉として届くのか? それとも、別の形か?」
アイリが問い質すと、リトがうーんと唸った。
「〈情報〉じゃない……強いて言えば、〈色〉かな?」
「〈色〉?」
「うん。音がいろんな〈色〉に見えるんだ。ルルの歌も〈五月の歌〉もすごくきれいな色の重なりでさ。うっとりするんだけど、アリエル・コムの音は無彩色。虹色の石の音は見た目そのままの虹色できれいなんだけど、重なりがなくて単調なんだ」
全員が言葉を失った。カイもはじめて聞いたようだ。珍しく茫然としている。
サキが声を絞り出した。
「おまえには、音が〈色〉に見える――つまり、聴覚と視覚が一体化してるってことだな?」
「そうなの? みんなは違うの?」
リトにとって長年の「あたりまえ」は、まったく「あたりまえ」ではなかった。
サキが付け加えた。
「普通は、音と色は別の感覚として認知される――ちなみに、おまえが何かきれいな景色をみたときにはどうなる?」
「もちろん、きれいな音が聞こえるよ。あの〈閉ざされた園〉でも、キラキラとした音が降り注ぐようだった」
リトは、周囲の反応にビビった。
「え? みんなは違うの?」




