後
・第四典「教会と魔物の物語」
すっかりと夜の帳に閉ざされた闇の中を、三人で歩く。
彼の半歩前を歩く修道士長は、あのときの修道服ではなく今は豪奢な司祭服に身を包んでいた。
ドミノ(頭巾)の代わりに紫のカロット(半球帽)をかぶり、装飾の施されたダルマティカ(裾長の衣)を身に付けているその姿は、修道士としての格好よりも明らかに様になっている。
それは、身に付けている時間の長さからくるものだろう。おそらくは、こちらの方が彼の本当の顔なのだ。
「『黒の帳』の名の由来を、お聞かせしましょうか」
振り向きもせず、彼の一歩手前を歩きながら、司祭が言った。
イーヴは、無表情を貫き通す。彼の同意を求めていたわけではないのか、司祭はそのまま言葉を続けた。
「この夜闇と同じです。こうして、ランプの側から覗き見る限りは全くの無害。しかし、少しでも足を踏み出し、その帳の向こう側を見ようとした者は、決して戻ってくることが叶わない。
…それは、消えた人間を探しに行った者についても同様です」
司祭は、手に持った灯火で通りがかった裏路地を照らし出した。光は手前の数フィート程度こそ露にするものの、それ以上の奥になると、全く闇の質は揺るがない。まるで、世界そのものが、そこで終わってでもいるかのように。
彼は、ランプを前方に戻すと言葉を続けた。
「わかりますか。これは我々の仲間に向けた、禁忌への警告なのですよ。確かに見た目はあの通りですが、彼女は魔女であり、悪魔です」
「………」
イーヴは、先程からずっと沈黙を貫いていた。
何も応える気にはなれない。その脇を、彼の存在などまったく気にかけていない様子で、金髪の少女が歩いている。
何故、俺は彼らに付いて来たのだろうか。
それも、一人で。
店の中のエミリに声をかけることはできただろう。聖職者に手荒な真似はしたくないが、追い返すことだって十分にできたはずだ。
それなのに、俺はそのどちらも選ばなかった。
「――迷っていますね。ですが、貴方の行動は正解です。彼女が我々のことをどのように言ったかは知りませんが、それが嘘であることだけは断言できます」
司祭の言葉が、やけに耳の奥に残る。
だが、彼の言葉が真実でないという証拠はどこにもなかった。エミリの話が、全てでたらめだったとは思わない。だが、全てを信用することもまた、できなかった。それは、彼自身がずっと思っていたことでもある。
そうだ。
だから俺は、こいつらに付いて行くことに決めたのだ。
少なくとも、彼らが言っていた話とやらは聞くことができるだろう。ともすれば、それで分かるかもしれない。
彼女は、信用できるのか…それとも、そうでないのか。
仮に自分の身が危なくなる事態になったところで、彼も腕には多少なりとも自信があった。老人のひとりくらい、瞬く間に叩き伏せて、逃げ果せるくらいのことはできる。当たり前だが、昨日の様子を見る限り、司祭に武術の心得があるようには思えなかった。
だが、先程から気になることがひとつあった。
目を閉じても、何も見えない。いつもは、どんな状況でもおぼろげな形くらいは分かるのに。
「…それとも、貴方は神の僕よりも、通りがかりの魔女を信用すると言うのですか? 安心なさい。貴方に危害が加わるような事態は、万に一つも有り得ません」
司祭はそこで言葉を区切り、深呼吸をするようにゆっくりとその言葉を吐き出した。
「貴方は、我々の隣人ですよ」
――彼らにとって、魔女は隣人などではないわ――
昨夜言われたその言葉が、頭の中を反響した。
「…どうでもいいから、早いとこしてくれねぇかな。単に話だけなら、これだけ離れればもう十分だろう」
「――いえ。たった今、着きました。このような大切な話は、須らく神の御許で行われなければなりません」
司祭は、ランプを頭上に掲げた。古ぼけた大扉。青い屋根。その上で月の光に反射して輝く、ラテン十字。
教会だった。
「さぁ、お入りなさい。迷える子羊殿」
司祭が開いた扉の先に広がる聖堂は、無人だった。
一瞬だけ躊躇するが、彼は周囲を警戒しながらも、その中に足を踏み入れる。
背後で、扉の閉まる音がした。あの少女が閉めたのだろう。
「おかけなさい」
不遜な足取りで、彼は赤い絨毯の引かれた通路を歩む。その左右には、信者が着席するための会衆席がずらりと並んでいた。
周囲を弄っていたイーヴの目が、ある列の上で止まる。彼は、その端の席に腰を下ろした。
改めて見回すと、聖堂の中は随分と広かった。
少なくとも、これまでに彼が見てきた教会や修道院のものよりは、確実に規模が上である。数百人が同時に祈れるだけの椅子の数、数階分を貫いた高い天蓋とそこに描かれたキリストの再臨、そして何よりも正面に据えられた十フィート強はあるだろう巨大な十字架。それとも、都市の教会とは、どこもこのようなものなのだろうか。
司祭は説教台には着かず、十字架とその下にある祭壇の前でくるりと身を翻した。彼は、たった一人の会衆に向けて、大きく両手を広げて見せる。
―― 何か。
身体の中に残された、一片の金属片のような違和感がある。
「主は、最初に言われました。光あれ、と。主は天使を火からお造りになられましたが、人間は塵から作られました。それは、何故だか分かりますか」
「…俺は、問答をしに来たわけじゃない。とっとと本題に入ってくれ」
「わかっています。ですから、こうして本題から入っているのですよ」
不機嫌なイーヴの言葉に、にっこりと微笑を浮かべて司祭は答える。
だが、内心でイーヴは少しだが安堵していた。
エミリは、教会の者は魔女を見るなり嬲り殺そうとするようなことを言っていたが、どうやら、その心配までは必要なかったようである。もっとも、これから先のことについては、まだどうなるか分からないことに変わりはないが。
「――続けましょう。主は何も、意地悪をして塵を材料としたわけではありません。塵とは『無』です。何者でもありえないし、逆に何者にもなれるかもしれない。先ほど私の目に入った一粒の塵も元は魔女の指の欠片だったのかもしれませんし、聖なる十字架の一部だったのかもしれません。ですが、主のお使いになった塵は、原初の塵です。だから、それは完全な無です。そして、あらゆる可能性を秘めていました」
イーヴは、足を組んでその説教を聞き流す。彼にとっては、どうせ理解できない類の話だ。もちろん、周囲に気を配ることも怠らない。何かあったときのための用心である。
例の少女はと言えば、いつの間にかいなくなっているようだった。まぁ、確かに子供が聞いて面白い話でもないだろうが…。
「無から人をお造りになったのは、主の御力に頼らず、我らを試すためでした。自由意志を与えても、悪魔からの誘惑に負けずに創造主への信仰を忘れずにいられる存在でいられるのか、それを試されたのです。そして主は、あらゆる奇跡の行使を、人間にはお許しになりませんでした」
司祭は、そこで一旦、言葉を区切る。
「父なる神とは、唯一にして絶対の存在です。
全にして個、個にして全、過去にして現在、現在にして未来。
彼はあらゆるものであり、あらゆるものを作り出し、あらゆるものを存続させ、あらゆるものを破滅へと導きます。それらは全て創造主である主、只一人だけの特権なのです」
奇跡。その言葉に、初めてイーヴは司祭の話に関心を覚えた。
それは、人成らぬ者のみが使える人成らぬ力のこと。
それを彼は、つい先日に目の当たりにしたばかりなのだから。
「人は、奇跡を扱えません。扱えては、いけません。それは、聖人が主の御力を借りて行う場合にのみ、この世界に存在する価値と意味があります。それ以外の者が奇跡を行使するのは、主に対する冒涜です。
彼らは、主の祝福を受けたこの地上にいていい存在ではありません」
その言葉に、イーヴの背筋が粟立った。
何か、おかしい。
――これは、俺を説得するための説教ではなかったのか?
「須らく、これは彼らが主ではなく、悪魔が人間に似せて作った者の末裔である証拠です。
すなわち、それこそが彼らの罪。
その罪は、楽園の知恵の実を食べた我々の祖先の比ではありません。彼らは、存在自体が罪なのです。ですから」
司祭が、はっきりと彼の両目に視線を合わせた。
彼の瞳の柔らかさは、微笑みは微塵にも変化していない。
だが、その微笑みが、今は逆に恐ろしい。
それは、例えるなら、まるで蜻蛉の羽を笑ってむしる子供のように。
「その罪を償う方法があるとしたら――それは、消えること。どんな祈りも、彼らにとっては無価値です」
多数の気配に気が付いて、それまで司祭の話に没頭していたイーヴは、ようやく背後を振り返った。
聖堂の左右に設置された扉から、修道服に身を包んだ幾人もの男女が入ってくる。彼らは無言で、歩く時にも衣擦れの音さえしなかった。
その数、左右の扉からそれぞれ十人前後。しかも、この豪奢な聖堂には不似合いな物を、誰もが手に持っていた。鎌や斧などが大半を占めたが、中にはメイスを携えている者もいた。
今更、疑うまでも無い。彼らは、自分を殺す気だ。
「正気…か?」
自分は、魔女などではない。
確かに人に無い能力を持ってはいるが、これを人を害するために使ったことだけは一度も無いと断言できた。人より、多少見えている範囲が広いだけ。それだけだ。
それなのに。
こいつらは、それを死すべき罪だと言うのだろうか。
「――――……」
イーヴは立ち上がった。手には、誰かの置き忘れらしい十字杖。席に着く前に、目につけておいたものである。
祭壇の前の司祭は無視し、イーヴは武器を持った連中の方に向き直った。
十字杖を手の中で数度回転させてから、両手を杖の前後に沿わせ、構えを取る。杖の先端に付けられたイエス・キリストの磔人形が、まっすぐ彼らへと突きつけられた。
間に合わせにしては、十字杖の感触は悪くなかった。
人形の分重心は前に傾くが、意識していれば十分に立ち回れる範囲だろう。逆に、重さの偏りを生かして打撃を増すこともできるはずだ。
彼は、護身のための術として、主に棒術を嗜んでいた。持ち運ぶには不便だが、どこであろうと武器を現地で調達できることが棒術の強みである。素手であれば、数人程度の夜盗相手に引けを取ることは無い。
しかし今、イーヴの前に立ちはだかるのは二十人近い人数である。しかも、全員が武器を手に握っていた。
しかも、彼らは自分を殺す気でいる。
こちらは、できれば殺さずに済ませたい。
この差は、重大だった。殺さずに相手を行動不能に陥らせることは、ただ殺すよりも遥かに難しい。
殺すだけなら、頭蓋だろうが胸骨だろうが、砕くつもりで全力の打撃を叩き込めばいい。だが、そうでないなら、砕く一歩手前で力を抜く必要がある。
結果的に攻撃の到達速度が鈍ることも有り得るが、何よりも問題となるのは、戦闘中における判断の早さだ。
迷いが出る。この一撃が果たして相手を死に至らしめるかどうかを思考し、そして判断する、その時間が。
思考の量が増えれば増えるだけ、次へと至る行動は遅くなる。ならば、こちらも相手を殺すことを前提にすればいいだけの話なのだが、イーヴはどうしてもそれをする気にはなれなかった。
(…それでは、本物の魔女だ)
悪魔の使いと教会が蔑む、魔女の像そのものだ。
俺は、そうなる気にはまだなれない。
「行きなさい。汝らの魂に栄光を、魔女の魂には安らぎを」
司祭の言葉と同時に、一斉に信徒たちが踊りかかった。
叫びながら、あるいは無言で。
共通することは、それら全てが自分を殺すための行動であることだ。
会衆席の左右に設えられた通路からは、それぞれ数人。
椅子と机を乗り越えながら進んでくるのが、十人程度。
(――生き抜けるか!?)
