ⅩLⅡー8 エピローグ――銀麗月の憂い顔と敏腕弁護士の真心
■銀麗月館の下女
「また召し上がっておられない……」
給仕長がため息をついた。銀麗月の部屋から下げられた夕食だ。
「どうなさったんだろう?」
料理長も心配そうだ。
銀麗月館では、銀麗月は主人として敬意を集めているだけではない。みんな銀麗月のことが大好きなのだ。銀麗月を、年長者は子どものように大切に思っているし、年頃の男女は恋にも似たあこがれを抱いている。そんな銀麗月が食事をとらず、時々どこかに出かけては、憂い顔を深めている。
このところ、銀麗月は、ほとんど食事をとらない。白湯は飲む。朝に軽いビスケットを一切れ、二切れ口にすることもあるが、それ以外の料理には手を付けない。食事に手をつけないことを使用人たちが心配してはいけないと、いつも達筆でメモをつける。
――せっかくの料理を残してすまない。手をつけていないから、みなで分け合って食べてほしい。
下げられた料理は、下働きたちにふるまわれた。めったに食べられないごちそうだ。クレアは下女アンとして高級フルーツの分け前に預かった。
下女アンことクレアは、廊下の掃除に精を出していた。手際よく、丁寧な掃除ぶりに、侍従長も満足げだ。アンは、さりげなく――じつにさりげなく、しかし、抜け目なく――櫻館一行の動向に目を光らせていた。
銀麗月カイの最側近は三足烏カムイだ。カムイも気が気でないらしい。
カムイが、三階から下りてきた。手には盆――表情が暗い。
「どうしたんじゃ?」とばあちゃんが声をかけた。
「へい。カイさまが何も召し上がらないんでさあ。せめてお茶菓子でもと持ってあがったんですが、ほれ、このとおり、まったく手をつけようとなさいません」
「そりゃ、難儀じゃの」
「なんかお知恵をもらえませんかの?」
「うーむ。知恵というてもなあ――カイどのの憂いの元は、おまえさんもわかっているじゃろうが」
「へい……あの二人でさ」
「うむ、リトとディーンじゃな。二人が戻ってこんから、心配でたまらんのじゃろう」
「はあ、それはそうなんすが……」
「じゃが、二人が仲良く元気で戻ってきたら、憂いはもっと大きくなろうの」
「へ? おわかりで?」
「あたりまえじゃ。じゃが、心配するな。リトはカイ一途じゃからな。まあ、それはそれで、おまえさんには妬ましかろうがの」
アン(クレア)が見るところ、おかしいのはカイだけではない。
オロは、カイのところに駆け込んだ。
「おい、なんで、あの二人を一緒に行かせたんだよ!」
「風子さんを救い出すには、あの二人の力が必要だ」
「それはわかってるけど、どうしてオレも一緒に行かせなかった?」
「キミが一緒だと、いろいろと二人の邪魔をするのではないか?」
「邪魔しなけりゃ、リトをとられちまうぞ1」
「……」
「あのディ―ンってヤツは、ものすごく知恵が働く。単純なリトを丸め込むのは簡単だ」
「リトはそれほど愚かではない」
「いや! あいつは単純すぎるのがいいところなんだ。すぐに人を信じるし、いったん味方になった者を裏切ることもない。リトがいいヤツなのをディ―ンはとことん利用するぞ!」
「リトとディ―ンが信頼しあうのは、いいことではないか?」
「いや、危ないね! あんただって心配なくせに、なんでそんなに冷静ぶるんだ?」
アン(クレア)は内心驚いた。
(銀麗月に対して、なんとぞんざいな口調だ! いったいオロはなにさまだ?)
