前
・序幕「誰のものでも無き独白」
遠くで、宴の音がする。
リュートとリラの奏でる旋律、爆ぜる炎、人々の楽しげな笑い声。
農作より商業の方が生活の中心であるようなこの街においても、収穫祭は街を上げて行われる、大切な季節の区切り目だ。
今年得られた恵みに感謝し、これから訪れる長い冬を無事に乗り越えられることを願い、詩と唄のある人生を喜び、人々は謡う。皆が笑い、誰一人として俯いている者はない。これからの季節がより辛く、より厳しいと分かり切っているからこそ、誰もが心より宴の空気を楽しんでいるのだ。
今ごろ、街を貫く大通りは、出店で埋め尽くされていることだろう。湯気を立てる料理と葡萄酒、中身を刳り貫かれた南瓜のランプで辺りはまるで昼のような明るさに包まれており、道端のあちこちでは、きっと詩人達が新作の物語を謡っている。
船々が灯した灯篭で川は幻想的な光の帯に彩られ、街のあちこちにあるの教会は、どこも熱心に祈りを捧げる信者達によって埋め尽くされているのだろう。
街の中心部には、広場がある。そこでは、若い男女が輪となって踊っているに違いない。軽快で陽気で、そしてこの上なく幸せなリズムの音楽と共に。
――それら全てが、恐怖を増す。
ここには、何もない。街の中心部からは遠く離れた路地の裏、月の光さえも届かないような、ここは闇の領域だ。
決して表通りからは分からぬよう両手両足を縮こませ、古ぼけて朽ちた酒樽の陰に、一人の少女が蹲っていた。
肩が細かく震えるも、物音を立てぬようにそれを必死で押さえつけている様が見て取れる。唇を血の滲むほど強く噛み締め、目までが堅く閉ざされていた。
今の彼女に存在する世界とは、裏路地の濁った匂いと遠く聞こえる祭の音、それだけだ。
だが、その世界の中にはある。宴で賑わう声の中、はっきりと、存在を異にする足音がする。
カッ、カッ。カッ、カッ。カッ、カッ。カッ、カッ。
几帳面にきっちり二歩歩んでは歩みを止め、その度に周辺のものを漁っているのが、気配で分かる。
機械的で、効率さだけを考えた動き。それは、無意識の本能のみが成している技なのだろう。少なくとも、飲みすぎて一足早く祭から抜けて来た人間の足取りなどでは有り得ない。
また、ある意味で〝それ〟は人間ですらもない。
何度遭遇したところで、彼ら、いや〝それら〟を目にする度に全身を寒気が覆う。それすらもまた、正確な表現には程遠いことだろう。こうして、近づいてくる足音を耳にしただけで、それらが一度吸った空気が肌に纏わりついただけで、しっかりと2本の足では立てなくなる。
姿など見えなくとも、断言できる。そこにいるのは、自分たちとは明らかに一線を隠した別の〝何か〟。
その予感は、しっかりとした理屈や体系に基づいているわけではない。彼女とて、当然万能などでは有り得ない。
頭の中に、理性を無視し直接本能に語りかけて来る誰かがいるのだ。もしくは、理性すらをも無視できる恐怖がある。
どちらにせよ、恐怖は間違いなくここにあった。そして、恐怖とは危機への前触れだ。
足音は、徐々にこの裏路地に面する通りへと近づきつつある。
気付かずに通り過ぎてくれる確率は、果たしてどれ程あるのだろうか? 見つかって、無事逃げ切れる可能性は? 自分のかすかな抵抗が、果たしてどれだけの意味を成す?
その全てが、もはや分かりきっていた。だが、結論を導き出す前に、彼女は考えそのものを頭の中から追い払う。
(いけない。考えてはいけない。今は、何も考えちゃいけないんだ――)
呪詛のように繰り返す言葉。それが、唯一この恐怖から逃れる手段。
足音が、裏路地の前で停止した。
それまでと同じように周囲を漁り、そこで唐突に足音の質が変化する。木靴の底が煉瓦を叩く乾いた音から、湿った土を踏む重い音へ。
すなわち、表通りの足音から、裏路地を歩む足音へと。
足音は、まっすぐこちらへと向かってくる。雑多に物が積まれたこの裏路地には、他にも人が隠れられそうな場所など、それこそいくらでもあるというのに。
何故? 自分と同じように、あちらも私のいる位置が分かるのか。こちらは、こうして一箇所で息を潜め、一切の気配を殺しているはずだというのに。
そうして気付く。
雲の位置が変ったのか、なかったはずの月明かりが路地の中を斜め上から照らしていた。長く伸びた彼女の影が、古樽の横にはっきりとした人影を浮かべている。
――逃げられない。
古樽の端を、手が掴んだ。
今、自分がしなければならないこと。それだけは、考えないわけにはいかなかった。
このまま、この場所でただ震えていてはもしょうがない。やるべきことは、他にある。
そして、そのためには――待ってはいけないと、教えられた。
服の上から爪を立て、身体の震えを無理矢理止める。
「――ッ!」
声にならない叫びと共に、彼女は、それまで隠れていた樽を肩で思い切り突き飛ばした。
派手な音と共に、樽が倒れる。
金具の部分が錆び付いていたのか、それはあっさりとバラバラに倒壊した。口の中に溜まった唾を吐き捨て、できる限り気丈に見えることを祈りながら立ち上がる。
今や、ただの木切れと化した古樽の横、建物の影に〝それ〟はいた。
顔も服装も覗えないが、そんなことは関係ない。それが誰であり、どんな者であるかもどうでもいい。重要なこと、それが『何』であり、そして、その目的が『私』であることだけは、分かりすぎるほどに分かり切っているのだから。
不思議にも、あれほど波打っていた心臓が今はひっそりと落ち着いていた。
闇に隠れた頭部のうち、目のある辺りに見当をつけて睨みつける。相手がどう動いても、確実に視線だけで殺せるように。
〝それ〟が動く。後ろへ。
「――え?」
驚きに目を見開く彼女の前で人影はあっさりと身を翻すと、入ってきたときと同じように、裏路地から表の通りへと出て行った。
まるで、彼女の姿など最初から目に入っていなかったかのように。
カッ、カッ。カッ、カッ。
足音が、遠ざかっていく。
「逃げ――た?」
人ですらない彼らが逃げる。それは、いったい何の冗談なのだろう。
彼らは、恐怖を感じない。感情という、概念そのものがないのだから当然だ。死と生の価値が等価である相手に対し、感情などという意味を押し付けることに、果たしてどれほどの意味があるのだろう。
逃げたのではない――ならば?
閃きのように、脳裏にひとつの仮定が浮かんだ。
可能性は極めて低いが、それでも全てを合理的に説明できる、おそらくはただひとつの結論。
逃げたのではない。ならば、あれは追っていったのだ。
――間違いに、気付いて。
そう思い至った彼女は、とりあえず深い安堵の溜息を吐くと共に、月の煌々と照る夜空を見上げた。
その事実は、福音だろうか。
それとも、第一の天使のラッパなのか。
ただひとつ言えることは、今、ひとつの歯車が確実に動き出したことだった。
月に語りかけるかのように、彼女は呟く。
「この街に――魔女がいる」
遠く聞こえる宴の音は、まだこれからが酣だった。
・第一典「宴と魔女の物語」
禍なるかな、不運なるかな、哀れなるかな、愚かなるかな。
黒衣の者よ、汝の魂は救い難き。
光なくして生きれるものか。
父なる神の祝福なくして、どうして地上にいられよう。
堕落の限りを尽くした挙句、彼らは祈りを失った。
淫らな悪魔に魂を売り、更なる堕落を得るために。
子供をさらい、毒を盛る。風を呼びては麦穂を散らす。
さぁ、隣人を魔女から守るのだ!