椅子に阻まれ、足元の動きがおぼつかない。イーヴは舌打ちし、その場で凌ぐことを決意して両足を踏ん張った。一度でも転倒すれば、即座に群がり殺されることは間違いない。
最前列にいた女が、手にした麺棒で殴りかかってきた。たとえ麺棒でも、その重さは十分な凶器になる。直撃を頭にでも受ければ、目を覚ますことは二度とない。
十字杖を横にしてその一撃を受け止め、彼は女の腹を思い切り蹴り飛ばした。
二人目は、左から。鋼鉄製のメイスが真横から襲い掛かるが、それは避けるまでも無く見当違いの場所を凪いでいる。
張り詰めていたイーヴの精神が、その瞬間だけ僅かに緩む。
だが、その直後、鋭利な風切り音が彼の耳のすぐ側を過ぎった。タン、と背後で乾いた音。見れば、信徒たちの後方で矢を番えている者がいる。
(――まずい!)
動きがままならぬ以上、これでは格好の的だ。射手の腕がよければ、今ので首を射抜かれていただろう。
一瞬の逡巡の後、イーヴは壁側でない方の通路に跳んだ。こちらでないと、角に追い込まれる可能性があると判断してだ。
通路を走りこんできた男の突きは体捌きで避わし、体勢が崩れるのもかまわずに、イーヴは脇下で十字杖を回転させた。そのまま、勢いの乗った一撃を男の足元へと叩きつける。
足首の砕ける音とともに、男の体が宙に舞った。胸を激しく椅子に打ち付け、倒れた男は動けなくなる。その身体は、結果的に後続の信徒たちを阻む壁となった。
イーヴは走る。
入り口ではなく、逆にそこから遠ざかるように。
その先には、先程から変わらずそこにいる司祭の姿があった。
「動くな!」
イーヴは壁の燭台を掴むと、蝋燭を振り落として尖った先端を司祭の喉下へと突きつけた。
信徒たちの口から、初めて動揺らしき声が漏れる。
「そこを通してもらうぞ…武器を捨てろ。左右にどけ」
動揺の気配は収まらない。
だが、武器を捨てようとする者は、誰一人としていなかった。
その様子を見て取ったイーヴが、燭台を掴む手に一層の力を込めた。司祭の顎を上向かせ、明らかに頚動脈とわかる位置に一番長い針先を押し当てる。
ここを破られると、人間はまるで噴水のように血の雨を降らす。抜く際に燭台を大きく横に引っ掻けば、それは間違いなく手の施しようも無い致命傷となるだろう。
信徒たちの動揺は増すが、やはり彼の言葉に従おうと言う気配は表れない。
彼らは、武器を握り締めたままこちらを睨み付けるだけ。そのときになって、ようやくイーヴは自らの致命的な失策に気が付いた。
迷っているのではない。
彼らは、ただ躊躇っているだけだ。
「無駄ですよ」
喉を押さえつけられた格好のまま、司祭がくぐもった声を出した。声は、冷静そのものだ。喉元の職台は先端が皮膚へと食い込み、既に血を滲ませ始めていると言うのに、風前の灯火となった自身の命への焦燥が、こちらも微塵と感じられない。
イーヴの頬に、焦りとは異なる種類の汗が流れ落ちた。
「我々は、死を恐れません。死とは、すなわち天に召されることであり、聖なる任務における殉職は、むしろ名誉ですらあります。むしろ、魔女の戯言に耳を傾け、道を開けてしまうことの方が恐ろしいのですよ。彼らにとっても、私にとっても」
「お前たちは…これを、聖務だとでも言うつもりか…?」
「はい。貴方には理解できないことなのでしょうね。…哀れなことです」
司祭の言葉はそれだけだった。
命乞いは元より、信徒への指示すら出そうとはしない。ただ、彼は目を閉じると胸の前で十字を切った。
状況としては、最悪だった。いや、それよりも更に下だ。
人質とは、相手の正常な判断を無くすために取るものである。命のやり取りを直に行うこうした場面では、交渉としての意味合いよりも、むしろそちらの方が遥かに重大な割合を占める。
混乱を招き、集団の意味を失わせる。その意図を理解していたとしても、相手の次の行動が確実にこちらの損失を生むと言う状況は、それだけでプレッシャーを与えるものだ。突き詰めた話、人質として取る人物自体に大した意味はない。
彼らには、それがない。
イーヴが司祭を刺殺した瞬間、すでに左右へと回りこんでいる信徒たちは、彼が成す術も無いままに、嬲り殺すことだろう。
司祭の命と魔女の抹殺、彼らは秤にかけるまでも無く後者をより重大なものとして捉えている。誰一人、その決定に疑いすらもかけることなく。
それはすなわち、交渉としての余地すらも完全に無いと言うことだった。これ以上の迷いを生ませることすら、望めない。
言うなれば、彼らは既に王を詰めている状態なのだ。その際に女王を失わずに済ませられる方法があるのかどうか、ただそれだけを迷う問題でしかない。
これでは、まるで立場が逆だ。燭台を突きつけている自分の方が、後ろのない判断を強いられている。
――どうする? 司祭を放り捨て、いちかばちかで突っ込むか? それとも、このまま司祭を人質に取り、万に一つでも信徒を止められる可能性にかけるか? 彼らとて、実際に目の前で司祭が致命傷を負う姿を見れば、ともすれば混乱をきたすかもしれない…。
彼は、分かっていたはずだった。だからこそ、この場面を生き延びるため、彼は司祭を捕らえたのだから。
人質の意義は、何よりも迷いを生ませること。
イーヴの迷いが、隙を生んだ。
弓鳴りの音。
彼は、気付かなかった。信徒のうち一人が、聖堂の周りを取り囲むようにして作られた回廊を回り込み、彼の背後から静かに説教台の裏へと潜んでいたことを。
矢は、ごく近くから放たれていた。それこそ、どんな素人でも外しようが無いほどに。
気が付いた時、イーヴにそれを避ける術はなかった。
――否。
彼がそのことに気付いたのは、外れようがいはずのその矢が、僅かに胸の脇をすり抜けた後だったのだから。
タン……ッ
その場にあった全ての視線が、その一点へと向けられる。
彼に、鳥類の個体差などは分からない。だが、イーヴはそれまでアルビノの鴉などは、ただ一羽しか見たことが無かった。
「……虚!」
聞き流していたはずのその名前が、やけにあっさりと口を吐いて出たことは、彼にとっても意外だったが。
虚は、矢の中央辺りを咥えたままの格好で器用に身体の位置を入れ替えると、その上へと飛び乗った。壁に突き立った矢を止まり木代わりにしながら、おもむろに矢尻の羽を毟り始める。
恐らく、理解できた者はいないだろう。
虚は、宙を飛んでいる矢を嘴で掴んだのだ。
むろん普通の鴉に可能な芸当ではないが、飛ぶ虫を主食にする鳥類の動体視力は、矢や投剣の飛来を確認した上でそれを回避するだけの余裕が十分にある。ならば、訓練次第で矢を受け止めるまではいかなくとも、逸らす程度のことは可能だ。
少なくとも、その実例がここにいる。
むしり取れるだけ羽をむしると、満足したように白色の鴉は頭を上げた。何度も首を捻りながら、赤い瞳がイーヴや信徒たちへと向けられた。
虚は、大きく嘶いた。
不吉な声が聖堂を満たす。
白鴉は颯爽と飛び立つと、一面に聖画の描かれた高い天井を一周し、あろうことか入り口脇の聖水盤で水浴びを始めた。
その羽並みが、一瞬、強く波立った。
いつのまにか、聖堂の扉が開いている。
その向こうに夜が――いや、闇が覗いている。そして、闇はその一部が切り取られて、聖堂の中にまで侵食していた。
闇が、外套を投げ捨てる。
虚は主人の肩に飛び乗ると、再びクァーと鳴き声を上げた。
黒の帳――エミリ=イルランジュがそこにいた。
「無様ね」
開口一番、黒の魔女はそう告げた。さして大きくもないはずのその声は、なぜか一番奥にいるイーヴの耳にまでも明瞭に響き渡る。
教会と魔女。
最も不釣合いであるのはずのその組み合わせの中において、しかし神のために設けられた聖画や装飾の数々は、妖艶を通り越し禁忌的なまでの美しさを以って、彼女を引き立たせていた。
それは、初めて出会った夜に感じた感覚。
いや、今はそれ以上に。
あるいは、それは神秘的と評すべき美しさであったのかもしれない。
「――勝手に逃げて。あっけなく騙されて。その上、こうもあっさりと追い詰められて」
イーヴは、何も言い返さない。言い返せないのではなく、彼女の言葉に反感を持とうと言う、その意識すらもが浮かばない。
そのとき、彼の全思考は、ただ、その魔女を凝視するためだけに存在していた。
「神という名前を借りて、傲慢と暴力を正義として行使する豚どもが――私の邪魔をしていいとでも思っているのか」
絶対零度の冷気が、エミリからイーヴたちへと降り注いだ。いや、そう幻視させられた。
教会の傲慢を糾弾するその言葉とは裏腹に、彼女の態度はまるで不遜そのものだ。だが、誰もがそれに異を唱えられないほど――決して、彼女の力に恐怖しているからではなく――見下すようなその姿勢は、エミリという少女に、これ以上ないほどふさわしいものとして受け入れられていた。
「魔女は灰に。人は塵に。天使どもは火に。なら、神の使いを称するお前らは…いったい、何に変化して朽ちるのでしょうね」
使い魔の鴉を従えたまま魔女はゆっくりと一歩を踏み出し、心底から嬉しそうにそう言った。
視線は、まっすぐこちらへと向けられたまま微動だにしない。
その視線は、それだけで人の心を――いや、命そのものを吹き消さんばかりの圧力を以って感じられた。
(こいつ――まさか、俺もろともに殺す気か…?)
有り得ない事だ。いや、有り得ないなどと誰が断言できる?
