ⅩⅩⅩⅦー2 囚われの里――古代秘録が伝える弦月の秘密
■静かな怒り
「先生、お目覚めですか?」
飲み物を持ってきたホン・スヒョンが声をかけた。ゆっくりとスヒョンに顔を向けた青年には、ほとんど生気がない。ベッドのわきには手つかずの食事が置かれている。
「どうぞ召し上がってください。このままでは、お身体が持ちませんよ」
彪吾は無表情のまま、首を横に振った。声も出さない。目も合わせない。静かに、しかし、徹底的に、彪吾はホン・スヒョンを拒絶した。
あの祝賀祭の日、舞台上のアリエル・コムは、すばらしい演奏を披露した。アイリ制作の耳栓は役立たなかった。今回の演奏に仕込まれた秘密の音は、人間の耳に捉えられない音ではなく、普通の音に組み込まれていたからだ。
三曲目の最後のフレーズ――彪吾はフッと意識を失った。
フワフワと浮くような感じがして、どこからか良い香りが漂ってきた。あたりが急にパステル調の美しい花園に変わり、空気はひんやりと清く、青い蝶がヒラヒラと先導役を果たす。
――ああ、きれいだ……。
そう思いながら、彪吾は十歳に戻っていた。
あの子に初めて会った日、初めてあの子の曲を聴いた日、そして、はじめて手を繋いで語り合った夜――天月の少年レオンとの出会いは、彪吾に幸せと喜びを与えてくれた。
けれど、その翌日の午後、レオンは姿を消した。再び会うという約束を残したままで。
彪吾のもとに届けられたのは、レオンが創った秘曲――それを弾いてレオンを想い、外の世界に対して彪吾は自身を閉ざした。
それから十数年――青年レオンに出会った。十歳のレオンとはまるで違う。冷たく、寡黙な青年は、彪吾のまなざしを受け止めようとはしなかった。
距離が縮まらないまま、数年が過ぎた。生命の危機を経て、ようやく真実がわかった。青年レオンは少年レオンであった――レオンは記憶を失っていたのだ。だが、失踪時にピアノを弾く指を自ら傷つけたレオンは、自分が創った音楽の記憶を遠い過去に置き去りにしたままだ。
彪吾だけが覚えている少年レオンの秘曲――それは、レオンの魂そのもの。レオンの記憶を完全に取り戻すための大切な切り札を、決して他人に渡してはならない。
なのに、ホン・スヒョンはその鍵をこじ開けようとする。
――絶対に渡さない!
彪吾は必死で抵抗した。
かつて、レオンを失ったときに、すべてから目と耳を閉ざし、食事も断ったように、今度もまたホン・スヒョンを含むすべてのものから自分の心と身体を切り離した。
――ボクが待つのはレオンだけ。それ以外はなにもいらない。
ホン・スヒョンは苛立った。
秘薬を用いても、月香草を用いても、特別な曲を聴かせても、彪吾にはまるで通用しない。
――このままでは九鬼彪吾が死ぬ……。
意識がないときに点滴を打っているが、いつまで持つことか……。
――こんなはずではなかった。
彪吾は、決してホン・スヒョンを見ない。スヒョンがいくら愛しても、彪吾は、一度たりともスヒョンの言葉を受け容れたことがない。
このままでは、自分の手で、自分が最も愛する人を死に至らしめてしまう。
■アリエル・コム
「アリエル・コムは九鬼彪吾に相当手こずっているようだな」
町衆の邸宅が並ぶラクル旧市街の瀟洒な館。
弓月御前のため息交じりの言葉に、報告を持ってきた朔月が答えた。
「はい。このままでは九鬼彪吾が死んでしまうのではと恐れています」
弓月御前は皮肉そうに口元を軽く歪めた。
「そこまで九鬼彪吾が強い抵抗を示すとは信じがたいが、何か理由は考えられるか?」
「わかりません。九鬼彪吾自身には異能はまったくありません。もともと、非常に繊細で、人嫌い、引きこもりの人物であり、とてもタフな精神を持っているとは考えられないのですが……」
「なるほどな。で、アリエル・コムが九鬼彪吾に執着するのは何故だ?」
「音楽の才能がアリエル・コムを上回るからでしょう。彼は九鬼彪吾を崇拝し、それどころか、恋しているようです」と答える朔月の口調は、いつものようにきわめて事務的だ。
「恋か……まあ、それもよい。ひとつの絆ではあろうからな。九鬼彪吾が公表している楽曲はさほど多くはないと聞く。だが、アリエル・コムによれば、九鬼彪吾のピアノには、秘曲の片鱗がほとばしるようにあらわれることがあるそうだな」
「そのようです」
「どんなときだ?」
「ホン・スヒョンの演奏を気に入ったり、ルルの歌声に喜んだりしたときのようです。そんなとき、即興演奏で称賛を伝えたそうです。ホン・スヒョンはそれをすべて覚えているようですが、われわれには出し惜しみしています」
「出し惜しみ?」と弓月御前が顔を上げた。