他の者も思いっきりヘンだ。
アイリは、モモを求めて、しょっちゅう「モモ~」と叫び、普段の精彩を欠いている。シュウは寝込んでしまって、キュロスが付きっきりで看病している。リクはいつも以上に夢見るようにボウッとしている。
サキは、自分の力不足を痛感したらしく、銀麗月護衛隊の若者を相手に武術鍛錬に余念がない。その若者が惚れ惚れするほどかっこいいものだから、イ・ジェシンが嫉妬して邪魔ばかりしている。いつもなら、ジェシンを怒鳴り散らすはずだが、いまのサキはその余力もないようだ――ヘンだ。
ばあちゃんズは、のんびりと散歩し、その後はお茶三昧――焦ってもしゃあないと達観している。さすがは年の功。
というわけで、まともに仕事をしているのは、グリだけだった。この奇妙な集団にとって、風子の存在がいかに大きいかが浮き彫りになった――アン(クレア)は、思わず苦笑いした。
■ジェシン法律事務所
「また来た……」
スラとムトウは顔を見合わせた。イ・ジェシンとグリが天月から戻って来ない。その間、業務をストップさせてはならないと、毎日のように、タダキ弁護士が顔をだす。
「タダキ先生、お忙しいでしょうから、ご無理なさらなくても……ドロップ建設の件は、まだあまり進んでいませんし……」と、ムトウは毎回この言葉を繰り返し、
「いや、気をつかわなくて結構。わたしもこの件では共同受任者になったからね。責任があるんだ」と、タダキも毎回同じ言葉を繰り返す。
タダキは、スラから目が届きやすいところに座り、何かとスラに話しかける。
さすがにタダキ。イ・ジェシンとは違って、無駄口はたたかない。スラとの会話も業務内容ばかりだ。スラも応じざるを得ない。
超多忙であるのは事実なようで、法律事務所にとどまるのはせいぜい二時間程度。なのに、仕事がどんどんはかどる。
「はあああ。やっぱりすごいなあ。実力の差を見せつけられるよ」
ムトウは、タダキが帰るたび、同じ言葉を繰り返す。これにはスラも頷かざるを得ない。
タダキは、押しつけがましい嫌味な陰険男だと思っていたが、どうやらそうではないようだ。職場ではわきまえているらしく、スラに好意を押し付けてきたりはしない。それは、セクシュアルハラスメントだと認識しているらしい。
ある日、いつものようにタダキがスラと話していると、二人の女性が訪問してきた。ひとりはタダキの敏腕秘書として業界では有名な女性だ。
「やっぱり!」
「ここだったんですねっ!」
二人の女性は大いに怒っている。タダキが困ったように頭をかいた。
「いやあ……」
「先生、わかってるんですかっ? 今夜のパーティは絶対参加していただきますよ! アカデメイア市長主催の祝賀会なんですからねっ!」
「え……でも、行っても退屈だし、服もないよ」
「いいえっ! 服はここにお持ちしています。いまからなら間に合いますっ! さあ、早く!」
「え? でも……」
「ムトウさん、所長室をお借りしますよ!」
しばらくすると、華やかなパーティウエアに着替えさせられたタダキが姿を現した。まるで、舞台上の俳優のようだ。
「さあっ! 早く、下のお車へっ!」
あっけにとられるムトウとスラに、その女性秘書はこう言い放った。
「うちの先生をこき使わないでくださいよっ! こちらの先生とは違って、超御多忙な方なんですからねっ! 先生が仕事を止めると、わたしたちが困るんですっ!」
「は……はあ」と、ムトウは恐縮しきりだ。
年配の秘書はスラをジロリと見た。
「あなたがスラさんね。うちの先生を狙っても無駄ですよ。先生には立派な婚約者がおられるんですからねっ!」
ムトウが反論しようとするのをスラは抑えた。
「はい。承知いたしました」
怒涛のような展開が終わり、やれやれと二人で片づけを始めた頃、今度は、一人の男がやってきた。
でかい図体の上、顔に傷があり、いかにも怖そうな筋肉ムキムキのマッチョマンだった。声もドスが利いている。
「若はおられますかい?」
「若? 若って?」ムトウが尋ねると、男はつかつかとムトウに近寄り、ムトウの首を締めあげた。
「若と言えば、若。鷹丸組の跡取りであるタダキ弁護士しかいねえじゃねえか!」
男の腕をスラが軽くねじ上げた。
「いきなり失礼ですよ。あなた、まず名乗るべきでしょう」
男の顔に脂汗が滲む。
「ウググ……」
歯を食いしばって耐えているようだ。スラがさらに軽くひねり上げた。
「うわあああつ!」
男は耐え切れなくなったらしく、腰を曲げた。
喘ぎながら言う。
「オレは……タ……タケル。タ……鷹丸組のワ……若頭だ」
スラが腕を緩めた。
男は大きく息を継ぎながら、スラの前に跪いた。
「ま、まいりました!」
「わかったなら、それで結構です」
ムトウは部屋の隅で震えていた。男も怖かったが、スラの方がもっと怖い。スラの力はジェシンやタダキから聞いていたが、聞くと見るとでは大違い。聞いていたよりもはるかにすごい。
ムトウは腰が抜けてしまって、動けない。そんなムトウにスラが声をかけた。
「さあ、帰りましょう。こちらのオジサンもお帰りになるようですから」