本来ならば尊敬すべき司祭ですら、この通りあっけなく自分に牙を向けてきたのだ。昨日今日会ったばかりの魔女が信頼できる道理など、いったいどこにあるのだろう。
「――粛清なさい! あれも、魔女です!」
イーヴの顔の下で、司祭が叫んだ。叫んだのだ。
自らの生命の危機にすら、まったく動じなかったこの司祭が。
どちらにせよ、それまで魔女の威厳に圧倒されていた信徒たちの金縛りは、それで解かされた。無防備に歩いてくる彼女に向かって、飛びかかれる限りの人数が、手持ちの凶器を一斉に振りかざす。
全員が、もはや声とも判別がつかない金切り声を発していた。
狼から逃げる兔のように、もしくは、火に包まれた屋敷から焼け出される鼠のように。何十人もの大人たちが武器を振り上げ、たった一人の少女へと襲い掛かる。
分かっているのだ、これは、決して敵わぬ相手であると。
エミリが、にやりとその口の端を持ち上げた。
『災いなるかな。底なしの沼の上に、破戒者がための庵を築かん。汝に、獅子の歯と馬の顎との栄光を』
手始めに、まだ若い女の信徒が、見えない腕にでも横殴りにされたかのように吹き飛ばされる。
『我は光を憎む者。ヨハンの名におき宣言す、話が御名は、あらゆる言葉を拒絶せん』
背後から放たれた三本の矢は、いずれも彼女に到達する直前でまるで、自ら恐れ戦いたかのように軌道を逸らした。
うち一本は会衆席の椅子の背に、一本は壁にかけられた聖画マリアの額に、そしてもう一本は、不幸にも先程倒された女信徒の左肩へと深々と突き立った。
『遠くにありつつ近くに来たれ、巨人の娘。その息は、黒き子山羊の生き血を吹いて、あらゆる方位に働きかけん』
波紋が、黒の魔女を中心として広がった。
風でも音でもないその衝撃は、信徒たちを巻き込んであらゆるものを吹き飛ばしていく。いくつもの椅子が紙細工のように乱れ飛び、近くにいた信徒達は折り重なって吹き飛ばされる。壁のステンドグラスが、連鎖的に音を立てて破砕した。
『サハリエル、ペネムエ、サタナイル。闇に輝き、光に侵され、変わらぬ生と死を繰り返す、隠者の言葉を代弁せよ。彼の者の嘆きの億が一つでも、訴え知らして叶わぬことを』
最後に、息も絶え絶えに立ち上がり、背後から殴りかかろうとした一人の信徒が、鋼鉄の棒を振り上げた格好のままで動けなくなった。その表情が、恐怖に目を見開いたまま泡を吹く。
――インチキだ。
イーヴは、心からそう感じていた。
エミリは、ただまっすぐに歩みを進めているだけだ。
それなのに、ただ言葉を放つだけで、彼があれほど手こずっていた信徒達が、まるで子供の遊びにでも付き合っているかのように翻弄されている。
彼女が会衆席を抜ける頃には、そこに立つ者は魔女とイーヴ、そして彼に抑えられた神父だけとなっていた。
「迂闊ね。黒の帳に手を出しておきながら、予定使徒の準備を怠っていたなんて。わたしが、彼のことを放っておくと思ってた? こんな男一人のために、危険を冒して教会にまで足を踏み込むことはないと?」
教会が最も禁忌する魔女の一人――黒の帳は、視線により一層の敵意を込めて言い放った。
「冗談じゃないわ。イーヴは、私の大切な研究素材よ」
魔女の右手が翳される。
その仕草の意味するところにぞっとした彼だったが、エミリの口が呪文を紡ぐことはなく、彼女はその手で、直接、司祭の胸倉を掴み上げた。
そして、無造作に脇へと突き飛ばす。イーヴはあわてて突きつけていた燭台を引っ込めた。その動作があと一呼吸でも遅れていれば、司祭の咽元は真一文字に避けていたことだろう。
「……ふぅ」
そこでイーヴは、初めて安堵の溜息をついた。その手から、わずかに血の滲んだ燭台が滑り落ちる。
「悪いな。助かったよ…エミ、」
感謝の言葉はそこで途切れた。彼女の視線が、そうさせた。
その瞳が醸し出す瘴気の如き敵意は、まるで減っていなかった。いや、むしろ増している。お前こそが全ての元凶だと言わんばかりに、魔女の名に相応しい重圧的な視線が、イーヴの全身を貫き通す。
魔女が一歩、詰め寄る。
その気迫に、イーヴは少なからずたじろいだ。
「――なんのつもり?」
睨み付ける視線の激しさとは対照的に、その声色は冷やかだ。
だがそれは、ナイフの刃が孕む冷たさ。彼女の言葉が紡ぎ出す、敵意の刃そのものだった。
「言ったはずよ。一度魔女と認知された者は、もうその中でしか生きられない。教会は、魔女にとっては処刑場でしかないということも。…それなのに、貴方はここで何をやっているの?」
それは、あまりに一方的な物言いと言えた。こちらの意図や事情はまるで考えず、ただ自分の理屈だけを押し通す、そんな正義。
「おい、ちょっと待――」
イーヴが言い返そうとした、そのとき。
その危機をいち早く感じ取ったのは、またしても白い使い魔だった。
突然エミリの肩の上で羽根を広げ、クァ、クァッ、と断続的な鳴き声を上げ始めた。その意味が分かったのは、主たる魔女ただひとりだけだっただろう。
彼女はイーヴの足元に見事なまでの足払いをかけると、自分は虚を両手に抱えながら後方へと飛び退いた。
次の瞬間、イーヴが立っていたその場所に、突如何の前触れもなく炎の塊が出現する。
――いや、そんな生易しいものではない――
それは、小さな太陽だった。
ランプと蝋燭の灯によって僅かに照らされていた室内が、一転して光に包まれる。それは轟々とした光と熱を轟かせた後、出現時と同じようにまるで幻のように掻き消えた。
それとも…今のは、本当にただの幻だったのだろうか?
違う、それは有り得ない。焼け焦げた天井と床板、急激に上がった室温、なによりもむせ返る煙の残滓が、一瞬にして消えた圧倒的な脅威の実在を、ありありと物語っていた。
「な…なんだ!?」
似たような超自然現象自体は、今更、驚くはずもないことだった。規模こそ異なれ、これと同様の理不尽な力を、彼はこの二日間で何度も目の当たりにさせられている。
イーヴがそのとき驚愕したのは、まるで血の気を失った黒の帳の表情にである。
「うそ…」
微かに焦げた息と共に、魔女の口から呆然とした言葉が漏れる。
「――貴方こそ、迂闊でしたね。これが、貴方に対する罠である可能性も、同時に考慮しておくべきでした。そして、罠は見える場所になど設置しません」
それは、司祭の声だった。声のした方に顔を向けると、吹き抜けになっている二階部分、聖堂をぐるりと半回転している回廊の上から、あの司祭がこちらを見下ろしていた。彼だけではない。その隣には、いつの間にか消えていた金髪の少女が侍っている。
「今日は、先日とは違いますよ。この娘には、貴方もその男も神敵として刷り込んであります」
司祭は、右手に持っていた分厚い聖書を開いた。
そのとき、イーヴは先程この司祭に感じていた違和感に、ようやく気付いた。
右肘は、どうした?
エミリに完膚なきまでに折られ破壊されたはずの関節が、今、彼の目の前で何の問題もなく動いている。
「…さぁ、亜典第四巻・マコノムの粛清書、第七章第三節第四句、誘惑の蛇に関する記述です。レミュ、朗読なさい」
その言葉に、それまでは何があっても無関心にあさっての方向を向いていた少女の瞳に光が宿った。
膝を折り、胸の前で手を合わせると、少女は滑らかな動作で祈りの姿勢を取る。だが、本来は閉じられるはずの両目は、階下のイーヴたちへと向けて、しっかりと焦点を合わされていた。
その動きはまるで、それまでただの人形でしかなかった器に、今始めて『魂』を吹き込んだかのようだった。
火を入れた竈。もしくは、弾を込めたマスケット銃。
少女の蕾のような口が開き、音を発さぬはずの咽が動いた。
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
子供らよ、堕落に惹かれる事なかれ。蛇の言葉に、耳を傾けることなかれ。
見よ。我が加護する光の他に、汝は何を必要としよう。
その光は汝とその隣人に大いなる恵みを、邪悪なる蛇にはその身を焦がす猛毒となりて、夜闇を裂き、煌々と天より降り注ぐだろう』
それは――聖句だ。
聞いたことがない文句ではあったが、それは明らかに神の威光を称え、悪魔を蔑むための一説だった。
だが。これと同じ声、これと同じ抑揚、これと同じ悪寒には覚えがある。
理性が結論を下す前に、今度は自らの意志で横に跳んだ。
顕れたものは、光だった。
天蓋に設えられた大きな陽光取りのガラス窓から帯となって差し込んだ陽光が、数瞬前にイーヴがいた場所を照らし出す。
――そう、陽光だ。
その向こうに広がるのは紛れもない夜空だと言うのに、奇跡のように降り注いだのは、紛れもない太陽の光だった。
聖堂が、再び一瞬だけ昼の明るさに包まれる。
異変は、それだけでは終わらなかった。イーヴが手にしていた十字杖のイエス像が、光に飲まれた瞬間に、音も立てずに消滅した。杖は半ばほどで、まるで初めからそう成型されていたかの如く滑らかな断面で終わっている。
覚えがあるはずだ。
これは、エミリの『魔術』そのものではないか。
魔女をこの世から抹消するべくして動いている教会の司祭が、その魔女と同じ魔術を使っている――
「走りなさい、イーヴ!」
エミリが叫んだ。虚が飛ぶ。
イーヴは、どこへ、とは聞かなかった。走り出し、それから聖堂のどこにいてもあの魔術からは逃れられないことを悟る。
躊躇い無く、彼は割れたガラスのはまった窓へと身を投げ出した。
宙に血の帯を撒き散らし、石畳に二度跳ね、積んであった木箱に突っ込んで、彼の身体はようやく止まる。
「――エミリ!」
顔を上げ叫んだ時、建物の中から炎の爆ぜる音がした。
それは見る間に大きさを広げ、見る間に教会は炎の中へと包まれていく。
魔女の姿は、どこにもない。
上空で、白い鴉が旋回していた。
・第五典「聖書と凶眼の物語」
「――よかった、生きてたのね」
姿を確認するなり、彼女は何の抑揚も感じさせない声で、そう言った。
エミリの場所を探し当てるのは、さして難しいことではなかった。正確には、彼女を探し出したのはイーヴではない。上空から虚が二人の姿を見つけ出し、彼を案内していったのだ。
ここは、あの教会からはだいぶ離れた、街外れにも程近い広場である。エミリは、誰かの置き忘れらしき木箱に腰を下ろして、俯いていた。さすがに疲れが出たのだろうか、はぐれたはずのイーヴの姿が現れても、腰を上げようともしなかった。
――いや。それともそんなこと自体、さして興味が無いのかもしれない。
彼は眉間に力を入れると、両目の間に皺を寄せて、ただ彼女だけを凝視する。
それはとりもなおさず、睨む、という行為であった。
「…何?」
かすかに言葉の語尾が上がった…ように聞こえたのは、気のせいだろう。
イーヴは、そのままの態度を崩さずに言った。
「説明してくれ」
「…意味が、よく分からないわ。私が、貴方に何を説明しろと言うの?」
「どうもこうもない。さっきのあれは、いったい何だ」
エミリは、額を手で抑えながら顔を上げた。
顔色は、やはりよくない。
「異端審問官よ。…本物の、ね」
本物の、という単語を強調して彼女は言った。
そう言えばあの夜、彼女は言っていた。あいつらは、異端審問官のようなものであると。
「一般に姿を見せる異端審問官とは、本質的にまるで別物。でも、他に呼び名がないからそう呼んでいるだけの代物よ。普通の審問官も、法律で禁止されている魔術を用いた魔女や錬金術師を執行する。でも、それは教会法の禁止項目にあたる魔女術の真似事をした人間だけよ。本物の魔術師を、決して彼らは執行しない」
エミリの言葉に、イーヴは不可解そうに眉根を寄せる。
「…それじゃ、話が逆だろう。まるで、わざわざ偽者の魔女だけを選んで魔女裁判にかけているように聞こえるぞ?」
「ええ、まさしくその通りよ」