「ホン・スヒョンは九鬼彪吾を独り占めしたいのでしょう」
朔月の抑揚のない声に、御前はフッと美しい顔を歪めた。
「愚かなことだ。まだアリエル・コムになりきっていないと見える」
■レオン
――夢か……。
やつれた彪吾が自分の名を呼んでいた。
彪吾が消えてからすでに一週間。ヘリコプターはわかったが、行き先がわからない。
一つの手掛かりは、絹の里の地下に広がる地下通路だ。あの盆地は柔らかい凝灰岩――何千年もかけて地下都市がつくられていたとしても不思議ではない。
だが、絹の里全体に結界が張られている。異能を使って忍び込めば、アラームを自ら押すようなもの――ただちに場所を特定され、拘束されるだろう。
ほんの少し、うつらうつらとしたようだ。レオンは額に手を当てた。指がごく微妙に曲がっている。かつて囚われた時、自ら骨を折った名残だ。
十歳の出会いと別れは、彪吾とレオンの人生を変えた。それ以来、彪吾はレオンの姿を追い続け、レオンもまたひたすら彪吾を想った。十八歳で櫻館に辿り着き、そのまま記憶を失って十余年。失われた記憶の中でも、なおレオンは彪吾を恋し続けた。
銀狼がレオンに身体を寄せて来た。
――温かい……。
天月で出会ったこの銀狼に何度助けられたことだろう。その温もりに思わず涙ぐみながら、レオンは銀狼を抱きしめた。
――食事もとらずに衰弱しているに違いない。
十歳のときも、十七歳のときも、三十二歳のときも、別れるたびに、彪吾は自らの身体を顧みず、ひたすらレオンを恋い慕った。
――彪吾の命に関わる。
ホン・スヒョンはそのことをどこまで理解しているだろうか。彪吾のこころは、レオン以外に開けることはできない。ホン・スヒョンが彪吾に執着すればするほど、彪吾の命の火が弱まっていく。
時間は限られている。
■ウル秘録
「叔父上」
カイが入ってきた。手にもつ盆の上では温かい粥が湯気を上げている。
「叔父上が倒れてしまいますよ。どうぞ、一口でも召し上がってください」
レオンが力なく頷いた。だが、手を付けようとはしない。
カイは、盆をそばのテーブルに置き、レオンに向き直った。脇に抱えた本を取り出す。
「貸していただいたこのウル秘録を隅々まで読んでみました。そこで、いくつかのことに気づきました。いまお話してもいいですか?」
「どうぞ……」
「ウル秘録には、ウル大帝国最盛期の大神官トワのことと、帝国没落のひきがねとなった大宰相テイのことについて記録があります」
「大神官トワは有名ですが、大宰相テイとは、歴史上抹殺された弦月テイのことですか?」
「そうです」
カイは、秘録を広げながら説明した。
「テイは、大帝国末期に起こった反乱の時、月読族と弦月団を率いた人物です。大神官を上回る大宰相の地位を自ら設け、宗教改革の名の下に、月の神だけを信奉する奇妙な一神教を生み出したようです。彼は、月読族を月の神に仕える選ばれた一族と呼び、弦月団を〈正義と聖戦の名のもとに戦う聖なる集団〉と位置付けました」
「月の神を奉る一神教を作ったとは、弦月テイこそ、天志教団の本来の教祖だということですか?」とレオンが尋ねた。
「そう考えられると思います。一方で、弦月テイは、弦月団を率いて侵略戦争を行い、国内では独裁者になったのです。あまりに血なまぐさいことをしたため、テイは歴史から抹殺されました。彼の記録を残しているのは、おそらく、この秘録だけでしょう」
「なるほど……」
「驚くべきことに、弦月団は、そもそもは異端どころか、帝国内の公的組織だったようです。ウル秘録によれば、弦月の起源は、大神官トワの時代に遡るとか。大神官トワは、異能を鍛えつつ、抑制するための教育組織として弦月団をつくりました。その弦月団の中でとりわけ秀でた者によって天明会を組織したそうです」
驚愕のあまり、レオンの目が大きく開かれた。
「ということは……弦月と天明会は当初から結びついていたけれども、どちらも闇の集団などではなく、帝国きってのエリート集団だったということですか?」とレオンが確認した。
カイはレオンの目を見つめながら、静かに頷いた。
「そうです。テイは名門中の名門たる家系に属し、本人も優れた異能者だったとか。天明会幹部の一人でもあったようです」
「弦月団……天明会……天志教団……」と、レオンがつぶやくように繰り返した。
レオンの頬にやや血色が戻った。
初代アリエル・コムは、帝国大宰相テイの時代に活躍したと伝わる。テイのことを知れば、アリエル・コムへの手がかりも得られよう。
歴史の中に埋もれていたバラバラの点をつなぐ糸が、おぼろながらしだいに浮かび上がってくる。




