ⅩⅩー3 初恋の庭
■王父ダム
シャンラ王国首都の郊外にある離宮。王父ダムは、いつものようにお気に入りのテラスで午後のお茶を楽しんでいた。息子が国王になり、王父として奉られるようになっても、たいした仕事はない。むしろ介入を避けようとあえて距離を置いてきた。
この庭は、女王であった亡き母が愛した庭、幼い頃、初恋の少女と遊んだ庭だ。そのまま時間を止めたくて、五十年以上もほとんど変えていない。この庭には、妻も息子も立ち入ることができない。ダムだけの空間で、一人の時間を過ごすことができた。
前国王たる兄の体調はよくないと報告があった。発症してから二十年。甥のロアン王太子とほぼ同じ時期だった。甥は容態の悪化が激しく、若くして命を失った。兄は生きながらえたが、精神に不調をきたして今にいたる。息子をなくし、夫を事実上失ったあの美しい女性は、いまも王宮から離れた離宮で静かに暮らしている。
王父になった結果、王室の公式行事ではよく顔を合わせるようになった。前女王キハは、ロアン王太子亡きあと、ダムの息子である甥を養子にした。母として敬意を払われ、諸外国との外交では、いまなお活躍することが多い。特に、現女王のサユミは、前女王を尊敬しており、しばしば前女王に相談するらしい。前女王も現女王もヨミ大神官の親族だ。だが、二人とも大神官を警戒している。その点で共闘しているのかもしれない。
だが、ダムは二人の女性に距離を置いた。息子は国王としては凡庸だ。凡庸な息子に助言しても始まらない。女王サユミの力は傑出している。サユミがおり、その背後にキハがおれば、シャンラ王国は安泰だろう。
息子に比べ、王太子ロアンはさまざまに秀でていた。知性も判断力も品性も、そして美貌も。前女王キハの美点をすべて受け継いだかのような美青年だった。ダムは、この甥に会うのが楽しみだった。甥は、ダムを慕ってくれた。だが、ロアンがダムと談笑していると、兄国王は微妙な表情を見せた。
幼い時から、兄よりもダムの方がすべての点で優れていた。父も母もそれを知っていた。だが、長子が王位を継ぐという定めは、王位継承をめぐる血なまぐさい幾多の争いを経て確立された原則だ。ぜったいに破ってはならない。そして、国王と共同統治をする女王は、当代一の女性でなければならないことも決まっていた。
初恋は実ると信じていた。
だから、初恋の少女が女王候補に選ばれた時、ダムは自分の生まれを呪った。なぜ、自分が長子ではなかったのか。どんなに努力をしても、愛する人一人すら手に入れることができない。
華やかな婚礼の日、彼女は美しかった。そして、ダムには手が届かない女人になった。あきらめきれない未練に打ちひしがれていた時、ダムは、ある人物から一つの提案を受けた。
――愛する女人と会えるよう手配しよう。
半信半疑で出向くと、愛する女性がそこにいた。
やがて、女王の懐妊が発表された。ダムは、カトマールに戻った。それが約束だったからだ。時折、シャンラの便りが届いた。女王が男児を出産したこと。その子がロアンと名付けられたこと……。国王と女王の治世は揺らぎなく、安泰だった。シャンラの国力は上向き、国民が王室に寄せる敬慕は日増しに上がっていった。すべて、女王の手腕によるという。
――さすがだな……。
ダムは、遠くシャンラの愛する女性に想いを馳せた。
十年後、兄国王から帰国命令が下った。カトマールの政情は不穏だ。帰国して婚姻し、王家に貢献せよという。兄国王には、ロアン王太子以外の子はいない。ダムもまた男児をもうける義務があった。ロアンを助け、万が一の時には、ロアンの代わりになる王子だ。相手は、兄とヨミ大神官が決めたと言う。だれでもよかった。あの女性でないのなら、だれを妻にしても同じだ。どうせ愛することはできない。王家に生まれた以上、国王のスペアであることが、最も重要な務めなのだから。
