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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第四十四章 からみあう因果
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ⅩLⅣー6 緋月のささやき――北の隠れ家に眠る石

■呼ぶ声

 ディーンは目を覚まさない。


 リトはそっと彼の頭を膝に乗せた。

 その顔は青さを通り越して白く、荒い息はしだいに弱まっていく。左腕に巻きついていたヘビがするりと降り、ディーンのそばを行き来した。雪の上に残る這い跡が、細い文様のように連なっていく。


――ハッ。


 その軌跡は、どこかで見た形だ。


――ルキアの月神殿のレリーフ文様!


 リトは周囲を見渡した。深い針葉樹林、ひび割れた大地、点在する廃屋。

 記憶の中のレリーフと照らし合わせると――符合する。


――ならば、この文様のどこかに虹色の石の手掛かりがあるはずだ。


 こんなとき、オロかアイリがいれば……写真より正確な記憶で、図を再現できるのに。

 だが、いない。自分で考えるしかない。


 リトは思考を集中させた。

 あの月神殿――月の光で見え方が変わる不思議なレリーフ。

 そこからは、壁の向こうの声が聞こえた。


――月の光? 壁を隔てた声?


 空を仰ぐ。

 丸く大きな緋月は動かない。

 目を凝らすと、緋月の内部に何かが浮かび、光がわずかに強まった。


――まさか、月のレリーフ?

 浮かんだ模様は、ゆっくりと形を変えていく。


――まて、まてい!


 リトは必死に目で追った。

 彼の目は万里を見通す。


 ほんの数十秒だったのかもしれない。

 やがて緋月は光を収め、ただの平坦な丸い物体に戻った。


 リトはディーンを背負った。

 ヘビが慌てて左腕に巻きつく。

 「クロ、行くぞ!」


■大地の果てへ

 もう迷わなかった。

 緋月に浮かんだレリーフの通りに歩けばいい。

 