オジサンと呼ばれた男は、ハッと我に返った。
「そ、そうだ。若はいないんですかい?」
「さっき、女性二人に着飾らされて、どっかのパーティに連れていかれましたよ」とスラが答えると、男は悔しそうに膝を打った。
「くそう! 先を越されたか!」
「いったい何なんですか?」と、やっと正気に戻ったムトウがオジサンにおそるおそる尋ねた。
「若に頼まれてたんですよ。ちょっと早めに迎えに来いって。パーティに拉致されたくないって」
「道理で。ものすごく嫌がってたけど、おばさん秘書にやりこめられてましたね」と、ムトウが頭の中で場面をスクロールした。
「へい。あの秘書は、若の育ての親みたいなもんでして、若も彼女には頭があがらないんでさ」
「へええ! タダキ弁護士にも弱いものがあったのか!」
ムトウは妙に感心しながら、お茶を淹れてクッキーをつけ、まだ腕をさすっているタケルにも勧めた。
「あ、すんません」
タケルは、強面を一転させて幼子のような顔になった。
「あのパーティって、市長主催だとかなんとか秘書さんが喚いてましたけど」
「そうなんです。それが嫌なんですよ」
「どうして?」
「アカデメイアの政財界の大物が集まるんですが、若はある財閥の娘から狙われてましてね」
「は? 狙われる?」
「へえ。婿にと……」
「でも、さっき、タダキ弁護士には立派な婚約者がいるって」
「その婚約者でさ。うちの組長が勝手に話をつけちまいましてね。姉御――ああ、先代のお嬢さまで、若の母上――は怒るし、若は逃げるしで、もう大騒ぎになりましてね」
ムトウがびっくりした。
「本人の気持ちを確認しなかったんですか?」
「そうなんです。組長は酔っぱらうと見境なくなりまして……でも、いったん組長が受けた話です。おじゃんにできない事情がありましてね」
「どんな?」
「相手の財閥は黒獅子組なんすよ」
「ひええええつ! く、黒獅子組?」
ムトウはスラと顔を見合わせた。そりゃ、難儀だ。
「無碍に断ると、鷹丸組にもTMカンパニーにも影響が出ちまいます。だから、若がどんなに嫌がっても受けざるを得ない政略結婚なんすよ」
「い、いまどき、政略結婚?」と、ムトウが思わずむせた。
「そうなんす。しかも、相手のお嬢さんは若にゾッコンでしてね。お嬢さんが父親をけしかけて、婚約にまでこぎつけたってことっす。黒獅子組の組長はかわいいお嬢さんの言うことは何でもきくらしくてね」
ムトウがあきれ返って、手にしたクッキーを落としそうになった。
「なんとまあ……レトロと言うか、アナクロと言うか……シチュエーションが古すぎて笑っちゃうんですけど」
「しゃあありません。組は、昔気質の集団ですからね。だから、若にとってここはオアシスなんっすよ」
ムトウが手を横に振り、スラも眉をひそめた。
「いや、勝手にオアシスにされても……」
「しかし、困ったなあ……」と、若頭は弱り切っている。
「どうして?」
「いまごろ、若は拉致されて、既成事実をつくらされているかも……そうなったら、逃れられません。だから、オレを見張り役兼護衛にしてたのに。オレはなんてバカなんだ!」
ムトウが吹き出しながら、大男をからかった。
「護衛って……あんた、強いの? 指一本でスラさんに負けちゃったよ」
「なにをおっしゃる。オレは、鷹丸組一の武闘家で、一番強いんですぜ。でも、こちらのスラさんの方がはるかに強かった……若が惚れるはずだ。どうか、姉御とよばせてくだせえ!」
若頭タケルは熱い目をスラに向けた。
スラは狼狽した。
「は? いや、そんな困ります」
「いやいや。スラさんは若のことをなんもご存知ねえ。若の生い立ちをお聞きになったら、きっと気持ちがかわりますぜ」
■憂い顔の銀麗月
カイは、憂いに満ちた目を森に向けた。めったに見せない憂い顔は、妙に艶めかしく、はかなげだ。
数日前、二人が消えた木はそのままそこに立つ。だが、二人は戻ってこない。
弦月と玄武――いかに危険があろうと、あの二人がやすやすと命を落とすはずはない。だが、時空の狭間に囚われた可能性は高い。
危機になればなるほど、リトは弦月としての力を増していく。弦月の闇落ちにつながる怖れがある。玄武は闇落ちを防ぐのか、それとも、促すのか――まだ読めない。
銀麗月の力は、玄武の力を削ぐ。たしかにそうだ。だが、真実はもっと複雑だ。カイの力がディーンの力と競い合い、上位者たるカイの力がディーンの力を削ごうとするのだ。
――では、何のために?
禁書室の書物にはこうあった。古い神話の断片だ。
太古の時代、玄武と弦月はきわめて親密な仲であったという。弦月に恋した月の神が二人の邪魔をしようとして異能を競い合った結果、玄武は水を失い、弦月は陰を失ったという。
――わたしは、玄武に嫉妬して、無意識のうちに、玄武の力を削いでいるのか?
風子を見つけるには、リトの力が必要だ。風子との関わりがもっとも深いからだ。そして、〈土の一族〉たる大蛇との対決である以上、玄武に委ねざるをえない。
理屈ではわかっているが、心がついていかない。
カイは、深いため息をもらしながら、窓辺に頭をもたげた。




