四話
水の中を漂っているようだった。頭がひどく重いのに、体はふわふわしているような。そんな微睡みの中で見たのは、どこまでも私にとって都合の良い夢だった。リチャードが床に臥せる私の手を握り、愛しんでくれているかのように彼の頬にくっつけてくれるのだ。そしてあの低い声で私の名を囁くの。心配そうに、何度も。
夢の中では、私は風邪でプロムに行けなかった可哀想なジョルジェットになっている。不幸な出来事は皆、なかったことになっていて、母は今も元気に暮らしているし、父も破産してはいない。だから、プロムに行けなかった本当の原因、あのひどい別れも、全部、存在しないのだ。
「リチャード、プロムに行けなくてごめんなさい。せっかくもらったドレスも、もう、着ていく場所が、ないわね……」
私が謝罪すると、リチャードは小さく私の名を呟いた。プロムのことはずっと気にかかっていたのだ、こうして夢の中ででも謝ることができて良かった。
「……構わないさ。この先、どんなパーティーに出られなくたっていい。君が、無事に快復してくれさえしたら、それだけでいいんだ」
「愛してるわ、リチャード……」
祈るように言葉を紡ぐリチャードの表情は苦しそうで、私は何とかして彼を元気付けてあげたかった。そっと囁いて、手を握り返した。夢はそこで途切れてしまったから、リチャードが最後に何と言ったかは分からなかった。それにしてもおかしな夢だった、十年も前のことを今さらになって謝りたいだなんて。しかも、リチャードだけが昔の夢の中でただ一人、現在の大人になった姿だったのだ。本当に、おかしな夢……。
意識がはっきりとして、目が覚めたと実感したとき、そこはハークスリーの屋敷で宛がわれていた部屋ではなかった。まるでうたた寝をするときのような、右半身を下にした側臥位でベッドに固定されていたので驚いた。私の側にいたのはウィリアムで、彼は私が話しかけるよりも先にかん高く叫んで電話を始めてしまい、気の強そうな看護師さんに追い出されてしまった。
ドクターの話によると、私は階段から落ちた時に左の肩甲骨をぶつけてひびが入ってしまったらしい。幸いにも軽度だったためにピンニングなどは必要なく、自然治癒するまで適切な見守りと、安定してからのリハビリが必要とのことだった。そのヒビのせいで横向きに寝かされていたのかと感心して説明を聞いていたのだけれど、麻酔が切れたら安静にしていても鈍い痛みが続くと言われて気分が落ち込んだ。入院とリハビリがどれくらいの間続くのかも分からないし、これからの自分の処遇も分からない。おばあ様は、そしてアマンダはどうなったのだろうか。とにかくウィリアムの帰りを待つしかない。
ところが、彼は戻ってこなかった。所在なく待つ間、悪いことばかりを考えてしまう。なにしろ肩が固定されていて一人では起き上がれもしないので、探しにいくこともできないのだ。やがて病室のドアが開いたと思うと、おばあ様の声がした。
「ジョルジェット! まぁまぁ、ようやく目が覚めたのね!」
「おばあ様。ええと、おはようございます?」
「さぁ、じっとなさいな。もうお昼よ、食事はまだ摂れないかしら。ああ、本当に肝が冷えましたよ、あなた。命に別状がなくて良かったけれど可哀想に……」
「ご心配をおかけしてしまってごめんなさい。完治までは長いみたいだけれど、軽いヒビだそうだから、私は大丈夫ですわ」
「身が軽くて良かったわね」
おばあ様は詳しいことは何も仰らずに、終始私の怪我の具合や疲れていないかなどを慮ってくださった。おばあ様自身も顔色は冴えず、ずいぶん心労をおかけしてしまったと思うと悔しさのようなものが滲んだ。
「リチャードから話があるようですよ。ジョルジェット、言いたいことはたくさんあると思うの。でも、まずはあの子の言うことを怒らずに聞いてあげてちょうだい。お願いしますよ」
おばあ様は不思議なことを仰って、病室から出ていかれた。ウィリアムが小さく私に手を振り、車椅子を押していった。ドアの外には、冬将軍と死神を両方連れているかのように沈鬱な表情のリチャードが立っている。一瞬、何と声をかけたものかと思った。「どうぞ入って」と、そう促すと、彼は重い足取りで個室のドアを閉め、カーテンを引いた。ベッドの脇の椅子に腰かけた時も彼はまだ無言だった。
リチャードは怒っている。眉間のしわが深いことからの推測でしかないけれど、きっと怒っている。彼は私に「調子はどうだ?」とか「頭を打たなくて良かった」なんて、怪我をして入院した知り合いを気遣う時に言いそうな言葉を口にはしなかった。ずっとだんまりで私を睨んでいたかと思うと、いきなりこう切り出した。
「君に、まず言っておきたいことがある」
まるで法廷で判決を言い渡すかのように重々しい声と厳しい表情に私は震えた。
「貴方の言いたいことは、分かるわ」
「なんだって?」
「貴方は、私が全て悪いと思っているんでしょう。私がアマンダを怒らせてしまったからこんなことになってしまったんだって。騒ぎを起こしたことは、謝ります、ごめんなさい……」