水に浮かべよ、印を暴け。
汝の魂を救うため、我は炎を捧げよう――
リュートの響きが、この詩の終わりを告げる。
それと同時、周囲からは割れんばかりの拍手と歓声が贈られた。人の輪の中心、草ぶれたコタルディ(前開きの衣服)に身を包んだ吟遊詩人が、悠々とした動作で一礼する。
それは、魔女の詩だった。
悪魔の手先とされる魔女を蔑むと同時、主とキリストを称えるための賛美歌だ。
黒死病の脅威もさめやらぬ世状のせいか、近年はほとんど毎年のように魔女に関する詩ばかりが作られる。それだけ、誰しもが不安になっているということだろう。
もっとも、男にはあまり関係なかった。素晴らしい詩ならば、それだけで賞賛に値する。
年若く、また多少痩せてはいるものの、詩人の旅慣れた服装は詩人としての長い経験を示唆していた。事実、詩も演奏も、久々に耳するような惚れ惚れとするものだったと思う。
次第に、歓声の中に金属音が混ざり始めた。その中身は主に銅貨だが、よくよく見れば銀貨もちらほらと混じっている。街人たちができる最大の賛辞に、詩人は即興のメロディーを奏でることで応えた。
いい演奏だった。確かに、これならば銀貨の一枚くらい払ったところで、別に損とは思わないだろう。
だが、不幸にして彼は銀貨など一枚も持ってなかった。それどころか、財布の中身は埃を除いて、何もない。
先程、屋台で食った羊肉が最後の路銀のなれの果てだ。その現実を再び確認すると、彼は深々と溜息を吐いた。
…ない袖は、振りようがないよな。
ひっそりと人の輪の中から離れようとした彼だったが、その裾を掴む手があった。
「ダメだよ、おにいちゃん。ちゃんと、詩人様にお礼しないと」
少女だった。もう片方の手を母親と思しき女性に繋がれながら、彼の顔のすぐ下で眉を顰めている。
近くにいる人々の視線が、既に歌い終えた詩人から彼の方へと移動した。ちらほらと、少女に賛同する声が上がり始める。母親も少女を止めることはせず、顔を背けながら笑いを噛み殺していた。
もともとが、祭の席だ。それが些細なアクシデント程度であれば、煽り立てて酒の肴にでもしたいと言ったところが本音だろう。
「おとうさんがね、言ってたの。詩人様からすてきなお歌を聞かせてもらったら、こっちも何かお礼をして〝ありがとう〟ってしなくちゃいけないって」
少女は叱るようにそう言って、最後に「めっ」と付け加えた。そのときには、彼と少女を取り巻く波は、集まっていた人だかり全体にまで伝わっていた。
「そうだ、そうだ!」
「兄ちゃん、逃げるなー!」
…どうにも、このまま黙って抜き出すというわけには行かなくなったようである。
顔に苦笑を浮かべながら、彼は頭の裏を掻いた。困ったとき、無意識のうちにしてしまう彼の悪い癖である。
「…まったく、何もかも嬢ちゃんの言う通りだな」
男は、少女の頭にぽんと軽く手を置くと、先程とは反対の方向に向かって歩き始めた。人だかりが左右に割れ、男の前に即席の道ができあがる。人だかりをぬけると、男は吟遊詩人の隣に立った。
若い男だ。そして、それ以上に大きい。六フィート(約190cm)近くはあるだろうか。
体の細い詩人の隣に立つと、それはまるで大人と子供のようだった。顔の印象は、一言で言えば随分と厚ぼったい。皮が太く、そのために彼の年齢を実際以上のものに見せているのだ。グロッケ(外套)の裾から僅かに覗く手と足も、明らかに鍛え上げられたしなやかな筋肉でもって鎧われている。
深呼吸をひとつすると、男はくるりと人だかりに向き直った。
その体躯に押されてか、一瞬しんと静まり返る。
「――さて、と。ただ見をする気はなかったんだが…自慢じゃないが、俺はこの街にはついさっき着いたばかりで、一銭の持ち合わせもない。それに銅貨や銀貨、ましてや金貨なんかじゃ、今の詩にはちと無粋ってなもんだ」
観衆たちが、そうだ、そうだ、と賛同の声を返してくる。
男は、満足そうににやりとした笑みを浮かべた。
「…てなわけで、俺からもちょいと面白い出し物をしたいと思うんだが…誰か、遊び札持ってないか? なんなら、コインでもいいけどよ」
彼が観衆に向かって問い掛けると、隣の詩人が口を挟んだ。
「占い札なら私が持っているが、それでも構わんかね」
「ああ、上等だ」
詩人は、荷物の中から古ぼけたカードの束を取り出すと、男へと手渡した。
試しに、上からの数枚のカードをめくってみる。占いなどにはとんと程遠い男だったが、それが長く使い古されたものだということだけはよく分かった。
それを気配で察したのか、詩人は恥ずかしげに苦笑した。
「…なに、一人旅などを続けてると、どうしても未来が気になってしまうものでな。…もっとも、お前さんは違うようだが」
「未来なんて知らない方がいい時もあるさ。俺は、先なんてなるようになるとしか思わないタチでね。…それじゃ、何枚か借りるぜ」
男は手馴れた手つきで束を切ると、束の中央あたりから適当に三枚のを抜き取って、残りを詩人に返した。そのカードを、男は裏返したまま目の前の地面に並べる。
「もう気付いた奴もいるかもしれないが、俺は今からこのカードの表に描かれている絵柄を当てる」
観客はどよめかなかった。あちこちで、寒々とした溜息を吐くような者さえいた。
思いがけない反応に、男が怪訝な顔をする。すると、笑いながら詩人が言った。
「はは、そんな手品は、皆もう見慣れておるよ。もしかしてお前さん、このアルルのような都市へと足を運ぶのは、これが初めてではないのかね?」
「…今までの田舎村では、こいつで十分に盛り上がったんだけどな」
男は、心底困った表情になって後頭部を掻く。
「なぁ詩人さんよ、なんかいい演出はないもんか?」
芸と言っても、他にいいものが思いつかない。
腕を組んで彼が考え込んでいると、隣から詩人がからかうように声を上げた。
「ならば、このタローの絵柄を、裏にしたままで詳細に述べるというのはどうだ? 一口にタローと言っても、随分と違いはあるからの。もっとも、私のタローはちと古いものでな、お主が同じ柄を見たことは、おそらく今までにないと思うが。
…おっと、言うまでもないが、タローをもう一度見直すような真似をしてはならないぞ?」
周囲から押し殺した笑いが漏れる。
皆、分かっているのだ。手品師にとって一番困ることは何かと言えば、これから行う手品の内容を観客から逆に指定されてしまうことである。事前の準備がまるでなく、しかも即興のタネだけで観客を満足させる演出を完璧にこなすなど、おおよそ超一流と呼ばれる手品師とて、そう易々とはできないだろう。
いや、さもなくば、それは――
「よし、それでいこう」
だからこそ、男があっけなくその言葉を告げたとき、観客たちが受けた衝撃は大きかった。
だが、やはりどよめきは起きない。誰もが、驚きのあまり息を呑んでしまったからである。
「…ちぇっ、なんだよ。まぁいいさ、どっちにしろ俺には芸なんてこれくらいしかできないんだからよ」
周りの静寂を完全に勘違いして、男はカードを凝視する。
『うーん』だの『これは…』だの、やけにわざとらしい独り言を繰り返した後、男はおもむろに隣の詩人に向かって言った。
「なぁ、あんた。俺がカードの絵柄を言った後、あんたが拾ってこいつらと俺によく見えるように掲げてくれ。絶対に、あんたが、俺にもよく見えるように、だ」
「ああ、それはかまわんが…」
「あんたらも、それでいいな?」
彼は、観客に向かって言った。既に動揺から一段落していた彼らだったが、文句を言う者は誰もなかった。
「――よし。それじゃ、始めよう」
男は、右端のカードを指した。そして、滑らかに喋り始める。
「まずは、こいつ。真ん中に大きな輪がある。水車小屋の車輪だ。両側に、車輪から落ちてく男と昇っていく女が見える。あと、四隅に鳥だの牛だのが書かれていて、輪の上にはしょぼくれたじいさんが浮かんでいる。とにかく、なんだ…変な絵だ」
男の言葉に、詩人が軽く血相を変えてカードをめくった。
言われた通り、男にも、観衆にもよく見えるように高く翳す。
果たして、それは正に男が述べた通りの絵であった。
「――――」
静まり返っていた人だかりの中で、誰かがパチパチと手を叩いた。その音はだんだんと大きくなり、やがて、詩人が演奏を終えたとき以上の喝采となって、彼一人へと浴びせられる。
「…驚いた。黙示録の四獣の描写までこうも正確に当てるとは――お前さん、本当にこのタローを見るのは初めてかね?」
「占いは趣味じゃないんでね。それに、驚くのはまだこれからだぜ」
と、中央のカードを指し示す。続けて、左のカードにも。
「次に、こいつ。机に座った陰気な男で、机には剣やら帽子やらが転がっている。最後のカードは、男が一人。足首を縛られて、片足で立ってる。…楽しそうに笑ってやがるな。なんだこりゃ、ふざけてんのか?」
詩人がカードをめくると、そこにはやはり男の言葉と細部まで一致する絵柄が描かれていた。
喝采が、一段と大きくなる。それこそ、前の通りを歩いていた人々は皆、この不可思議な芸の虜となっていた。
(この様子なら、誰からも文句は出そうにないな)
男は、商業都市と名高いアルルでもこの芸が通用することに安堵した。
実は、彼は他に稼ぐための手段を持っていない。これが売れないとなると、この街では生きていけないことになるのである。
「…これは、すごいな。だが、こいつは間違いだよ」
詩人が苦笑し、男はその言葉に眉根を寄せた。
拾い上げたカードのうち詩人は一枚のカードを抜き取って見せ、
「三枚目のカード、こいつは『吊られた男』と言ってな。本来は、こう――」
言いながら、カードを逆さまにひっくり返した。
「――逆さ吊りにされた男のことを言う。決して、ふざけて笑っている阿呆じゃないぞ」
その言葉に、観客の歓声は、一瞬にして笑い声へと取って変わられた。
男も、釣られて笑みを浮かべる。
「なんだよ、てっきり俺が間違えたのかと思っちまったじゃないか。いちゃもん付けんなよ。表でも裏でも、同じことだろ」
だが、男の言葉に詩人は軽く首を振った。
「いや、タローには札の上下にも意味があってな。逆位置のレ・ペンデュだと、これは…〝進展〟といったところかな」
「…ほぅ。それじゃ、他のカードは何を示すんだ?」
少々気が乗っているのかもしれない。男は、そんなことを言ってきた。
詩人は、手にしている三枚のカードを併せて並べ…それから、唐突に顔を顰める。
観衆も詩人の様子に何か不吉なものを察知したのか、誰からともなく静まり返っていた。
「…なんだよ、悪い占いにでもなったのか?」
「いや、結果自体は悪いとは限らない。だが、これは…」
詩人は、言い淀む。もともとが気の長くない性格の男には、焦らされているようで絶え難い間だ。
観衆が、次第にざわつき始めた。
何故、占いごときでこうも口篭もるのか。彼には、まるで理解できない。
耐え切れずに、男は低い声になって言った。
「いいから言ってくれ。悪いなら悪いで、別にいいからよ」
詩人は、ともすれば消え去りそうな声で「わかった」と言い、三枚のカードを男によく見えるようにした。
「…まず、一枚目のカード。『運命の輪』。主に、運命に流されることを暗示する。そして、二枚目が――」
詩人は、またしても言葉を区切った。
「…なんだよ? 早く、教えてくれ」
「――魔術師、だ。そのまま魔女、もしくは魔法を意味する」
再び、周囲からどよめきがあがった。
しかし、それは先程までのものとは全く質を異にする。魔女の詩のすぐ後でこの手品、その言葉を連想しないわけがない。男の芸は、手品として括るには、少々卓越しすぎていた。
「総じて、魔女に流されながら進行する運命――と、こうなる」
男が、苦い表情を顔に浮かべる。
魔女。
それは、キリストの恩寵を捨て、悪魔と契約を結ぶことにより人に有らざる力を与えられた者たちの総称である。
悪魔への忠誠の証として衣服の一部を彼らに与え、逆に臣従の印として体のどこかに悪魔の印が刻まれる。
ちなみに、魔「女」とは言うものの、それが必ずしも女ばかりであるとは限らない。中には、神の作った原初の人間の末裔でありながらも、悪魔の誘惑に身を落すような恥知らずもいるのだ。
