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それでも春や夏は訪れて、

 公立高校学力試験が終わり、願書の提出が始まった。試験の出来で希望校を選択する。雫はもちろん慧と同じ高校だ。それは以前と変わらない。優香も同じ高校に進学すると聞いて、少しは安心感が出た。

 知らない人より、知っている人がいた方が断然良い。

 願書の提出をし、学校の帰り優香が家に寄った。

「上がって、上がって」

 以前家に来てから関係は良好になり、小学校の頃に戻ったようだった。雫は手招きし、優香を家に上げた。家の中は綺麗に片付いていて、埃ひとつない感じだ。

 雫は少し考え方を変えた。それは、ごく最近だ。卒業式の時。

 優香はいつも雫を気遣っていた。それに下心はなく、純粋に雫を心配してのことだった。それなのに雫はいつも優香を突っぱね、近づけまいとしていた。

 事故以来、優香はいつも雫のことを目にかけていた。まるで親の如く。何かあれば、雫の側に駆け寄り、手を貸してくれた。クラスで虐められていた時も、自分のことのように怒ってくれた。

 どうしてと思うことは多々あったが、気遣ってくれていることは気付いていた。

 優香はいつも自分の代わりに泣いてくれる。事故の時も。卒業式の時も。

 泣けない。泣いてはいけないと思いこむ雫の前でいつも泣いていた。

 事故直後は泣けなかった。自分のことを疫病神扱いする声を聞き、泣けなくなった。泣いても両親は返ってこない。それにお前には泣く資格がないとでも言われているかのようだった。

 本当の子でもない、赤の他人が。泣いてはいけない。でも、泣きたい。

 それに慧はぐっと耐えていたから。だから、泣くわけにはいかなかった。

 その時だった。優香の姿が目に入った。自分のことでもないのに、優香は泣いていた。他の誰よりも激しく脆いその泣いていた。

 それに釣られて涙があふれ出した。前が見えない程に流れる涙は、拭っても拭っても流れ続けた。嗚咽が漏れる。ううと声が出た。

 優香はソファーに腰を下ろした。

「待ってて。お茶淹れるから」

 そう言ってキッチンに向かった。お茶の一つくらいは淹れられるようになった。紅茶の葉とお湯をフレンチプレスに入れ、蒸らす。色が出てきたところで、弁を押し下げ茶葉を抑えつけながら、カップに注ぐ。ソーサーと共に盆で運ぶ。

 はい、と渡して、優香は香りを嗅いだ。

「うん、良い香り」

 ご満悦の様子で、砂糖を入れて飲む。雫は熱したミルクを砂糖と共に紅茶に入れた。

 自分でもお子様のようだが、これが一番おいしい。

 体が温まる。三月終わりと言えども、気温は平年の二月にあたり、まだまだ寒い。桜は五月頃になるだろう。

 慧は高校が休みで、今日も自室で読書だろう。暇さえあれば本を読んでいる。それ故に博識で、最近の情勢にまで詳しい。一体いつ知るのかと思うが、見ているテレビはニュースばかりだ。バラエティ番組はほとんど見ない。でも、流行の音楽や衣服も知っている。それに料理や掃除、裁縫も出来て、雫には手放せない存在となってしまった。

 それにスポーツも出来る。顔は悪くない。成績も優秀。優しくて気が利く。

 完璧超人。その一言で済ませてしまえる。そんな人間だ。

 だから、誰が好きになろうとおかしくはなかった。それが身近な人間ならなおのこと。別に優香ならと思ってしまうこともあるが、雫にだって引き下がれない。

 だって一番近くで、一番長く、一番慧のことを知っている。だから、譲る気なんてないし、取られるとも思わない。だっていつも見てくれているから。一番大事にされてきたから。

 そんな気持ちは優香も同じで、雫にだけは負けたくないと思っていた。

 いつも一番近くにいて、ずるいと思っていた。でも、雫を嫌うことなんて出来ずにいた。そんな自分が嫌いで、堪らなくずるいと思った。雫は好きだけど、慧のことも好き。もし、結ばれれば、誰が一番悲しむか分かっているのに、雫を構っている自分がいて。

 そんないつも葛藤に悩まされ、それでも自然と雫のことが気になって、放ってはおけなくて。だから、ずるいと思った。

 慧と結ばれたいけど、雫とも仲良くいたい。欲張りで困ってしまう。

「高校、受かるといいね」

 そう雫は呟いた。特に嫌味はないが、成績が乏しくない優香にはプレッシャーに感じてしまう。

「私立合格してるから、落ちても浪人だけは免れる。雫は一本でしょ?」

「うん、公立一本」

 雫は私立の所謂滑り止めは受けず、公立高校一本に絞っての受験だった。それでも成績の良い雫は、担任からそれでもいいと言われ、慧も容認した。

 まだ決まってはいないが、テストの自己採点では大丈夫と二人とも言われた。もちろん担任からだから、蓋を開けないことには分からないのだが。

「もし落ちてたら、バイトしながら通信制の高校に通うつもり。慧もそれでいいって言ってくれたし」

 ミルクティーを飲み終え、カップを置く。

 優香は再び笑顔で言った。

「受かってるといいね」

 その言葉は現実となった。発表当日に慧と雫、優香の三人で高校まで足を運んだ。当然、合格発表を確かめるためだ。

「・・・あった」

 優香は張り出された番号を目で追っていき、途中で目を停めてそう言った。それから、あったあった、と騒ぎだす。優香だけでなく、周りの受験者も感激していた。

 優香ははっと我に返り、雫の隣に駆け寄った。

「どうだった?」

 恐る恐る聞いてみた。雫の表情はあっけらかんとしていた。隣の慧は表情を緩め、ほほ笑んでいた。雫の受験票を覗いて、雫の番号を探した。番号は雫の視線の先にあった。

「あるじゃん。ちゃんとあるよ、雫」

 肩を持つ。雫は優香の顔を見て、ひらりと涙を見せた。そのまま涙は流れに流れ、決壊した。

「うわあ。ちょっと雫。何泣いてんの」

 優香は動揺して、雫の涙を指で払う。雫は、よかった、よかった、と呟いていた。それほど嬉しかった合格。これで慧と同じ高校に通える。そう思っただけで、自然と涙が出てきた。