リチャードは深く溜め息を吐くと、両手で顔を覆った。指の隙間からものすごい罵り文句が漏れ出た気がするけれど、私は礼儀正しく聞かなかったことにした。
「はぁ……。ジョルジェット、君には確かに悪いところがたくさんある。軽率だし、鈍いし、言葉は足りないし。正直、説教しようと思えば何時間だってできる」
「そんなに……?」
「だが、僕もまた大間抜けだ。君に言わなくちゃならなかったのは……、ああ、愛しているんだ、ジョルジェット」
リチャードは私の右手を取った。温かくて大きな、先ほどの夢と全く変わらないリチャードの手が、私の手の甲を撫でる。心臓がうるさいくらいに激しく脈打ち、目許が熱く潤んできた。息をするのもやっとだ。
「ずっと、君を憎んでいると思っていた。思い出す度に胸が痛んだ……。だが、君に抱いていたのは怒りじゃなく、傷ついて、そこから立ち直れずにいただけだったと気づいたんだ。子どもだな、僕は。どうか今までの態度を許して欲しい、ジョルジェット」
「リチャード……私、でも……」
「指輪のこともそうだ。あれは、君のお母さんの形見だったんだな」
「ええ、そうなの。お守りにしなさいって、父が私にくれたのよ」
「左の薬指にはめていたから、僕はてっきり君が結婚したものと……。馬鹿な勘違いをしたものだ、居もしない男の影ばかりを目で追って、君を見失っていた。勝手に嫉妬して、ずいぶんとひどいことを言ったね。君を傷つけて泣かせた。僕の罪は重い」
「そんな、もう、謝らないで。私は貴方のしたことを怒ったりしていないわ」
「ありがとう、僕の心を軽くしてくれて。いつだって君は、僕のことを許してくれる……だが、これからは君に悲しい思いはさせないと誓うよ。僕の誠実を君に捧げる、ジョルジェット。そして、永遠の愛も、共に捧げたい」
「リチャー……んっ」
リチャードの指が私の唇に当てられ、反論は封じられた。私がさらに言い募るより先に、彼がふっと微笑んで言葉を繋いだ。
「君のことだから、婚約のことが気になっているんだろう。アマンダとの婚約は破棄した。元々、解消するために動いていたんだ」
「どうして……?」
リチャードはアマンダとのことを語り出した。会社の合併のためにアマンダから出された条件が結婚だったこと、そしてリチャードはそれを受けた。愛のない結婚……最初の取り決めでは互いに干渉しないことが条件だったのに、アマンダはリチャードのプライベートに深く踏み込んできた。それを咎めなかったせいで、リチャードが気がつかない間におばあ様に対して聞くに耐えないような言葉を浴びせたりしていたらしい。それも、おばあ様がいなくなればリチャードの愛を勝ち取れると信じての行動だったようだ。
私が階段から落ちたあの日、ハークスリーの屋敷が空になる予定を知ったアマンダは一人でやってきたのだという。リチャードが彼女に贈らなかった、おばあ様のエンゲージリングを探すために忍び込んだのだ。それを、予定より早く帰ってきた私たちに見つかってしまったというのがこの騒動の顛末だ。
私を階段から突き落とした後、逃げようとしたところをウィリアムに捕まり、今はしかるべき場所に拘留されているとか。アマンダがこれからどんな刑罰を受けることになるかは分からないけれど、私だけでなくおばあ様への殺意も大っぴらにわめいていたというから恐ろしい。リチャードはアマンダのことは任せてほしいと言った。
「すまなかった、君がアマンダへの疑惑を打ち明けてくれた時、僕はその可能性に初めて思い至った。前々から彼女の癇癪や執着心に、危なっかしさは感じていたのに、君を危険な目に合わせてしまった」
「私がいけなかったのよ。気が動転してしまって」
「警告しておくべきだった。書斎で君がキスを拒んだあの日、僕は理不尽にも怒りに我を忘れて、君に冷たく接した。君には関係ないだなんて、あんな風に突き放しさえしなければと、何度後悔したことか……」
「リチャード」
「君の部屋に残されていたプロムの衣装や、書きかけの手紙を見せられて、もしかしたらまだ、君の中には僕への気持ちが残っているのじゃないかと思った。君があの時、僕を手酷く振ったのは、僕のためなんじゃないかと考える余裕が生まれたんだ。だが、君はキスに応えてくれなかった。何故だ?」
「……あれを見たの?」
恥ずかしさのあまり動く右手で顔を隠そうとしたのに、リチャードは私の手をさらに深く捕らえて指先にキスを落としていった。
「僕には勇猛果敢でお節介な秘書がいてね。ぜひ見るべきだと引っ張っていかれたよ。今では感謝している」
「貴方からもらった記念日のカードは持ち出したけど、手紙やなんかは事務的に処理されると思ったのに……」
「そうだな。危うくそうなるところだった」
リチャードが浮かべた微笑に胸がさざ波のようにざわめいた。不意打ちにすぎる。こんな風に微笑まれたら、処分してほしいなんて言えない……!