魔女たちは黒ミサへと赴き、墓場から死体を掘り返しては悪魔に捧げる。裸になっても恥らわず、主人となる悪魔の尻に接吻し、他人を呪い、疫病や飢饉といった災害をもたらす。
―― 〝人〟 という存在を忘れた永遠の堕落者。
それが、彼らなのである。
「…いや、気にしないでくれ。本来、タローは七枚を並べて行うものだし、私も手慰みにやっている程度だから、これが本当に正しい結果とは限らない…しかし」
「俺の芸は、これで終わりだ。見た分は払ったぜ。じゃあな」
詩人のとりなしも無視すると、男は振り向きもせず、その場から真っ直ぐに立ち去っていった。
人ごみの中、初めからずっと彼だけを見つめていた存在に、結局彼は最後まで気付かなかった。
運が悪かった。まったく、そうとしか言いようがない。
「ったく。どうすんだよ、これから…」
男は、街外れの暗い夜道を宛てもなく歩きながら、ずっと一人ごち続けていた。
おそらく、この街で同じ芸は二度としない方がいいだろう。黒死病全盛期の二十年前ならばともかく、今、この程度の占いで魔女裁判に弾劾されることはないと思う。だが、それでも噂が広がれば、芸どころではなくなってしまうだろう。
また、別の演出を考えるしかない。やりすぎず、それでいて確実に人目を引く。矛盾したこの条件を満たすことは、そう簡単に解決しそうにはない。
「すみません、そこの貴方」
背後からかけられた声に振り向くと、それまで気付かなかったことが不思議なほど近くに、背の高い男が立っていた。
中央に十字が描かれた白衣。その上に、同じく白のフードを頭まですっぽりと羽織っている。
修道士だ。
「――なんだよ、俺は魔女なんかじゃないぜ」
不機嫌に男が言い放つと、修道士はにっこりと微笑んだ。
「分かってます。イエスはかつて、隣人を疑ってはならないとおっしゃられました。貴方の素晴らしい手品が、この街の人たちに悪い印象と共に受け入れられることのないことを祈ります。
私たちは、純粋に貴方を一人の旅人として歓迎したいのです。どうでしょう? もし貴方さえよろしければ、今宵は我が修道院に招かれては頂けないでしょうか」
それは、正直願ってもない話だった。なにせ、男は今晩の宿すらもないのだから。
だが、少しの間を挟んだ後、男は首を横に振った。
「…悪いが、俺は純粋すぎる善意ってのは疑うタチでね。断らせてもらうよ」
そう言って男が踵を返そうとしたとき、視界の下の方で、何か金色のものが煌いた。
注意してよく見れば、修道士は十に満たないくらいの少女を連れている。煌いたように見えたのは、風になびいた少女の金髪であった。
少女は、無表情だった。そして、彼と目があっても一向に口を開こうとする気配がない。
「…気を、悪くなさらないで下さい。この娘は、生まれつき口が利けないんです。こんな子は、あなたのような旅人の冒険談が何よりの楽しみなんですよ。さぁ、ご挨拶なさい、レミュ」
レミュというのがこの娘の名前なのだろうか。
少女は、修道士の言葉に従って後ろ足を半歩引くと、頭を軽く下げた。やはり、表情は変わらない。
「それと、貴方は純粋な善意は疑うとおっしゃいましたが、残念ながら我々には下心もあります。貴方は、主の教えに従う者ですか?」
男は、その裏に隠された意図に気が付いて苦笑した。
なるほど。旅人が教徒になれば、行く先々で教えを広めることができる。仮に、そうまでは思わなくても、聖書の一句でも暗記してもらえれば、旅先で新しい信徒が期待できるかもしれないといったところだろう。
確かに、彼らにとっては、それも下心の一つであった。
「…わかった。だが、俺は頭が悪いし、冒険談なんて言うほどの旅も経験しちゃいない。それでも、そっちがかまわないって言うんなら、お世話になるよ」
「もちろん、かまいませんよ。皆も喜びます。さあ、こちらへ」
だが、差し出されたその手を、彼が握り返すことはなかった。
その瞬間、飛んできた刃が修道士の手をかすめ、煉瓦の歩道に跳ね返ったからである。
二人の男の視線が、闇に隠れた一点の場所に集中した。
決して、ナイフの飛んできた方向が掴めたというわけではない。だが、彼は疑わなかった。
いる。この、闇に覆われた帳の向こうに。迸るような、何かの意志が。
口には出さないその思いに応えるかのように、闇の中から足音が響き渡った。月明かりの下、ようやくその姿が露わになる。男は、息を呑んでその人影を凝視した。
女がいる。それも、物語に出てくる聖霊のようなとびきりの美女だ。
いや、女というよりは少女。まだ、十代の半ばあたりだろう。
しかし、それでも彼女は美少女などではなく、既に熟成された〝美女〟だった。
暗色のカトール(筒衣)と同色のケープに身を包んだその姿は、まるで夜闇の一部から切り取られてきたかのようだ。その瞳に見つめられているだけで、背筋にともすれば気を失いそうなほどの、冷たい興奮が疾る。
それは、まるで自分が幻想の世界に迷い込んだような錯覚を起こさせた。彼女がいる、ただそれだけで道端の石さえもが光り輝いて感じられる。
言うならば、それは〝彼女〟という名の、圧倒的なまでの存在感の塊だった。
「――あなた、先程の魔女ね。その子供から、離れなさい」
凛とした声が響き渡り、少女の眼光が一層鋭くなった。
男は、思わずその言葉に従いそうになりかけたが、一片だけ残されていた理性が、行動を思い留まらせた。
幻想のような少女を睨み返しながらも、男は震えのない口調で言い返す。
「イヤだね。俺が一番信用しないのは、出会い頭に危害を加えてくるような奴さ。それに比べれば、詐欺師の方が数倍マシだ」
少女の歩みは止まらない。
規則正しい足音を文字通り奏でながら、一歩、また一歩と近づいてくる。その一歩毎に、背骨に直接氷柱を刺し込まれたかのような感覚に襲われる。
「その考えには、わたしも深く賛同するわ。だから――離れなさい。早く」
男は、ちらりと横の修道士の方を見た。彼は、随分と落ち着いて見える。こんな、問答無用で凶器を投げてくるような――
それも、ある意味でこの世のものとすら思えない相手と対するにしては、少し奇妙すぎるほどに。
それとも、これが神に仕える者の覚悟なのか。
修道士は男を押しのけ、少女の前に歩み出ると、緩やかに一礼した。
「貴方と合い間見える時が来るとは、正直思ってませんでした。はじめまして、貴女の噂はかねてより伺っております。私は、聖レリンス修道院の修道士長、兼司祭…」
「――やめなさい。お前らなど、誰でも同じだ。名前で区別する気など、初めからない」
有無を言わせない拒否。あからさまな嫌悪感を、この少女は隠そうとすらしていない。
男が状況に戸惑っている様子に感づいたのか、修道士が小さな声で耳打ちしてきた。
「旅人殿。彼女こそが〝本物の〟魔女ですよ。教会からの改心の箴言をことごとく無視し、過去数え切れない教師や修道女を傷付け、あるいは死を与えています。我らが主の、引いては世界そのものの敵のうち、最も忌むべき者の一人。
――〝黒の帳〟と呼ばれ、また、恐れられている魔女です」
その声が届いたのか、少女は顔を顰めるように眉を上げた。だが、何も言い返してはこない。
代わりに彼女がした行動は、ひどく奇妙な仕草だった。少なくとも、男にとってはそう見えた。
唐突に歩みを止めると、少女――いや、魔女のしなやかな二の腕がゆっくりと持ち上げられる。肘が伸び、指の一本が指し伸ばされ、それは。
――真っ直ぐに、修道士の眉間へと向けられた。
「――――……」
彼は、動かなかった。
まるで、遠く離れた場所にあるその指が、眉間のすぐ前に突きつけられた剣の切っ先でもあるかのように、それまで動じた様子など全く見せなかった修道士の額から次々脂汗が滴り落ち、地面の下へと消えていく。
静寂の中、変わっていく月の位置だけが、時の変化を示していた。
「…旅人殿。その子の傍から、決して離れないでいてください。いいですね」
修道士が拳を固めた。動く気だ。
男は、修道士が連れていた少女を守るために、その前に立ち塞がる。
それを横目に見た修道士が、何故だか苦い顔を浮かべた。
『禍なるかな、禍なるかな、禍なるかな。
キリストにより、かつて地の国へと追放されし公爵よ。創造と破壊の支配者よ。
――汝の敵に属する者が、ここにいる』
予告なく響いた凛とした声は、歌や詩を謡っている様にこそ、
余程ふさわしかったことだろう。
だが、それは紛れもない呪いの言葉だった。
少女の寒気を催すほどの美しさ、他の音が一切とない、月の夜。現実と幻想の境が見えなくなっていき、ともすれば、これは夢なのではないかと疑ってしまう。そして、その度に風のそよぎによって目を覚まされ、しっかりと前を見据える。
修道士が、駈け出した。
『おぉ、我は汝を抱擁せん。
汝の恨みは我が憎しみ、我の憎しみは汝が怒り。
父なる神が傲慢を弾劾し、盲目の月を輝かせよ。
今こそが、蛇の鎖を放つ時』
頭ひとつは高い修道士がすぐ眼前に迫っても、魔女はかまわず、呪いの言葉を吐き続けた。
頑健な修道士に対して、少女の姿はいかにも非力に思えた。
その拳が振り上げられても、視線を上げることすらしない。指先だけが、正確に修道士の眉間を追っている。
大柄な拳が振り下ろされ、
『我が絶望を糧として――』
少女の小さな顔が、跳ねた。
『――汝が叫びを、この者に』
その次に起こったこと。
少女は、頬をしたたかに殴り飛ばされた体勢のまま、それまで伸ばしていた腕を曲げると、たった今自分を殴りつけたばかりの修道士の腕を、軽く撫でた。
ぼきゅり。果実を割るような音が響く。
気が付くと、修道士は折れた自分の右腕を抱え込み、地面にのた打ち回っていた。
「……な」
少女が、力を込めたようには見えなかった。
そもそも、おかしい。修道士の右腕は、肘を支点として完全に前後がひっくり返っていた。果たして、どれだけの力が加わればこのようなことが起こりえるのか。何故にて、このような小柄な少女に、そんな真似ができるのか。
ならば、今のが――俗に言う〝魔術〟というものなのか。
呆けているうちに、右腕を掴まれる感触があった。
何故、修道士が自分を置いて一人で魔女に立ち向かっていったのか。何故、連れていた子供から離れないようにと指示したのか。そのことを、彼はすっかりと失念していた。
次の瞬間、彼の天と地が入れ替わる。
これは、魔術などではない。単純に腕を引かれ、重心が崩れたところで、軸足を払われた。それだけだ。
だが、それでも横腹を直に地面に叩きつけられる衝撃は、一瞬とは言え呼吸を止める。その瞬間、男の目は飛び出しそうなほどにまで見開かれた。
荒事には慣れているはずの男だったが、彼は抵抗する意志を見せなかった。その視線は、自分を見下ろす眼光を逆に鋭く射抜いている。にも関わらず、男は起き上がろうとすらしない。
倒れた男から顔を背けると、魔女は言葉のない少女の方へと歩み寄った。少女は、呆けた瞳で迫り来る闇を見上げている。
魔女の右手が、少女の顔面を無造作に掴んだ。
親指が、瞼の上から左眼へと押し付けられる。
露わになっている少女の右目が、しきりに瞬きを繰り返した。
「――――」
何を思ったか――思っていたのか――魔女はその手を離すと、代わりに少女の胸を乱暴に突き飛ばした。
数歩よろめき、少女はぺたんと尻餅を着く。
「…今の貴方に、その男を教会まで運ぶことは無理でしょう。一人で行って、人手を呼んで来なさい。早くしないと、貴方の大切な親のひとりが死ぬわよ」
その言葉に少女はくるりと背を向けると、一目散に駆け出した。辺りは、再び静寂によって包まれる。うめき声を上げていた司祭は、気を失ったのか、ぴくりとも動かなくなっていた。
魔女が背後を見やると、先程突き飛ばした男が直立の姿勢で突っ立っている。
「貴方は、魔女ね」
男は答えない。身じろぎすらしない。
「これから、少し付き合ってもらうわ。付いて来なさい。お互いのためになることよ」
魔女であり少女でもある彼女は、そうとだけ告げると真っ直ぐに歩を進め出した。警戒する必要すらないと考えているのだろうか、彼の真横をすれ違ったときでも、まるで視線を動かさない。
男が本当に付いて来るかどうかもお構いなしに、魔女は惨劇の場所からまっすぐに遠ざかっていく。それとも、魔女とは後ろにも目が付いているものなのだろうか?