 張り詰めてたんだな。優香はそんな雫をただ見ていることしかできなかった。でも、雫のこんな姿を見せてくれたことが嬉しかった。不謹慎かも知れない。でも、純粋に嬉しく思ったのだ。

 三人で担任の教師のもとに、合格の報告に向かった。高校から出ているバスに乗り、中学横の市役所前で降りた。そのままの勢いで中学校の敷地に足を踏み入れた。

 慧にとっては、一年も前に卒業した中学。雫や優香にとってはついさっき卒業したばかりの中学。

 各々違った思いを胸に校舎内に入っていった。

「懐かしいなあ」

 慧は校舎内をきょろきょろと見渡しながら、職員室に向かう二人の後を追っていた。雫と優香にはそれほど懐かしいとは思えず、よく知った校舎の中をずいずいと進んでいった。

 職員室の前に立ち、軽くノックをしてから扉を開けた。

「失礼します」

 優香が先陣を切り、一番に入っていく。中を見渡し、担任を見つける。

「小宮先生」

 優香は職員室の中心くらいの席に座る、初老の教員に寄って行った。雫もその後を追う。

「おお、伊藤に山埜。合格おめでとう」

 優しくほほ笑むその姿は、二人の合格を心から称えていた。優香は照れながら、頬を引っ掻いた。雫も俯いたまま、ありがとうございます、と小さく呟いた。

 中学側にはもう合否が届けられていて、中学校でも張り出されていた。

 職員室の入り口で二人の様子を見ていた慧は、すっと胸を撫で下ろした。やっと実感が湧いてきた慧は、安堵の表情を浮かべていた。

「あの・・・」

 そこに声がかけられた。

「あ、すいません。邪魔でしたか。すぐに退きます」

 慧は慌ててその場を飛び退く。

「いえいえ。そうじゃなくて。山埜さんのお兄さん?ですよね。合格おめでとうございます」

 声をかけてきたのは、まだ若い女性教員だった。スタイルもよく美人で、その姿に惹かれてしまう。あまりの美人に慧は顔を背け、二人の方に目を泳がした。

「ありがとうございます」

 照れ隠しながら言う。ひとしきり話をした二人が戻ってきた。

「西口先生。合格しました」

 優香はその女性教師を見るなり、合格の報告をした。

「おめでとう」

 ほほ笑みながら賛辞を送った。優香も笑顔で返した。雫も優香の後ろで笑っていた。

「山埜さんもおめでとう」

 自分の名前を知られているとは思わず、雫はしどろもどろに礼を述べた。

「ありがとうございます」

 その言葉を聞いて、さらに笑顔が輝いた。西口和は二人の頭をそっと撫でてやった。

 三人は揃って職員室から出た。出たところで呼び止められる。

「ちょっといいかな、山埜さん」

 雫は、はいと振り向く。和はしまったとバツが悪そうに言った。

「お兄さんの方なんだけど」

 慧は、どうして自分が呼ばれたのか疑問に思いながらも、和の後をついて行った。残された二人は、先に校門で待っていることにした。

「ごめんなさい。呼び止めてしまって」

 俯きながら、和はそう切り出した。いえ、と慧も気まずくなる。

「妹さんのことなんだけど・・・」

 和は戸惑いながらも、話を続けた。

「虐められてたみたいなの。クラスの男子にからかわれる程度だったけど、いつも暗い顔をして過ごしていたわ」

 驚愕の事実を突き付けられた。慧は動揺するが、何とか冷静を装う。

「聞いた話では、兄との禁断の愛だとか、二人は好きあってる。と言った内容だったけど。そんなことがあって、クラスのみんなとはやきもきしていたみたい。でも、伊藤さんがいたから、何とかなってはいたけど」

 慧には信じられないことだった。

 家ではいつも明るく、元気なように振る舞っていた。それが演技で、学校なんて行きたくなかったのではないのだろうか。それを一番近くで見ていたのに、気がつかなかったなんて。馬鹿だ。兄失格だ。

 自分を自分で責めた。そんなことをしても、何の解決にもならないことは分かっていたが、そうせずには居られなかった。

 微かに震える慧の体を見た和は、しまったと後悔する。後悔したところで、もう後の祭り。

「大丈夫?」

 そんな言葉に何の意味があるのか。そうは思いながらも、何か声をかけなければと和は思い、無意味な言葉をかけた。

「す、すいません。どうしたらいいのか、わからなくて」

 何かを必死に堪えながら、慧は地面をじっと見ていた。震えは止まり、肩には力が入っていた。和はぎょっとした。

「怒らないで。怒るなら、私たち教師を怒って」

「そんなんじゃありません。ただ」

 ぐっと拳を握った。

「ただ、自分に腹が立ってるだけです」

 さっきまで優しかった慧の姿はなく、怒りに埋もれていた。こんなに怒っている慧は想像できず、和は戸惑ってしまった。

 自分に腹が立ってるだけです。

 その言葉が、和に重く圧し掛かった。

「ごめんなさい」

 とっさに出た。慧は我に返った。

「あ。すいません。そんなつもりじゃなかったんです。別に先生が悪いわけじゃないんですから」

 申し訳なさそうに顔を伏せた。和は再び、ごめんなさい、と呟いた。

「何やってんの」

 と、そこに空気を読まない声が割って入った。迷彩服を身に纏い、短髪で爽やかな印象を受ける男子自衛隊員だ。細く見えて、中身はがっちりしている。

 和は落胆する。どうしてこうもタイミングが悪いの。

 腹を立てながら、何でもないです、と告げた。それから、慧の方を向きなおした。

「さっきのことは忘れて。と言われても無理よね。だから・・・そう、あまり深くは聞かないで上げてほしいの」

 言葉を詰まらせながら、和は言う。慧も過去のことをとやかく言うつもりはまったくない。傷口を開くだけかもしれないし、知られたくないことだってある。誰だって秘密の一つや二つ持っている。

