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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第四十三章 璃空(リク)の物語
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ⅩLⅢー6 リクの物語――幼子が口ずさむ歌に森の生き物たちが舞い踊る

■三歳のリク

 山奥の村――いつも静かに夜が明ける。

 ほんのりとした光が山から姿を現し、やがてまばゆく高く上がっていく。夕暮れになると、カラスたちが行き交い、西の空が真っ赤に燃える。漆黒の闇では、月と星が銀色に輝く。


 物心ついたときから、リクは、家のそばの高台に腰かけて、こうした一日の変化を飽きもせず眺めた。さまざまな生き物が近寄ってきた。鳥も獣も、ヘビもカエルも、虫も――そのすべてをリクはいとおしんだ。


 思いつくまま、リクは歌を口ずさんだ。

 父がもつラジオから流れてくる音楽はとくにお気に入りだった。レオ――九鬼彪吾――の曲だった。

 レオの曲を口ずさむと、獣たちやヘビ、カエルなど、地を歩き、地を這う生き物がとても喜んだ。みながうっとりとリクの歌声に聞き惚れた。


 やがて、リクは自分でも歌を思いつくようになった。最初はレオの曲のアレンジだった。しばらくして、まったく新しい曲を作るようになった。鳥たちや虫たち――空を飛ぶ生き物たちが特に喜んだ。リクを囲んで、生き物すべてが舞い踊った。さながら、絵の世界のように。


 楽器はなかった。声だけを使った。リクの声は七色の光のように多彩で、音域も広く、自然の音を声で再現できた。


 リクの音楽は、リクの記憶に留められただけで、楽譜にも音源にも記録されなかった。リクの空想力はとどまるところを知らず、父や父の叔父が持つ書物を片っ端から読破した。リクが思いつくまま紡ぐ物語は、豊かな(いろどり)に満ちていた。


 リクは、そのときのことをもはや覚えていない。

――三歳の頃、谷のせせらぎで一匹の魚を見つけた。雨で増した急流によって、岩に打ち上げられたのだろう。ピクリとしたあと、動かなくなった。


 リクは小さな手で魚を救い上げ、懸命に歌った。思いつくままに歌った。しばらくすると、魚は息を吹き返し、水に離してやると、リクにお礼を言うように一回転した。そして、リクを振り返りながら、水の中に消えていった。


 これが、リクが自分で作った最初の歌だった。


 魚の姿を見送ったとたん、リクはふらつきを感じ、気を失った。

 リクを探しに来た父恭介は大声をあげて、リクを抱きかかえ、自らの診療所に運び込んだ。看病するも、熱が下がらない。ありとあらゆる可能性を考えてみたが、該当するケースがない。


 三日三晩、リクは高熱に浮かされた。恭介はリクに寄り添い続けた。いとしい娘の小さな手を握りながら、リクの熱が下がったのを確認してホッとした恭介は、一瞬寝入ったようだ。


 恭介は不思議な夢を見た。

――窓からさまざまな生き物が入ってきて、リクのそばに座り、心配そうにリクを見守っている。

 聞いたこともないほど美しいメロディをさえずる鳥がいた。その歌声に合わせるように、生き物たちが体を揺らし、合唱している。

 リクの額から、何か(もや)のようなものが立ち上がり、それとともに、リクの頬に血色が戻った。それを見届け、生き物たちは安心したように去っていった。


 恭介が目覚めると、リクはすでに半身を起こしていて、駄々っ子のようにこう言った。

「お父ちゃん、おなかすいちゃった」

 恭介が用意した温かい粥を一口すすり、リクは恭介の胸に頭をもたげて、また深い眠りに落ちた。


■五歳のリク

 四国の山奥で、小さな診療所を開く父恭介と暮らすリクは母を知らない。リクが一歳のときに亡くなったという。


 診療所兼自宅には、母の写真はない。でも、父は、母のことを何度も聞かせてくれた。どれほどやさしい人だったか、どれほどきれいな人だったか。母のことを語るときの父の顔は、ほんのりと赤らんでいて、どんなに母のことが好きだったかがよくわかる。