どちらにせよ、関係はなかった。男は、言われた通りに、少女の背後を数フィートほどの距離を空けて歩き始めた。
まるで、それがごく当然の行動であるかのように。
・第二典「隣人と魔術の物語」
前方を歩く魔女の歩みは、そう速いものではなかった。
別段人通りの少ないを選んで歩くわけでもなく、灯火に照らされた表通りの上を、かつかつと足音を立てながら進んでいく。
入り組んだ都市の路地に慣れていない彼には、まるで同じところをぐるぐると回っているようだった。幾度かは、祭で賑わう人ごみの只中を通り抜けた。
その間、少女は一言も言葉を発しない。
彼は、次第に自信が持てなくなってきた。果たして、本当にこの少女があの修道士の腕を折り、自分を投げたのだろうか。あれは、ただの自分の幻想だったのではないのかと。
少女自身も一度殴り飛ばされているはずなのに、その頬に手を充てることすらしない。だが、時折道行く人がさして珍しいものを見るでもない様子で少女の顔を覗き込むあたり、はっきりと傷跡はできているようだ。
痛みは、感じないのだろうか。そう言えば、魔女は、悪魔の印のある場所にだけは痛覚がないのだと、以前に聞いたことがありはしたが。
彼の方の傷はといえば、これは大したことがなかった。内臓に伝わる衝撃を受けはしたものの、自分の体重で落ちただけだから肋が折れているということもあるまい。もっとも、まだ歩く度に鈍い痛みが振り返すが。
だがそれよりも、ただ歩みを進めるだけの退屈に耐えられないのが、彼の性分だった。
「――おい、お前。魔女」
ぶっきらぼうに声をかける。
「…魔女は、貴方も同じでしょう。口には気をつけなさい、人のいる場所でその言葉を使うことは、身の破滅を招くわよ」
振り向きもせず、少女は応じた。言葉の割には、自分は一向に周りを気にした様子を見せない。
怒り出すことを考えた男の思惑は、見事に外れた。感情すらもないのだろうか。
「エミリ=イルランジュ」
少女は、まるで無感動な口調のまま、その単語を口にした。
「なんだ、それは」
「わたしの名前。〝お前〟だの、〝魔女〟だのとは呼ばれたくないわ」
男は、その言葉に眉をしかめた。背を向けたままで何故分かるのか、前方で魔女――エミリなどと言うありきたりな名前は決して似合わない――が、ふんと鼻を鳴らして笑う。
「名前もないと思ってた? 生まれたときから、〝魔女〟とだけ呼ばれていたとでも?」
「…ああ。まるで、人間みたいだな」
「悪魔にも天使にも、名前はあるわ。ベリアル、ラファエル、ルシファー、ベヒモス、イブリース、アズラエル、レヴィアタント、ミカエル、メフィストフェレス……神にだって、名前はある」
男に、背を向けたままの少女の表情を知る術はない。
だが男の脳裏には、口元を歪めて笑う魔女の笑顔がはっきりと浮かんでいた。
その質問は、無意識のうちに口から滑り出た。
「――お前は、本当に魔女なのか?」
足音が止んだ。
急に立ち止まった少女にぶつかりかけた通行人のひとりが、迷惑そうな顔を浮かべながら避けて行く。
永遠に振り向かないと思われたその背中が、拍子抜けする程あっさりとこちらを向いた。
先程の月明かりの下では分からなかったが、振り返った少女の右頬は、青黒く変色して醜い痣になっていた。それとは対照的な程に、瞳はどこまでも無表情を保っている。
決して、陽の光が届かない深遠。
何故だか、そんな言葉を思い浮かべる。
「愚問ね。既にそこにあるものを否定することは、逃避にしかならないわよ。さっきの一幕、まさか目を瞑っていた訳ではないでしょう?」
それだけを言い放ち、再び踵を返して歩き出す。
男も足の動きを再開しつつ、質問を続けた。
「…俺ひとりを連れ去るのに、何故他の人間をあんな目に合わせた? 司祭の腕は、折る必要まではなかったはずだ。答えろ」
「それも愚問。〝敵〟を排除するにの理由なんかいらないわ。むしろ、あの場で殺しておく方が正解だった」
魔女は、あくまで淡々と答えだけを返してくる。沼に打ち込んだ杭のように、感情の手ごたえらしきものが、まるでない。
「敵であると言う理由だけで、何もしていない人間をあそこまでの目に合わせたっていうのか、お前は…?」
男は、次第に怒りを抑えきれなくなってきた。
司祭が崩れ落ちた一瞬、実際には一秒に満たなかった光景が数十秒に引き伸ばされて蘇る。
おそらく、司祭の右腕が再び物を掴める日は、もう二度と訪れないだろう。おそらく、健一本で繋がっただけの腕は腐り始める。切断することなく済めばいいくらいだ。
「何もしてない…? そうね、確かにあの時点ではそうだった」
魔女は臆した風もなく、ただ冷徹に言葉を刻む。
「やっぱり貴方、自分がどれほど危険なところだったのか、まるで分かっていないようね」
――危険?
それは、一体いつのことを言うのだろう。この街に着いてからの考えられる危険と言えば言うまでもなくこの魔女と対峙していた時間であり、それに生死を握られている今は、更に危うい状況だ。
無論、彼女の立場からすれば、その限りではないのかもしれないが。
「わたしや貴方達――すなわち、魔女の敵。凶眼をあんな陳腐な芸に使うくらいだから貴方にその自覚はないでしょうけど、それが何であるかくらいは知ってるはずよ」
気のせいか、魔女の言葉に一欠けらの熱が篭る。
まるで、自分ではその単語を口にしたくもないとでも言うように、彼女は男に問い掛けた。
「…異端審問官、か?」
とっさに脳裏に浮かんだその単語を、彼はほとんど反射的に答えた。
異端審問官。教皇庁の持つ、武装を伴った唯一の実動機関。言葉の通り、自分たちの教義にとっての敵……すなわち、異教徒や聖書を否定する考えを持つ者達を教皇へと報告し、裁判にかけることを職務とする者達のことである。
魔女は、かすかに頷いたようだった。
「まぁ、それと似たようなものね。おそらくは、ドミニコ会あたりの使いでしょう。彼らは一切の魔術を認めない。だから、その魔術を行使する魔女も、彼らに取っては悪でしかないのよ」
その話は、男も聞いたことがあった。たしか、幼い頃に母に連れられていった教会で聞かされた話だったか。
だが、教会自らが積極的に魔女狩りを行っているなどと言う話は、とんと耳にしたことがなかった。魔女狩りは、魔女の恐怖に駆られた農民たちが集団となって起こす、言うなれば一種の暴動だ。正当な異端審問官とは、あくまで正当な裁判にかけ、聖書との矛盾点を論議する、そのための場を作ることが目的のはずである。
確かに、彼らに目をつけられることは危険だろう。だが、それで焚処にかけられるのは、黒ミサなどを行うことで実際に害を及ぼした者――目の前の魔女がどうだかは知らないが、仮に自分の存在が彼らにとって悪だとして、即、身の危険に結びつくとは考えにくい。
「信じないなら、それでもいい。でも、その意識は危険よ。率直な話、教会は旧大陸の西側ほぼ全てを支配する、ひとつの巨大な国家と言っていい。当然ながら、自分にとって都合の悪い闇の面は、ある程度なら隠せるわ」
確かに、そのことは紛れもない真実であった。それは、歴史が証明している。
だが…
「――あの司祭は、審問官なんかじゃない」
男は、はっきりと断言した。その言葉に、今度は明確な嘲笑が帰ってくる。
冷静を装いつつ、男は続けた。
「はっきりと彼は言った。俺を疑っているわけではない、〝隣人を疑うことなかれ〟――それが、イエスの教えだと。教会の人間なら、この教えは命をかけて遵守しようとするはずだろう」
現に、彼の母がそうだった。
聖書は間違いを許さない。たとえ、それがどんな些細なものであれ、一度信徒となった者はそれに背く事は許されないのだ。
一般信者であった母でさえそうならば、司祭をも務めていると言ったあの男が、その信条を無視できるはずがない。
魔女は、沈黙を保った。自分の過ちに気が付いたのだろうか…一瞬でもそう考えた男は、甘かったのだろうか。
彼女は、突然笑い出したのだった。
それも、心の底から愉快そうに。
「…ふふふっ。最近は、彼らも面白いことを言うようになったのね。その通りよ。教徒たちは、その隣人を欺くことは決してない」
そこまでを笑いを噛み殺しながら口にすると、急激にその声色が低くなった。声から、先程彼女と対面したときのようなぞくりとした感触が蘇る。
それが何か。何が、少女にあれほどまでの魔性の魅惑を添えていたのか。
今、それが、はっきりと理解できた。
「その言葉で、確信したわ」
――殺意。
生物としての存続に関わる危機感は、時として魅了に似る。
「…やはり、彼らはわたしたちにとっての敵のようね。あいつらにとって、魔女と認識された人間は、決して隣人などではない。隣人とやら以外が相手なら、嘘をつくどころか殺人だろうが強姦だろうが、彼らは聖務として行うことでしょうよ」
そこまでを皮肉を込めて言った後、魔女は冷たく断言した。
「…覚えておきなさい。教会とは、魔女にとってはただの処刑場でしかないということを」
「………」
何も言葉を返すことが出来なかったのは、わずかとは言え心当たりがあったからだろうか。
もし、それが本当であるとすれば、彼は魔女によって命を助けられたことになる。だが、理解はできてもそれで感情が収まるわけではなかった。
何よりもあのとき、この魔女はあんな幼い子供にまで手をかけようとしたではないか。
その言葉を借りるならば、赤子であろうと修道院に寝泊りする人間は、彼女にとっては明確な敵として定義されているのだろう。だが、自分は、あの行為を許せる気などには、到底なれない。
それでいい。そう考えられる限り、俺は、まだ人間だ。