「分かりました。このことは二人だけの秘密で」

 そう言って、慧は離れていった。そうこれ以上話すことはないと言わんばかりに。その姿を和は見つめていた。

「誰?」

 まったく無視された自衛隊員の足立が、和に聞いた。和は、誰でもいいでしょ、と煙たそうに言い、職員室に戻っていった。

 慧は校門に早歩きで向かった。二人は門にもたれ、慧のことを待っていた。

「先に帰っててもよかったのに・・・」

 慧はとっさに目を逸らした。さっきの今じゃ、顔を合わせずらい。雫はそんな慧を無視して、ずいと寄ってきた。

「何の話だったの?」

 少し怒りが籠った声で、迫ってきた。慧は避けるように校門をくぐる。

「早く帰って、今日はお祝いだ」

 話を反らしてみる。雫はむっとしたが、すぐに表情が和らいだ。

「ごちそう、楽しみにしてるから」

 笑顔には、さっきのことは追及しないからその代わり、と脅迫されているようだった。飯で引いてくれるならと、慧は笑顔で答えた。

「任せといて」


***


 その夜は、とても冷え込んだ。四月頭で、今日は高校の入学式だった。それでも晴天に恵まれ、入学を歓迎しているようだった。

 今まさに体育館で入学式が行われている最中で、在校生の慧も式に参加していた。教員の許可をもらい、客席でカメラを構えていた。

 式開始から丁度一時間ほどで閉会し、続いて入学説明会に移った。在校生は各教室に戻り、ホームルームと清掃後に体育館の後片付けだ。慧は保護者として雫の隣に座った。説明が始まった。

 二人は配られた資料を見ながら、話を聞いた。内容は教科書の販売のことや授業に関することなどだ。雫は少々退屈気味だが、慧はその説明を真剣に聞いている。

 それも一時間ほどで終了し、新入生は担任に連れられて教室に向かった。慧も自分の教室に向かう。教室に入ると、思いもしないことが起こった。

「お、委員長。お帰り」

「委員長。ご苦労さん」

 はて、何のことやら。慧を見たクラスメイトは、慧を委員長と呼んだ。黒板に目をやる。

「はあ?何で・・・」

 白いチョークで委員長の下に、山埜、と書いてあった。

「みんなの推薦」

 からかうようにクラスメイトの一人が言う。何とも理不尽な決定だ。本人のいないところで勝手に推薦し、勝手に決定していたのだ。

「ちょっと待ってくれよ。勝手に決めないでよ」

 慧は必死に訴えかけた。だが、もう決まったことだと降ろしてはくれなかった。

「たく、何で勝手に決めるかな・・・」

 慧は愚痴を溢しながら、席に着いた。慧の後部の席に座る男子生徒が話しかけてきた。

「保護者は大変だね。でもまあいいじゃんか。一年の時もやってたんだから」

 人事のように言ってのけるこの生徒は、慧の友人の友沢彰信だ。中学の時は生徒会長を務めていた。人懐っこい性格で人望も人気もあった。野球部に入部し、高校でも続けていた。

「・・・あの」

 隣に座る女子生徒が声をかけた。慧は横を向いた。そこに座るのは、髪の長い綺麗な子だった。見覚えはある。高校でも屈指の美人と人気の女の子だった。

「副委員長になった芦田沙弥子です。よろしくお願いします」

 小さくお辞儀をし、慧も釣られてお辞儀を返した。こちらこそ、と小さく呟く。

 慧にとって沙弥子は目を引く存在で、どんな男でも綺麗な女の子が目の前にいれば、緊張の一つや二つ当たり前だ。動揺しない方がおかしい。

 沙弥子は見た目だけでなく、立ち振る舞いや言葉遣いなども完璧だ。教師の間でも模範となる生徒の一人と言われている。彰信もその一人で、彰信と一緒にいる慧も模範扱いだ。それは慧にとって悪いことではなく、教師からの信頼もあれば大学の推薦も受けやすい。

 簡単なホームルームの後、クラス全員で後片付けに向かった。椅子やシートを片づけ、作業が終わると各々は部活やら帰宅やらと別れていった。

 ふうと息をつき、慧もシートを運び終えて体育館を出た。彰信も慧の後を歩く。沙弥子も二人に続いた。

「雫ちゃん、同じ高校でよかったな」

 彰信は慧の肩をぽんと叩いた。まあね、と慧は頷く。沙弥子には何のことか分からず、尋ねてみる。

「誰ですか?」

「妹。それから、同級生だから、ため口でいいよ」

 慧は前を向いたまま答える。言いながら照れていた。どうも同級生に敬語を使われると違和感がある。それを面と向かって言うのはどうも恥ずかしい。

「へえ。妹さんがいるんだ」

 待っていたかのように、沙弥子は崩す。それでも少し違和感が慧には感じられたが、これ以上どうしようもなく気にしないでおくことにした。

「うん。今年一年生。僕は保護者代わりだから」

 少し尻すぼまりになった。沙弥子には言葉の意味が分からず首をひねった。

「どういう意味?」

 沙弥子は疑問に思い、聞いた。しかし、それが軽率な行動だったと後悔した。

 慧は完全に沈黙し、俯いてしまったのだ。慧自身も口を滑らせてしまったが、沙弥子も痛いところをついてきたのだ。だんまりの慧を無視して、彰信が返答した。

「慧のうちは両親いないから。だから、慧が雫ちゃんの親代わり」

「ちょ、アキ。何勝手に話してんの」

 いつもより怒った口調で彰信の肩に掴みかかった。彰信も動揺した様子で、目をまんまるとしている。いつも温厚な慧が怒ることは珍しく、彰信にとってもそれを見たのは初めてだった。