 年に何度か、恭介の叔父にあたる虚空がやってきた。虚空おじさんは物知りで、なんでも教えてくれた。来るたびにお土産に本もいっぱい持ってきてくれた。


 その時も、虚空おじさんが泊まっていた。おじさんは料理上手で、おいしいものをいっぱい作ってくれる。

「おじさん、このまえ、雲龍の里に行ってたって?」と恭介が、鍋をほおばりながら、虚空に尋ねた。

「おう。五年ぶりに、訪ねてみた。有名な神話学者の朱鷺教授と会うために寄ったんだが、教授の息子がやんちゃ盛りでな。いたずらばっかりしておったぞ」

「あはは。そう」

「そのうち、四国にも調査に来るんだとさ」

「調査?」

「ああ。山向こうに山林大地主の都築(つづき)家がある。その当主に話を聞くためらしい」

「へえ」


「都築家は、九孤家と張り合うほどの旧い家柄でな。もとは渡来一族。中央の宮廷から排除されたという点も同じだ」

「そうなんだ」

「だが、都築家には跡継ぎがいま五歳の女の子だけでな。当主の曾孫だ」

「へえ。リクと同い年か」

「まあ、あの家も大変でな。当主の娘は九孤族宗主と親しかったそうだが、ずいぶん昔に家を出たきり、行方がわからないらしい。たったひとりの孫娘は考古学者だったが、これも行方不明――」

「そうか……母親がいないというのは、リクと一緒なんだね……」

「そうだな。一度、連れて行ってやろう。リクも喜ぶだろう」

「ぜひ!」


 リクは、虚空おじさんと一緒に森に行き、キノコや山菜を探していた。遠くに行っちゃだめだよときつく言われていたのに、ついフラフラとリクは森の奥に入っていった。


 森は大好きだ。いろんな生き物と出会えるから。サクサクと踏みしめる落ち葉の音も、木々を渡る風の音も、木漏れ日に光る枝や葉も。すべてがリクには好ましい。


 夢中でキノコを探しながら、リクは木々に話しかけていた。

「ねえ、昨日の大雨はすごかったよね。どこか痛いところはない?」


 ふと気づくと、大きな木の根元に、小さな鳥が横たわっていた。フクロウの子だ。巣から落ちたようだ。見上げたが、巣は見当たらない。親フクロウもいない。自力でなんとかここまで歩いてきて、力尽きたのだろう。抱き上げると、ほんのり温かいが、息絶え絶えだ。


 リクは、フクロウの子を抱きしめた。そして、歌った。風や光が、リクの身体を通り抜け、曲となってあふれ出る。やがて、フクロウの子の羽がピクピクと動き始めた。

 リクは歌い続けた。親フクロウが気づいたようだ。子フクロウを地面に戻してやると、親フクロウが子フクロウのそばに舞い降りた。獣たちがフクロウ親子のために道を開けてやり、やがて、親フクロウの後を追って、子フクロウも飛び上がった。二羽のフクロウは旋回し、リクに感謝をささげてから、森の奥に消えた。


 すべてを見届けたリクは――倒れた。


 子狐が大慌てで、虚空の許に走っていった。虚空が駆け付けた。小さなリクは、大きな木の根元に横たわり、獣たちが心配そうに見守っている。

 助け起こすと、身体が燃えるように熱い。息も荒い。


 虚空はリクを抱えて、診療所に駆け戻った。恭介が大慌てで点滴を施し、抗生物質を投与する。

 リクの熱が下がらない。


「いったいどうして?」と、恭介が疲れ切った表情で虚空に尋ねた。

「どうやらフクロウの子を助けて、代わりに自分がこうなったようだ」

「以前の魚の時と同じだと?」

「うむ。だが、その時以上に事態は深刻だ」


 恭介は憔悴している。

「おじさん、どうしたらいい? 医学では対応しきれない。薬も効かない。リクの身体が持たない……」

 虚空も考え込んでいる。

「リクは不思議な力をもっておるようだ」

「不思議な力?」

「甦りの異能だ。この力を使った者は、相手の傷や病を代わりに引き取るという」

「そ、そんな危険な力を、なぜ?」


「十分に訓練を受けたすぐれた異能者であれば、自分にダメージを与えずに甦りの異能を使えると聞いたことがある。だが、リクはなんの訓練も受けておらん。わしらにも異能を鍛える力はない」