「質問は、それで終わり?」
「――もうひとつ。何故、俺を連れて行く」
一瞬の逡巡の後に、声は応えた。
「…貴方の力に、興味があるのよ」
それ以上説明する気がないのか、魔女はそこから先の言葉を切った。
煮えきれない気持ちのまま打ち切られた会話に、もやもやとした不快感を覚える。
だがそのとき、二度と開くことがないと思われたその口が、もう一度だけ開けられた。
「最後に、こちらからも一つだけ質問があるわ」
「…何だ?」
思わず反射的に応えてしまい、男は舌打ちを一つした。
「貴方の名前。まだ、聞いてない」
暫くの間、考え込む。いったい何を考え込む必要があるのか、それすらも、もう男には分からなくなっていたが。
数十フィート分の距離を歩むだけの時間を挟み、結局、男はその質問に正直に答えた。
「――イーヴ。イーヴ=カミュだ。だが、お前に名前で呼んでもらおうとは思わないな、黒の帳」
「そう」
二人の会話は、そこで途切れた。
「…ここよ。入って」
魔女エミリが足を止めた場所は、意外にも街の中心部にもほど近い民家街の一角だった。
月だけでは明かりが足りず、建物の概観までは掴めない。彼女は扉にかけられた錠前を手馴れた手つきで外すと、振り向くこともなくその奥へと消えて行った。
一息の嘆息の後、イーヴも仕方なく後に続く。今更、後戻りする気にはなれなかった。
魔物の巣窟に入っていくつもりで、一歩づつ足を踏み入れる。
彼が敷居を潜ったその瞬間、闇の奥で白光が煌いた。
思わず、顔を手で覆う。
――シュッ
乾いた音と共にランプに火種が燃え移り、部屋の内部が照らし出された。エミリの手には、まだ木屑が赤々と燃える火口箱が握られている。
内装は、至って普通の民家のそれだっだ。
もちろん、イーヴとて逆五紡星のタペストリーやヘルメスの像、セフィロトの樹、山羊の角を付け足された人間の頭蓋骨や栄光の手などが、これ見よがしに飾ってあるような部屋を想像していたわけではない。もっとも、その方が驚きは少なかったかもしれないが。
入った部屋は炊事場を兼ねるらしく、水桶や調理具が壁に並んでいた。調理具の中には鉄鍋もある。もしやと思って部屋の逆端を見渡すと、そこには火の落ちた竈があった。
それをイーヴは、意外に思った。
魔女は、清浄の象徴たる炎を嫌うとされている――だが、人の住む家で竈の存在しない家はない。
果たしてこの場合、どちらがより自然であったのか。
「座って」
エミリが部屋の中央に置かれたテーブルを視線で示した。その上にランプを置くと、自分も椅子の一脚の上へと腰を下ろす。
イーヴはわざと乱暴に椅子を引き寄せると、決して軽くはない体重を華奢な木の枠に放り投げた。
「…さて。何から説明しましょうかね」
エミリは独り言のように呟くと、大きな溜息を吐き出した。
「そうね。まずは、確認から行きましょうか。貴方は魔女で、しかも凶眼を具体的に行使できるにも関わらず、未だ制御する術を学んでいない。にも関わらず、これまで教会の脅威を受けずに生きてこれた。…ここまでで、何か違うところはある?」
本当にただ確認だけをするかのように、魔女は言う。
自分は、まだ何も話してないと言うのに。
「――なぜ、そう思う?」
今さら挑発する気もないのだが、イーヴはそのように言い返した。単純に、このまま少女のペースで運ばれるのが、気に食わなかっただけかもしれない。
対するエミリの返答は、やはり憎らしいほどに冷静かつ論理的だった。
「先程の吟遊詩人との一幕、見ていたわ。慣れている人間が見れば、そこにトリックがあるかないかくらいは気配で分かる。貴方、どれだけ旅をしてきたかは知らないけど、今まで審問官に捕まらなかったのは奇跡と言っていいでしょうね」
「………」
「制御を学んでないと言ったのは、そんな危険な行為を行うこと自体から判断できる。その方向が伸ばす方にせよ抑える方にせよ、学んだ師がうかつな凶眼の行使を許すわけがないもの。通常、凶眼を持つ子供は魔物の子として噂になる前に親や親戚によって、教会か魔女かのどちらかに引き渡されるわ。…そこからは、まさに運次第」
彼女はまるで興味なさ気にそこまで告げると、組んだ手の上に顎を乗せた。
「そのまま嗜好変質者に売り飛ばされることもあれば、食事も与えられずに部屋に閉じ込められ続けることもあるわ。いかがわしい自称魔術師の下で、魔術を学ぶ名目で一生こき使われる例も多い。その中で、何十人かにひとりの本当に幸福な人間が、自分の力を有効に利用するか、あるいは、うまく隠蔽するための術を身に付けるのよ」
ならば、目の前の少女はその幸福な例になるのだろうか。
思わず口を開きかけたイーヴだが、さすがにそれを口にすることまでは憚られた。
なんにせよ、気付いた風もなく魔女は続ける。
「子供は、自分が特別な力を持っていると知ったら行使することに躊躇いを見せないわ。だから貴方の場合、ある程度成長してから、おそらくは見えないものが突然〝視える〟ようになったのだと思うのだけれど…違う?」
「全問正解」
溜息混じりに、イーヴは答えた。
「俺は、北の方の名もない村の出身でね。教会はあっても、神父は村の普通の農民が代人しているような片田舎だった。これまでは似たような村ばかりを回って、あの芸で何とか食い繋いでたってわけさ」
憤然とした口調で、彼は言った。なんとなく、先程から自分の心の内を見透かされているようで気分が悪い。
「…なら、魔術について、貴方はどの程度の知識があるの?」
問われて、彼は自分の中にあるその手の知識を思い返す。
魔術。魔女が起こす、超自然現象。悪魔との契約によって行われ、厄災を起こすためだけに存在する、忌むべきもの。主の摂理を掻き乱す悪意。時にそれは飢饉を起こし、隣人を殺し、雹を降らせ、娘を堕落させて恥じることを忘れさせる――。
思いつくものを片端から挙げていく。エミリはその一つ一つに頷きながら聞いていたが、その全てを聞き終えると、心底呆れたように言い放った。
「分かってはいたことだけど…一般伝承の魔術知識と言うのは、まったくもっていい加減なものよね。本当に」
彼女は大げさに肩を竦めると、音もなく椅子から立ち上がり、背を向ける。
それはやはり、彼にとっては面白くない態度だった。
「違わないのかよ。さっきのあれだって、似たようなもんだろ。俺の話と、いったいどの辺りが違うんだ?」
こつこつと木製の机を爪の先で叩きながら、イーヴは不機嫌さも隠さずに魔女の背中へと問いかけた。
彼からしてみれば、目の前にいる本職の魔女が何故呆れているのかすらも理解できない。彼にとっては、魔女も魔術も『不条理でかつ分けのわからない何か』――正直、それ以上のものとしての認識はない。
魔女は、一度大きく頭を振ってから向き直った。
「――根本的に、捉えている対象からして異なるわ。これは、わたしたちに取っては常識以前のことだけれど…魔術とは、きちんとした体系に基づいた学問よ」
魔術と学問。不意に言われて、これほど結びつかない組み合わせも珍しいだろう。
国王が現在躍起になって推進している学問は、神学を頂点として補助学問に哲学や論理学、自然学などを取り入れたものであり、主として聖職者の養成のために存在する代物だ。
一方の魔術は、言うまでもなくこれらとは完全に性質を逆にする。むしろ、神学の中には魔術否定のための理論すらも組み込まれているはずだった。決して、同時に肩を並べて挙げられる存在ではないはずである。
無意識のうちに、猜疑心が顔に浮かんでいたらしい。エミリが、かすかに機嫌を悪くした声で付け加えた。
「魔術は、単に便利で邪悪な力と言うわけではない。そもそも、力そのものに善悪なんて存在しないわ。よく切れる刃は生活を豊かにするけれど、同時に人を殺すこともできる、それと同じ。
…魔術を学問と言ったのは、きちんとした理屈に基づいた試行錯誤と実践の上に成り立っていると言う意味よ。思いつくものをざっと挙げても、カバラの数秘法に神話文字、シャーマニズム、ドルイド、占星術、錬金術。遥か東方には、生きたまま神か悪魔になるための術もあると聞くわ。これらは全て、別々の理論と体系に基づいたものよ」
憮然としながら、それでもイーヴは一応頷いた。
正直な話、彼女の話は難しすぎて、その半分も理解できない。だが、それでも魔術という概念に幾つかの『型』があるらしきことはなんとなく分かる。
それからイーヴの頭に、ごく自然で単純な疑問が浮かび上がった。
「…なら、お前の魔術――さっきのあれも、その中のひとつになるわけか?」
エミリはその質問にはすぐに答えず、側の棚から小さなカップを取り出すと、脇の桶から水を汲んだ。カップは、樫の木を刳り貫いたどこにでもあるようなものである。
それを、イーヴの目の前に置く。どうも、それが香茶の代わりというわけでもなさそうだが…。
「――わたしの術は、今挙げたものとは少し違うわ。むしろ、何の理屈も考えない素の状態で行う魔術――呪術に近いものかもしれない。これを見て」
彼の目の前で、エミリは水の表面に人差し指を浸した。ゆるやかに、その先を動かし始める。穏やかだった水面が波立ち、次々と波紋が四方に広がっていく。
「あらゆる魔術は、突き詰めるとその原則はひとつだけよ。
すなわち、〝意志〟を介して物事の因果性質に〝干渉〟すること。介在する意志が強いほど影響力は増すけれど、通常は方向付けがされないために力は霧散し、意味を成さない。今挙げた術のほとんどは、数字への意味付けや人形などの偶像を通して、その方向付けを確定するための技術と言えるわ」
