プロローグ
『その昔、世界は燃え盛る氷の山と凍てつく炎の海に包まれていた。』
《フィヨルスヴィズの手記》より抜粋
ーー僕は非戦闘員である。
「ハッ…ハッ…ハッ……!」
短く浅い呼吸と地を駆ける音が薄暗い森に響いていた。
額に滲む汗、苦しげに歪む眉間。躓きそうに度々前のめる身体は、小麦畑を思わせる薄茶色の頭髪を揺らす。
少年は走っていた。禍々しい黒を帯びた木々を抜き去り、無造作に伸びた草花を踏みしめながら、息も絶え絶えに走っていた。
――重ねて言おう。僕は非戦闘員である。
『キシュウウウ……………!』
「ッッ‼︎」
背後から突き刺さる鋭い殺気。それと共に“ある音”を聞いた少年は、咄嗟に左腕に備え付けられた無骨な盾を掲げて振り返った。
そして衝撃。追いかけてきていた敵からの攻撃である。
そいつは八本の脚に頭から突き出た二本の触覚、周囲に溶け込む黒い体毛を持っていた。注意すべきは高い跳躍力を活かした飛びつき。
五米ほどの間合いを一息に詰めるその速さは警戒すべきものだが、幸いにも予備動作として特徴的な鳴き声を上げるということもあり、その対処は容易い。
とはいえ、一度攻撃を防がれた程度で諦めるような相手ではない。張り付いた状態から、獲物を逃がさんと鋭い爪を盾の内側へと伸ばしてくる。
至近距離に迫ったその姿を捉えた少年は、
「ヤ――――――ッ!」
掛け声を上げ、逆手に持った両刃剣を自らの視界に入らないよう敵へと一思いに突き刺す。黒色の装甲へと一直線に向かった銀線は――しかし、火花と共に弾かれることとなった。
《甲獣種》の名は伊達ではない。鋼鉄製の刃でも、その身に傷一つ付けられずに弾き返されてしまう。
「くそッ……!」
身体に刺激が伝わったせいか、敵の動きに激しさが増す。蠢く手足は盾を乗り越え、今にもその獰猛な赤眼を覗かせようとしていた。
迫る凶爪。吹き出す冷や汗。鼓動は既に通常の倍ほどの速度にまで達している。
その時、焼き切れんばかりに回した頭にふと妙案が舞い降りた。彼は近くに手頃な太さの木を見つけると、それに向かって全力疾走する。そして、敵の貼りつく盾を木の幹に勢いよく叩きつけた。
背後からの予期せぬ衝撃に、絡みつかせていた脚の力が緩まる。少年は心の中で「よしっ」と呟きながら、盾を振りかぶり再び幹に殴りつけた。
幹に擦り付けるような二度目の攻撃は、彼の目論見通り敵を盾から引き剥がすこととなった。
背中から着地し一時的に敵の動きが止まる。彼はその好機を見逃さずトドメを刺さんと刃を振り上げ――そのまま硬直してしまった。
懸命に柄を持つ腕をを動かそうとするが、その腕は震えるばかりで動こうとしない。
――どうしてまたこんな時に⁉︎
地面を背にし八本の脚を動かすこと数秒。目の前の敵はいよいよ体勢を立て直し、反撃しようとしていた。
背中に冷たい物が這い寄るのを感じた少年は、覚悟を決めたように目を固く閉じ、左の手を柄の端に添え力を込める。
すると左手が柄に触れた瞬間、万力に固定されたように動かなかったはずの右手は、いとも容易く握った剣を敵の腹に突き刺した。銀の刃が胴体に突き立ったその直後、大きく身体を痙攣させたかと思うと、力なく地面にその八肢を投げ出した。
致命傷だったのだろう。その傷口からは亀裂が広がり、身体は崩壊せんとしている。
少年は骸に一瞥することなく剣を引き抜いて立ち上がると、腰にかけた鞘に刃を納めた。そして何を思ったのか、顔を青くした彼は唐突に骸とは逆方向の木に駆け寄り、その場にしゃがみ込んだ。
そのまま口に手を当てたかと思うと、
「おえええええええええええええええええええええええええええ!」
目の前の木の根元に、盛大に吐瀉物をぶちまけたのだった。
暫くの後、落ち着いた少年が立ち上がる頃。いつのまにか敵の骸は消え去っており、代わりに翠の輝きを帯びた親指大ほどの結晶だけがそこにはあった。
彼はその整った立方体をぼんやりと視界に収めながら、諦めたような表情で長いため息を吐いた。
「僕、非戦闘員のハズなんだけどなぁ……」
決して届くことのない、決して“届いてはいけない”呟きが薄暗い森の中に寂しく響いた。