ⅩLⅣー6 緋月のささやき――北の隠れ家に眠る石
■呼ぶ声
ディーンは目を覚まさない。
リトはそっと彼の頭を膝に乗せた。
その顔は青さを通り越して白く、荒い息はしだいに弱まっていく。左腕に巻きついていたヘビがするりと降り、ディーンのそばを行き来した。雪の上に残る這い跡が、細い文様のように連なっていく。
――ハッ。
その軌跡は、どこかで見た形だ。
――ルキアの月神殿のレリーフ文様!
リトは周囲を見渡した。深い針葉樹林、ひび割れた大地、点在する廃屋。
記憶の中のレリーフと照らし合わせると――符合する。
――ならば、この文様のどこかに虹色の石の手掛かりがあるはずだ。
こんなとき、オロかアイリがいれば……写真より正確な記憶で、図を再現できるのに。
だが、いない。自分で考えるしかない。
リトは思考を集中させた。
あの月神殿――月の光で見え方が変わる不思議なレリーフ。
そこからは、壁の向こうの声が聞こえた。
――月の光? 壁を隔てた声?
空を仰ぐ。
丸く大きな緋月は動かない。
目を凝らすと、緋月の内部に何かが浮かび、光がわずかに強まった。
――まさか、月のレリーフ?
浮かんだ模様は、ゆっくりと形を変えていく。
――まて、まてい!
リトは必死に目で追った。
彼の目は万里を見通す。
ほんの数十秒だったのかもしれない。
やがて緋月は光を収め、ただの平坦な丸い物体に戻った。
リトはディーンを背負った。
ヘビが慌てて左腕に巻きつく。
「クロ、行くぞ!」
■大地の果てへ
もう迷わなかった。
緋月に浮かんだレリーフの通りに歩けばいい。
あれは――ディーンが呼んだのだ。
緋月のレリーフこそが、「呼ぶ声」。
北の大地は果てしない。
湿地帯は固い土へ、そして凍土帯へと変わっていく。
吹きすさぶ嵐に向かい、リトは命じた。
――風を収めよ。
風は止み、凍てついた大地の向こうに白い建物が姿を現した。白漆喰の壁に格子窓、銀錆色の瓦が波を打つ。小さいが、威厳を宿す古い建物だった。
ためらいなく進む。
リトの黒い瞳は、強い赤みを帯びていく。
門は青銅だろうか。緑青が広がり、深いブロンズ色に変わっている。
門を開くと、ギイイときしんだ音がした。
御影石の道が建物へと続き、脇にはささやかな樹木―—まるで隠れ家のような、茶室めいた趣だ。
ザラザラした漆喰壁にくりぬかれた分厚い戸板を横に開け、足を踏み入れるる。背後で門がスルリと閉じた。
門越しに見えた大地は、何事もなかったかのように荒れ果てたまま。
激しい嵐が轟音を立て、視界を遮る。吹きすさぶ風は、ふたたび建物を覆い隠し、地表に残るすべての足跡を消し去っただろう。
■北の隠れ家
小さな部屋の中央には囲炉裏――リトは火をつけ、ディーンをそのそばに横たえた。
パチパチと炎がはぜ、頬が次第に温まっていく。クロは身を乗り出し、囲炉裏の熱を浴びながら、古い木枠に前足をかけた。
どれほど時間が経っただろう。
うとうとしていると、かすかな声がした。
「リト……?」
ディーンが目を覚ましたようだ。
「あ、ムリしないで。ゆっくり休んで」
リトは駆け寄り、背を支えた。
「ここは?」
「北の大地の果ての家だよ」
「……家?」
「だれもいないけどね。ほら、白湯を飲んで。温まるよ」
鍋から掬った湯を椀に注ぎ、リトはディーンに渡した。
白湯を口に含んだディーンの頬に、わずかに赤みが戻る。
家は小さいが品が良い。贅沢なものはないが、簡素な生活の息吹が残っている。棚には何冊かの巻物が置かれていた。
その一巻を手に取ったリトは息を呑んだ。
「これ……」
巻物を受け取ったディーンの目が大きく見開かれた。
「……玄武の手記と書かれている!」
リトは頷いた。
ディーンはヘビに尋ねた。
「ここを知っているか?」
ヘビは大きく首を振った。