話しつつも、その指先の動きは止まらない。まるで変わらない調和の下に波紋は生まれ、そして淵に当たって消えていく。
「わたしは逆に、発する意志を強く具現する方法を追及している。意志が強まれば、自然とその目的も定まるわ。もとより、何の意味もなしに人は何かを想うことなどできやしない…」
イーヴは、熱にでも浮かされたように彼女の白い指先を見つめていた。
肉などまるで付いていないような指の先に、まるで陶磁器のような薄い爪が付いている。その爪がかすかに動かされる度に新たな波が生まれ、一瞬だけ高く聳え立つと、ひれ伏すようにその指先から離れていく。
幻想の時間は、やはり同じ指先の持ち主によって破られた。
「その手段は、最も内面を顕すもの。視線と言葉。見ることによって対象を定め、言葉によって影響を生む――」
視線という言葉に反応して、イーヴは顔を持ち上げた。
一瞬、息を呑む。
水面を凝視するエミリの瞳は、まるで他の対象を映していなかった。
瞳孔が異様に拡大し、目の色が変わったようにすら見える。もしかしたら彼女は、彼が視線を動かしたことにすら、気付いていないのかもしれない。
「――こんなふうにね。煉獄の魔よ、釜を吹け」
瞬間、風もないのに水面が荒れた。
不自然に波立った水が、カップの淵を飛び越えてテーブルを濡らす。のみならず、イーヴの顔面にまでも数滴の雫が跳んだ。
指で弾いたのでは有り得ない。白い指先は先程までと同じように、水面の上を滑るように撫で回しているだけだ。にも関わらず、水自身が彼女の言葉に従ったかのように、まるで自らの意思で〝跳んだ〟のだ。
呆気に取られている彼の前で、エミリが濡れた指と手を布で拭きながら説明した。
「――これは大したことじゃないわ。自分の指先で波を立て、意志によってその幅を増大させるだけ――おそらくは、〝視る〟だけでこれと同じことができる人もいるでしょうね。十中八九、世界に影響を及ぼすだけの意志力を持つ人間の力は、先ず視線として顕れる。それが凶眼であり、時には邪視と呼ばれるものよ。貴方が使っていたのは、紛れもなくその一種だわ」
凶眼。その言葉を、彼女は先程から何度か口に出している。
ふと思い至って、イーヴは魔女に問い掛けた。
「…そう言えば、魔術と手品の違いは気配で分かると言っていたな。あれは、一体どういう意味だ?」
彼女は口元に手を当てると、考え込むように天井を見上げた。
そうした様は、まるでどこにでもいる普通の少女と変わらない。一瞬、不覚にも彼はそう思ったイーヴは、それから慌てて頭を振った。
(――駄目だ。見た目で判断することは危険すぎる)
たとえ幼い少女の姿をしてようと、彼女は魔女であり、簡単に人を殺せるだけの力を持っているのだ。そもそも、こうして説明している事にしても、どこまでが真実でどこからが嘘なのだか、彼にはまるで判断が付かないのだから――。
「…理由はと聞かれると、実のところよく分からないのよ」
こちらの思惑には気が付いていないのか、エミリは天井を見上げたまま返事を返した。
「敢えて言うなら、手品の場合には必ず種を使う必要があるから、注意してみればどこかで怪しい仕草があるわ。なんとなくでも、それが違和感とは言えるものが。あのときの手品の場合、貴方はわざとらしく時間をかけてはいたものの、答え自体はあっさりと弾き出していた。そんなところね」
「…なるほどな」
イーヴは、心の中で一度だけ確認するように頷くと、おもむろに口を開いた。
「確かに、何もかもあんたの言う通りだ。俺は、数年前から物の〝裏〟がぼんやりと見えるようになってきた――カードの裏や、壁の向こうの景色だな。まぁ、あのくらいにしか役に立たないような代物さ」
「いいわ、それでも」
エミリは、まっすぐこちらへと視線を向けてきた。
その目が、今までとは少し違う質の光を放っている。
「――さて、本題ね。わたしは、貴方の凶眼を研究したい。それがどんなものであれ、成長の過程で無意識のうちに統制・有意化した自然の魔術制御装置の一種であることに違いはないわ。代償として、わたしは貴方に魔術を教える。やりようによっては空すら飛べるようになるかもしれないし、逆に誰にも感づかれない程にまで能力を極小化することも可能よ。
…どう? 決して、悪い条件じゃないと思うけど」
「一応、聞いておこうか。…断ったら、俺はどうなる?」
彼女の瞳に、険悪な光が浮かんだ。忘れていたあの悪寒が、先程の数十分の一とは言え蘇る。
「殺すわ――もちろん」
エミリは、淀みなく言い放った。
言葉通り、それがごく当たり前の行為であるかのように。
「貴方には既にわたしの術の秘密を教えてしまっているし、それ以前にこの家の場所も知っている。わたしとて、自分を破滅に追いやるかもしれない危険を野放しにできるほど楽天家じゃない。
…忘れてはいけないわ。一度でも魔女と誰かに疑われた者は、死ぬまで明日の死に怯えて暮らさなければならないのよ」
それは、脅しだか警告だか、おおよそ分からないような文句だった。どちらにせよ、彼を救う類のものではないだろうが。
「これでも、わたしにとっては最大の譲歩よ。だから、これを断るなら、もう死んでもらうしかない」
そこに、何らかの感傷を感じ取ることはできない。
硝子球か、もしくは死者のような無表情の瞳が、そこにある。
「正気か…お前?」
イーヴは、正面から魔女の眼光を睨み返した。
「生憎と、魔女とはこれで正気なものなの。安心なさい、貴方も直にこうなるわ」
二つの視線がランプの上で交差したまま、時が流れる。
結局、彼は縦に頷いた。予想はしていたが、やはり選択肢はないようだ。
「――交渉は、成立ね」
それを交渉と呼べるのかどうかには甚だ疑問の余地が残るが、とりあえず、彼女はそれで満足したようだった。
水の量が半分ほどにまで減ったカップを取り、汲んだ水で軽く流した後、棚に戻す。
これで話は終わったとばかりに、彼女は大きく欠伸をした。
「夜も更けたことだし、わたしはもう休ませてもらうわ。上の部屋が空いているから、あなたはそこを使ってちょうだい。もっとも、長いこと使ってなかったボロ部屋だけど」
彼女は部屋の隅に設えられた梯子を指差すと、自分は出入り口の他に二つある扉のうち、梯子側の扉に手をかけた。
梯子の先の天井は、ぽっかりと開いている。どうやら、彼女の部屋の上に当たるらしいその空間は、もうひとつの小さな部屋として確保されているらしかった。
エミリはボロ部屋と言ったが、階下から見る限り汚れているようには見えなかった。テーブルの上のランプを掴み、梯子の中ほどの段に足をかけて、部屋の中を覗き込む。空の本棚と奥の方には寝台があり、その上では布団が綺麗に畳まれていた。
やはり、塵一つ落ちていない。
(…もしかして前もって掃除でもしてたのか、あいつ)
その姿を想像し、自分の考えに苦笑する。
掃除をする魔女。それも、自分のためだけに?
そのとき、一度閉まったはずの扉が再び開いた。言うまでもなく、エミリが消えた扉である。
「一応、警告しておくけど」
気のせいか、魔女は先程よりも更に剣呑な目つきになっていた。
「凶眼で天井を透視しようとしても殺すわよ。分かるから」
「………は?」
「――なんでもない」
バタンと大きな音をたてて、扉が閉まる。
今あったことを理解できず、イーヴは暫くの間、そのままの格好で梯子にしがみついていた。
・第三典「平穏と使い魔の物語」
悪夢を見るのは、おおよそ珍しいことではない――
彼女は、その夢が嫌いだった。それが悪夢だからではない、そんな夢を見てしまう自分自身に嫌悪して。
今、彼女の目の前には年端も行かない少年がいた。全身の皮膚がずたずたに避け、顔の器官の形が一変し、肉の中で砕けた骨格が遠目から見たシルエットすら一変させているそれを…まだ、人間と呼べるのであれば。
痛い、痛いと未練がましく呟くソレは、むしろ哀れですらあった。
――反吐が出る。
彼女は、嘲る様に一瞥する。
そんなものは、まるきりの嘘だ。現実には、こんな生半可な死に方ができたはずがない。誰もが、自らの身に何が起こったか把握する間すらなく、一瞬にしてこの世から消失してしまったことだろう。
それは救いだ。言うまでもなく、自分にとって。殺した相手にとっては、死に方などそう大差はない。少なくとも、救いになることだけは有り得ない。
彼女は、もう一度口の中で同じ言葉を吐き捨てた。これが贖罪のつもりかと、自分自身を嘲りながら。
幻影の首に、手を伸ばす。イタイイタイと、貴族の飼う異国の鳥のようにただ同じ言葉だけを呟き続ける人形は、逆らう様子すら見せなかった。
当然だ。この子供は、とうの昔に死んでいる。
冷めた目でそれだけを確認すると、魔女は首にかけた指に力をかけた。
これは、彼女の夢の中。
一度殺した人間をその中で再度殺すことは、果たして罪になるなのだろうか。
彼女は――
「――――………。」
目が覚めた。おそろしく、半端なところで覚めてしまった。
普段なら、こんなことはない。幻像が像を結ぶ前に目が覚めるか、それともこの手で二度、三度と繰り返し息を止め、そうしてようやく朝が来る。
彼女は、いつになく不機嫌な顔で起き上がった。何故だか、今日に限って随分と眠気が残っている。それに、気のせいか頬が痛い。
悪夢は、毎晩見るわけではない。時折、何故だかちょうど自分が忘れかけたころになると、決まって同じように繰り返される。もしかしたらこれは誰かの呪いなのかもしれないわねと、彼女は自分で思いついたその可愛らしい考え方に苦笑した。
頭が、ぼうっとする…。
昨夜、何か特別な事でもあっただろうか?