「ジョルジェット、何故僕を拒んだんだ、アマンダのことがあったからか? どれだけ僕が失意の底に落とされたか、どれほど苦しみを味わったか……。もう二度と離すつもりはない、君の気持ちはさっき聞いたのだから。だが、あやふやなままにはしたくない、最後の質問に答えてくれ」
「さっき、聞いたって?」
「うわ言で僕の名を呼んだ。そして、僕のことを愛していると」
「…………」
ああ、夢だとばかり思っていたのに……。でも、そう。確かに彼の手の温もりは本物だったのだ。そして今も、私の手を包み込む彼の大きい手に同じ温かさを感じている。
「ジョルジェット、君の人生を僕にくれないか? どうか、僕と結婚してほしい」
「……はい、喜んで」
涙で前が見えないくらいだった。震える声で、なんとか言葉を返す。リチャードの唇が優しく覆い被さってきた。
指輪は、おばあ様から譲られた婚約指輪も、リチャードから贈られた結婚指輪も、どちらもしばらくは指に入らなかった。リハビリを始めても、最初のうちはむくんでパンパンだったんですもの。クリスマスは病院で過ごし、個室でちょっとしたパーティーを開いた。
アマンダは治療を受けることを条件に減刑されたそうだ。おばあ様はアマンダに会ってしまったことで忘れていた嫌な記憶も全て思い出してしまったそうだけれど、もうそれらを気に病んだりはしないときっぱり仰った。
「落ち込んだり悩んだりしている暇なんてありませんよ。ジョルジェットのウエディングベールとドレスに刺繍を入れなくっちゃ!」
「アタシやマリエールのみんなも手伝うのよ。おめでとう、ジョルジェット、あなたのウエディングを祝えるなんて本当に嬉しい! あと、あの美味しそうなカレもぜひ紹介してね~」
おばあ様とメラニーはすっかり意気投合して、最近は二人してカタログとにらめっこの日々を送っている。私のドレスから何から良い候補を選んでくれるそうだ。メラニーの目は確かだから、ぜひお願いしたいと思う。それと、ウィリアムと上手くいけばいいなぁとこっそり期待していたりする。
年が明けて、バレンタインデーに大々的なウエディングセレモニーをすることになった。場所はボタニカルガーデンだ。色々と苦い思い出もあったけれど、それでも私の大好きな場所。
たくさんの薔薇とチョコレートを用意して、春を先取りした色とりどりのバルーンを飛ばすの。父もメキシコから飛行機で駆けつけてくれることになっている。
リチャードは最初、バレンタインに挙式をすることに反対していた。
「バレンタインと結婚記念日が一緒になってしまうと、君に花束をプレゼントする機会が一回減るじゃないか」
「あら、プレゼントは減らないんですもの、構わないじゃない。それに私にとっては、貴方が一番のバレンタインの贈り物だわ」
「……仕方がないな。その代わり、もう他の記念日は被らないようにしよう」
「たとえば?」
「僕たちのこどもの誕生日とか……」
「まあ!」
純白の生地に銀糸で刺繍の入ったドレスに身を包み、二人で迎えた結婚の儀式は、終始滞りなく行われた。誓いのキスを捧げる。初めて愛した男性とウエディングを迎えられた歓びは、言葉にできないくらいで本当に素敵なセレモニーだった。彼こそが私の最初で最後の男性だ。
ちなみに、リチャードの心配はなんと現実になった。バレンタインデーと結婚記念日と初めてのベイビーの誕生日とが重なってしまい、顔を見合わせて苦笑することになるのは、もう少し未来のおはなし。
~Happy end~