「ごめんなさい」

 そう沙弥子は呟いた。詫びるように呟いた声は、慧の耳にはっきり聞こえてきた。

「何で謝るの?悪いのは・・・」

 そう言って慧は詰まり、彰信を掴んでいた手を離した。

「誰も悪くない、ね。ごめん、僕が悪かった」

 暗い面持ちでその場を去っていく。二人はその背中を目で追っていた。

「何かあった?」

 校門で雫が待っていた。歩いてきた慧の顔を見るなり、心配そうに尋ねた。

「あ、ごめん。そんな顔してた?」

「うん、してた。こんな顔してた」

 雫は慧の顔真似をする。かなりオーバーに似ても似つかないような顔だ。それを見た慧はぷっと吹き出した。

「はははは・・・。そんな変な顔してたんだ。ふふふふふ・・・」

 笑いが込み上げて来て、慧はさっきの顔とは一変して明るくなった。

「よし。帰ろうか」

 慧は雫の手を取る。雫の顔は苺のように真っ赤に染まった。


***


 季節は春。段々と暖かくなり、桜の開花が始まっていた。それでも四月終わり。平年に比べると一カ月も遅い。その頃には街から雪が消え、自衛隊員も支部に戻ることになった。

 足立たちは大型のトラックに荷物を運び込んでいた。機材や除雪道具まで種類は様々だ。

 実家には発つことを伝え、それに関して気懸りはない。まあ、お袋が泣いていたくらいか。

 気懸りがあるとすれば、こっちか・・・。

 足立の視線の先には、和の姿があった。今日伊丹に向けて出発することを教職員全員が知っている。

 昼までに作業が終わった足立は、昼食がてら和を連れ出した。その帰り道、足立と和は桜並木の道を歩いていた。土手沿いに植えられた桜は、もうすぐ見頃だろう。

「今日、帰るんだ」

「そう・・・」

 いつもの活力が感じられない。

「実家には伝えたんですか?」

「ん、ああ。お袋は泣いてたけどな。俺が自衛隊に入るの、最後まで反対してたから」

 足立はどこか優しい雰囲気になった。母を思っているのか、目はどこか遠い空を見ている。その目はとても優しい。

「いいんですか、こんなところにいて。出発じゃないんですか」

 皮肉を言ったつもりだったが、足立は遠くを見ながら、そうだね、と呟いた。

「ここは、とても良いとこだから。空気はうまいし、自然は多いし。人もみんな優しいし。ずっとここに暮らしていたいよ」

 じゃ、どうして自衛隊に入ったのか。それは前に聞いていたから、突っ込まずに和は堪えた。

「じゃあ、自衛隊になんて入らなければよかったって思ったでしょ」

 嘘と言いたくなるのを和は抑えた。

「でも、ここから離れなければ、こんな気持ちは生まれなかっただろうな・・・」

 遠くを見ていた目が和を向いていた。真剣な目つきに変わる。

「こんなことなら、離れなければよかったな。でもそうしたら、俺たちは会ってないんだろうな」

 いつの間にか足が止まっていた。足立は再び歩き始めた。前を向いて、視線はしっかりとしていた。さっきどこかを見ていた目ではなく、何かそこにあるものをじっと見据えていた。

「俺は和と会えてよかった。こんなに楽しいと思ったのは初めてだ。だから、離れたくない。ずっとここにいたい」

 それは足立が見せた初めての涙だった。頬に一滴の雫が流れた。大切な人と、大好きな街と、離れたくない。その強い思い。

 和も同じ気持ちだった。足立のことは最初は、鬱陶しいとかしつこいとか思うこともあった。でも、足立にいつも気遣ってもらって、励ましてもらって、一緒に悩んでくれて。

 外見は軽そうで、馬鹿そうで。自分には絶対合わないと思っていたのに。優しさに触れるだびに、気持ちは傾いて。気がつくと、もう手遅れで。勝手に好きになっていて。でも、それを認めたくなくて。意地になったりして。

 好きになる人はいつも誰か友達が好きだった。よく被って、自分から身を引いたことが多々あった。仲の良かった友人が告白した時、その友人は断られた。

「和のことが好きなんだって」

 断った理由を聞いた時、友人に言われた。

「裏切り者。親友だって思ってたのに」

 自分でも親友と思っていた。だから、彼女の恋を応援した。相談にも乗ったし、側で励ましたりもした。

 それなのに、裏切り者。裏切りなんてしていない。勝手な思い込みだと思っていても、口には出せない。もし言えば、それ以上に仲が拗れるから。それにもう仲を取り巻く環境が変わってしまった。彼女を哀れに思う集団が出来、次第と私を追い詰める。口には出さなくとも、お前が悪いと言ってくる。

 どうしようもない。それは友人を作り度、起こった。親しくなれば、その子が思っている人は、自分のことを好きになる。

 だから、自分で壁を作った。誰も近寄れないように、いつも高貴に振る舞っていた。傍から見れば、生意気とか気取り。手の付けられそうにない人柄を演じることで、自分に近寄る人間は減った。

