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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第四十五章 虹色の石
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ⅩLⅤー4  三十年前の真実――古いノートに託されたメッセージ

■離宮のピアノ

「よく決断したな」

 ファウン皇帝は、御前にまかり越した二人をねぎらった。


「そなたたちとともにいると、リクが危ない。血のつながる者の匂いを〈森〉の者はつきとめやすいからな。リクが完全に覚醒するまで、しばらく離れていた方がよかろう」

 不安げな彪吾に、皇帝は静かに声をかけた。その声音には、抗いがたい威厳がある。


「彪吾とやら、案ずるな。櫻館には銀麗月も九孤族宗主もおる。セイにも留まってもらうつもりだ。なにより、リクのそばには〈異能の媒介者〉がついておる。櫻館は、いまのリクにとって最も安全な場所だ」

「はっ」

 レオンが頷き、彪吾もそれに倣った。


 リリア(アユ夫人)が涼やかな声で言った。

「さあ、お二人のためのお部屋を用意いたしました。こちらへどうぞ」

 案内されたのは、離宮の奥にある二間続きの美しい部屋だった。


「え……?」

 彪吾は駆け寄った。

 部屋の中央に、見覚えのあるピアノが置かれていた。


――ポロン。


 響いた音に顔を輝かせ、彪吾は夢中で弾き始めた。忘れ得ぬ曲――最初の〈五月の歌〉だ。


 レオンとリリアが、そっと微笑んだ。

「こ……これは、ボクのピアノ……父さんが買ってくれた宝物だ。でも、どうしてここに?」


「姉上が保管してくださっていたのです」

 驚く彪吾の肩に手を置き、レオンが続けた。

「十五年前、あなたが日本の家を処分してアカデメイアに移り住んだとき、姉上はク・ヘジン氏の仲介でその家を買い求め、そっくりそのまま残してくださった。このピアノは、そこから運び込まれたものです」


 彪吾の目に涙が溢れた。


――亡き両親が愛した家が、残されている?


「あなたがわたしを忘れずにいてくれたからです。わたしが戻る場所を失うまいと、あなたはすべてを捨てて櫻館を買い求めた。その心情を知った姉上は、あなたを守ることがわたしを守ることだと考えたのです」

 リリアがやさしく頷いた。


「いつか一緒に行きましょう。あなたの家に。あの十歳の日、約束したでしょう? 日本の櫻を見せてくれると」

「うん、うん! キミは銀狼の子を見せてくれるって言った。そして約束を果たしてくれた。だから、ボクも約束を果たすよ!」


■石の力

 銀月が昇る。リクを心配して眠れない彪吾に薬湯を飲ませ、レオンはファウン皇帝の居室に向かった。


 皇帝は事情を察しているとばかり、孫を迎え入れたが、彼の言葉に言葉を失った。

「このたび、二人の青年が〈冷たき森〉を超え、〈北の湿地帯〉で虹色の石を見つけました。三つの石はいま櫻館に揃っています。その石が〈光の舞〉を演じたことで、リクの覚醒がわかったのです」


 皇帝はしばし沈黙したのち、怪訝そうに尋ねた。

「虹色の石は、バルジャに奪われたと聞いておるが……」


 レオンがゆっくりと首を横に振った。

「バルジャではございません」

「ならば?」

「オサム・ハント――共和国の初代大統領です。彼が石を奪い、裏をかかれたバルジャ軍は村を焼き討ちにしました」

「まことか? 将軍ともあろう者が、私利私欲で石を奪い、敵軍に村を滅ぼさせたというのか――なぜだ?」

 皇帝は激しい怒りをたぎらせた。


「〈癒し〉の力を得るためでしょう。ハントは香華族の〈癒し〉の異能に憧れていたようです」

「愚かなことだ……異能の厳しさも知らずに、力だけ欲しがるとは」

 レオンは頷いた。異能は代償を伴う。場合によっては命にすら関わる。


「当時、湿地帯には二つの石――〈癒しの石〉と〈清めの石〉があったようです。将軍は〈癒しの石〉と誤解したまま、〈清めの石〉を奪った……〈清めの石〉は汚水を真水に変える浄水の力を持ち、湿地帯の民にとって生命線でした。価値を理解できなかった将軍は石を捨て置き、別の者の手に渡りました」