寒さのため、寝巻きの上にもう一枚上着を羽織ると、彼女は朝食の準備をするために扉を開けた。
やけに、部屋の中が暖い。目をやると、竈に火が入っている。
「…お、起きたか。食材、勝手に使ったぜ」
その傍で、それまで鞴を吹いていたイーヴが顔を上げた。目の前にある炎のせいで、額が汗だくになっている。
竈の上には、彼からしてみればやや小さめの鍋がひとつ、ぐつぐつと煮汁を立てていた。中身は、そこらへんを適当に漁って見つけた食べられそうなものを水で煮込んだだけのポタージュである。
だが、そのわりには案外食欲をそそる匂いを放っていた。もっとも、それは彼にとっても多少意外なことではあったのだが。
「――――――」
目の前、本当に手を伸ばせば届くような距離に、昨晩会ったばかりの魔女がいる。彼女は白い寝巻きの上に、ガウンを一枚羽織っているだけの格好で、目を丸くして自分を上から見下ろしていた。
「おい、どうした? まだ寝てるんじゃないだろうな、お前」
「……え? ええ」
その目がようやく焦点を結ぶと、彼女はあいまいに頷いた。
多少頼りない足取りで水桶まで辿り付くと、冷水を両手で顔にぶちまける。
それを、三回繰り返した。
――目が覚めた。
そうだ、昨日は、ようやく例の魔女を捕まえることができたのだ。あれから三晩、危険を冒して教会の使いの後を付け続け、やっと手に入れた大切な研究材料。
確かに、彼の凶眼自体は、さほど実践的ではないかもしれない。だが、それは関係ない。魔術と言うのは、それ自体が非常に抽象的で曖昧なものだ。必要なのは形作っている概念の構造であり、まるで何の役に立たない術から魔法にも等しいような術を導ける可能性は、決して低くはないのである。最低でも、指針として研究するだけの価値は、十二分にあるだろう。
エミリの顔に、自然と笑みが広がった。
「――で。何をやっているの、貴方は?」
そう問い掛けた少女の声は、完全に昨夜の魔女のものへと戻っていた。
「見ればわかるだろ、朝飯だ」
答えながら、イーヴは柄杓でポタージュの味を確かめる。これも、意外に悪くない。
彼が朝食の準備をしようと思ったのは、概ね二つの理由があった。ひとつは、まだエミリを完全に信用する気にはなれないものの、宿無しだったところに部屋を提供してくれた恩があることだけは否めないこと。もうひとつは、単に自分の腹が減っていただけである。
考えてみれば、昨日は、最後の路銀で食べた一杯のポタージュを除いて、丸一日近く何も食べていない。睡眠だけは十分に取れたので、体を動かすことが苦痛ではなかったのは幸いか。
今思うと、いきなり招待された魔女の家でぐっすり熟睡してしまったのは、少々浅はかだったかもしれない。だが、今こうして五体満足でいられるのだから、とりあえずは良しということにしよう。
彼は、常に前向きに物事を考えることを身上としていた。
「まぁ、あんたは席にでも着いて待ってな。もうすぐできる」
「…材料は、普通に食べられるものしか入ってないんでしょうね? 形の悪い人参と間違えてマンドラゴラなんて入れられた日には、それこそ目も当てられないわよ」
「マンド…なんだ、そりゃ?」
怪訝な顔で訊くエミリの言葉を、イーヴは間の抜けた顔で繰り返した。
マンドラゴラ。魔女薬の材料の中でも最もよく知られた種類である。根に聖霊、もしくは小悪魔が宿っており、そのために人と同じ姿を取る。また、引き抜く瞬間には凄まじい雄叫びを上げそれを耳にした人間は即死するため、収穫の債には紐で葉と飢えた黒犬の尾を結びつけ、離れた所から肉を見せつけることで引き抜かせる必要があるとされている。
言うまでもなく、それらは全て魔女を恐れるが故に生まれた作り話だ。実際のマンドラゴラは茄子と同じ系譜に属する植物であり、もちろん悲鳴などはあげやしない。二股に分かれた根が男性の下半身を思わせることからそういう話になったらしいが、彼女自身がそう思ったことは、一度もなかった。
確かに、絞り汁には鎮痛・沈静の効力があるので、多くの魔女が扱っていることは事実だが。
「…まぁ、いいわ」
どちらの話も説明する気にはなれず、エミリは言われたとおり席についた。
「準備ついでに、もうひとつ頼まれてくれる? 竈の隣に、豆の入った袋があるわ。それを、窓から外に投げて欲しいの」
「豆の入った袋って、これか? …これを、このまま?」
言われたとおりの場所にあった汚れた麻袋を手にとって、イーヴが首を傾げる。エミリは、無表情に頷いた。
「もう、帰って来てるはずだから」
「――帰って来てる?」
首を傾げながらも、イーヴは袋を手に窓際へと寄った。朝の光を室内に入れるため、鎧戸は既に上げてある。
市街地のため、窓からは建物の壁しか見えない。こちらと違って窓がないので、赤い煉瓦が視界一面を埋め尽くしている。人が横になって通れるくらいのスペースはあるだろうが、犬や猫がいるわけでもない。鳩にでも、やるのだろうか。
「…まぁ、いっか」
呟くと、イーヴは袋を宙に投げた。
その瞬間、顔のすぐ側を一陣の突風が凪ぎ通る。
放ったはずの麦袋は、そのときには既に眼前から消えていた。
クァー。
「…おい、なんだソイツは」
イーヴが振り返ると、テーブルの上に得体の知れない鳥がいた。巨大な鳩。いや、違う。よく見れば、それはアルビノ(無色素)の鴉だった。
白い鴉はエミリの席のすぐ前で、彼が今放ったばかりの豆をつついていた。嘴で器用に紐口の結び目を解き、のみならずテーブルの上を汚さぬよう、袋の中に頭を突っ込んでは一粒ずつ口の中に運んでいる。エミリがその背を撫で付けても、白鴉はまるで気にした様子を見せなかった。
「この子は『虚』。この家の居候としては、貴方の先輩といったところでしょうね」
エミリの言葉に頷くように、それは再びクワーと大きな鳴き声を上げた。
明らかに、人の手による教育を受けた鴉だった。のみならず、運動能力もかなり鍛錬されているらしい。眼前を横切られたにも関わらず、イーヴには、その姿がまるで目に映らなかった。おそらくは、近所の人間の目に付かぬよう、ああしてこの家を出入りしているのだろう。
「…虚には、私も世話になっているわ。彼は、魔女同士を繋ぐネットワークの伝令役なの。本当に魔術を行使できる力を持っている魔女は、たいていの場合、お互いの顔や存在を知らないわ。だから、こうして使い魔として教育した動物同士で手紙のやりとりをさせるわけ」
言われた通り、虚という名の鴉は、足に一本の手紙を巻きつけていた。これも、他の魔女の鴉なり鳩なり猫なりがやったことなのだろうか。彼には、どうにもその様が想像できない。
手紙を解き、エミリはそれにざっと目を通すと、すぐに火の滾る竈の中へと投げ捨てた。
「やっぱり、貴方のことはもう随分と知られたみたいよ。少なくとも、この街に済む魔女は皆イーヴ=カミュを新たな魔女として見なしている。歓迎と反発は、まぁ半々といったところね」
どこか楽しそうに告げる魔女の前で、イーヴはぽかんと口をあけることしか出来なかった。
その情報網の早さにも驚かされるが、それよりも彼にとってはそれだけの数の魔女がこの街にいると事実ことの方に驚愕だ。
アルルの人口が何万人だかは知らないが、彼女の口調から推察する限り、少なくともここに住む魔女の数は一人や二人ではなさそうである。
「この街の魔女の推測はしないで。それが、わたしたちの間にある暗黙の盟約よ。それよりも、貴方には手伝って欲しいことがあるの。食事が終わったら奥の部屋に来て」
そこまでを一息で言うと、エミリは料理を待たずに席を立った。ちょうど鍋の中身を皿に移し変えていたイーヴが、慌てた様子で振り返る。
「――おい、朝飯いらないのかよ?」
「遠慮しとくわ。貴方が、全部食べていいから」
こちらは振り向きもせずに答えると、エミリは、この部屋から唯一伸びる廊下への扉を開けた。ひんやりとした空気に肌をあわ立てるも、気にしたそぶりも見せず部屋から出る。
「…胸の成長止まるぞ、アイツ」
その一言は、薄い扉越しにしっかりと彼女の耳まで届いていた。
ある程度予想はしていたが、棚の上にはうっすらと白い埃が靄のようになって表面を埋め尽くしていた。今は手に取っている瓶が置かれていた場所だけが、綺麗な真円の形でもって、鮮やかな木肌の色を覗かせている。
溜息をひとつこぼすと、エミリは、自然と閉じようとする瞼を擦った。
さっきついでに思い出したが、昨夜はほとんど眠れていない。だが、天井の上が気になって結局朝方まで寝付けなかったなどと、あんなへらへら男には断じて言えるわけがなかった――死んでも言えない。
寝る前にああは言ったものの、実際ところ、仮に彼が凶眼を用いて階下にあるエミリの部屋を「邪視」――この場合は「覗き」だが――したところで、彼女にそれを知る術はほとんどなかった。
凶眼は純粋自然な魔術だが、魔術とは一般に言われているように魔力や聖霊力などと呼ばれる力を用いて行使されるような、一種のエネルギー体系ではない。それは、あくまで手足の動きや頭で行う計算の延長にしか過ぎず、使用する度に痕跡や予兆を残すようなものではないのだ。いや、あるのかもしれないが、それは例えて言うならば、次に発せられる言葉を頬の筋肉の動きから推察するようなものであろう。
封じる手ならば、いくらかあった。例えば、角手。人差し指と小指を伸ばし中指と薬指を親指で握り締める握り方で、これを相手の目に見えるように突きつける。
これは、魔女たちの連盟の間でもその効果の正当性が認められている方法だった。例によってその原理は不明だが、それはさして問題にはならない。魔術学で問題となるのは行為を行う過程ではなくそれによる結果のみであり、そこに至る為の原理はさほど重要視されていない。そもそも、常識を超えた真理を追究するのが魔女だとも言えるのだ。
他にもある。グノーシスが生み出した七曜のアミュレットなどはその最高峰だが、彼の邪視が単純な透視能力だとすれば、塩や大蒜、床に蒔いた灰に全身鏡など、民間に伝わる凶眼避けの方法でも効果があるはずである。だが、それを完全に防ぐとなると、やはり経験則に基づくそれなりの魔術理論的対策を取られた、護符の力が必要となるだろう。
当たり前だが、そこらの露店で売られているようなお守りと違い、本物の力を持つ護符は高い。とにかく高い。
(はぁ…。あいつがいると、全くろくなことにならないわね…)
自然と出る溜息が、内心の全てを物語ったときだった。
「…なんじゃ、こりゃ?」
彼女をそのろくな目に合わせていない当の本人は、部屋に一歩入るなり、いきなり間の抜けた声を立てた。
脚立上のエミリが、扉のある方へと振り返る。
開け放たれた窓から差し込む光の帯に沿って舞う埃に包まれたその部屋の一画は、四辺のうち三辺を、古ぼけた棚でもって埋められていた。棚は高く、そのどれもに暗色の液体や枯れた草、木の実などが一杯に詰められた瓶が並んでいる。彼女がいるのは、それらの棚の中でも、イーヴの入ってきた扉側から見て最も遠い位置にある棚の上だった。