王宮に帰国報告に出向いたとき、美麗な少年に出会った。当時九歳のロアン王太子だった。会う者すべてを魅了する快活で利発な少年だった。兄国王は王太子を自慢した。義姉女王は何も言わず、ただ、帰国を儀礼的にねぎらった。女王は、若い時以上に美しく、知性にあふれた優雅なたたずまいであった。ダムの胸は震えた。だが、それを押し隠し、儀礼的な挨拶を交わして、謁見室を出た。王太子が走ってきた。人懐っこい笑顔だった。
「叔父上。カトマールのお話を聞かせていただけませんか? かの国には、大きなルナ神殿遺跡があると伺いました」
「王太子殿下。もちろん、喜んで」
「では、こちらにお出でください。ボクは叔父上のお帰りを心待ちにしていたのです」
ロアンは目を輝かせて、ダムの話に聞き入った。
――この王太子は好奇心が強く、しかも、着眼点が鋭い。
ダムの胸は震えた。この子は、あのときの子。愛する女王と自分の子に違いない。だが、事実が露見すれば、女王は廃位され、王太子もまた廃位される。この子を守るためには、秘密を隠し通さねばならない。そして、この子のためになら自分は何でもしよう。ダムはそのときそう決意した。
なのに、ロアンは発症し、若い命を終えた。愛する女人と自分をつなぐ唯一の絆が絶たれた。ダムは泣いた。愛する女人の悲痛を想って泣いた。二人の絆を失ったことに泣いた。何よりも、愛する我が子を失ったことを泣いた。
王父の地位などどうでもよい。凡庸な息子を見るたびに、優れたもう一人の息子を思い出す。その息子の向こうにいる女人を想って胸が詰まる。そしていつも失われたものの大きさに胸がつかえる。
ロアンの死とともに、ダムの時間も止まってしまった。過去の中にしか喜びを見いだせない。この小さな庭では、過去の時間だけが繰り返される。失われた日々の明るい光が溢れるただ一つのささやかな空間だ。ダムは、自ら止めた世界から出ようとはしなかった。
■形見の指輪
そんな世捨て人のようなダムの許に一通の手紙が届いた。かつての親衛隊長キュロスからだった。ロアン王太子が亡くなって二十年。一度だけでよいから、墓前を訪れたいと願う手紙だった。
ほどなくキュロスがダムの離宮を訪れた。ダムの妻は王母として宮殿を与えられ、息子は王宮に住む。ダムは、一人でこの小さな離宮に暮らしていた。
ダムは、懐かしい訪問客を喜んで迎え入れた。王父でありながら、ほとんど表に出ないダムの顔はあまり知られていない。六十になろうかというダムは、いまなお若々しかった。離宮には幼い時からダムに仕えた数人の者しかいない。離宮への訪問客はすべて断られており、謁見のときは王宮の謁見室を使う。離宮での秘密はすべて徹底的に守られているようだ。私的にキュロスを迎えたのは、例外中の例外だったらしい。
「久しいな」
「はい。二十年になります。王父殿下もお変わりなくお過ごしのようでなによりでございます」
「二十年か……。早いものだ。王太子が先に逝き、わたしは遺されてしまった。この二十年、王太子のために何もしてやれなかった」
「王太子さまのことをそれほど偲んでおられることが、なによりの供養になると存じます」
「そなたはいかがしておったのか? ずっと音沙汰もなく、気に病んでおった。おそらく、王太子の最期の願いを果たすためにあちこちをめぐっておったのであろう?」
「御意」
「王太子の遺命を果たすことができたのか? ゆえに、ようやくここに来ることができたのだな?」
「仰せの通りにございます」
「聞いて良いか? 王太子の遺命は何であったのだ?」
「王太子さまがただ一人愛された女人を探して、あるものを渡せとの遺命でございました」
「その女人が見つかったのか?」
「つい先日のことでございます。ようやく探し出すことができました」
「王太子が愛した女人とは、アカデメイアの〈青薔薇の館〉の女主人であろう? 王太子が亡くなったころに失踪したと聞いたが、生きていたのか?」
「はい」
「それはよかった。して、何を渡したのか?」