エミリは、あっさりとその言葉を肯定して話を続けた。
「無意味な遊戯同然の魔術をも規制する理由は単純明快。要するに、魔術を否定するキリスト教の権威を下げるからよ。聖書は、あらゆる奇跡を認めていない…前にも言ったけど、これは真に信心深い教徒に取っては、わたしたちの想像以上に絶対的な真理よ。どのくらいかと言うと、目の前にその証拠が存在したら、迷わず目を潰すくらいに」
げ、と呟いて、イーヴが一歩後ずさりする。
「本物の魔術は、彼らは自分達ですら存在を認めたくないのよ。
だから、ないことにする。
…妙だったとは思わない? 限定的とは言え、自然現象そのものを扱える相手に、あの信徒たちは人間同士の戦争で使うための道具である、メイスや弓矢で対応しようとしていたでしょう。魔術という存在を認められないから、当然の如く、その対応手段も考えることができないというわけよ」
「でも…それだと、あいつらは永遠に魔女を捕まえられないことにならないか?」
「…そうね。対応手段がない、と言うのは言い過ぎかしら。最も普遍的で応用力があり、かつ、何にでも適用できる一般的な手段――すなわち、彼らは数を用いて魔女を襲うわ。こちらだって、一度に対応できる以上の人数にかかられたら成す術もない。まあ、わたしでなければ、あの人数なら十分に執行できたでしょうね」
あっさりと断言すると、エミリはようやく立ち上がった。意外にも、その足取りはしっかりしている。
彼女は月に向かって左手を翳した。その上に、それまで頭上を旋回していた虚が止まる。
「――突き詰めた話、そうして彼らは、わたしたちを理解できないでもいい存在…すなわち、悪魔だとかそれと契約を交して魂を売った者だとか、そういった解釈を行っているに過ぎないのよ」
彼女が頭を撫でると、しきりに体を動かしていた虚が途端におとなしくなった。目を細めて使い魔を撫で続ける彼女の姿は、そうして見ていると、子を持つ母のようにも見えなくもない。
「だが、それなら――」
彼が口を開きかけたところで、自由な方の右手が、その続きを遮った。
「――貴方の言いたいことは大体分かるわ。ならば何故、彼らまでもが『魔術』を扱うのかということでしょう?」
再び眉間に皺を寄せたが、イーヴは素直に頷いた。
「分かっているなら、初めからそう言ってくれ。結局、あいつらは何者だ? なぜ、教会の中に魔女がいる?」
「彼らは、魔女じゃないわ。奴らの正式な呼称は、異端審問会補佐機構・亜典使徒捜索部。これは、正典でも外典でも、もちろん偽典でもない、『亜典』と呼ばれる第四の聖典に登場する使徒を探す者達を指す言葉よ。――でも実際には、諸国を旅しての捜索なんかをするんじゃない。亜典とは、現行の聖書の矛盾点を補填するために、神の言葉ではなく現行の人間の手でこれから作られようとしている聖書のことを言うの」
それは、魔女の側からすればあまりにも幼稚な考えだった。
そもそも、手段と目的が逆である。都合が悪いから大本を変えようとは、ある意味で究極の現実主義者である彼らに取っては、愚かとしか言いようがない。
だが、それがまかり通っているのが今の世の中なのだと、その後にエミリは付け加えた。
「…もちろん、わたしたち魔女の存在なんかは、その中でも排除すべき最たるもの。彼らは、子供の中から使徒となるべき候補を選出し、聖務を――例えば、魔女の抹殺を――行うことで、使徒として亜典の中に描かれる資格を得るわ。ペテロやパウロと言った、本物の聖人たちと同列の存在としてね。そりゃ、あの司祭も躍起になるわけよね。
――考えただけで、吐き気がする」
そこまで言うと、彼女の瞳がすっと細まった。
「前置きが長くなったわね。つまりあれは『魔術』ではなく『神の力を借りた奇跡』として認識されているのよ、彼らには。あの司祭の、まるで砕かれた跡のない右腕を見たでしょう? 癒しは、わたしたちがいわゆる教会魔術と呼んでいるものの中でも得意分野よ。キリストの弟子たちですら、新約を少し紐解けば死者を生き返らせたり石になった人間を元に戻したりしたという記述が幾らでも出てくるわ。さすがにこれは多少誇張された表現だと思うけど、とにかく奴らにとって、あれは悪魔の術ではなく、神の奇跡そのものなのよ」
言い終え、エミリは皮肉気に口元を歪めた。その気持ちは分からないわけでもない。なにせ、彼らは魔術と言う力を持つ者を病的に嫌悪しながらも、一方では徹底的にその意味をごまかした挙句に、同じ力を利用していることになるのだから。
これほどの矛盾は、他にあるまい。
「気に食わないな。いったい、どこまで身勝手な理屈だ」
「…ところが、そうとも言い切れないのよ」
彼女は、大きな溜め息を吐きながら呟いた。
「この程度の矛盾や屁理屈、どこにでも溢れているわ。王宮や学問、商法、いえ、わたしが気付いてないだけで、ひょっとしたら悪魔学や魔女の社会の中にだってあるのかもしれない。そこに人間が介在する組織なら、そんなのはごくごく当然のこと」
その言葉に、イーヴは驚きを禁じえなかった。これまで教会や神を徹底的に罵っていた彼女の口から出た言葉は、あまりにも弁護めいている。彼の驚きとて、当然のものと言えるだろう。
「一方の理屈を押し通すには、もう一方の理屈を破壊しなくてはならないわ。どちらもが紛れもない正義であるにもかかわらず、逆の立場から見れば同時に悪でもある。わたしだって、聖書と神を価値基準の根幹においた教会の倫理は前提からして理解できない。また、理解する必要もない。不条理は、どこにだって存在する」
だから、と付け加えて、黒の魔女はひどく歪んだ笑みを見せつけた。
「こちらも、理不尽に奴らを殺せる正義があるのよ」
「――――」
果たして、それは理屈としてまかり通っているのだろうか。
イーヴには、こうも冷淡に人の死を考えたことはない。これまで、その必要がなかったからだ。しかし、彼女は違う。教会の言う善が彼女にとっての悪であるならば、ともすれば彼女の言っていることは至極当然なのかも知れないとは思えた。だが。
だが、イーヴにとって、そんなものはどうでもいい事だった。
「…お前が今まで何人死なせてきたとしても、どうせ俺には関係ない」
「――そう? やりすぎて教皇に目を付けられた魔女もいるから、参考くらいにはなると思うけど」
「ただ、これだけは聞いておく」
エミリの軽口をまるで相手にせず、イーヴは冷たい声で言い放った。
「他の奴等は、まだいい。――だが、まさかとは思うが、あの子供にまで手をかけるようなことはしていないだろうな?」
そこには、明らかに嫌悪を超える負の感情が込められていた。
彼とて、これまで自分の腕一本で身を守ってきた旅人である。並の覚悟の夜盗なら即座にすくみあがるであろう強烈な眼光が、今は華奢な少女ただ一人へと注がれていた。
「――………――それを聞いて、どうする気?」
それすらにも関心がないのだろうか、エミリは横の地面へと視線を泳がせる。
イーヴは、それまで背後に隠していたものを取り出した。
「返事によっては、お前を殺すことにした」
背中から回した彼の手には、教会の中で手に入れたあの十字杖が握られていた。
ただ、初めに取り付けられていたイエス像は予定使徒の魔術によって消失され、代わりにその先端は槍のような鋭さを見せている。どのような力であったのか、その断面はまるで硝子のように滑らかだ。
これなら、適切な力と角度さえあれば、間違いなく人間の体を貫通させることもできるだろう。
「お前が、どうやってあの教会から脱出したかは知らない。そのために何をしたかも、聞きたいとも思わない。
だが、いくらあの司祭――予定使徒とやらが世話をしている子供とは言え、お前が、あんな子供ですらも無闇に手にかけるような奴であれば」
イーヴは、刃物と化したその先端を、まっすぐに魔女の咽元へと突きつけて宣告した。
「――俺に取っても、お前は魔女だ」
虚が、エミリの腕から飛び去った。
ひょっとしたら、彼が視線に込めた強烈な感情――『殺気』とでも言えるそれを、敏感に感じ取ったのかもしれない。
仮にそうなのだとしたら、彼にも勝ち目はあるだろうか。
万に、一つ程度の勝ち目なら。
「本気? いえ――正気なのかしら?」
エミリは、視線をこちらに合わせた。ただ、それだけの動作。
だが、それだけの動作にもかかわらず、イーヴの全身は圧倒的な重圧に包まれた。
彼女と、対峙する度に浴びる恐慌。武器を突きつけているのにはこちらであるにもかかわらず、もうどうにもならないという絶望感に、心がくじけそうになる。
「…呆れた。死にかけた――いえ、生きている方がおかしいっていうこの状況に、貴方はそんなことを考えるのね」
口から紡がれる魔女の声は、それでもあくまで十代の少女のものだった。その違和感が、魅惑的な恐怖を更なるものへと煽り立てている。
魔女は、首を振った。まるで、聞き分けの悪い子供を言い聞かせる母親のように。
「それに、貴方は致命的な勘違いをしている。わたしの力じゃ、あの子供だけは殺せない。予定使徒は、司祭じゃないわ。貴方の言った、子供の方よ」
「…なんだと?」
意外すぎるエミリの言葉に、思わず彼は自分の得物を取り落としそうになった。
「そのままの意味よ。考えても見なさい、魔術を指示したのは司祭でも、呪文を唱えたのは全てあの子供だったでしょう。それなら、あの光や炎はその子の内在世界から具現化された存在ということになるわ」
呪文とは魔術を行使するために必要となる意思を抽象化した文章表現によってひとまとめにした言葉だからね、と彼女はその後に付け加える。
「…予定使徒は大陸全土でも十人に満たないけど、それらは全て成人前の子供よ。魔術とは精神に対する専有とその強さ――言い換えれば〝こうしたい〟という願いの純粋さと大きさで決まるものなの。
…それでは、魔術の天才を量産するための最も効率的な方法――なんだと思う?」
嘲る様に鳴らされた鼻の音が、やけにはっきりと耳に残る。
魔女は、続けた。
「まだ現実世界を知覚する前の子供を買い、四六時中ひとつの価値観を刷り込むこと。他のことは、ほとんど何も考えられなくなるくらい。その代わりに、度でも口を開けば、その子は言葉ひとつに自分の全人生を込められる」
エミリは、大げさに両腕を振りながら言い放った。
「見たでしょう? あの奇跡を。まるで、神か悪魔の業。初めて目にしたとき、私もそう思ったわ。虚空から炎や光を生み出すなんて…あそこまでいくと、魔〝術〟ではなく魔〝法〟と言った方が、むしろ相応しいくらいでしょうね。
まさしく、彼らに取ってその口は主を称える為だけにあり、その目は主だけを捉え、その膝は主の前にひざまずくためだけにある――というわけよ。言うなれば、あれは神の人形ね」
一方、イーヴは黙ったままその話を聞いていた。
そして、唐突にくるりと背を向ける。
「…え? ちょっと、どこに行く気?」
エミリは、肩透かしを食らった気分でその背中に声をかけた。
イーヴの歩み出した足が止まる。
だが、そのまま振り向きはせず、彼は答えた。
「話の流れでわからないのか? 俺は、あの子を助けに行く」
「――は?」
それは、本当に何も理解していない声だった。でなければ、イーヴは永遠に彼女の前から立ち去っていたことだろう。
しかし実際には彼は再び振り返ると、魔女の顔を真正面から見据え返した。
「…要するに、あの子は洗脳されてるっていうわけだ。魔術云々はどうでもいいが、俺はそういうことをする奴も、大嫌いでね」
「何を、考えているの? あの子供は、わたしたちに取っては死を告げに来る死神以外の何者でもないのよ。予定使徒には、干渉しないのが一番いい。手を出すのなら、殺しなさい。予定使徒ひとりに、最大で何人の魔女が狩られたか――」
イーヴは、視線だけで魔女の言葉を遮った。
