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月下の神殿――銀麗月と聖香華  作者: 藍 游
第三十六章 弦月リトと銀麗月カイ
211/276

ⅩⅩⅩⅥー4 魅惑の音――消えた音楽家

■祝賀祭

「あけましておめでとうございます」

「おめでとうございます」

 集まる者が口々に新年を寿ぐ挨拶を交わす。


 カラン祝賀祭の舞台は、市庁舎前の広場に設けられた。ゲストは、市庁舎の広いバルコニーに設けられたひな壇に座って、舞台を見物する。


 舞台の正面に設けられた観客用ひな壇には、中央に市長や大学総長など、カラン市のお歴々が顔をそろえている。大学総長の隣には九鬼彪吾、その横にはレオン。スラもいるが、奥の警備関係者の中に紛れて特定できない。


 ひな壇の後ろには、市庁舎の大広間があり、入り口は開いている。警備関係者はそこにも配置されていた。大広間につながる大階段を降りれば、市庁舎の正面玄関に向かう。

 一方、大広間から反対方向には小部屋がいくつかあり、賓客用控室として提供されている。そこにも階段がある。むろん、控室の前にも警備員がいる。


 前座に続き、メインイベント――アリエル・コムのピアノ演奏が始まった。三曲披露される予定だ。

 一曲目は、カラン新年祝賀祭でかならず演奏される伝統曲――アリエル・コムの見事な演奏にひな壇の観客も、周囲を取り囲む群衆も盛んな拍手を送った。

 二曲目と三曲目は、アリエル・コムが選んだ曲だ。二曲目は、難易度が高い曲で、アリエル・コムの演奏技術が冴えわたった。


「いかがですか?」と、カラン大学総長が誇らしげに隣の彪吾に尋ねた。

「じつにすばらしい演奏です」

 彪吾は率直に言った。ピアノの前に座る美青年の演奏は、予想以上だった。さきのコンクールのときよりも、音色が一段と艶を帯びている。


 三曲目は、不思議な感覚を呼び起こす曲だった。魂の深層に響き、高揚させたかと思うと、一転して、いっそう深くザワザワとうねりながら身体の奥深くに染み渡るような音色だ。フィナーレは、驚くほど速いタッチの応酬で、居並ぶ者みなが固唾を飲んで舞台に意識を集中した。


 恍惚となった観客の熱気に包まれる中、演奏が終わった。一瞬の間をおいて、万雷の拍手が起こった。アンコールの催促だ。

 レオンがふと気づくと、彪吾の姿が見えない。真っ青になったレオンは会場を抜け、彪吾を探しに走った。警備員に尋ねても、だれも彪吾の姿を見ていないという。


 スラもまた青くなっていた。ずっと神経を研ぎ澄ませて彪吾を監視していたはずだ。一秒たりとも見逃していない。アイリの耳栓をしているから、アリエル・コムの演奏はすべて聞こえなかった。

――なのに、なにもできぬまま、彪吾が消えた!


 スラとレオンは一般席の方を見た。オロの姿がない。

 オロは彪吾の行方を追っているに違いない。


■秘薬

 晩秋に開催されたアカデメイアでのコンクールで優勝を飾ったホン・スヒョンは、天志教団アカデメイア支部の大司正に特別に招かれた。一度目の挨拶時とは違って、スヒョンの後見人を自認するミン国最高の作曲家エルムは招かれていない。