「指輪でございます」
「指輪?」
「はい。シャンラ国王が女王に渡す伝統の指輪でございました」
「……婚姻の指輪か」
「さようです」
「王太子はさぞ無念であったろうな。愛する女人を女王に迎えることもできず、若い命を散らした」
「殿下、一つ教えていただきたいことがございます」
「何だ?」
「王太子殿下が発症なさったとき、王父殿下は懸命に医師や薬師を探しておいででした。その理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ダムは、キュロスをじっと見つめた。そして、いったん目をそらしてから、つぶやくように語り始めた。
「……疑問だったからだ。王家の遺伝病は、十五歳ころの第二次性徴期に発症しなければ、命に関わることはないはずだ。王太子も無事十五歳を乗り越えた。ゆえに、国王陛下は、ロアンを正式に王位継承者に叙階なさり、婚約者もお決めになった」
「はい」
「そう言えば、そなたが王太子の親衛隊長になったのもその頃だったな?」
「さようです」
「王太子は二十歳を迎えて発症した。確かに、発症のケースはある。兄の前国王陛下も四十歳を過ぎて発症なさった。だが、その場合には症状は急激には進まぬ。ゆえに疑問を持ったのだ。何か別の病気の恐れがあるのではないか、あるいは、体質的な問題があるのか、それとも……」
キュロスはダムの顔が歪むのを見た。
「……考えたくはないが、よもや……」
「毒……でございますか?」
ダムが驚いてキュロスを見た。キュロスの目は悲しげに曇っていたが、揺らぎはなかった。
「……そなたは何か知っておるのか?」
「キーマンは王太子の主治医です。主治医は自死したと聞きました。まことなのですか?」
「うむ。王太子の症状を見逃していたとなれば、責任は免れない。しかも、医局全体の責任が問われる。あの者は責任感が強かった。ゆえに自らの命で医局の者を守ったのであろう」
「そうでしたか……。さりながら、腑に落ちません。王太子の症状を見逃した以上、辞任は免れないと存じますが、命を賭けるほどのことだったのでしょうか?」
ダムはキュロスを見た。そして、首を振った。
「……どうやら、そなたはすでにいろいろ知っておるようだ。違うか?」
「王父殿下が主治医を秘かに逃がしたのでございますか?」
「そう思う根拠は?」
「主治医はあるところで身を隠して生きながらえていたようです。ただし、わたしが直接会ったわけではございません。名も地位もすべて捨てた暮らしであったようです」
「名も地位も捨ててか……。ゲンほどの力をもつ者にすべてを捨てさせたとはな。王家の権力というのは残酷だ」
ダムはキュロスを見て、かすかに頷きながら、続けた。
「いかにも、わたしが逃がした。だが、どこに逃げたかまではわたしは知らぬ。ゲンはどこに身を隠していたのか?」
「アカデメイアでございます」
「アカデメイアか……。他国からの流入者が多い。身を隠すには最適だな」
「橋の下で浮浪者として暮らしておりました。ただ、何人かの仲間に恵まれ、慕われていたようです」
「そうか……それはよかった。結局、わたしは何もしてやることができなかった」
「いえ、ゲンどのは、王父殿下に深く感謝しておられました」
ダムが目を上げた。
「感謝? なぜ、それがわかる?」
「記録を残しておられたのです」
「記録だと?」
「さようです。ロアン王太子さまの診療記録を詳細に遺しておいでです。ゲンどのは、毒殺を疑っておられました。しかも、天月の毒草を使ったのではないかと推測しておられます」
ダムは驚愕した。
「天月だと?」
「さようです」
「ゲンの記録を見ることはできるか?」
「はい、お持ちしております。ただ、この記録には、さらに驚くべきことも記載されておりました」
「驚くべきこと?」
「ロアン王太子さまのご出生の秘密でございます」
