ⅩⅩⅩⅧー2 密偵たちの冬――アカデメイアの町で交錯するミッション
■シャンラ密偵クレア
クレアは、白い雪に白い息を吐いた。
生まれ育ったシャンラ王国では、市街地では雪は降らない。だが、カトマール北部のルキアでは、これが日常の光景だった。
思わず掌を上に向け、花びらのように舞う雪を受け止めようとしたとき、背後から声がかかった。
「まるでウサギといる時のようですね」
ディーンだった。カトマール国費留学生の中でも最も能力が高く、最も侮れない相手。
――苦手だ。
クレアは軽くお辞儀をし、足早にその場を離れた。ディーンはその後姿を見送り、肩をわずかにそびやかした。
シャンラ女王サユミの個人的密偵〈風〉――それが今の名だ。
親のない貧しい子は、もともと名を持たない。クレアという名を与えてくれたのは、都築凛子だった。(⇒第一話第十九章参照)
長い歴史をもつシャンラ王国は、今でこそ、祭政分離が憲法で定められているが、もとはヨミ教を国教とした。ヨミ教はルナの神々を否定する宗教である。
なのに、現女王サユミは、あろうことかルナ大祭典への積極的協力を公言し、その先駆けとして、シャンラ王室秘宝展まで開催した。ヨミ神官団の歴史と存在意義を否定するに等しく、大神官アーリーを激怒させた。
王族は政治に関与できないが、文化行事や外交儀礼では大きな役割を果たす。王位継承の混乱を避けるため、男王と女王の双頭制をとり、女王は必ずヨミ神官族から選ばれる。
大神官アーリーは、現女王サユミの大伯母だ。しかし今、ルナ大祭典をめぐって、両者の確執は激しさを増していた。秋には、王室の重鎮である王父ダム殿下までもが、秘蔵の月の神像を持ち出し、ルナ大祭典への協力を申し出た。大神官は怒り心頭で、なんとか大祭典を失敗させようと画策している。
〈風〉ことクレアは、アカデメイア留学院生として、カトマール国費留学生を中心とするルナ研究会に属し、慎重に情報を集めていた。
ミッションは二つ 。
一つは、例の稀な月蝕のとき、アカデメイアで立ち上った〈気〉を調べること。それは、ヨミ大神官が持つ神聖石盤の秘密に通じる。
もう一つは、サユミが敬慕した凛子の消息を辿ること。それは、凛子の娘――風子を見守ることも意味した。
風子は、アカデメイアに来るまでの記憶を失っているが、雲龍九孤族の宗主とその孫たちに庇護され、〈蓮華〉で楽しげに学校生活を送っている。引き取られている櫻館は、天月の銀麗月によって守られており、誰も手出しできない。凛子の行方は依然として不明だが、最初から半ば諦めていた。
一方、〈気〉を発する者には、徐々に目星がついてきた。
クレアが〈風〉と呼ばれる所以は、異能者の〈気〉を判別できることにある。清浄な〈気〉と淀んだ〈気〉の違いがわかるのだ。
銀麗月の〈気〉は圧倒的で、あまりにも清らかだった。
他方、〈蓮華〉教頭の〈気〉に気づいたとき、クレアは彼が密偵だと踏んだ。〈気〉は強かったが、妙に濁っている。だが、どこの密偵かまではつかめない。
さらに驚いたのは、銀麗月が自ら〈気〉を調整できることだった。ある時期から、彼は〈気〉を隠すようになったのだ。
――最高レベルの異能者は〈気〉を隠せるのか……。
この発見は、クレアの力にとっては致命的だった。最も重要な情報が得られなくなるからだ。
大学のルナ研究会の多くは異能の〈気〉を持たない。ただ、天月士ジュンギだけは、むらっけのある〈気〉を発していた。天月士が異能者であることは不思議ではない。しかし、彼の場合、単純な〈気〉と複雑で高度な〈気〉がモザイクのように入り乱れている。その理由はいまだ不明だ。
ディーンからは〈気〉はまったく感じ取れない。だが、この冬合宿で気づいた。
――彼には仕者がいる。
梟だ。
最初はアカデメイアの森の野鳥だと思った。ディーンは部室に入り込んだ野ウサギ二羽をかわいがっており、その梟もペットのように懐いているのだろうと。
だが、その梟が、はるか遠いカトマールの雪景色の中、梢に止まっていた。点のような姿でも、クレアにはわかる。あれは、間違いなくアカデメイアの梟だ。
鳥獣を使役する者には、普通はなんらかの〈気〉が立ち上る。なのに、ディーンからはそれが感じられない。
単なるペットなのか、それとも、銀麗月並みに〈気〉を隠せるのか。
もし後者なら、教頭どころではない。ディーンこそ、最も警戒すべき密偵となる。
■天明会密偵朔月
朔月は、ラクルの地下都市を出て、再びアカデメイアに戻った。今度の身分は、離宮公園の清掃員兼警備員。ターゲットは、アイリだ。
アイリと風子は、ほぼ毎朝、この公園にイヌの散歩に来る。
離宮公園でのアイリは無防備だ。風子は、さらに無防備で無邪気だ。だが、二人がモモと呼んでいる柴イヌは侮れない。警戒心が強く、朔月には近寄らない。初老の清掃員ペンには懐いているようだ。
朔月は、アイリの拉致に向け、慎重に計画を練り始めた。
――天明会との関係は絶対に知られてはならない。
しかし、地下都市の存在が露見した以上、アイリを拉致すればラクルの絹の里の仕業と疑われるのは必至だ。九鬼彪吾の拉致がまったく表沙汰になっていないことから、地下都市のことは当面秘匿されるだろう。子どもたちへの危険を恐れているのだ。
アイリやその周囲にいる者たちが、何らかの対策を講じ始めているのは間違いない。ならば、相手を巧妙に欺くしかない。ラクルから目を逸らさねばならない。
――さて、どう動くべきか?