「では、どうすれば?」

「異能を封じる方法があるにはある。だが、どんな副作用が出るかわからんぞ」

「やむをえない。まずはリクの命を救う方が先決だ。このままでは明日まで持たない」


 虚空は、異能を封じる術を使った。世界中を放浪している虚空は、各地に伝わる呪術や医術に詳しい。

 異能を封じる方法は、北の湿地帯に住むある老女から教わった。甦りの異能にそれが利くかどうかもわからない。だが、いまはそれしか方法がない。


 老女から分けてもらった粉末薬草を燃やした。

 わずかな薬草なのに、部屋中に高雅な香りが満ちる。折よく、満月だった。窓から月光を通し、薬草の香りで部屋を満たし、虚空は詠うように、一晩中、呪文を唱え続けた。


 月が沈み、朝日が昇るころ、リクは目覚めた。涙を流して、恭介と虚空が喜び合った。

「リク! 気分はどうだ?」


 恭介が尋ねると、リクが不思議そうに言った。

「だれ?」


 リクは、それまでの記憶をすべて失い、表情を失った。愛らしい笑顔もきれいな声もすべて失った。

 恭介と虚空は、愕然と膝をついた。


 しばらくして、恭介がひとりごとのようにつぶやいた。

「でも、命は助かった……それだけでも十分だ」


■〈蓮華〉へ

 リクが危篤になって以来、虚空は恭介の家にとどまるようになった。患者をかかえる恭介には、リクの面倒を看る時間が十分取れなかったからだ。


 リクに何らかの刺激を与えた方がよかろうとの判断で、虚空はリクをあちこちに連れて行くようになった。リクは相変わらず無表情だったが、旅を喜んでいるのはわかった。


 二年後、虚空は恭介と相談した。

「どうする? 村の学校にはリクはなじめまい」

「ボクもそう思う……」

 虚空は恭介に手紙を見せた。アカデメイアの岬の上病院――医師募集のチラシだった。


「岬の上病院?」

「わしの旧知の女性が理事長でね。良心的病院なんだが、経営は火の車でな。医師がどんどんやめていくらしい。わしに手伝ってほしいというんだ」

 虚空は内科医の資格を持つ。

「だが、わしはあまり縛られたくない。わかるだろう?」

 恭介は頷いた。虚空は文化人類学者でもあり、作家でもある。根っからの自由人なのだ。

「どうだろう? おまえはここに行く気はないか? リクのためにもなると思う」

 そう言いながら、虚空は、パソコンで〈蓮華〉のページを示した。


「蓮華学院?」

「そうだ。個性を伸ばす教育というのが方針で、さまざまな能力や困りごとを抱えている子どもたちを受け容れている。〈蓮華〉なら、リクもやっていけるんじゃないかな?」

 

 〈蓮華〉は、あまり活気がない学校だった。リクにとっては、さして楽しくもないが、害にもならない。

 リクはまったく目立たぬ子どもとして、学校生活の中で隠れるように過ごした。無表情・無感動のリクには友だちはできなかった。ほしがろうともしなかった。ただ、淡々とリクは日々を過ごした。


 時々、虚空はリクを旅に連れ出した。リクは、何かしたいと望むことはないが、旅で出会う景色や生き物には心引かれるらしい。リクの表情がわずかにほころぶ。

 リクは虚空の話をいつもじっと聞いた。虚空は、いろいろなことをリクに話してやった。神話、物語、小説、歴史、宇宙……。反応はほとんどない。だが、同じ話だと、少し退屈そうにする。虚空は、リクの表情の微妙な違いを読み取ることができるようになった。

(この子は、知的好奇心が強いようだ)


 虚空は、時事も教え、医術も語った。すべてをリクは無表情に聞き入れた。理解しているかどうかを確かめる(すべ)はなかったが、リクのわずかな目の輝きを虚空は信じることにした。


 蓮華学院高等部に進学し、教員ファン・マイが指導する古代文化同好会に入った頃から、リクに少し変化があった。ルナ遺跡巡りが楽しいらしい。


 そんなリクが、ある夜、涙を浮かべていた。涙を見せるのは、五歳の事件以来初めてだった。喜びも示さないが、悲しみも示さなかったからだ。

 その夜、空港連絡橋の事故があり、担任のファン・マイが亡くなった。リクの家は橋からずいぶん離れている。どうやって知ったのだろう……恭介は怪訝に思ったが、尋ねたところでリクはまともに答えることはできない。


 数日後、リクの表情が明るくなった。岬の上病院で何か良いことがあったらしい。

 学校から持ち帰った〈蓮華〉だよりによると、新しい担任教師も決まったそうだ。


 二か月後、一人の転校生がクラスにやってきたという。

「フウコ――〈風の子〉なんだって」


 あの森での事件以来、十年を経てようやく、リクがほんの少し微笑んだ。(⇒第一話第二章1、同第七章)

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