ダムの目が大きく見開かれた。そのまま、ダムは口を閉ざした。キュロスはじっと待った。
「わかった。それも含めて、わたしが責任を持とう」
キュロスはダムにゲンの記録を手渡した。ページを繰るダムの顔がしだいに険しくなる。美しい顔が悲しそうに歪んだ。
「ゲンも気づかないほど、巧妙に毒が盛られたのだな。しかも、それが天月の毒薬とは……」
「お心当たりはございますか?」
「いや……。シャンラは、天月とはさほど深い交流を持ってこなかった。知っての通り、シャンラが蓬莱群島に舎村の建設を認めた時、天月は強く反発して、山に籠もった。もう何千年も前のことだ。シャンラ王室が気にしてきたのは、もっぱらカトマール皇室だった。だが、カトマールもまた天月とはさほど交流しておらぬ」
「……」
「シャンラの医薬術は、伝統的にカトマールの系譜を引く。しかし、近年はウルの医薬術も取り入れるようになったと聞く。ウル医薬術を通じて、天月の毒草がもたらされたのか? だが、天月ほどの閉鎖的な仙門集団が、独自の毒薬をよそ者が使うことを認めるとは思えぬ」
「はい。わたしもそのように伺っております」
ダムが不思議そうにキュロスを見た。
「そなたは、天月の者とも知り合いなのか?」
「はい。ごく最近のことですが、天月やカトマールの方と行動をともにするようになりました」
「カトマールとも?」
「さようです。天月修士、そして、カトマールの本香華でございます」
「なんと! 天月修士と本香華だと? 本香華が生き残っていたのか?」
「はい。お二人を含む何人かの協力者のおかげで、ゲンどのの記録を見つけることができました」
「どこにあったのか?」
「アカデメイアにある王太子の離宮の別館でございます」
「王太子が愛した屋敷だな。わたしも訪れたことがある」
「そこにはロアン王太子さまも自筆のメッセージを遺しておられました」
「なんだと?」
「こちらです」
キュロスは小さな包みを開け、ダムに差し出した。
それを手に取ったダムの目から涙が溢れた。
「王太子は……あの子は、知っていたというのか? 自分が毒に犯されていることを……何ということだ」
ダムは肩を震わせた。
「ゲンは、王太子……ロアンの秘密に気づいておったのだな」
「さようです」
「そうだ。あの子は……ロアンはわたしの息子だ」
「……はい」
「このことがわかったら、シャンラ王室は大揺れする。いまの国王陛下も退位を迫られるだろう」
「はい」
「だが、そなたがここにきたのは、この事実を確認するためとは思えぬ」
「はい、ロアン王太子さまが禁じた秘密を明かす必要があると考え、ご相談にまかり越しました」
「ロアンの死の真相を明らかにすることこそが、シャンラの国と国民を守るということなのだな?」
「御意」
「わたしに何を望むのか?」
「殿下がご存知のことを教えていただきたいのです」
「よかろう。だが、一つだけ条件がある。わたし以外に、この秘密を明かしてはならぬ。ロアンの死の真相を特に前女王陛下には決して知らせるな。愛する息子を失ったことに二十年間耐えてこられたのだ。その死が毒殺であったと知れば、あの方はご自身を決して許すまい。それはあの方を大きな危険に晒す」
「承知いたしました」
キュロスは深く礼をした。ダムは愛する女人を守ろうとしているのだ。
「王父殿下。殿下のお話は、わたしではなく、ある方に直接お伝えいただきたいのですが、いかがでしょうか?」
「ある方?」
「はい。ロアン王太子さまゆかりの方でございます」
「王太子ゆかりの者とは、いかなる者か?」
「ロアンさまのご子息――。王父殿下のお孫さまにあたる方でございます」
驚きの余り、ダムが立ち上がった。
「ロアンの息子だと! わたしに孫がいるというのか?」
「さようです。ただ、これも極秘でございますれば、王父殿下の胸だけにお収めくださいませ」
「わかった。その者に会えるのだな?」
「はい。ともにシャンラに参っております」