「いえ、存じませぬ。玄武さまのお屋敷は大きく、華やかな街の中央にございました。このように鄙びた家など……」
「この巻物はどうだ? 書体は玄武のものか?」
ヘビは震えながら巻物に首を伸ばし、目にした瞬間、硬直して床に転がった。
しばらくしてもとに戻ったヘビは、かすれた声で言った。
「まちがいござりませぬ。これは初代玄武さまのご筆跡……じかに書き留められたのでござりましょう」
ディーンとリトは顔を見合わせた。
「ここは、きっと玄武が暮らした家だろう」
「うん。だけど、ヘビが知らないってことは、天月から戻ってきてから住んだのかも」
「玄武の隠れ家だったんじゃないかな?」
「だから、嵐と雪に守られてきたんだ」
■緋月のささやき
書架と座机以外の家具はない。床にはチリ一つ落ちていない。
まるで時間が止められているようだった。
「ボクたちはどうしてここへ?」とディーン。
「月神殿のレリーフだよ。緋月の中に浮かんだんだ。きっとキミが呼び出したんだと思った」
「レリーフ?」
「ウン。キミは見たことがないかもしれないね。オレたちはルナ神殿を調べててさ。特にレリーフを重点的に見てたんだ」
「ルナ神殿……?」
「そう。神殿レリーフは月の光で見え方が変わる。だから緋月も同じじゃないかと思って見上げたら、緋月にレリーフが浮かんだ」
「緋月に?」
「そのレリーフの通りに歩いてきたら、ここに辿り着いた」
ディーンはまだ怪訝そうだ。
「ルナ神殿レリーフは〈緋月の村〉の謎を解く手がかりらしい。アイリやオロが分析してる。オレには手が出ない方法で……」
「……そう……アイリが……」
「もし緋月がキミに反応したのなら、虹色の石がキミを呼んだんじゃないかな」
「虹色の石が?」
「この家が玄武の隠れ家なら、きっとここにある」
ディーンは巻物を手に取り、秀麗な書体に目を移した。
――この巻物を手に取る者に伝えよう。玄武の秘密を。
■虹色の石
巻物の冒頭には、古代ルナ文字でこう記されていた。
リトにはさっぱりわからなかったが、古代言語に通じるディーンにとっては難しくないらしい。
(まるで風子みたいだ)
そう思いながら、リトはディーンの背中を見つめた。
ディーンが、朗々と読み上げる。
玄武の色は黒
漆黒の麗しき黒
あやゆる色を飲み込み、すべての色に勝れり
誇り高き黒の世界
誰も足を踏み入れること能わず
侵した者を黒衣で葬る
ただひとつ
深き黒を突き抜くものあり
小さき石から放たれる虹色の光
「どういうことなの?」
リトの問いに、ディーンは答えられない。読めても、意味はわからないらしい。ヘビも首を横に振るばかりで、巻物に近寄ろうとしない。
「黒の世界はわかる。オレたちが通ってきた〈冷たき森〉はほとんど黒の世界だった」
「そうだな」
「でも、この家は白漆喰の壁に囲まれた空間――黒いものは見当たらない」
そう言いながら、リトは周りを見回した。
一間だけの小さな空間には、黒い家具もなければ、黒い影もない。
「黒と言えば、クロだけだな」
冗談めかして、リトは囲炉裏のそばに寝そべるクロの背を撫でた。柔らかな毛並みが指の間をくすぐる。
ディーンが、じっとクロを見つめた。
――ニャゴッ。
クロが起き上がり、伸びをした。
「おい、クロ! どこへ行く?」
追いかけようとするリトを、ディーンは指で制した。
(静かに……)
クロは部屋の中を歩き始めた。クンクンと匂いを嗅いでいるようだ。
やがて足を止め、床を掘ろうとした。
ディーンが近づく。リトはクロを抱きかかえ、様子を見守った。
黒光りする床板は分厚く、重ね貼りされているようだった。ディーンは慎重に目を凝らし、ある一点に指を当てた。
パシン!
床の一部が跳ねるように開いた。
そこから、えも言われぬ美しい光が立ち上った。
虹色の光だった。