 教育大学に進んだ時も、そのスタイルは変えなかった。変えると、またいざこざが起きかねない。大学生にもなってそんなこと、もうごめんだった。

 中学の教師になってからは、少しは和らげた。今までもままだと、あまりに生徒が取っつき難いだろうと思って。それに、周りの教員はほとんどが結婚済みだった。

 そこに、思いもよらない人物が現れた。自衛隊員のくせに、馬鹿みたいに教師に話しかけてきて、相手のことなんて関係なく一方的に話してくる。

 最初は鬱陶しかった。時間を問わず、見つければ必ず声をかけてくる。どんな状況であろうと。いつも軽いノリで。

 初めて食事に行った時、相談に乗ってくれた。ただ話を聞いてもらっているだけなのに、知らずと気持ちは楽になっていた。

 好きなんだ。そう気付いてから、段々会いにくくなった。どんな顔をして会えばいいのか。どんな話をすればいいのか。

 会いたい。でも、会うのは怖い。もし、嫌われたら。もし、面倒な女だと思われたら。もう、会わなくなってしまったら。そう思うと自分からは会いに行けなくなった。

 でも、彼は会いに来てくれた。話しかけてくれた。笑顔を見せてくれた。だから、自分も話すし笑う。

 相手を思えば思うほど、嫌われたくないと思うもの。現状のままが、一番楽しかった。好きだと言って関係が壊れるくらいなら、ずっとこのままでいたかった。

「私も。私も、離れたくない。ずっと一緒にいたい。ここでこのまま、ずっと」

 自然と涙が溢れていた。止まらない涙が頬を伝う。メイクが取れる程に涙を流した。足立は和にハンカチを渡し、泣きやむのをずっと待った。

 ひとしきり泣いた和の目は真っ赤になっていた。ごめんなさい。そう小さく呟くと、頭を小突かれた。

「馬鹿、謝んな。泣きたいときは泣けばいいんだよ。我慢が一番良くない」

 そう言って、和を抱きしめた。包まれる安堵感。和はまた泣いてしまった。

 学校まで帰るのに三十分もかかり、三倍もかかった。池端は足立の帰った途端、ごつりと拳骨を頭に振り下ろした。帰ったら、腕立て三百だ。そう言って、車に乗り込んだ。

「電話するから。だから待ってて。今年の冬に、また戻ってくるから」

 足立は笑顔で言って、車に乗り込んだ。運転席に座る。ミラーで和を見る。まだどこか寂しげだ。車から降りて、もう一度抱きしめてやりたかった。でも、そうしてしまうと、戻れなくなる。そう思った足立は、気持ちとは裏腹に車を発進させた。

 そうして足立たちは、伊丹に向けて出発した。


***


「山埜くん、行こう」

 沙弥子は慧と共に教室を出た。放課後。今日はクラス委員の集まりがあった。クラス委員に止まらず、各役員は指定された教室で会議があった。

 学級委員の会議場所は、三年の教室で階段を下って三年生のフロアに足を踏み入れた。

 二年生とは違い、どこか違和感があった。雰囲気の違いを感じ取ったんだと思う。二人は揃って教室に入った。もうどこのクラスも揃っていて、後は二年三組だけだった。その三組もすぐに駆けつけ、会議はスタートする。

 まず初めに学年代表を決めることとなった。誰もやりたがらないのは明白で、じゃんけんやくじ引きを始めるだろう。

「僕がやります」

 慧は二年生の代表に立候補した。時間が無駄だし、クラス委員も学年代表も大して変わらない。それなら誰がやろうと一緒で、揉めるのも時間も労力も無駄だ。

 二年生の代表は一瞬で決まり、三年と一年はまだ話し合い中。案の定、くじやじゃんけんを採用し、代表を決め始めた。

 会議はそれだけで終了し、解散となった。にしても、無駄な時間だ。ただ、このためだけに時間を割いて集まったのだから。各代表には一枚のプリントが渡された。

 それは役員の名簿表だった。各クラスの委員長、副委員長の氏名とクラスを記入する。そんなもの、今日回しておけば良いものを、忘れていたらしい。

 二人は教室に残り、表を埋めていく。

「一組は斎藤と稲森さん。二組は・・・」

「後藤くんと原さん。三組は井上くんと矢代さんで、四組は足立翔司くんと足立佳奈ちゃん。五組は山埜くんと私で、六組は藤本くんと筒井さん」

 沙弥子はすらすらと各クラスの委員たちを言う。

「すごいね。もう覚えたの?」

「うん。名前は知っている人ばかりだったから」

 二期連続でクラス委員をやらされるのは多々あり、沙弥子もその内の一人だ。慧も知っているからと押し付けられるのが多い。なんとも無責任な。

「私、一年の時にクラス委員やってたから」

 にっと苦笑いをする。慧は、そう、と答えた。知っていたが知らなかったふりをする。

 慧もやってはいたが、全員のフルネームなんて覚えてはいない。

 名前を書き終え、職員室に提出して下校する。慧と沙弥子は下駄箱を出て、駐輪場に向かった。慧は自転車で沙弥子は電車通いだ。駅まで送ることになった。

 駅までの十数分。自転車を押しながら、話をしていた。

「沙弥子ちゃんは春日中だよね?」

 芦田の苗字が複数いることから名前で呼ぶことが多いが、考えた挙げ句、一番無難なものを選択する。

「うん。慧くんは氷上だよね。真由美から聞いた」

「最近まで自衛隊が駐屯してた。一週間前に引き上げたらしいよ」

 自衛隊が引き上げたのは丁度一週間前だった。ゴールデンウィークの前だったろうか。よく地域に貢献してくれたと思っている。

 へえと沙弥子は肩にかけた鞄をかけ直した。商店街の中心を進む。いつの間にか、慧と呼ばれていた。以前なら嫌がっていたが、今は割と好きだった。

 昨日のテレビの話とかドラマの話とか。そんな在り来たりな話題で、駅までの道を歩いた。

「ありがとう、送ってくれて」

「ううん。気をつけてね」

 お互いバイバイと手を振り別れた。慧は自転車に乗って駅を去る。沙弥子は駅のホームに進んでいった。

 沙弥子は駅員に定期切符を見せ、線路を跨いだ向かいのホームに行く。そこにあるベンチに腰掛けた。ふうと息をつく。鞄を膝の上に置いて、鞄から文庫本を出して読み始めた。

 そうしていると高ぶった気持ちが落ち着いていった。最近読むのは恋愛小説で、ヒロインの気持ちに身を投じている。

 いつの間にか世界に入り込んでしまい、泣いたり笑ったりしてしまう。

 そういえば、慧くんも本好きらしいな。

 真由美から聞いたその情報はかなり正確で、慧のことを知ることができた。真由美は高校からの友人で、一年でかなり仲良くなり、今では恋のサポートをしてもらっていた。

「山埜くんのことが知りたい」

 いつも何気ない、誰も気がつかないような仕事をやっていた。誰から言われるでもなく、雑用をこなす姿。いつもクラスに馴染んでいて、でもそこからは一歩引いた位置から見ていた。