これ以上は、自分の感情を抑えきれる自信がない。おそらく、それは彼が生まれてからこれまで持った中では最大の感情だっただろう。
「…黙れ。お前は、あの子と同じだろう。それなのに、よくもそこまで言えたもんだな」
極大に膨れ上がった怒りを込めて、彼は告げた。
「やはり魔女だ。お前は」
吐き捨てるように言って、踵を返す。もちろん、行く場所は先程焼け出されたばかりの教会跡だ。
魔女の長い話の中で、有意義だったことが一つだけあった。
予定使徒が司祭の指示によって魔術を扱うのなら、司祭とさえ離してしまえば、ただの子供だ。おそらくは魔女の襲撃とその後の火事で混乱しているであろう今なら、うまく立ち回ればあの子だけを連れ去ることもできるかもしれない。
後のことは、そのときにでも、また考えればいい。
「――ま、待ちなさい!」
背中にかけられた二度目の声は、意外なことに――本当に意外なことに、焦燥を帯びているようだった。
この冷酷な魔女のことだから、あっさりと自分を見限るとばかり思っていたのに。
「そんなことが、許されるとでも思っているの? わたしは、二度も奴等から貴方を助けた。だから貴方は、わたしが教会の手から取って来た物――言わば、わたしの所有物よ!」
――ぞくり。
背筋に、何かが迸る。
「…勝手に死んで、いいわけがないでしょう」
魔女から放たれる重圧が、更に何倍にも増幅した。
まるで物理的な圧力すら持っているかのように、関節の上をその気配が纏わり付く。空気はむしろ肌寒いと言うのに、大量の汗が全身をくまなく伝っているのが、まるで手に取るように実感できた。
魔女は、いまや敵意を全身から放っていた。かつかつとイーヴに歩み寄りながら、エミリは左手を指し伸ばす。
その指先は、まっすぐに彼の眉間へと向けられていた。
「――それでも行く気なら、わたしをどうにかしてからになさい。どうせ死ぬなら、わたしが殺してあげるから」
「…わかった」
呟くと、イーヴは両の目を閉ざした。それは、彼女には観念した顔に見えたのかもしれない。
だが、エミリがその左手を下ろしきるよりも早く、イーヴは目を見開くなり、かつて十字杖だったものを投げつけた。
その先端が彼女に到達するよりも早く、急降下してきた虚が矢よりも数段重いそれを、嘴を使って叩き落す。
エミリは、しばし呆然としていた。だが、その表情が一変すると、下ろしかけた手を再びイーヴに突きつける。
そして――叫んだ。
『終末の魔獣の名に命ず! 獣の数字の理を、終わりに先駆けて原初へと示せ!』
その言葉を言い終えたとき、彼女の指の示す先にイーヴの姿はすでになかった。彼女の願いによって生み出した空気の渦は、その背後の街路樹に直撃し、梢を大きく揺るがせる。
感情の爆発のままに魔術を放ったエミリが正気に戻ったとき、イーヴはその木に向かって蹴撃の構えを取っているところだった。
「――破ッ!」
蹴る。蹴る。また、蹴る。
全身のバネを限界以上に引き絞って幹を蹴りつける度、火薬の爆発のような音が夜闇に響いた。どうやら、教会で見た棒術のみに限らず、徒手空拳の格闘法もいくらかは身につけているようである。
四度目で幹に亀裂が入り、五度目が止めとなった。さして高くもない街路樹が、エミリに向かって倒れ始める。
それはそれで、確かに驚異的なことではあったのだが。
(…何を、考えているの?)
こんなのは、攻撃でも何でもない。
相手は何度も渾身の一撃を繰り返す労力を払うが、こちらは少し大きく飛び退くだけで回避できる。
真実それはその通りで、エミリはその判断通りに地面を蹴った。
足の裏が、地を離れる。
だが、その次の瞬間、彼女はたまたまそこに突き出していた石に踵を取られ、大きくバランスを崩していた。
「……な?」
転倒。それから、一瞬送れて街路樹が決定的に揺らぐ。
樹は、転倒したエミリから大きく外れた場所に倒れ込んだ。
当たり前と言えば、当たり前の話だ。一本の木を、倒れる方向まで正確に狙って蹴り倒すなどと言う技が、人間の脚力に可能であるわけがない。彼女が後ろに跳んだのだとて、万が一こちらに倒れ込んでくる可能性を考えただけのことである。
あのまま、その場を動かずともよかったのだ。小さな魔術で少し衝撃を与えるだけで、倒れる方向をずらすくらいのことは容易にできる。
だが、現実に彼女は飛び退くことを選択し、そして偶然にもそこにあった石によって足を取られた。
もちろん、彼女が起き上がるよりも早く、イーヴはその上に馬乗りとなり、その両手足を押さえつけている。
すかさず跳んできた虚を、イーヴは投石で落とした。本来、鴉は夜目が利かない。小石程度の大きさになると、明かりが少ない夜の広場では、ほとんど見取れなかったのだろう。先程までの見事な動きからは信じられないほどに、白い使い魔はあっけなく地面に落ちた。
「……ぐむむっ!」
暴れて戒めを解こうとするが、所詮無駄なことである。口を抑え、魔術さえ使えさせなければ、黒の帳とてそこらにいる十代の少女と変わりはない。
抵抗はあまりにも弱々しく、そのうち、その微かな抵抗すらもなくなった。
だがそれでも、魔女はその凶悪な視線で睨み続ける。
「少し、俺を甘く見たな。悪いが、俺だって無条件でお前を信用していたわけじゃない。切り札は、あらかじめ抜き取っておいたのさ」
イーヴは、それでも衰えない視線の重圧に押し流されるかのように、説明を続ける。
「正直に打ち明けるとな、俺の凶眼は『物体』じゃなく『現在』の向こうを映すらしい。どうやら無限にある可能性のうち、その時点で確定した未来と自分の行動範囲から分岐し得る結果を、先駆けて知ることができるようでな。応用すればその時点で見えていないものでも見ることができるから、透視に見せかけることも可能ってわけだ」
「――――…」
眼光が、更に一段と険しくなった。
文字通り、視線が束となって眉間の真ん中へと突き刺されているかのようだ。負の感情を大いに込められた妖艶さが、強すぎる媚薬のように、脳髄を直に刺激している。
冷や汗は、既に彼の全身を濡らしていた。
このままの状態を続けていたら、そのうち気が触れてしまうのではないのだろうか。だが、その焦りを顔に出すわけにはいかない。
そして遂に、彼は言った。
「さて、どうする? …このまま、お前をどうにかしちまってもいいんだぜ」
(――――!!)
無論それは、少女を脅すために口にしただけの言葉にしか過ぎなかったのだが。
唐突に、何かが変わった。変わったのは何なのか? それを探し、イーヴはすぐにその問い自体が無意味であると気が付いた。
変化が起こったのは、全てだ。エミリの視線、彼女を押さえつける両手足の感触、月明かりの濃さ、空気の濃さ、秋虫の声、草の匂い、目に映る街並み、世界の色。
見た目は変わらない。だが、何もかもが一瞬にして紙一枚の薄っぺらな存在となっていた。
存在を持たない、幻影だけがある世界。
そして気付く。同時に、変わったのは自分自身であるのだと。
「――ふぅ」
硬直して動けない――いや、動く気にもなれない――イーヴの腕をあっさりとどかし、エミリはその下から這い出した。
視線は、そのままイーヴへと向けられている。そこに込められているのは敵意ではない、殺意ですら有り得ない。
当然だ。死者に、生者としての感情は意味がない。
イーヴは、今まさに少女の視線によって殺されていた。心臓は、至って正常に動いている。だが、そのことにさして意味はない。彼はすでに死んでいた、生きているのはただきっかけが与えられていないからに過ぎない――今は、まだ。
――仮に、その状態を例えて表現するのであれば。
彼は、生きながらにして幽霊へとされていたのだ。
「ありがとう。なら、わたしの凶眼のこともきちんと教えてあげないとね」
エミリは、地面に這いつくばった体勢のまま動くことも出来ないイーヴを見下しながら微笑んだ。
彼は、もはや汗もかいていなかった。身体の生理機能が静止し始めている。当然だろう、死者にかく汗はないのだから。
「死眼。名付けるとしたら、これしかない。ありとあらゆる生命に対し、原因や経過を無視した『死』という現実だけを一方的に与えることのできる死神の目……ふふふ、今、貴方の目に見えているのはレテ川かしら? それとも、綺麗なお花畑?」
嘲るような口調は、そこで止まった。
「――お前なんか、わたしの手の中で暴れているだけの蛾のくせに。…逆らうんじゃない!」
イーヴは悟っていた。彼女と対峙しているときに何度も感じられた年齢にそぐわぬ悪魔的な魅力、あれはやはり恐怖から来るものであったのだと。
研ぎ澄まされたナイフが突きつけられる冷たい興奮。それが、彼女本来の美貌とあいまってあのような妖艶さとなっていたのだ。『死』という、本能の根幹に関わる部分を抑えられたのでは、その結果にも納得がいく。
抗いようがない。彼女の言葉は、真実だ。
今、彼の身体の中を貫く快感と悪寒は、これまでの比ではなかった。
――これが、黒の帳が敵へと向ける眼光か。
だが、イーヴが死を覚悟――本来はその必要すらもない、彼はすでに死んでいるのだから――した瞬間、あれほどにまで張り詰めていた糸はあっけなく切れた。
全身の筋肉が弛緩し、埃だらけの地面の上へと倒れ込む。この季節にも関わらず、全身が火のように火照っているのが感じられた。
黒の帳は、冷酷に宣言する。
「お前なんかいらない。お前なんか、もう知らない。勝手にどこへでも行って、勝手に死ぬがいいわ。さあ、消えなさい!」
――殺される。
イーヴはその思いだけで四肢の力を取り戻し、よたよたと立ち上がった。
彼は、一度だけ振り返った。
その背中が消えた後も、黒の帳はその名にふさわしい眼光のまま、夜の街中に、ただ立ち尽くし続けていた。
・第六典「エミリ=イルランジュの手記」
これは…怒りだ。苦労して手に入れた、せっかくの研究素材を失ったことへの。
エミリは、イーヴが去った方向からいつまでも目を離そうとしなかった。
睨み、続ける。それで自分の憤りをどうにかできるのだと、堅く信じてでもいるかのように。
…勝手な奴だった。
人の気も知らず、最後まで言いたいことだけを言った挙句に去っていった。自分の立場もわきまえずに、ただ直感だけを信じて行動していた。身の程を知らず黒の帳へと挑戦し、予定使徒を教会の手から助けるなどと言ってのけた。
『…黙れ。あの子は、お前と同じだろう。それなのに、よくもそこまで言えたもんだな』
実のところ、彼に言われて初めてその事実に気付いたのだ。
教会が、どこから予定使徒となる子供を手に入れているのか。おそらくは凶眼の素養を持った子供の相談を受けた司教あたりが、神の子と称して教皇に売り込んでいるのだろう。それは、つい先日自分が口にした話と、寸分ほども変わらない。
考えてみれば、少し思考を巡らせればすぐにでも分かるような話である。それこそ、魔女の社会についてはつい先日知ったばかりのイーヴが気付くほどに単純な話だ。
だが、エミリは数年の間に渡ってそのことに気付かなかった。似たような話を、他の魔女から聞いたこともない。
違うと思っていたのだ。教会の使いであり、魔女の脅威である以上、彼らと自分が同じ存在などでは有り得ないと。
自分があちら側にいた可能性など、あったはずがないのだと。
『やはり魔女だ。お前は』
気に食わない。どうしたって、気に食わない。
不条理な戸惑いは、同じような不条理さでそのことを気付かせたイーヴへと向けられていた。
だが、このいらつきはそれだけのせいではない。
その理由までは分からなかったが、とにかくイーヴという青年の存在が、常に彼女の心を掻き乱していたのは確かだった。それは、あの人ごみの中から彼を見ていたときから感じていた感情だ。
今思えば、自分は何故、彼を連れて来たりしたのだろう?
