第11話 記録なし
賢人は、指先が汚れるのを嫌うかのように不在票の端をつまみ、郵便受けの脇にあるチラシ用のゴミ箱に叩き込んだ。
……なんでだよ。メルノリは匿名配送のはずだろ
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされる。本来、フリマアプリのシステム上、出品者に住所や本名が伝わることはない。それなのに、なぜあの筆跡で自分たちの苗字が正確に記されているのか。
「……賢人、早く行こう」
大樹の声に弾かれたように、二人は動き出した。
一人が背後をうかがうようにエントランスの影を警戒し、もう一人が震える手でオートロックを解除する。自動ドアが開いた瞬間に滑り込み、閉まるのを待たずにエレベーターホールへ急いだ。
箱の中に駆け込むと、賢人は自分たちの階だけでなく、デタラメに複数の階のボタンを連打した。
「……一応、カモフラージュだ」
「ああ、そうだな……」
エレベーターが上昇し、自分たちの階ではないフロアで扉が開く。
外廊下には、早朝の眩しい光が差し込んでいた。フェンスの向こうにはいつもの街並みが広がっている。だが、そのあまりの「普通さ」が、かえって薄気味悪い。
ようやく目的の階に辿り着くと、二人は外廊下を競歩に近い速さで進み、自分たちの部屋の前へ。賢人は、階段の方まで誰もいないことを確かめてから、一気に鍵を開けた。
入室してすぐさま施錠し、ドアガードまで叩きつける。
「……ふぅ、……。とりあえず、入ったな」
大樹が壁を背にしてズルズルと座り込む。嗅ぎ慣れた自分の部屋の匂いに包まれたことで、張り詰めていた糸がわずかに緩んだ。
「大樹、電気。全部つけろ。クローゼットも、風呂場も全部だ」
二人は手分けして家中の照明を点灯させ、不審な侵入者がいないか、何かが置かれていないかを確認して回った。
「……誰もいない。窓も、鍵かかってる」
「……ああ。侵入された形跡はないな」
ひとまずの安全を確認し、二人はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
賢人は、ポケットからスマホを取り出した。
昨夜、この部屋で80%以上の充電を残したまま、何者かに強制的に電源を落とされて以来、ずっとOFFのままだった。カラオケ屋のコンセントで充電はしたが、起動させる勇気がなくて、画面は真っ黒なまま持ち歩いていたのだ。
賢人が意を決してサイドボタンを長押しする。
数秒後、何事もなかったかのように見慣れたロゴが浮かび上がり、いつものホーム画面が表示された。
「……普通だな」
「何が?」
「スマホ。ちゃんと電源入ったし、変な通知もねぇよ」
賢人は画面をスワイプして確認するが、特に異変は見当たらない。
どうやら、あの不気味なシャットダウン以降、デジタルのバグは収まっているようだった。
「……なあ、これさ、メルノリに苦情入れようぜ」
大樹が、ようやく一息ついた様子で言った。
「匿名配送なのに名前や住所がバレてるなんて、システムの欠陥だろ。運営に調査させよう。……あんな不在票、普通じゃねぇよ」
「……そうだな。メルノリのサポートに連絡して、住所が漏れてるなら、警察にも相談したほうがいいかもしれない」
あのアカウントが消えてしまった[u_bin_83]との取引。その履歴を辿り、運営に「個人情報漏洩の調査」を依頼しようとした。
しかし、マイページの購入履歴一覧を表示させた賢人の指が、ピタリと止まった。
「……え?」
「どうしたよ、賢人」
大樹が横から覗き込む。
賢人は何度も画面をスクロールし、更新ボタンをタップした。だが、そこにあるはずの「取引」が見当たらない。
「……ない。消えてる」
「は? 出品者のアカウントが消えても、取引履歴は残るだろ?」
「そうだよ。普通は『キャンセル』か『完了』として残る。でも、そもそも最初から[u_bin_83]なんて奴と取引してなかったことになってる」
購入履歴には、先月買った中古のゲーム機や、大樹と半分出し合った自炊用の鍋の履歴しかない。あの不気味な「資料」の項目だけが、まるで最初から存在しなかったかのように、リストから完全に抹消されていた。
二人は顔を見合わせ、言葉を失った。
自分たちが昨夜まで必死に読み込み、スマホで拡大し、怯えていたあの「取引」は、一体どこへ消えたのか。
賢人は震える手で、メルノリのサポートセンターへ問い合わせメールを打った。
『昨夜まで取引していた[u_bin_83]というユーザーとの履歴が消えている。住所や名前が漏れている可能性があるため、至急調査してほしい』。
返信は、驚くほどすぐに届いた。
【メルノリ・サポートチームより】
kento_m99 様
お問い合わせいただいた件につきまして、弊社システム内を精査いたしましたが、ご指摘のユーザー(u_bin_83)および、関連する取引の記録は一切ございませんでした。
また、kento_m99 様のアカウントから過去1週間に「発送通知」や「メッセージ」が送信・受信された形跡も確認できておりません。何かの誤解、あるいは他サービスとの混同ではないでしょうか。
「……記録がない? 混同……?」
賢人はスマホを握りしめたまま、呆然と呟いた。
運営側が嘘をついているのではない。おそらく、彼らのシステム上には本当に「何も残っていない」のだ。
「……じゃあ、俺たちが昨日見てたあれは、何だったんだよ」
大樹が、自分の腕を抱くようにして震え出した。
スマホに残っていたはずの証拠がすべて消え、客観的な事実がこの世から失われた。