 大人びた人。それが第一印象。それから、慧を知っていくうちに好きになっていた。

 大人びた。それは見方を変えれば、冷めた人になる。でも、それとは違う。そのみんなを見る目は優しかったのだ。彼を見るだびに、気持ちは大きくなっていった。

 真由美に慧の中学時代のことを聞いていくうちに、もっと好きになっていた。料理が出来て、裁縫出来て。運動もそこそこ。勉強はかなり。

 聞けば聞くほど、慧の完璧さに驚いた。

「サーヤなら大丈夫だって。思い切って告白してみたら」

 そんなことを真由美は言うけれど、見ず知らずの人からの告白を受けるだろうか。何せ話したことは一度もなかったからだ。

 そうこうしているうちに一年が終わり、二年生になった。クラス分け。まさかと思った。

 慧と同じクラス。思わず、二度も見てしまった。真由美とは離れたが、よかったね、と言ってくれた。

 電車が着いて、乗り込む。さすが田舎の路線。乗客は少なく、難なく空席を見つけて座る。読書の再開。

 二駅目で降りた。そこから徒歩で十分以内。そこに沙弥子の自宅があった。鞄から鍵を出し、家の中に入って行った。自室に入り、鞄を机に置く。

「疲れたー」

 制服のままベッドに倒れ込んだ。しわになるが、気にしない。ごろりと反転し、仰向けになった。天井を向く。

「慧くんは今頃どうしてるかな・・・」

 まだアドレスや番号は聞いていない。自分から教えてとは言いにくかった。同性なら簡単なのに。そう思ってポケットから携帯を出した。

「さすがにアドレスは知ってないよね・・・」

 それでもと思い、真由美にメールした。送信してすぐに返信が来る。

「これ、山埜慧のアドレスね」

 そう書かれた下にアドレスが書いてあった。そしてその下には、ガンバレと書かれていた。ありがとう。そう返信した。

 それから携帯とにらみ合いが始まった。

 メールを送ろうか。やめようか。送りたい。でも突然は迷惑か。もし変に思われたらどうしよう。返ってこなかったら。

 そんな葛藤の末、送ることを決意した。

「送信っと」

 内容は、芦田沙弥子です。真由美から聞きました。登録よろしくお願いします。

 当たり障りのない、平凡な内容。携帯を枕元に置いた。

 それからまた携帯とのにらみ合いが始まった。食事に呼ばれ一階に降り、終えるとすぐに自室に直行。携帯を確認。風呂に行って上がれば、すぐに自室に行き携帯を確認。

 確認する度に、まだかとため息。それは午後九時まで続いた。今日はたぶん返ってこないだろう。たぶん、登録だけして返信を忘れたんだ。

 自分に良いように解釈する。そうしないと、不安で眠れなさそうだった。九時半を周り、もう完全に諦めていた。そこに聞きなれた着信音が流れてくる。ベッドにひれ伏していた体をがばっと起こして、携帯を手に取った。正座だ。

 姿勢を正し、読み上げた。

「返信遅くなってごめん。登録しました。明日も学校だけど、頑張ろうね」

 心のそこから謂われない喜びが込み上げてきた。もう一度見直す。

「ありがとう。明日も元気に頑張ろうね。突然メールしてごめんなさい。また明日。おやすみなさい。っと」

 声に出しながらメールを打った。送信し、返事はすぐに返ってきた。

 気にしてないよ。また明日、学校で。おやすみ。

 友達同士でやるようなメールのやり取り。それでも沙弥子にとっては大きな一歩だった。今まで話すら出来なかったのに、一カ月でアドレスまで手に入れた。

 携帯を閉じて机の上に。今日はもう寝よう。そう思い、電気を消して布団の中に。気持ちの高揚が落ち着くまで、じっと目を閉じていた。

 眠りに落ちるまで、慧のことが頭から離れなかった。


***


 なんやかんやと時間が過ぎて、季節は梅雨を通り越して夏。夏と言っても、然程気温は上がらない。過ごしやすいと言えばそうなのだが、あの暑さが好きな人にとっては面白くないだろう。それに海水浴も年々客が減っている。

 そんな中、夏祭りは未だに根強く生き残っていた。祭りは今でも熱い。盆と時を同じくして行われる祭りは、旧町を挙げての行事だ。氷上中学校を中心に毎年行われる。県外からも多く人が集まり、その目当ては花火だ。

 毎年約四千発の花火が打ち上げたれ、その歴史は大正時代から続いていた。

 夏休みの最中ということもあり、人は多い。夏休みは冬に比べると減っているが、それでも盆時期に休みになるよう、八月から九月まで休みだ。そのため、夏休みの宿題が少ない。