彼が、裁判と称する拷問にかけられようが、それとも火炙りにかけられようが、あのとき何の繋がりもなかった自分には関係なかったはずなのに。
それとも、彼の凶眼は、自分の心を殺してまで研究する価値があるような、大したものに思えただろうか?
その応えは否だ。イーヴ=カミュの存在は、魔女エミリ=イルランジュの存続に、決して正の影響を及ぼしはしない。
だがそれならば、彼が消えていなくなった今、何故、わたしの心は清々としないのだ?
眉間に一層の力を込めた後、エミリは唐突に肩を落した。
…なんだか、むなしくなってきた。
代わりに、彼女は右腕を顔の高さに上げた。とうに気絶から覚めていた虚が、ひょっこりと起き上がるなりその腕の上に飛び乗った。そこから、肩へと飛び移る。
よくよく見れば、広場はまだ祭の余韻を残していた。
収穫祭は昨日で終わったはずであるが、撤収しきれない屋台や捨てられたビラが、まだ幾らか残っている。彼女が母に手を引かれて故郷の祭に参加していたのは、果たしてどのくらい昔のことになるのだろう? いや、それを言うならば、今の彼女の年齢とて、同世代の女友達と――もしかしたら恋人と――手を繋いで遊びに来ている姿の方が、むしろ自然なのかもしれない。
だがそれは、彼女にとってはひどく現実感のない空想だった。
虚が、心配そうに低く鳴いて首を傾げた。まさか、いくら訓練されているとは言え、鴉に彼女の内心が分かったはずもあるまい。だが、エミリは寂しげな微笑を浮かべて、物言わぬ鴉へと応じた。
「…まるで、あの時の再現ね」
エミリは、白鴉に語りかけるように呟いた。
虚は、彼女が少女ではなく魔女として歩んできた道のりの上で、いつも隣にいたエミリ唯一のパートナーだった。
もともとは母が村人に隠れて飼っていたものだが、おそらくは母も自分と同じく魔女だったのだろう。
虚は、八歳の誕生日プレゼントとして彼女が世話をするようになったときには既に今と同じだけの知能を持っていたし、他にも母が集会と呼ばれる魔女同士の会合に行っていたと思える節も、いくらかあった。また、彼女が遊びやおまじないと称して母から教えられたものの中には、精神を研ぎ澄ませるための魔術訓練として有効なものも、数多く含まれていた。
おそらく、母は我が子の凶眼に気付いていたのだと思う。それとなく、自分に力を統べる方法を教えたかったに違いない。
確かに、その成果はあったのかもしれない。現実に彼女はあの日、娘に真意を告げることなく殺された母の前で、その仇を討つことが出来たのだから。
あのときの感触を、彼女は一生涯忘れることは出来ないだろう。
生きている人間の心臓を直接素手で掴んでいるような不思議な高揚と優越感、そして悦楽。
どくん、どくんと波打つそれは、まるで硝子製の太陽だった。
指の一握りであっけなく砕け散る、頼りない宇宙。
そのときのエミリは、手の中の心臓を心の赴くままに握り潰した。引き裂いた。壊した。捻り切った。
やるだけやったその後で、彼女はむなしくなったのだ。
――命とは、こうも脆いものだったのだろうか。
――こうも、あっけないものだったのか。
――こうも、無価値なものだったのかと。
一晩にして何もかもを失った彼女にとって、その軽さは救いだった。母の書斎で、彼女のお気に入りでもあった銀製の鋏を持ち出し、自分の首筋へと当てた。それが、最も簡単で、かつ意味のある解決法だった。
いや、簡単な解決法だったはずなのだ。
切っ先が首の皮にめり込んだところで、一筋の汗が頬を伝わる感触があった。
しばらくそのままでいると、風が吹くような荒い音が、どこからともなく聞こえてきた。よく観察すると、それは自分の呼吸だった。全身が、突きつけた喉元を中心に異様に熱くなってきた。喉が、カラカラに渇いていた。心臓がばくばくとなる音が、嫌にうるさく感じられた。
しばらくすると手が震え出し、鋏がカチカチと揺れ始めた。今にも喉を突き破ってしまいそうで、思わず鋏を放り出した。
――怖い。
――自分の命だけは、消してしまうのがこんなにも恐ろしい。
こんなにも儚いのに。こんなにも脆いのに。こんなにも小さいのに。こんなにも、苦しいものだと分かっているのに。
それなのに、わたしは自分の生にだけは固執している――。
その事実に、呆然とした。情けなくて、涙が出てきた。
情けなくて、情けなくて、馬鹿らしくて――悲しくて。
気がつくと、彼女は大声で笑っていた。
いつまでも、いつまでも、なぜ自分が笑うのかすら分からずに、ただいつまでも笑っていた――
(――――……)
あのときにすべきだった行動を、わたしは今でも迷っている。
死ぬべきだったのではないか。あれだけの人を殺し、あれだけの命を踏み躙り、自分の命だけは捨てられなかった自分など、どう考えても許されるわけがないのだから。死神の眼を持つ自分など、誰にも愛されるわけがないのだから。
わたしこそ『虚』だ。この胸の中には、何もない。こうも無価値で、こうも無意味に、こうも見苦しく生きている自分にこそ、相応しい。
――こんなとき、あの男ならどうするのか――
指示もないのに、虚が急に飛び立った。月を背に、白い鴉は屋根の向こうへと消えていく。
気分は、ちっとも晴れなかった。虚に言い聞かせることで、逆に鬱憤が溜まった気がする。
解消するための行動なら、とっくの昔に分かっていた。決めかねていたのは、そうするための理由である。
そんなものは、どこにもない。初めからあるわけがないのだから、当然だ。
だが、結局彼女は歩き出す。
虚の飛び去った方角、そして、あいつの消えた方向へと。
「――むかついた」
敢えて言うなら、それが彼女の行動理由であったのかもしれない。
・第七典「贖罪と弾劾の物語」
三度目の角を曲がったところで、ようやくイーヴは司祭たちの姿を〝視〟た。
教会の焼け跡で写本や聖像を掘り出していたのはあちこちに包帯を巻いた信徒たちばかりで、例の司祭とあの子供の姿は、どこにもなかった。例の魔術を使えば火くらい簡単に消せそうなものであるが、建物はほぼ全焼に近い。辛うじて骨組みが残っているに過ぎず、隣家に燃え移った様子がないのは、奇跡に近いことだろう。
幸いにも、黒焦げになって詰まれているのはマリア像や木箱の類ばかりで、死体らしき形はひとつもなかった。もっとも、先に別の教会へと安置しただけの話なのかもしれないが。
作業をしている信徒たちに訊ねる訳にもいかず、イーヴは闇雲に街の中を駆け回った。
とは言え、彼には未来予視の凶眼がある。路地を左に曲がった場合の可能性、右に曲がった場合の可能性、この場に立ち尽くした場合の可能性など、選択肢のある度に、自分ができ得る行動全てを〝予視〟し、更にその予視の中での次の選択までも予視する。これを繰り返すことで、彼は同時に十くらいの場所にいるようなものだった。
確かに便利な能力ではあるが、イーヴの凶眼には欠点も多い。第一に自分以外の者が未来を確定させていない場合――例えば、どの路地を通って目的地へ行くか――を無意識にでも決めていなければ、それだけで未来を計ることはできなくなる。実際、その可能性は高かった。それに、既にどこかの民家の中にでも入っていれば選択肢が多くなりすぎて、これも探しようがなくなる。
それを考えれば、凶眼を使おうが使うまいが、大した差はなかったのかもしれない。だが、結果としてイーヴは三つ先の角で鉢合わせる司祭と子供――たしか、レミュと呼ばれていた――を捉えていた。
視ている映像は、靄がかかったように不鮮明だ。確定しているとは言え、遠い未来ほどこの傾向は強くなる。周りに、あの信徒が何人取り巻いているかは、実際に行ってみるまで分かりそうにないだろう。
だが、少し様子がおかしかった。予視像の彼らは、足を止めているような気がする。
こんな肌寒い夜の中、それも住んでいた家を焼け出された直後で、のんびり散歩というわけでもあるまい。魔女についての報告も必要だろうし、慌しく走っている方が自然である。
(…ま。関係ないか)
彼らの事情は、どうでもいい。予定使徒とやらが、彼らにとってどれほど大切な存在なのかということも、どうでもいい。
(俺は、俺のやりたいようにやるだけだ)
それが一番後悔のない方法だと、彼はよく知っていた。
凶眼とは、個人の願望が具現された形なのではないのかと、彼は思う。
イーヴの母と妹は、彼のせいで命を落とした。
直接の死因は、ある夜に押し入った夜盗のナイフだ。そいつは異常性格者で、まだ幼いイーヴを組み伏せながらこう言ったのだ。
『母親か妹、好きな方を選べ。片方だけは生かしてやる』
イーヴが沈黙を貫いていると、夜盗は嬉々として妹を、続けて母を刺し殺した。
今思えば、彼は少年のころ、これを除いて選択の判断に迷ったという記憶がない。もしかしたら最近まで気が付いていなかっただけで、彼は無意識のうちにこの能力を発現させていた可能性もあった。
予視で視た路地を、右に曲がる。
果たしてそこに、司祭と予定使徒の二人は立っていた。
道の脇には、信徒らしき五人程の男たちが、呻き声を上げながら倒れている。
そして、司祭たちを挟んで反対側、街の中央を流れるローヌ川に掛けられた跳ね橋の上には、黒き魔女の姿があった。
(…な、なんだ?)
イーヴの思考が、ぐるぐると過去と現在を巡り返した。どうして彼女がここにいる? 何故、使徒と正面から対峙している? 彼女は、俺を見捨てたのではなかったのか?