■思わぬ密偵
スラもグリも元気がない。カランで役に立てなかったことを悔やんでいるのだろう。今回の延長調査にもグリは連れて行ってもらえなかった。
だが、意気消沈したグリに頼られることが、イ・ジェシンにはむしろ嬉しい。
事務所にはもう一人お邪魔虫が増えた。タダキだ。違法開発事件で共同弁護人を自ら買って出て以来、しょっちゅうジェシンの事務所に顔を出す。スラ目当てなのは明白で、ムトウは呆れ返っている。
しかし、タダキの協力はありがたかった。グリのカメ・ネットワークに劣らぬヒト・ネットワークを持ち、グリの事務能力に劣らぬ整理能力を持つからだ。
タダキは、チビ緋龍が着ぐるみではないと知って気絶したが、今では慣れた。おチビたちは、ときどきボッと火を吐くが、眠くて機嫌が悪いとき以外は、熱をもたない火らしい。短い足でヨチヨチと歩く姿はペンギンのようで、愛らしい。
どこでどう拾ってきたかについては、ジェシンは頑として口を割らない。まあ、知らなくても困らない。
そのタダキが、今日、とっておきの情報を持ってきた。
違法開発事件の被告ドロップ建設の背後にいる黒獅子組と天志教団との関係である。
黒獅子組の幹部に天志教団の幹部が入り、莫大な布施が教団に流れる見返りに、黒獅子組を通じてドロップ建設に土地買収や施設建築が依頼されるという。
ドロップ建設は非公開企業のため取引先情報の公開義務はないが、株主には開示される。その株主の一人から極秘提供を受けたのだ。もちろん公にはできない。
イ・ジェシンは大慌てでサキに連絡を取った。
「電波が届かないところにいます」
スマホがつながらない。焦ったジェシンは、〈蓮華〉に飛んでいった。
「ああ、サキ先生なら、合宿の延長とかでお休みですよ」
「合宿の延長?」
そんな話は聞いていない。
「あれえ、ジェシン弁護士じゃないすか!」
振り返ると、ケマルが陽気な顔で手を振っていた。何度もしょっぴかれ、そのたびに弁護したチョイ悪の浮浪者だ。
「元気ねえっすね」
「まあね。あ、そうだ。ケイはいる?」
「いいや、昨日、誰かに呼ばれたとかでどっかに出かけましたぜ」
「そうか……」
「戻ってきたら伝えまっせ」
「うん。頼むよ。すぐにボクの事務所に来てって伝えてくれるかな?」
「へえ、ガッテンで。それにしても、最近、オロを見かけねえんですけど、どっか行ったんですかい?」
「ああ、サークルの合宿調査みたいだよ。サキ先生もいなくてさ。ボク、置いてけぼりをくっちゃったよ」
「そりゃ、お気の毒に」
去って行くイ・ジェシンを見送ったケマルは、姿が見えなくなると踵を返し、早足で歩き始めた。
その目はさっきの陽気な目とは別物だった。獲物を見つけた虎の目だ。
物陰に身を潜め、ケマルはスマホを取り出した。最新型の高級品――浮浪者には似つかわしくない。
(〈蓮華〉の連中は、合宿調査に出ています。年末年始の合宿から戻ったばかりですが、すぐにまた出かけたようです。以前の合宿が、ルキア、カラン、ラクルでしたから、そのどこかでしょう。おまけに、イ・ジェシンが何かを嗅ぎ当てたようです。タダキがなぜかジェシンの協力者になりました。タダキの情報網は侮れません。注意が必要です。ジェシンのジャケットには、いつもの自動消滅型盗聴器を仕掛けておきました。三日しか持ちませんが、そこそこの情報は入るはずです。ケイの服にも新しいものを仕掛けるつもりでしたが、出かけるのが急で間に合いませんでした)
通話先記録は自動的に削除された。ケマルはスマホを腹巻きに戻し、冴えない浮浪者の姿に戻って空き缶を拾い始めた。