「今年も祭り行くでしょ?」

 自宅からすぐの祭りに毎年参加していた慧たち。雫は慧にそう聞いた。

「行くよ」

「じゃあ、一緒に行こう」

 屈託のない笑顔で嬉しそうに笑った。慧はバツが悪そうに顔を背けた。

「ごめん。今年は別の人と回るから」

 えっと雫は思わず溢してしまった。今まで一緒に毎年出かけた祭り。今年も一緒に行けると思っていた。

「そ、そうなんだ。じゃ私は優香と回るね」

「・・・ごめん」

 気まずそうに自室に戻って行った慧を横目に、雫は少し泣きそうになっていた。

「優香―」

 そう言って優香に泣きついた。あせった様子で雫を抱きとめた。

「ど、どうしたの、雫。何泣いてんの」

「慧がね、今年は一緒に回れないって。他の人と回るからって」

 そう、と優香も残念そうに頷いた。優香自身も今年は一緒に回れるかもとわくわくしていた。

「たぶんクラスの友達だって。友沢さんだって、きっと」

 慧と友沢彰信とは仲が非常によく、生徒会長をしていたこともあって、その時期にいた生徒で知らない人はいないだろう。

「じゃあ、他の人なんて言わないよう。友沢さんのことは、アキって呼んでるもん」

「じゃあ、男友達じゃない。きっとそうだって」

 確かに今まで女の子にもてた様子がない慧。少し失礼だが、あまり恰好よくはない。彰信といるときは、彰信の引き立て役みたいになっていた。それを悪く思う慧ではないが。

 だとしても、慧は告白された試しが一度もなく、恋仲になったという噂も立たなかった。火がないところに煙は立たぬ。その通りだ。

「・・・確かめよう」

 雫は顔をあげた。優香の顔をじっと見つめた。

「もしかして、後を付けるの?」

「その通り。尾行して、相手が誰なのか確かめる」

 優香としても相手が誰なのか知りたい気持ちがあった。そんなことはしたくなかった。でも。

「うん。私も」

 好きな人のことは知りたい。それに雫に後れを取るわけにはいかない。ただでさえ普段からあまり会えないのに、これ以上雫だけに秘密を持たせたくなかった。それに最悪、慧の相手が女子だとすれば、知っていれば対策もしやすい。どんな対策をするのかはさて置き。

「入って」

 雫の手を引き、家の中に。とりあえずは戦闘服に。そう思い、自室に雫を連れ込み、着替えに移った。

「目には目を。祭りと言えば浴衣。だから浴衣の中には浴衣でいれば、分からない」

 木を隠したければ森の中。と言った考えだ。優香は手早く雫に浴衣を着せていった。

「おーおー。早い早い」

 あっと言う間に雫の浴衣を仕立てた。それから自分の浴衣を仕立てる。雫が手伝うことなく着て見せた。こんな技を持っているとは。と雫は感心しきっていた。

「よし、慧の追跡にレッツゴ―」

 右手を突き上げる。優香も恥ずかしそうに拳を挙げた。

 中学校の校門の前に、慧は立っていた。ジーンズに空色のポロシャツと来ている。時計に目をやる。五時に待ち合わせの約束をしていた。それまでまだ十分は時間があった。校内に目をやった。

 変わらない。中学の頃とはまるで変わっていなかった。からんからんと下駄の突っかける音が聞こえてきた。慧の背後で音が止んだ。

「お待たせ。結構待った?」

 音の主は沙弥子だった。桜柄の浴衣を纏って、一段と女の子らしく見える。

「ううん、今来たとこ」

「早いね、慧くん」

 早いねと言いつつ、沙弥子も十分前には来ているところが良識ある。沙弥子を見た慧の目は虚ろだった。沙弥子は慧に声をかけた。慧ははたと我に返った。

「ごめん、ごめん。少し早いけど、行こうか」

 照れながら慧は歩き始めた。沙弥子は隣を歩く。

 慧は緊張していた。同級生の女の子とこうして二人で歩く、ましてや祭りで二人きりなんてことは今までなかった。女の子と言っても気がしてた妹とだったし、まして以前から気になっていた女の子と二人きりなんて、緊張しない男はいないだろう。

「なんだか、デートみたいだね」

 隣を歩く沙弥子が恥ずかしそうに頬を引っ掻いた。

 デートみたいじゃなくて、デートなんだけど。慧はそう心で突っ込みながら、そうだね、と答えた。この場合のデートはたぶん付き合った者同士が二人で遊びに行くことを意味しているようで、まだ互いの気持ちを知らない二人は好き合っているものの、そんな関係には成りきれていなかった。

 恐らく傍から見ればイライラしてくるだろうが、これが二人の今の関係であって、これ以上の進展にはまだまだ時間がかかりそうだ。

 学校のチャイムが五時を知らせた。中学校は駐車場に使われるため、屋台は歩いて五分程の小学校で展開されていた。その付近の道にも屋台が建ち並び、祭りを盛り上げる。

 とりあえずと小学校に向かった。祭囃子が近づくにつれ大きくなっていった。校門から店が並び、ロの時に通路が出来ていた。二人はゆっくりと店を回る。

「楽しいね、慧くん」

 沙弥子は笑顔で慧を見た。慧もそれを笑顔で返した。祭りという雰囲気は、その場にいるだけで人を楽しくさせる。それはまるで魔法のような時間。人を楽しく、笑顔にする。

 一通りぐるりと一周し、祭りの雰囲気を楽しいだ。何か買おうかと見渡した。よしと慧が店に寄って行った。

「おじさん、ひとつ下さい」

 沙弥子は提灯に目がいって、慧が帰ってくるまで気がつかなかった。

「沙弥子ちゃん、はい」

 差し出した慧の手には、たこ焼きが乗っていた。慧はひとつ楊枝ですくいあげ、口に運んだ。

「ん、アツ。あ。でも、おいしい」

 沙弥子もそれを楊枝で挿して、すくいあげる。左手を添え、二、三回息を吹きかけて冷ましてから口に運ぶ。それでも熱かったようで、アツっと声を漏らす。

「あ、うん。おいしいね」

 焼きたてで熱々のたこ焼きは、こんな時にくらいしか食べる機会がないもので、たまに食べるとかなりおいしい。 別にたまにでなくともいいが。

 二人はたこ焼きをつつきながら、商店街の方に歩いて行った。商店街でも出店が並び、提灯が掲げられている。

「商店街の方に行ったね」

「うん。追いかけよう」

 雫と優香は二人の後を追い、四、五メートル離れて尾行を続けていた。実のところ、たまたま小学校の校門で発見し、後を付けているのだ。五時に待ち合わせと聞いていたので、五時過ぎに行くともう姿はなかった。小学校に向かったと山を張り、こうして来たところ二人を発見したわけだ。

 まだはっきりと顔は見ていないが、その容姿を見る限り美人であることは間違いなく、とりあえずは顔を拝むまでは付けようということになった。

「・・・お腹すいた」

 雫がそう漏らす。慧が出ていく前に夕食はどうするのか聞かれ、とっさに祭りだし屋台で何か買って食べると答えてしまったのだ。財布を見ても残金は五百円ない。今月の小遣いは漫画やお菓子で使ってしまっていた。改めて小遣いを請求するのも恥ずかしく、口には出来なかった。