「――うるさいわね! 理由なら、後でもっともらしいのを幾らでも考えてあげるわ。それより、今はこいつらをどうするかを先に考えなさい!」
彼が口を開こうとするよりも早く、エミリが怒鳴った。それでいてうるさいとは、随分と不条理な物言いだ。気のせいか、先程自分と命のやりとりをしていたときよりも、よほど動揺しているように感じられる。
「ぉ…おう」
結局イーヴにできたことは、辛うじてその返事を返すことだけだった。
深い呼吸をひとつして、頭の中身を切り替える。
彼は、棒術の構えを取った。膝を軽く曲げ、途中で盗んできた屋台を支えるためのものであろうつっかえ棒を、左肩と右膝を結ぶようしてに構える。相手の攻撃が伺えないがための、防御に重点を置いた構えだった。
「…神の家に火を付けた上、まだ我らに害を成そうというのですか、サタンの使いよ。どうやら、貴方には粛清が何よりも優先されそうです。こうなれば街中だろうが、私は容赦しませんよ」
「――あなたの、その勝手な理屈はどうでもいいわ。わたし達の目的は、その子供よ。おとなしく渡しなさい。さもなければ、滅ぼすわ」
耳を疑ったのはイーヴの方だった。その言葉を聞く限り、彼女は自分に協力しに来たらしい。
司祭の顔色が、明らかに悪くなった。確かにエミリの言っていた通り、街中での魔術の行使は、彼らにとって好ましくない事態のようだ。
だが、それも叶わない。魔術なしでは、二人はあっという間に彼を組み伏せ、宣言通りにレミュを連れ去ってしまうだろう。
それは、教義的にも実利的にも、教会にとってはあまりに痛い損失だった。
「仕方が……ありません! 第六巻・ゼブルの賛美楽譜、第一章第九節第…」
「――言わせるかっ!」
イーヴは、ベルトに括り付けた水飲み用の皮袋から、これもあらかじめ拾っておいた石礫を取り出すと、手の上で聖書を広げた司祭へと向かって投げつけた。
少女が、司祭の指示に反応して魔術を行っていることは明らかだった。おそらくは、敵を認識して自分で判断するだけの知能が閉じ込められているためだろう。
付け入るとすれば、隙はそこにあるはずだった。
「…ひっ!」
思ったとおり、投石に怯んだ司祭は魔術の指示を中断した。
イーヴは、その隙にレミュへと向かって跳躍する。先程まで司祭が視線を向けていた方向――すなわち黒の帳へと目を向けたまま、少女は微動だにすらしていなかった。
イーヴの大きな左腕が、軽々とその体を抱え上げる。
「…駄目よ、イーヴ!」
エミリの言葉は、一瞬だけ遅かった。司祭が、次の瞬間に叫んだのだ。
「こちらへ来なさい、レミュ!」
その言葉を耳にするなり、されるがままになっていた少女が顔を上げた。
聖句を唱えられないよう口を塞いでいたイーヴの右手が、猛烈な力によって弾き飛ばされる。それが、少女の小さな拳によるものだと気付くまでに、彼は数瞬の時間を要した。
その拳で、予定使徒は、今度は目の前にあったイーヴの腹を殴りつける。
それは、正に子供が駄々を捏ねるようなひどく幼稚な仕草ではあったが、それとは裏腹にまるで丸太で殴りつけられたような衝撃に、イーヴの意識が一瞬飛んだ。少女は、その隙に易々と拘束の中から脱出する。
その腕力は、明らかに子供の――いや、人間のそれではなかった。無論、これも魔術による効力である。具体性は帯びないものの、人間は言葉だけではなく視線でも意志を表現できる。表現できると言うことは、魔術の媒体とすることもできるということであった。言わば、これが予定使徒の凶眼なのだ。
無論、これと同じことは、エミリにはできない。それは、予定使徒としての一途すぎる意思力と、肉体による衝撃の強化という極めて単純かつ限定された願いによって、初めて有意なだけの効力を発揮したものだった。
レミュは、まるで母親に呼ばれた幼子のように、とたとたとあどけない足取りで司祭のもとまで走り寄った。走れば十分に追いついた速度だったが、それをしたところでおそらくは今の二の舞になるだけだろう。
イーヴは追わず、再びその場で構えを取った。内臓のダメージは時間を置いて作用するが、とりあえず動くことに問題はなさそうだ。
「イーヴ、無事?」
走り寄ってきたエミリが、ケープを脱ぎ捨てながら彼の背後に回りこんだ。
今度は、盾にでもするつもりだろうか。イーヴは、皮肉気に口元を歪める。
「…ふん。まさか、黒の帳に心配される日が来るとはね」
「軽口言う余裕があるのなら、貴方はまだ使えそうね。…でも、今ので終わりに出来なかったのは、正直言ってつらいわよ――もしかしたら、勝機はもうないかもしれない」
不吉なその言葉に、イーヴは反射的に背後のエミリへと視線を向けた。その拍子に、後ろに大きく突き出していた左肘が、剥き出しになったエミリの首筋を軽く撫でる。
その接触は、一瞬だった。
だが、彼の驚愕は果てしなく長く続いた。
魔女の肩は、小刻みに震えていた。秋風のせいではない証拠に、その身体は微かに火照っている。
「とりあえず、死ぬときはせめて司祭を道連れになさい。そうすれば、後はわたしが世話してあげるわ」
…ああ、そうか。
これが、彼女なりの軽口の叩き方なのだろう――
「なによ。ついに、気でも触れたの?」
くつくつと苦笑を漏らし始めたイーヴに、いかにも怪訝そうな声で背後のエミリが訊いてきた。
彼はにやりと笑って、同時に四肢へと力を込める。
「――いや。お前も案外、可愛いところがあるんだと思ってな」
「…なっ!?」
魔女の動揺を合図に、イーヴは真っ直ぐに左へと疾走した。相手の攻撃の中に広範囲に渡る魔術がある以上、エミリとは離れていた方が得策だ。
彼女が絶望的と言った状況の中で、イーヴの口元は歪んでいた。気を抜けば、笑い出してしまいそうだった。何故だか、楽しくて楽しくてしょうがない。
「いぃぃぃーーー、ひゃっほうぅっっ!!」
路上の石がひとりでに浮かび上がっては弾丸となり、イーヴを襲う。
だが、彼に命中する礫はひとつもなかった。物陰から物陰へと飛び移り、躱し切れないいくつかは手にした棒を使って防ぐ。
勢いは強烈でも、狙いをつけているのはまだ十歳にもなっていないただの子供だ。軌道があまりにも素直すぎて、今の自分に当たる気はまったくしない。
小石の弾幕の間隙を読み、イーヴは進路を九十度転換して突っ込んだ。
今度の狙いは、予定使徒自身ではなく、その脇に立つ司祭の方だ。少々手荒ではあるが、彼を昏倒させさえすれば、全てが片付く。
「第三巻・シェハキムの弾劾書、弟七節弟十七章弟二句…――詠みなさい!」
少女の視線の照準が、ぴたりと彼に合わせられた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
エノクよ、この場所は楽園の北側。明るい闇と黒き炎に包まれし、ここは囚人の落ちる場所なり。
忘れるなかれ、汝が主に背く限り、その魂は必ずこの場所へと堕つるのであると」
避けられないと知り、彼はその場に足を下ろして、構えた棒を垂直に立てた。
その行為に意味があったとは思えなかった。彼を襲ったのは強烈な冷気であり、それは空気を歪ませることで僅かに姿を見て取れた。
冷気が消え去った後、彼の肉体は見える場所全てが赤く腫れ上がり、腕や顔からはいくつもの氷柱が垂れ下がっていた。到底、凍傷で済む程度のものとは思えない。
司祭も、そう思ったことだろう。だが、次にイーヴがしたことは崩れ落ちることでなく、突進を再開することであった。
彼が動揺している間に、イーヴは既に間合いの半分以上を詰めていた。あと三つ数える後には、間違いなく彼の棒が司祭の顔面を襲っている。
「――こうなったら、あまり派手な奇跡は使いたくありませんが…仕方ありません! レミュ、弟七巻アラボトの聖別書、最終巻第七節全句、終末の盟約に関わる記述です!」
(…まずい!)
こちらの一撃が届く前に、おそらく聖句は詠まれてしまう。
かと言って、あの魔術は躱そうと思って躱せるようなものでもない。
もう一度あんな魔術を受けて、果たしてまだ動けるか――いや、それ以前に生きていられるかどうか。
「止まるな! そのまま、突っ込みなさい!」
再び彼が足を止めかけたとき、その声が響き渡った。
イーヴは、一瞬逡巡する。だが、全身を止めるために踏み込んだその一歩は、逆に力強く地を蹴った。
少女が、聖句を唱え出す。
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
全なる主よ、旧約と新約を超えて、我らに理を与えたまえ。天が落ち、地が吹き出ても、我らは汝に従いたし。
我らはここに盟約す。個にして全、無にして無限なる主の威光を、永遠に渡りて賛えんことを』
『禍なるかな、禍なるかな、禍なるかな!
破滅への予定書を順に辿れ! 赤き空へと堕ち出でよ、炎の尾を引く不吉の星よ!