 皇帝は深く頷いた。

「石が自ら将軍を惑わせたのであろうな。〈癒し〉の力はそれを統制できぬ者の手に渡れば、殺傷の道具になる」

「さようでしたか……」


「〈清めの石〉は、湿地帯に生きる者にとっては〈癒しの石〉よりはるかに価値があろう。あの地の水は塩分が強い。それゆえ、湿地帯は長く誰からも顧みられなかった」

 夫君の言葉にレオンは深く頷いた。


「石を取り戻すため、一族の娘は将軍マウルの妻となったようです」

「マウル……覚えておる。貧農出身で、慈愛深く聡明な若者であった」

「はい。陛下の奨学金制度で軍事大学校に進んだ者の一人です」


 皇帝は遠い記憶を探るように目を細めた。

「うむ。わたしが抜擢した。戦わぬための戦略を練り、若い世代に戦争の無意味さを教えておった」

「調べたところ、まさしく陛下のお言葉通りでした。人格高潔、公平で、権力に対して厳しい人物だったようです」


「そう言えば……あの者の妻にも一度謁見した。美しいが、どこか諦念をまとった女性であった。彼女が湿地帯の娘か?」

「さようです。玄武の血を引く誇り高き一族でございます」

「なんと……玄武だと?」


「いま櫻館にいる青年は玄武――マウル・リエンスキー将軍と湿地帯の娘の孫だと思われます」

 皇帝も夫君も絶句した。


 レオンが慎重に言葉を継いだ。

「わからないのは、まさにその点なのです。リエンスキー将軍は歴史上、抹殺されました。カトマール帝国を滅ぼし、共和国大統領を(しい)し、独裁者になろうとした極悪人だと……陛下はどのようにお考えになりますか?」


 皇帝は夫君シュンへ視線を向けた。

「マウルのことは、そなたの方が詳しかろう。どうだ?」

 シュンは迷わず言い切った。

「あの者が独裁者になろうと望むはずはない」


「なぜでございますか?」

「彼の慈愛心と正義感は本物であったからだ。マウルは、いかなるときも戦争を避けようと最後まで努力した。稀代の軍師であり、戦となれば必ず勝利へ導いたはずだが、彼はそれを望まなかった。戦争は、一瞬で人々の日常を奪う。飢えも貧困も、彼自身が身をもって知っていた。ゆえに、彼が何よりも大切にしたのは、人々の生活を守ることだ。独裁や圧政など、彼の本性とは相容れぬ」

 レオンは頭を垂れた。

 シュン殿下自身が貧しき農民の生まれ――その言葉には重みがあった。


 シュンは続けた。

「マウルは、妻と息子を深く慈しんでいたと聞く。妻のために〈石〉を取り戻そうとしたのかもしれぬな」

 レオンがハッと顔を上げた。

「それならば合点がいきます。〈清めの石〉を持っていたのは、火の山の谷に住む一族の娘――おそらく、マウルの息子が彼女に渡したのでしょう。愛の契りとして」


 シュンは静かに頷いた。

「オサム・ハントは苦労知らずの好人物であったが、誘惑に弱かった。マウルはそんなオサムを放っておけず、なにかと面倒を見ていた。ありていに言えば、尻拭いをさせられていた。オサムにはどこか憎めぬ魅力があったのだろう」

「ならば、皇室処刑も本香華狩りも、ハント大統領やリエンスキー将軍の責任ではないと?」


 穏やかなシュンの目が厳しく光った。

「いや、責任は免れぬ。直接命令を下さずとも、虐殺を止められなかったのだからな。国の頂点に立つ者はその重さから逃れることはできぬ。権力とは、そういう厳しさを負うものだ。弄ぶためのものでも、喜び勇むためのものでもない」


 ファウンも深く頷いた。

 二人の一人娘――アリアは、皇帝としてすべてを背負い、粛然として処刑台に立った。その皇帝こそ、レオンとリリアの母だ。


「ハント大統領を操った者が背後にいるというお見立てですね。リエンスキー将軍はそれを暴き、大統領に諫言した――だが、()められた」

「むろん、可能性にすぎぬがな」


■二人の将軍

「いま、わたしと銀麗月は、背後にいると(おぼ)しき集団を調べております」

「それは?」

「おそらく、天志教団と秘密結社天明会」


「天志教団……」

「天明会……」

 皇帝と夫君は、それぞれ重い息を吐いた。


「お心当たりがございますか?」

 レオンの問いに、ファウンがゆっくりと語り始めた。

「わたしの治世の頃だ。カトマール西部を守る帝国軍に、天志教団が急速に広まっていると聞いた」


 シュンが続けた。

「天明会は、ウル大帝国時代に作られたエリート集団だ。永く歴史の闇に埋もれていたが、あるところにその復活を謳う結社が生まれたと聞く――ラクルだ」


 レオンは息を呑んだ。

「まさしく、天志教団の拠点は西部カラン。天明会の拠点は東部ラクル。詳しく教えていただけませんか?」


 銀月が西に傾くまで、三人は話し続けた。


 どれほど長い時間話し込もうとも、ファウンの姿勢は揺らがない。

「帝国軍はいくつかの派閥に分かれていた。西部将軍派と東部将軍派――ハント将軍は東部の首領。リエンスキー将軍はそのどちらでもなかった」

 シュンが心配そうに妻を見て、その手に自分の手を添えた。

「リエンスキーは賢明な人物であったからな。軍の分裂は兵士の命を危険に晒すと怒っておった」


 レオンは思案しながら、ゆっくりと言葉を発した。

「劣勢のハント将軍が、東部の中心都市ラクルを味方に引き込み、町衆の支援を得ようとした可能性は高いですね」


 ファウンが長いため息をついた。これまで胸の奥深くに抑え込んできた嘆きだろう。静かな怒りが広がってゆく。

「帝国末期、主導権を握っていたのは西部将軍下の軍隊だ。バルジャとのつながりも噂されていた。バルジャが新型爆弾を投下するという噂が広まり、国中がパニックに陥った。そんな折、ある青年が小さなトラブルを起こした。それをきっかけに、カトマール内のバルジャ人と少数部族が襲撃され、バルジャが報復した。古くから住む少数部族も煽られた。皇帝は和平を探ったが、暴徒には届かなかった。それを西部将軍が利用した」


