いもうと、でなかった日
第2話 妹じゃなかった日
その日の夕食は、いつもと何も変わらなかった。
母さんが作ったハンバーグに、付け合わせのサラダ。テレビからは賑やかなバラエティ番組の笑い声が流れ、向かいに座る結衣は、僕と目を合わせようともしない。
いつもどおりの、我が家の食卓だった。
少なくとも、僕はそう思っていた。
「ごちそうさま」
誰よりも早く食べ終えた結衣が、食器を重ねて立ち上がる。僕がまだ半分ほど残っているハンバーグを口に運ぼうとしたとき、父さんが静かに声をかけた。
「結衣、ちょっと待ってくれ。綾人も、食べ終わったら二人に話がある」
「……なに? 今じゃなきゃ駄目なの?」
結衣は露骨に面倒くさそうな顔をしたが、父さんの表情を見て、何かを察したらしい。文句を飲み込み、椅子に座り直した。
母さんがテレビを消す。
さっきまで賑やかだったリビングが、急に静まり返った。
「綾人、結衣。二人とも、もう高校生だ。そろそろ話しておかなければならないことがある」
父さんはそう切り出したものの、すぐには続きを口にしなかった。
隣の母さんと目を合わせ、何かを確かめるように小さく頷く。
その様子を見ているうちに、僕の胸にも嫌な予感が広がっていった。
「……実はな。お前たち二人には、血のつながりがないんだ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
箸を持ったまま、僕は父さんを見つめた。
血のつながりが、ない?
僕と結衣が?
「それって……どういう意味?」
「綾人。お前は、父さんと母さんの実の子供じゃないんだ」
父さんの声は、少しかすれていた。
「お前の本当のお父さんは、父さんの古い友人だった。お母さんも含めて、家族ぐるみで付き合っていたんだが……お前がまだ小さかった頃、事故で二人とも亡くなってしまった」
父さんはそこで言葉を切った。
母さんが、テーブルの上で固く握られた父さんの手に、そっと自分の手を重ねる。
「幸い、お前だけは助かった。だが、引き取れる親戚が見つからなくてな。このままでは施設に預けられることになると聞いて、母さんと相談したんだ」
「……それで、僕を?」
「ああ。ちょうどその頃、私たちにはまだ子供がいなくてね」
母さんが静かに頷いた。
「でも、子供が欲しかったからというだけじゃないのよ。あなたのことは赤ちゃんの頃から知っていたし、何度も抱っこさせてもらっていたの。あんなことがあって、あなたまで知らない場所へ行ってしまうなんて、どうしても考えられなかった」
母さんは懐かしむように目を細めた。
「だから、うちの子になってもらおうって決めたの」
それから数年後、結衣が生まれた。
僕はずっと、結衣と同じ父さんと母さんから生まれた兄だと思っていた。
当たり前だ。
物心ついたときから、この家には父さんと母さんがいて、少し大きくなると、僕の後ろをついて回る結衣がいた。
それ以外の家族なんて、考えたこともなかった。
けれど、今聞かされた話が本当なら。
僕だけが、この家の誰とも血がつながっていないことになる。
不意に、胸の奥が冷たくなった。
……僕は、ここにいていいんだろうか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、急に息苦しくなった。
父さんも母さんも、今まで一度だって僕を邪魔者扱いしたことなんてない。結衣と分け隔てなく育ててくれたし、僕が熱を出せば夜通し看病してくれた。
それなのに、どうしてだろう。
血がつながっていないと知った途端、今まで当たり前だったものが、ひどく頼りなく思えてしまった。
「……父さん、母さん」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「今まで、育ててくれてありがとう」
「綾人?」
「僕、これからもここにいていいかな」
母さんの表情が変わった。
けれど、一度口にした不安は、もう止まらなかった。
「迷惑かもしれないけど……大学を出て、ちゃんと働けるようになったら、今までかかったお金も少しずつ返すから。だから、せめてそれまでは――」
「綾人!」
父さんの声が、僕の言葉を遮った。
驚いて顔を上げると、父さんは泣いていた。
あの、滅多なことでは涙を見せない父さんが。
「……そんなこと、二度と言うな」
怒鳴ったわけではなかった。
むしろ、ひどく苦しそうな声だった。
「お前を引き取ったのは、金を返してもらうためじゃない。父さんと母さんが、お前と家族になりたかったからだ」
「でも……」
「でもじゃない。お前が初めて父さんって呼んでくれた日のことも、初めて自転車に乗れた日のことも、全部覚えてる。血がつながっていないからって、それがなくなるわけじゃないだろう」
父さんは僕の肩に手を置いた。
大きくて、温かい手だった。
「綾人。お前は、俺たちの息子だ。これまでも、これからも、ずっとな」
「……そうよ」
母さんも、目元を押さえながら微笑んだ。