 あれは――ディーンが呼んだのだ。

 緋月のレリーフこそが、「呼ぶ声」。


 北の大地は果てしない。

 湿地帯は固い土へ、そして凍土帯へと変わっていく。


 吹きすさぶ嵐に向かい、リトは命じた。


――風を収めよ。


 風は止み、凍てついた大地の向こうに白い建物が姿を現した。白漆喰の壁に格子窓、銀錆色の瓦が波を打つ。小さいが、威厳を宿す古い建物だった。


 ためらいなく進む。

 リトの黒い瞳は、強い赤みを帯びていく。


 門は青銅だろうか。緑青が広がり、深いブロンズ色に変わっている。

 門を開くと、ギイイときしんだ音がした。


 御影石の道が建物へと続き、脇にはささやかな樹木―—まるで隠れ家のような、茶室めいた趣だ。

 ザラザラした漆喰壁にくりぬかれた分厚い戸板を横に開け、足を踏み入れるる。背後で門がスルリと閉じた。


 門越しに見えた大地は、何事もなかったかのように荒れ果てたまま。

 激しい嵐が轟音を立て、視界を遮る。吹きすさぶ風は、ふたたび建物を覆い隠し、地表に残るすべての足跡を消し去っただろう。


■北の隠れ家

 小さな部屋の中央には囲炉裏――リトは火をつけ、ディーンをそのそばに横たえた。

 パチパチと炎がはぜ、頬が次第に温まっていく。クロは身を乗り出し、囲炉裏の熱を浴びながら、古い木枠に前足をかけた。


 どれほど時間が経っただろう。

 うとうとしていると、かすかな声がした。

「リト……?」

 ディーンが目を覚ましたようだ。

「あ、ムリしないで。ゆっくり休んで」

 リトは駆け寄り、背を支えた。


「ここは?」

「北の大地の果ての家だよ」

「……家?」

「だれもいないけどね。ほら、白湯を飲んで。温まるよ」


 鍋から掬った湯を椀に注ぎ、リトはディーンに渡した。

 白湯を口に含んだディーンの頬に、わずかに赤みが戻る。


 家は小さいが品が良い。贅沢なものはないが、簡素な生活の息吹が残っている。棚には何冊かの巻物が置かれていた。

 その一巻を手に取ったリトは息を呑んだ。


「これ……」

 巻物を受け取ったディーンの目が大きく見開かれた。

「……玄武の手記と書かれている!」

 リトは頷いた。


 ディーンはヘビに尋ねた。

「ここを知っているか?」


 ヘビは大きく首を振った。

「いえ、存じませぬ。玄武さまのお屋敷は大きく、華やかな街の中央にございました。このように鄙びた家など……」


「この巻物はどうだ? 書体は玄武のものか?」

 ヘビは震えながら巻物に首を伸ばし、目にした瞬間、硬直して床に転がった。

 しばらくしてもとに戻ったヘビは、かすれた声で言った。

「まちがいござりませぬ。これは初代玄武さまのご筆跡……じかに書き留められたのでござりましょう」 


 ディーンとリトは顔を見合わせた。

「ここは、きっと玄武が暮らした家だろう」

「うん。だけど、ヘビが知らないってことは、天月から戻ってきてから住んだのかも」

「玄武の隠れ家だったんじゃないかな?」

「だから、嵐と雪に守られてきたんだ」


■緋月のささやき

 書架と座机以外の家具はない。床にはチリ一つ落ちていない。

 まるで時間が止められているようだった。


「ボクたちはどうしてここへ?」とディーン。

「月神殿のレリーフだよ。緋月の中に浮かんだんだ。きっとキミが呼び出したんだと思った」

「レリーフ?」

「ウン。キミは見たことがないかもしれないね。オレたちはルナ神殿を調べててさ。特にレリーフを重点的に見てたんだ」


「ルナ神殿……?」

「そう。神殿レリーフは月の光で見え方が変わる。だから緋月も同じじゃないかと思って見上げたら、緋月にレリーフが浮かんだ」

「緋月に?」

「そのレリーフの通りに歩いてきたら、ここに辿り着いた」


 ディーンはまだ怪訝そうだ。

「ルナ神殿レリーフは〈緋月の村〉の謎を解く手がかりらしい。アイリやオロが分析してる。オレには手が出ない方法で……」

「……そう……アイリが……」


「もし緋月がキミに反応したのなら、虹色の石がキミを呼んだんじゃないかな」

「虹色の石が?」

「この家が玄武の隠れ家なら、きっとここにある」


 ディーンは巻物を手に取り、秀麗な書体に目を移した。


――この巻物を手に取る者に伝えよう。玄武の秘密を。


■虹色の石

 巻物の冒頭には、古代ルナ文字でこう記されていた。

 リトにはさっぱりわからなかったが、古代言語に通じるディーンにとっては難しくないらしい。


(まるで風子みたいだ)

 そう思いながら、リトはディーンの背中を見つめた。

 ディーンが、朗々と読み上げる。


 玄武の色は黒

 漆黒の麗しき黒

 あやゆる色を飲み込み、すべての色に勝れり

 誇り高き黒の世界

 誰も足を踏み入れること能わず

 侵した者を黒衣で葬る

 ただひとつ

 深き黒を突き抜くものあり

 小さき石から放たれる虹色の光


「どういうことなの?」

 リトの問いに、ディーンは答えられない。読めても、意味はわからないらしい。ヘビも首を横に振るばかりで、巻物に近寄ろうとしない。


「黒の世界はわかる。オレたちが通ってきた〈冷たき森〉はほとんど黒の世界だった」

「そうだな」

「でも、この家は白漆喰の壁に囲まれた空間――黒いものは見当たらない」

 そう言いながら、リトは周りを見回した。


 一間だけの小さな空間には、黒い家具もなければ、黒い影もない。

「黒と言えば、クロだけだな」

 冗談めかして、リトは囲炉裏のそばに寝そべるクロの背を撫でた。柔らかな毛並みが指の間をくすぐる。


 ディーンが、じっとクロを見つめた。


――ニャゴッ。


 クロが起き上がり、伸びをした。


「おい、クロ! どこへ行く?」

 追いかけようとするリトを、ディーンは指で制した。

(静かに……)


 クロは部屋の中を歩き始めた。クンクンと匂いを嗅いでいるようだ。

 やがて足を止め、床を掘ろうとした。


 ディーンが近づく。リトはクロを抱きかかえ、様子を見守った。

 

 黒光りする床板は分厚く、重ね貼りされているようだった。ディーンは慎重に目を凝らし、ある一点に指を当てた。


 パシン!


 床の一部が跳ねるように開いた。


 そこから、えも言われぬ美しい光が立ち上った。

 虹色の光だった。

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