虫の木の名と鉛の鎖、水を苦しめ、あらゆる者への楽園と、その秩序を崩落せしめよ!』
エミリは、すでに火をつけておいた火口箱を投げつけた。
彼女の魔術に干渉し、それは正に不吉の名を持つ星の如く、空中で真っ赤に燃え上がる。凶星は、少女の前で膨れ上がれかけていた白光の塊へと着弾した。
二つの魔術が、同軸の空間上で交錯する。
白光は、開放の瞬間に燃え上がった。突如燃え出した自らの魔術に本能的な危険を察したのか、少女は術を中断して、炎と煙から逃れるべく後ろに下がる。同時に、耳をつんざく金切り音が響き始めた。
司祭と少女、彼からはどちらも手が届く距離だったが、
「イーヴ、その子を!」
頷き、イーヴは少女を抱きしめた。そのまま、自分が上になるようにして身を投げ出す。
どちらの術の効力か、虚空で光が爆発した。
(…まったく、これこそ奇跡よね)
エミリは、爆風で目を回した司祭を彼自身のエトワール(儀式時に両手を覆うための布)で縛り付けながら、予想外の結果に嘆息していた。
魔女たちをして神か悪魔と言わしめた予定使徒を、この男は気合ひとつで捻じ伏せたようなものである。
その使徒も、気を失ってしまえばただの子供と変わらない。それは、彼女がずっと想像していたような、魔女にとっての死神の寝顔ではなかった。長い金髪を飴細工か何かのように地面に広げ、規則正しく胸を上下させるその姿には、小さな愛らしささえ感じさせる。
無条件に幸せを感じている、まるでそんな寝顔だった。だが、そのあどけない寝顔も、ひとたび現実に戻ればたちまちの内に凍りついてしまうことを彼女は知っている。現実が辛い者ほど、せめて夢の中では安寧を感じようとするものなのだ。
…ひょっとしたら、彼女も苦しんでいたのではないだろうか。意識と、無意識との狭間にて。
そこにいたのは、確かに過去のエミリ=イルランジュなのかもしれなかった。
「こっちは終わったわ。傷の方は大丈夫なの?」
「――そう見えるか、これが? 魔術でも奇跡でも何でもいいから、とっとと直してくれ。頼むから」
イーヴは痛々しげに言って,真っ赤に変色した右腕を見せた。
ところどころが空気を込めたように膨れ上がり、それが破けている部分では、中から水のようなものが染み出している。見た目ほどひどい傷でもないだろうが、見ているだけで思わず顔を顰めたくなる。全身が似たようなものだと言うのに、これでよく動けたものだ。
「…悪いけど、それはわたしにはできないわ。わたしの魔術は、敵への害を具現化する目的のものがほとんどだから」
「…なんだよ、この肝心なときに」
本気でふてくされているらしいその物言いに、エミリは軽く微笑みを返した。
「我慢なさい。魔術は決して都合のいい万能の力ではないのよ。帰れば,薬ならいくらでもあるから。それとも――」
言いながら、すやすやと眠り続ける少女の方へと目をやる。
「…この娘なら、そのくらいの傷は一瞬で直せるのでしょうけどね。何なら、目が覚めたら頼んでみる?」
それはただの冗談のつもりだったのだが、余程痛みが激しいのか、イーヴは「そうするよ」と頷いた。どこまでが本気なのかは、分からないが。
「……ん……」
少女が身じろぎ、うっすらと瞳を開いた。微笑ましい気持ちで、エミリはうっすらと目を細める。
――次の一瞬が、始まるまでは。
その結果は、防ぎようがなかった運命と言えよう。エミリとて予定使徒についてのすべてを知っていたわけではないし、未来予視のできるイーヴの不注意さを責めるには、あまりにも不確定の要素が多すぎた。
予定使徒は、その行動の大部分を本能的な反射動作に依存する。常に付き添う司祭が指定した聖句を暗唱することで魔術行使のためのイメージが形作られ、同時にあらかじめ長時間を掛けて刷り込まれた敵の姿を見つけ出し、その空想を解き放つのである。
ここまでは,エミリも知っていた。だからこそ、初めの夜はすぐ側に予定使徒がいたにも関わらず、イーヴの前に現れたわけである。
だが、その本能は自分自身の力を知覚することもまた、行っていた。聖句が鍵となることは分からないまでも、自分の願いがそのまま結果に繋がることは、意識下の常識として脳の中に定着していた。
そして今、自分の前には、敵として教えられた者の顔がある。
敵。自分に,害を与える存在。
エミリが声をあげる間すらなく、イーヴの左腕が宙を飛んだ。
「――――!?」
肩口から溢れ出る夥しい量の血液は、二人を中心として煉瓦の溝に沿って広がり、まるで、花のような紋様を形作った。
生命の力強さを誇る、毒々しいほどに真っ赤な薔薇の花。花は、刻一刻とその花弁を広げていく。彼の命を吸いながら。
千切れ飛んだ彼の左腕は、いやに長い時間宙を飛んだ後で、ローヌ川の中へと落下した。
同時に、少女は地を蹴って二人から離れる。二十フィート程も離れたところで、少女は唸り声を立て始めた。
その姿は、まさに獣だ。
目を覚ます『敵』を間近で見たショックで、防衛本能だけが目覚めてしまったのかもしれなかった。
『…地獄の五層に住む小魔よ。汝の嘆きを記すがいい』
傷口を凍らせることで出血を止めると、エミリは予定使徒に背を向けたまま立ち上がった。
その背には、何の気概も感じられない。まるで亡霊か、もしくはただの幻影のように、彼女の姿だけがそこに浮かんでいるようだった。
「――エミ、リ…?」
辛うじて止めた意識で、イーヴが呟く。その目は、驚愕に見開かれている。
魔女と呼ばれたその少女は、独白のように呟いた。
.「…ごめんなさい」
それは、何に対する謝罪だったのだろう。
自分の愚かさによる懺悔か、それとも、これからしようとしていることに対する贖罪か。
「…ごめんなさい」
エミリは、謝り続ける。
凶眼の力を知ったとき、自分がとてつもなく怖かった。
あるとき、誰かを憎いと思う。そのときに、自分の願望を実現するための手段があってしまう。
それは、信用できない自分自身への恐怖感。
「…ごめんなさい」
だから、魔術を勉強した。彼女にとって、凶眼が魔女としての素質の印であることは幸いだった。炎や風であれば、殺すことなく自分の怒りを、憎しみをぶつけられる。誰も殺さずに、身も守れる。
――でも。
「…ごめんなさい」
本当に必要なときは躊躇わずこの力を使えるようにと、ずっと、自分に言い聞かせてきたはずなのに――
「やめろ、エミリ!!」
イーヴの凶眼が未来を見た。彼女は、ゆっくりと首を左右に振る。
今、分かった。わたしは、きっと彼に憧れていたのだ。
もっと言うなら、彼のまっすぐな生き方に。ときには、自分の左腕を切断されても、その相手を許せるくらいに。
それは、わたしには到底できない生き方だから。
「…ごめんなさい。イーヴ、――母さん」
振り向いた黒の帳の両頬は、溢れ出る涙で濡れていた。
「やはり、貴方はあのとき殺しておくべきだった――!」
彼女の世界が、律動する。
凶眼の瞳に移るものは、生きるものと生きてないもの、その二つだけだった。眼前の生命、まだ本格的に燃え盛る前の淡い命へと手を伸ばす。
現実の視点で、少女の顔が哀れなほどに歪むのが見て取れた。
今、エミリが凶眼を使うことに意味などはなかった。指導者を失った使徒は、たとえ本物の獣並の運動能力を持っていようと、黒の帳の障害とは成り得ない。その脚力で跳躍した一瞬に、彼女は数回の魔術を打ち込むことができるだろう。
許せないから。だから、殺す。
彼女の中にあるのは、ただ憎悪のみだった。理性に先駆けて感情だけが暴走し、自分自身が制御できない。
それは、彼女が最も恐れていたこと。同時に、最も成し遂げたかったことでもあった。
やはり、少女は昔のエミリだったのだ。
ならば、彼を傷つけたのも私自身だ。
過去の自分を殺してしまえば、わたしはもう二度と自分を許すことができないだろう――そんなことは、どうでもいい。
本能が先に死を受け入れたレミュが、泡を吹いて崩れ落ちた。
死を統べる魔女は、一層の憎しみを眼光に込める。
お前は、いてはいけなかった。お前がいたから、イーヴが傷ついた。お前がいたから、母は死んだ。お前がいたなければ、何も起こることはなかった。そして、きっとお前は悪くない。
だから。
だから、お前の存在そのものがいけなかったのだ――!
幻想の中で手に掛けた心臓を、視線で握り潰すべく、目を凝らす。
その瞬間、偶然にも彼女の視界の端に入ったもの。
笛。
なんの変哲もない、木笛だった。
そんなもの、祭の時期ならどこの夜店でも売っている。笛の端には長い紐が通されており、その先は少女の首へと回されていた。音が出るかも怪しい安物だ。倒れた瞬間に、服の胸元から地面に零れ落ちたのだろう。
意識の大半を封じられた少女が、これを欲しがったはずはない。
ならば、この笛を買い与えた者は、そのとき何を考えていたのだろう。
教会の道具でしかないはずのこの少女にも、一人くらいの共感者がいたのだろうか――
一瞬の物思いにより、張り詰めていた意識がぷつりと絶えた。視界が、急速に闇へと塗りつぶされていく。
昏い闇へと落ちながら。
そのときに彼女が感じていたのは、仮初めでも十年振りの安らぎであったのかもしれない。
・終幕 「黒い帳の伝承」
ピィィィィ――……
それは、合図の音だった。
雲ひとつない空を悠々と旋回していた彼は、すぐさま頭を下に向けた。
彼の眼下に広がるのは、遠い昔から商業都市として名を馳せてきた古い街並である。同じような煉瓦の屋根が並んでおり、その間隙を縫うように走っている通りには、今日も早足で通り過ぎる人々がいる。
その一角に、さほど繁盛もしていない店があった。人間でない彼には、それが何の店であるかには興味がない。ただそこが、彼の家であるという事実だけに意味があった。
アルルの中心部にも程近いこの区域は、ほとんど隙間なく家と家とが隣接している。こうして上空から眺めることで初めて分かるような建物同士の隙間へと、彼は急降下する勢いを最後まで殺すことなく、その白い身を滑り込ませた。
空中に放られた豆袋を、その途中で受け止める。
「クァーッ」
「よし、よし」
テーブルの上で豆を突付き始めていると、柔らかい指が彼の頭を撫でてきた。今の自分の主人でもあるこの少女は、数度も撫でると、彼の脇に吹いたばかりの木笛を置く。
つい最近まで合図はただの指笛であったのだが、最近の少女はもっぱらこれを使うようになっていた。
…そう言えば、近頃この家は随分と慌しくなっているようだが、そのことと何か関係でもあるのだろうか?
豆を突付く動作を止め、彼は主人の顔を見上げた。
「今日はね、お仕事を頼むわ。この手紙をリヨンの南端にいる魔女のところに届けて欲しいのよ――って、あれ?」
言って、きょろきょろと辺りを見渡す。その後、彼女は店の表へと続く扉を覗き込むなり、かなりの大音量で叫び込んだ。
「ねぇ、イーヴ! さっきまでわたしが書いていた手紙、どこにやったの?」
その瞬間、廊下の奥から瓶や棚やらをひっくり返す音がした。
しばらくして姿を見せた男は、仏頂面に顔を膨らませている。この家を慌しくさせている原因のひとつは、間違いなく最近入ったこの居候のせいだろう。
あの夜に左腕を離して帰ってきた彼は、今は包帯で吊ってこそいるものの、しっかりと二本の腕を携えていた。まさか新たに生えて来たわけでもないだろうが、果たして、これは一体どういうことなのだろうか。
「――なんでもかんでも俺のせいにするなよ。あと、いきなり大声も出すな。驚くだろうが、こいつが」
無事に動く右腕で、男は彼の服の袖をずっと握り締めている女の子の金髪を軽く叩く。あの夜に彼の主人が連れて来た、三人目の同居人だ。
彼が少女の姿をこの家で目にするのは、これでまだ四度目のことだった。つい先日までは、ずっと男の部屋に入り込んでいたようである。そう言えば前回この少女の姿を見たときには、男の腕も元に戻っていたような気がする。医術の心得でもあるのだろうか、この娘は。
…まぁ、どちらにせよ、彼にとってはどうでもいいことではあるが。
少女が、くいくいと男の袖を引っ張った。
「ん、どうした?」
「…あのね。手紙。……そこ」
十歳前後という少女の外見年齢の反し、彼女はまるで幼子のような言葉しか発さない。
彼女の指の先、彼の主人の腰ベルトに、白い紙片が挟まっていた。
「…あ、いつの間に」
「いつの間に、じゃないだろ。大方、自分で差しといて忘れてていただけだろうが」
その文句を皮切りに、二人の間で口論が始まった。はっきり言って、最近はいつもこの繰り返した。
本当に、この家は騒々しくなってしまったと思う。彼は、物静かな方が好きなのに。
しばらく待ったが、どうやら長くなりそうだった。溜息代わりに、机の上の豆袋を突付き始める。
「………」
彼は再び、頭を上げた。先程の少女が、興味しんしんの表情で、自分の食事を覗き込んでいる。
どうやら、彼の餌を横取りするつもりはないようだが…それにしても、食べづらい。
彼が首を傾げると、少女は驚いたように身を引いた。だが、しばらくすると、彼女はおずおずとながらも、彼の主人が持っていたはずの小さな紙片を取り出した。
「手紙。…お願いね」
そう言って、たどたどしい手つきで、手紙を彼の足に巻きつける。少女が力の加減を間違えて彼の足を折るのではかとはらはらしながらも、彼はじっとその作業の完了を待った。
「…いってらっしゃい」
手紙を結び終え、最後に少女はにっこりと笑顔を浮かべた。
どうやら、ここでの彼の役目はもう終わりらしい。後は、この大空を跨いだ先で、彼と同じ匂いを持つ鳥か獣に渡すだけだ。
「クワァー」
彼は、入ってきたときと同じ勢いで窓枠から飛び出した。
そのまま、どこまでも高く、高く、空へと飛んでいく。
雲の帳を抜けた先には、また別の空が広がっていた。