 大司正は、スヒョンに一人の司正を紹介した。いかにも謹厳そうな女性司正は、さらに奥の部屋へと、スヒョンを案内した。

 絶世の美貌を誇る女人がいた。

「弓月御前さまです」と、女性司正が紹介した。


 弓月財閥の長は、ミン国でも有名な女性だった。さまざまな文化行事のスポンサーとなり、今回のコンクールでもスポンサーに名を連ねている。

 弓月御前とアリエル・コムは挨拶を交わしながら、互いを窺うようにじっと相手を見た。

「さきほどの演奏はすばらしかった。別の曲も聞いてみたいものだ。ただし、アリエル・コムの曲が望ましいな」

「……さきほどの曲はアリエル・コムの曲ではないと?」

「違うのか? わたしには、ホン・スヒョンの曲に聞こえたが」

「おわかりでしたか……アリエル・コムの曲は危険な音楽ですので、不用意に弾くわけにはまいりません」

「承知しておる。だが、わたしなら大丈夫だ。アリエル・コムの音に我を失ったりはせぬゆえ」


 ホン・スヒョンは、促されるままにピアノの前に座り、アリエル・コムの曲として伝わる古い曲を弾いた。

 不思議な曲だった。流れるように美しい旋律だが、ところどころ、音が跳ね上がる。二つの異質なものが融合して、唯一無二の個性を作り出している。


「じつに見事だな」

「恐れ入ります」

「なにか褒美をとらせよう。ラクルの絹織物でもよいが、それよりもっと欲しいものがあるのではないか?」

「欲しいものでございますか?」

 一瞬、言いよどんだスヒョンに、御前がさらりと言った。

「例えば、人の意識をコントロールする秘薬などはどうだ?」


 スヒョンは目を見開きながら、付き添う女性司正を気にした。弓月御前は、予想していたとでもいうように、余裕を見せた。

「この者はわたしの部下だ。気にせずとも良い」

 スヒョンは頭を下げた。


「一度使ったであろう。失敗に終わったようだがな」

「あの秘薬は、御前さまが下されたものだったのですか?」

「そうだ。失敗したエルムは今回はずした」


 スヒョンは御前の目を見据えた。

 言を弄するまでもない――スヒョンはそう判断した。

「なぜ、失敗したのかがよくわからぬのです。なにがいけなかったのでしょうか?」

「この秘薬には本来は副作用などない。体内でアルコールに変わるだけだ。だが、九鬼彪吾には合わなかったようだな」

「では、今回も同じでは?」

「ほう……やはり九鬼彪吾が狙いか?」

「……」

「まあ、よい。九鬼彪吾は不世出の音楽家――アリエル・コムが強い関心を持つのはあたりまえだ」


 弓月御前は続けた。

「九鬼彪吾は、存外、強い意思を持つようだ。この秘薬を用いても行動を拒むとは驚いた。意識を失ってまでも、ピアノを弾くのを拒み続けたそうだな」

「はい」

「いっそう興味深い。彪吾は、自身の意識と身体に組み込まれた音楽を絶対に手放そうとしない。そこまでして守ろうとする音楽とは、いったいどのようなものか? ますます聞きたいものだ。そなたもそうではないか?」

「その通りです」


「九鬼彪吾はアルコールを口にせぬそうだな」

「そのようです」

「あの秘薬は、副作用がほとんどないとはいえ、アルコールを受け付けない者にはリスクが大きいようだ。むしろ投与量を減らし、月香草とアリエル・コムの音楽を加味して、彪吾の意識をコントロールしてはどうだ?」

「月香草?」

「カトマールに伝わる薬草だ」


 御前は隣に立つ女性司正に目配せした。司正は、盆にのせた包をスヒョンに渡した。

「そこに煎じた月香草がある。書いてある通りに処方せよ。秘薬の効果を高めるはずだ。アリエル・コムの曲の中には、教会儀式での演奏が禁じられている曲があろう。それを彪吾に聞かせるがよい。九鬼彪吾のように特別な耳を持つ者にのみ、効果を発揮するだろう」


 当日の手はずはこうだ。

 警部員やゲストたちを一分間だけ硬直させる呪術を第三曲目の最後に組み込む。彪吾一人が控室に向かうように。その後、参加者はみな平常に戻るが、彪吾のみは、控室から市庁舎を出て、弓月御前の部下によって、あらかじめ定めておいた場所に運び込まれる。祭典がすべて終わり、スヒョンは彪吾を連れて、だれも知らぬところに移動する。


 ホン・スヒョンが辞した後、弓月御前は傍らの女性司正に言った。

「あの者は優秀だな。なかなか使えるではないか」

「はい。九鬼彪吾に対する執着もかなりのようです」

「うむ。初回と同じ失敗は犯すな。こちらの動きを見破られてしまう」

「承知しております」


「留意すべきは何だ?」との御前の問いに、女性司正は躊躇せずに答えた。

「〈蓮華〉の生徒ルルことオロもまた、天才的な耳と声を持つようです。アリエル・コムの音楽の秘密を聞き分ける可能性があります」

「ふむ」

「そして、天才科学者アイリも軽んじることはできません。年末のカランには、彪吾とともに、ラウ財団の筆頭秘書レオンも出向くようです。彼らが無策のままでいるとは考えない方が良いでしょう」


「レオンか……あの者について、その後、何かわかったか?」

「申し訳ございません。レオンのことは、いくら調べてもわかりません。人嫌いで知られる九鬼彪吾をルナ大祭典のキーマンにできたのは、レオンの手柄。ラウ伯爵がレオンを九鬼彪吾の担当にするのは道理にかなっています。ただ、レオンもずっと九鬼彪吾に張り付いているわけではなく、あちこちを動いているようです」

「なるほど、それはそれで要注意ということか……」

「はい。ホン・スヒョンの動向も含めて、随時、ご報告に上がります」

「頼むぞ。朔月」


 かつて〈蓮華〉教頭を務めたいかにも無気力な初老の男は、いまは謹厳な女性聖職者に姿を変えている。

 弓月御前にのみ仕える密偵〈朔月〉はスッと姿を消した。(⇒第一話第十九章参照)

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