 ファウンは目を上げずに続けた。

「リエンスキーはすぐに動いた。バルジャの介入だと見抜いたからだ。ハントは様子見をした。リエンスキーは紛争を抑えることに成功した。人望がある将軍に兵士たちも従ったからだ」


 シュンは震えを抑えようとするファウンの細い肩を抱きしめながら、語った。

「リエンスキーが西部の鎮圧に注力している間に、ハントが勝手に動いたのだよ。彼はルキアで皇室を拘束し、共和政の樹立を宣言した。皇室の人気は高かったからね。特権を剥奪したものの軟禁はゆるやかで、財産も保護した。香華族は安心した――自分たちにまで手は及ぶまい、とな」


 シュンの表情が次第に厳しくなる。

「だが、そうした幻想も束の間のこと――新政府は権力を強めていった。決定的だったのは非常大権の行使だ。バルジャ侵攻と国内スパイ活動を理由に、憲法が保障する基本的人権を一時停止した。知識人やジャーナリストはこぞって反対し、拘束された。議会も停止され、最後の立法は全権委任法――政府に立法権を与える法律だ。憲法は完全に停止され、独裁政権が成立した。まるでナチスだな」


 ファウンの目は険しかった。あの悲劇を思い出したのだろう。

「国民の不満を逸らす必要があったのだろう。標的となったのが皇室と本香華だ。粛清が始まった。〈思想の殺人〉と呼ばれた通り、大学関係者も多く処刑された」


 シュンが静かに続けた。

「反対者は次々に逮捕されたが、そのとき、ひそかに彼らを救い、逃がした者がいる」

「それがリエンスキー将軍だと?」


「そうだ。将軍の腹心の一人が親衛隊長だった。将軍は隊長に皇室一家を逃がすよう命じた。だが、アリアは夫君とともにこれを拒み、二人の子どもだけを逃がしてほしいと頼んだ」

 語るシュンの隣で、ファウンの目に涙が宿った。


「その後もリエンスキーは周到に準備を重ねた。軍事政権を倒すために――それは旧友ハントを裏切ることを意味したが、迷わなかった。だが、最後の最後で計画が露見した。しかも、ハントが殺されたあとだ……」


 レオンは息を呑んだ。

「その黒幕は……?」

「決定的な証拠はない。だが、第二代大統領になった元西部将軍の可能性が高い――だが、あの男が一人で計画できるはずはなかろう。強い後ろ盾がいたはずだ。一分の隙もなく計画を遂行し、しかも表に出てこない者だ」

「それが天明会ではないかと?」

「あくまで推測だ」


 レオンは問うた。

「お伺いしてもよろしいでしょうか? なぜ、そこまでお詳しいのでしょうか?」


■忠義のノート

 シュンは静かなまなざしで孫を見た。

「ヤオだ。ヤオは親衛隊長の息子――彼がそなたたちを逃がすために戦った相手は、ヤオの親友だった。ルンという。ルンはリエンスキーと同じ貧農の出身で、将軍に見込まれ、敵方にスパイとして潜り込んでいたのだ。彼は詳細な記録を残している。ヤオが見つけ、わたしに献上した。これだ」

 レオンは渡されたノートを手に取った。伏字と記号だらけの不思議な記録だった。


「ヤオだけが読み解くことができる。ヤオとルンが編み出した暗号だ」

 古びたノートを手でなぞると、ほわりと温かな〈気〉が一瞬立ち上り、闇に消えた。

「忠義の者ルンの決死の記録だ。大切にせよ」

 レオンは深くうなだれた――こうして生きているのは、母アリアやルン、ヤオが血を流したおかげだ。


「ヤオはルンの情報を手掛かりに、いまもあちこちを調べては情報を寄せてくれる。親友を弔うためだろう。大統領暗殺事件についても、さらに深い闇があるようだ。一度、カイとともに話を聞くとよい」

 頷くレオンに、シュンは続けた。

「ルンのノートには、さらに興味深い話があった」


 レオンは、目を上げ、シュンの言葉に息を呑んだ。

「天志教団の秘曲だ」


「秘曲の秘密を知る老女がいるという」

「どこに……どこにいるのですか?」

「北の湿地帯だ。だが、探し出すのは至難だそうだ。住むところを定めず、一人で暮らしているらしい」


 シュンの声はあくまで静かだった。

「だが、北の一族が玄武の末裔ならば、その老女も虹色の石とつながるかもしれぬ」

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