「あなたがうちに来てくれて、私たちは本当に幸せだったの。結衣が生まれたときだって、あなたが一番喜んでくれたじゃない」
そう言われて、ぼんやりと昔の記憶が蘇った。
小さなベッドで眠る赤ん坊。
恐る恐る伸ばした僕の指を、ぎゅっと握り返してくれた、小さな手。
『あやと、おにいちゃんだよ』
そう話しかけると、父さんも母さんも嬉しそうに笑ってくれた。
……そうだ。
僕には、ずっと家族がいた。
血がつながっていようがいまいが、父さんは父さんで、母さんは母さんだ。
それなのに、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
「……ごめん。父さん、母さん」
涙がこぼれた。
母さんが席を立ち、僕の背中を抱きしめてくれる。
その温もりは、幼い頃から何一つ変わっていなかった。
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた頃。
僕は、ふと向かいの席に目を向けた。
……結衣。
そうだ。結衣はどう思っているんだろう。
僕にとって、結衣は大切な妹だ。
昔のように懐いてくれなくなっても、どれだけ冷たくされても、それだけは変わらない。
けれど、結衣にとっては違うかもしれない。
ただでさえ僕を嫌っているのに、実の兄ですらなかったと知ったら……。
そう考えた途端、せっかく落ち着いた胸が、またざわつき始めた。
結衣は、ずっと黙っていた。
膝の上で両手を握りしめ、俯いたまま、小さく肩を震わせている。
顔は長い黒髪に隠れて、よく見えない。
……ショックなんだ。
無理もない。
今まで兄だと思っていた人間が、突然、血のつながらない他人だったと知らされたのだから。
僕は迷った末、そっと声をかけた。
「……結衣」
返事はなかった。
「ごめんな。こんなことになって」
結衣の肩が、ぴくりと揺れた。
「でも、僕にとって結衣はずっと妹だから。そこは変わらないよ」
「…………」
「もちろん、結衣が嫌なら、これからはなるべく距離を置くようにする。今までみたいに、無理に話しかけたりもしないから――」
「……うそ」
かすかな声が聞こえた。
「え?」
「……嘘、じゃないよね?」
結衣が、ゆっくりと顔を上げた。
その表情を見て、僕は言葉を失った。
頬が真っ赤だった。
大きな瞳には涙が浮かび、唇は何かを必死に堪えるように震えている。
けれど、不思議なことに。
その目には、悲しみとも怒りとも違う、今まで見たことのない光が宿っていた。
「本当に……?」
結衣は、僕ではなく父さんを見つめた。
「本当に、私と綾人お兄ちゃんは……血がつながってないの?」
「ああ。本当だよ」
父さんが頷く。
「戸惑うのも無理はないと思う。でも、綾人はこれからもお前の兄さんだからな」
「……っ」
結衣が息を呑んだ。
そして、両手で顔を覆った。
「……そっか」
指の隙間から、小さな声が漏れる。
「……そっかぁ……」
そのまま、結衣は泣き始めた。
声を押し殺し、何度も肩を震わせながら。
僕はどうしていいか分からず、ただその姿を見つめていた。
……そんなに嫌だったのか。
血がつながっているから、仕方なく一緒に暮らしていた。
それなのに、実は赤の他人だったなんて。
結衣にとっては、耐えられないほどショックだったのかもしれない。
「結衣、あの……」
「……来ないで」
椅子から立ち上がろうとした僕を、結衣の声が止めた。
「今、こっち見ないで……」
「……分かった」
僕が腰を下ろすと、結衣はしばらく俯いたまま、何かを堪えていた。
やがて、突然立ち上がる。
「……私、部屋に戻る」
「結衣、大丈夫?」
母さんの問いにも答えず、結衣は足早にリビングを出ていった。
階段を駆け上がる音がして、二階の扉が閉まる。
その音が、妙に大きく響いた。
「……結衣、大丈夫かな」
母さんが心配そうに呟く。
父さんも難しい顔をしていた。
僕は、結衣が座っていた椅子を見つめた。
今までだって、あいつに嫌われていることは分かっていた。
それでも、兄妹だから。
家族だから。
いつかまた、昔みたいに笑って話せる日が来るんじゃないかと、どこかで期待していた。
でも、血がつながっていないと知った今、結衣はもう僕を兄だと思ってくれないかもしれない。
そう考えると、胸の奥がひどく痛んだ。
結局、その夜、結衣は部屋から出てこなかった。
翌朝も、朝食の席に姿を見せなかった。
母さんが何度か声をかけたけれど、「大丈夫だから」と返ってくるばかりだったらしい。
僕も部屋の前まで行ったものの、結局、扉を叩くことはできなかった。
……僕がいなければ、結衣はもっと気楽に暮らせるんだろうか。
そんなことを考えながら、一人で学校へ向かった。
まさか、あのとき結衣が流していた涙の意味が、僕の想像とはまったく逆だったなんて。
このときの僕には、知る由もなかった。
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