第49話 鳥が消えた朝
神社を出てから、およそ二十分。
私が握るハンドルの先、車窓を流れる景色は、本来なら朝の柔らかな光に包まれているはずだった。しかし、標高を上げるにつれ、空の色は急速に輝きを失っていく。まるで見えない誰かが、上空で巨大な、そして不潔な雑巾を絞ったかのような、嫌に粘り気のある灰色の雲が頭上を覆い始めた。
「……池崎さん。あの、さっきから、鳥の声が全然しませんよね? ……ねえ、一羽も、カラス一匹鳴いてませんよね? おかしくないですか、これ」
助手席のサトウさんが、何度も窓の外をキョロキョロと見回しながら、縋るような声で私に同意を求めてきた。彼は膝の上で、昨夜私たちが必死の思いで手に入れた手水舎の水が入ったポリ容器を抱え込み、宮司から授かった護符を、指の節が白く浮き出るほど強く握りしめている。その指先はまるで痙攣するように激しく震え続けていた。
「……ええ、静かすぎますよね」
私はハンドルを握る手に力を込め、短く答えた。視線を少しでも逸らせば、自分までこの静寂に呑み込まれそうで、前方の路面だけを凝視する。しかし、サトウさんの恐怖は、狭い車内でさらに加速していく。
「山の天気は変わりやすいって言いますけど……これ、ただの曇りじゃないですよ。ほら、池崎さん! 後ろを見てください! あっちの山裾はまだあんなに青空が見えてるのに! なんで……なんで僕らが行く先だけ、こんなに暗いんですか。まるで、夜が追いかけてきてるみたいだ」
サトウさんが私の肩を掴まんばかりに身を乗り出してくる。バックミラーに目をやれば、確かに遠くの下界にはまだ平和な陽光が差しているが、それをいちいち確認している余裕など今の私にはない。
「サトウさん! 私が運転してるのよ、後ろなんか見れるわけないでしょう」
「あああ! そうでした……! すみません、池崎さん、しっかりと安全運転でお願いします……!」
サトウさんは勢いよく正面を向き直すと、ダッシュボードを掴む手に力を込め、血走った目で瞬きひとつせず前方を見据えた。
「いい、サトウさん。落ち着いて。あの神社で一晩守ってもらったんだから、私たちの気力は戻ってるはずよ。手順書にある通り、手水舎の水も確保した。あの店で買ったスプレーの塩だけじゃない、本物の備えがあるんだから。ね?」
「……わかってます、わかってますけど……。あ、池崎さん、今! 今、左の藪が揺れませんでした!? 何か黒いのが、低い姿勢で這い出そうとしてたような――」
「サトウさん、絶対によそ見しないで! 悪い想像を口に出すと引っ張られるわ。とにかく前、道路だけ見てて! 余計なことは言わない!」
私は自分に言い聞かせるように、震える声を張り上げた。
やがて、整備された県道を登り詰めた先に、ポツンと立つ不自然な白い影が見えてきた。
「……あれだわ。慰霊碑。あそこが、旧道への入り口の目印よ」
私の言葉に、サトウさんはひきつけを起こしたようにビクッと肩を跳ねさせた。
四十年前の土砂崩れの犠牲者を悼むために建てられたその石碑は、どんよりとした空の下で不自然に白く浮き上がり、どこか現実味がない。行政が管理しているという周囲の芝生も、この暗い空の下では人工的で鮮やかな緑色に見えて、吐き気がするほど不気味だった。
だが、その慰霊碑を通り過ぎ、急なカーブを曲がった直後だった。
舗装された綺麗なアスファルトから、左に逸れる旧道への分岐点が見えた瞬間、私の心臓が嫌な跳ね方をした。
そこだけが、「現在」という時間を、強烈に拒絶していた。
生い茂る木々が、まるで侵入者を捕らえる檻の格子のように旧道を覆い隠している。その奥には、朝の光も、灰色の空の光さえも届かない、濃密な闇が汚れたスープのように溜まっていた。周囲の道路や法面は全て現代の工事で改善されたはずなのに、その分岐から先だけが、四十年前のあの瞬間のまま、時間が腐敗して止まっている。
「ひっ……、あ、あそこ……。池崎さん、あそこだけ、空気の色が……変だ。真っ黒だ……! 泥が……泥が空中に浮いてるみたいに見える……! 視界が、ぐにゃぐにゃしてる……!」
サトウさんはシートに深く背中を押し付け、ガタガタと歯を鳴らした。
「……しっかりしなさい! 護符を離しちゃダメよ!」
私はアクセルを踏む右足の震えを抑え込むように自分を叱咤すると、ハンドルを左へ切った。タイヤが滑らかな舗装を離れ、湿った落ち葉と泥に塗れた旧道に乗り上げた瞬間、車内の気温が、まるで見えない氷の壁を突き破ったかのようにストンと落ちた。
窓を閉め切っているはずなのに、首筋に鋭い冷気が走り、吐き出した息が冬の早朝のように真っ白に染まる。
「寒い……寒いですよ池崎さん……なんなんですかこれ……」
隣で歯の根も合わないほど震えるサトウさんに、私はもう答える余裕を失っていた。
ポケットの中にある、宮司さんが手渡してくれたあの護符が、まるで生気を得たかのようにズシリと鉛のような重みを増し、布越しに私の太ももへ、心臓にまで響くような不気味な拍動を伝え始めていた。