そこから少し離れた位置に、もう一つ、通りへと通じる扉があった。面した道の広さから、どうやらこちら側が正面口ということになるらしい。片方だけ開け放たれた扉には木の札がかけられており、こちらを向いている面には「ouvert(開店)」と書かれている。奥の方には帳簿を付ける為の長台と椅子があった。
「…分からない? ここ、店頭よ。薬屋の」
まさか、本当にその言葉が必要だったとも思えなかったが、エミリは律儀に返答した。
呆気に取られた顔のまま、彼はそれぞれの棚に並べられた瓶の列を見上げていた。全ての瓶には古臭いラベルが貼ってあり、冷病に効果のあるカモミユの花、咳を止めるコックリコの種など、短くとは言え一人旅を続けてきた彼にとっては馴染みのある名前も、中にいくつか混じっている。
それらの瓶のうちひとつを取り、何故だか彼は残念そうに呟いた。
「…なんだよ、普通の薬草ばっかじゃねぇか。てっきり、惚れ薬だの呪薬だのがあると期待したのによ」
「ああ、それなら貴方から見て右上の棚に入ってるわ。呪いに使うのは、その隣の棚」
あっさり言われて、イーヴは思わず持っていた瓶を取り落としそうになった。恐る恐る、言われた棚に視線を移動させる。
残念ながら彼にはどの瓶が惚れ薬で呪薬かは分からなかったが、その棚にあるラベルは、確かに彼の知らない名前ばかりだった。
エミリが、呆れたように付け加える。
「…そう言えば貴方、まともな街に来たのは初めてなのよね。心配しないでも、その程度のおまじないなら、どこの薬屋でも扱っているわ」
ちなみに彼女が言ったのは、異性を惹き付けるとされるアッシュトリーリーブスと恋敵を妨害するローズゼラニウムのことで、これらは香りを服に染み込ませたり油を取って肌に塗るなどの方法で、幸運を得ようというものである。もちろん、具体的な効果はない。
実のところ、彼女がその気になれば本物の媚薬や毒薬に近いものも作れるのだが、さすがにそれを店に置くわけにはいかなかった。不思議なことだが、このようなまじないのための薬は、一般には魔女薬として認識はされていない。強すぎる効果、不吉すぎる作用をして、初めて人はそれを魔女薬と呼ぶのである。まぁ、都合の良いものを忌むべき存在として認識したがらない人間の心理と言ったところだろう。
イーヴは手にした瓶を見つめながら、まだ魂の抜けた表情をしていた。軽く、エミリの眉が吊り上がる。
「…なんか、納得いかないって顔してるけど。まだ、何か疑問でも有るわけ?」
「――いや、そうじゃないんだが…」
イーヴは瓶を棚に戻しながら、言葉を濁した。
「なんていうか…魔女も仕事なんてするんだな、と思ってさ」
彼の呟きは、心の底から本当にそう思っているものらしかった。
そうなのだろうか。エミリには、逆にその感覚が分からない。
魔女と呼ばれても自分は一人の人間であり、そのためには当然働く必要がある。
むしろ彼女としては、この仕事こそ最も魔女らしい仕事なのではないかと思っていた。店を開ける前に、自分の正体を宣伝することになるのではと、危惧していたほどである。
魔女薬の処方は、たいがいの魔女が行っている。儀式時における『場』の作成――例えば部屋をアプリコットの匂いで埋めるなど――や過度の精神集中を起こすためには、どうしても自ら処方しなれば手に入らないような薬が必要となるためだ。一般的には、長い間人目につかない羊飼い、先んじて赤子に呪術を施せる産婆などに、魔女が多いとされているらしいが。
もっとも、彼女にとってここで店を出していることには、もう一つ現実的な意味があった。
それも、極めて重要な。
「 〝生活〟の真似事をする必要があるのよ。…わたしたちは」
呟くように、エミリは言った。
彼に、その言葉の意味はわからなかったようだ。視線で問い返してくる。
本音を言えばそのままうやむやにしたかったところだったが、昨日見た彼の性格からして、何度でも問い返してくるのは明らかだった。数瞬の沈黙の後、気の進まぬまま、結局説明することにする。
「…旧大陸で一番強大なネットワーク、それがカトリック――すなわち、教会よ。一〇〇年前ならまだしも、現在、彼らの目に全く触れずに生きていくことは、ほとんど不可能に近い。どんな小さな村にだって、教会の一つはあるでしょう? だから、最近の魔女は敢えて大都市に住むことが増えている」
「…どういうことだ?」
「魔女や魔術という存在自体が、教会にとっては禁忌だからよ。存在を認められない相手を街中で堂々と追い詰めて、よくあるようなインチキではない――〝本物の〟魔術なんて唱えられたら、どうなると思う? ましてや、教会のお膝元であるアヴィニヨンにも近い、このアルルで」
イーヴは、半信半疑といった面持ちで首を傾げていた。
確かに、このあたりの感覚は実際に教会の手の者と対峙してみないと分からないものではあろう。
「そういうものよ。
…ふふっ。だから、魔女である私を、彼らは人間として殺さなくてはならなくなるのよ。彼らにとっては、これ以上ない屈辱でしょうね」
「………」
イーヴは無言だった。気のせいか、わずかに目つきが鋭くなっている気がする。
疲れたように息を吐くと、魔女は、手にもっていた雑巾の一つを放り投げた。彼は、顔の前で難なくそれを受け止める。
「…ま、いいわ。それじゃ、貴方はそっちの棚を拭いてちょうだい。貴方なら、脚立なしでも一番上の段にまで手が届くでしょう?」
「しょうがねぇな。まったく、何で俺がこんなことを――」
ぼやきつつも、言われたとおり棚を吹き始めようとしたところで、その手の動きがぴたりと止まる。
「…おい。まさかとは思うが、さっき言ってた手伝ってほしいことって、これか? 俺の凶眼をいじくりまわすんじゃなかったのかよ?」
「それをやるのは、日が落ちてからよ。ただでさえ食い扶持がひとり増えるんだから、貴方にはその分だけ働いてもらわないとね」
そっけなく答えると、彼女は再び目の前の棚の掃除を再開した。背後からぶつぶつと罵声が聞こえてくるが、気にした風もなく作業を続ける。
――慌てなくても、お楽しみは逃げやしない。
その口元に浮かぶ笑みの種類に、気が付く者は誰もなかった。
煉瓦の道を掃くことの無意味さにようやく彼が気が付いたのは、もう日も落ちようとしている時刻になってからだった。
散らばる落ち葉を片付けたところで、見ているうちから次の葉が落ちてくるようでは意味が無い。全面が煉瓦で固められているものだから、つまづくような石ができるわけでもない。結局のところ、自分は意味も無い労働に午後の半分を費やしたことになる。
それでも箒を握る手は止めず、恨めしげな視線でイーヴは店内に目をやった。
エミリは、先ほどから主婦らしき高齢の客と談笑を続けている。
(…さすが、魔女)
決して店の中にまでは届かぬよう、イーヴは小声で呟いた。
彼女が楽しげに談笑をする相手は、これでもう何人目になるか分からない。むしろ、症例を聞いて薬を調合している時間よりも、こうして歓談している時間の方が長いくらいではないかとさえ思われた。
街中での商売に必要となる協会からの許可証は、いったいどうやって手に入れたのか? あの見るからに怪しげな薬の瓶が、どうしてこうも飛ぶように売れていくのか? 何よりも自分には欠片も見せなかったあの愛想は、一体どこから出てくるのだろうか? …いくら考えても、疑問は尽きない。
「あ、風邪が治ったら今度はお嬢さんも一緒に連れてきてくださいね。それじゃ、お大事にー」
「ありがとう。エミリちゃんの笑顔を見てると、それだけで病気なんて吹っ飛んじゃう気がするわね」
老婆は、店の前を黙々と掃き続ける大男の姿に目を留めるなり、何やら意味ありげな微笑を向けた。イーヴには、何故だかそれがとてつもなく邪悪なものに感じられる。
エミリは、丁寧にも表にまで出てきてその老婆を見送った。
「…なによ、何か文句がありそうね」
老婆の姿が消えてから、小さな魔女はずっと物言いたげな瞳で彼女を見つめ続けていたイーヴへと声をかけた。口調が、それまでとはがらりと変わっている。
「別に、文句ってわけじゃないけどな」
「言いたいことがあるのなら、早めに言った方がいいわよ。私の機嫌がいいうちに」
むしろ、普段よりもさらに険悪に聞こえるのは気のせいだろうか。
イーヴは、さっきからずっと考えていたそのことを口に出すべきかどうか迷った。だが、結局は言ってみることにする。もとより、言いたいことをじっと頭の中に留めておくなど、彼にとってはどだい無理な相談だ。
「お前さ、こっちの商売だけずっとやってた方がいいんじゃないか? 何ていうか…あっちの仕事は廃業してさ」
流石に店の前で『魔女』という言葉は使えないため、彼は途中で言葉を濁した。
だがそれは、紛れもない彼の本音だった。仕事をこなす彼女の姿は、たとえそれが営業用の演技だとしても、生き生きとしていて、何よりも自然に見えた。少なくとも、魔女などという殺伐としたものよりはよほど少女に似合っている、そう思ったのだ。
「それは無理よ」
だが、小さな魔女は即答する。
「わたしが私である限り、それは決してできないわ。貴方だって、自分の存在を無視して生きていくことなんてできないでしょう?」
その言葉は、自分よりも二回りも低い年齢の少女の口から聞くにしては、随分と小難しく哲学的だった。もともと、彼は頭の回転には自信がない。
「…よく、わからないけどよ。案外、どうにかなるんじゃないか? 店だってそれなりには流行っているみたいだし」
「――貴方にも、じきに分かるわ」
様々な想いをその一言の中に込め、エミリは思った。
お金や生活の問題ではない。一度、魔女として生まれてしまった者は、何があっても魔女としての生き方を進まなければならない。
確かに凶眼の力を抑え、魔術能力を消すことは不可能ではない。だが、それをすることは、一生涯自分を否定し続けなければならないということでもある。
私に、逃げることはできない。逃げられない理由もある。逃げることのできる者が、幸せであるとは思うけれども。
「もうすぐ、店を閉めるわ。そろそろ、後片付けをしておいて」
言いたいことは、たくさんあった。
だが結局、エミリはそれだけを告げると踵を返して店の中へと戻って行った。札を「ferment(閉店)」に裏返し、彼を拒絶するように扉を閉める。
(やれやれ…)
内心で息を吐くと、イーヴは気を取り直して集めた枯れ葉を袋に詰めようとした。
その時である。不意に、背後から服の袖を引く感触があった。
振り向くが、その先には誰もいない。
彼がそれを錯覚と片付けようとしたところで、視界の端で煌く金髪に気が付いた。
「――!?」
視線を下げる。そこにいたのは、昨夜あの司祭と一緒にいた口の利けない少女だった。
少女は、店の中からは死角になる街路の一点に指を指す。司祭が、その指の先で頭を下げた。
煉瓦の道を、一陣の風が吹き抜ける。
夕焼けはまるで血のように赤く、空には、早くも月の気配が出始めていた。
テキスト形式のため、文中のフランス語からは全てアクセント記号が抜けております。そのため正しい綴りになっていないことを予めご了承願います。