 そんな雫を横目に優香は前を歩く二人を追いかける。雫の財布事情はよくご存じで、祭りのことなんて忘れたように買い物をしていた。優香はそんな雫を何度か呼びかけたが、忠告は聞いても止めずに雫は欲しいものを買っていた。

「お腹、すいた」

「だから言ったでしょ。今月は祭りがあるからほどほどにしときなって」

「だって欲しいんだもん。しょうがないじゃない」

 まるで小学生が駄々をこねる様に言い放つ様が、何とも言い難い。子供かと思いながらも、雫の姿を見ていると手を差し伸べたくなってしまう。好きだから突き離せない。

「・・・もう」

 駄々をこねる雫を放って、すたすたとどこかに歩いて行った。雫はそんな優香の背中を目で追う。

 しまった。そう思ってももう遅い。優香の背は人の中に埋もれて、もう見えない。それに呼んだところで、大層賑やかになっているこの中届くとは思えなかった。

 あの時ちゃんと優香の言うことを聞いていれば。後悔の念が押し寄せる。軽く突き放された気分だった。

「優香・・・」

 こうなったら、一人でも。そう追いかけたい気持ちを抑え、当初の目的を思い出した。慧の隣を歩く相手を見るまでは。

 挫けそうな心を立て直し、尾行を続行する。

 少しすると、優香が早足で戻ってきた。

「はい、これ」

 優香は買ってきたたこ焼きを差し出す。

「え、なに?」

「お腹、空いてるんでしょ?なら一緒に食べよう」

 雫は嬉しくて、優香に抱きついた。優香もつい怒っていたのを忘れ、笑っていた。

 次第に二人の距離は縮まっていた。人が増えてきて、歩く道も人で狭くなっていた。肩が何度かぶつかり、そのたびにお互い謝っていた。

 先を歩く慧が道を開き、その後ろを沙弥子が付いていく。そんな感じで狭いところもすり抜けていた。

 慧は沙弥子を気遣いながら、先を歩いていた。きゃっと後ろで声がした。瞬時に振りかえると、態勢を崩した沙弥子が前につんのめり扱けそうになっていた。

「危ない」

 慧は咄嗟に手を差し伸べ、沙弥子も慧の手を握った。それで何とか扱けることは回避し、慧も安堵した。

「大丈夫?」

「うん。ありがとう」

 少しその場から離れ、人の少ない通りに行く。屋台は出ておらず、提灯もない。辺りの暗くなっていて、何とか屋台やら提灯やらの明かりが洩れてきて見えないほどではない。

「あ」

 二人は示し合わせたように声をあげた。繋いだ手を離し、即座に手を引っ込めた。互いに顔を赤くして、互いの顔さえも見れない様子だった。

 大丈夫ともう一度問うが、沙弥子は大丈夫と小さく頷いた。このままこんなところにいるのも何だと思い、再び通りに戻る。やはり人は多く、すぐに逸れてしまいそうだ。

 慧は息を吐き、覚悟を決めた。隣に立った沙弥子の手を取った。

 緊張が最高潮になった。心臓の高鳴りが聞こえる。恐らく顔も真っ赤だ。それでも慧は手を離さずに笑顔を向けた。

「行こうか」

 顔が引きつっていたかもしれない。それでも慧は勇気を出して、沙弥子の手を握ったのだ。沙弥子も照れながら、はいと答えた。

「手、握ってるね」

「うん、握ってる」

 遠目で観察しながら雫と優香は、手を握ったことを確認する。二人とも内心かなり取り乱していて、それを隠そうと冷静さを保っていた。

「慧さん。すごい照れてたね」

「うん、照れてた」

 淡々としたやり取りを交わしながら、二人の後を付けていく。未だに顔を見ることは出来ておらず、誰なのかも検討がついていない。尾行開始から二時間。二人は慧たちそっちのけで、祭りを楽しんでいた。姿を見失うたびに探し、見失うたびに探しを繰り返していた。だから、まったく進展はしていない。

 それとは大きく異なって、慧たちは進展していた。手を引いて歩く慧を見て、沙弥子の心臓は未だに鳴りやまないでいた。聞こえるのではないだろうかと思うほどに鼓動し、抑えるのに必死だった。

 緊張でどの店を回ったのかとか、展覧は何を見たのかなんてことはすっかり飛んでしまっていた。手を握られていることもあり、更に緊張は増していくばかりだ。それでも徐々に慣れ始め、何とか動悸は抑えられていた。

「少し、休憩しようか」

 そうして慧が公園の中に連れていく。ベンチに沙弥子を座らせて、飲み物を買いに走って行った。すぐ近くの自動販売機でお茶を持って帰ってきた。それを沙弥子に渡す。

 ありがとうと受け取り、お茶を飲む。火照った体に沁み渡る。一息つき、慧もベンチに腰掛けた。腕時計に目をやった。

 沙弥子が落ち着いたのを見て、慧は立ちあがった。

「そろそろ行こうと思うんだけど、大丈夫?」

 沙弥子はすっと立ち上がった。疲れていないと言えば嘘になるが、定期的に休憩をとってくれたお陰で動けないということはない。

「うん。大丈夫だよ」

 二人は中学校の方に歩いていった。

 自然と手を繋いでいた。それが不思議だった。気がつけばどちらからでもなく、手を取っていた。それで何となく心が和らいだ。さっきまで緊張していたのが嘘のように、大らかな気持ちになれた。

 中学校を過ぎ、その隣に流れる河川の土手道で慧は止まった。

「そろそろかな」

 時間を見ながら、対岸を見つめた。

「それではこれより花火の打ち上げを開始いたします」

 そう拡声器から告げられ、花火大会が開始された。

 最初の一つが空に上がって行く。高く上がった光の玉が、空に大輪の花を咲かせた。どんと轟く。周りからは歓声があがり、二人も撃ちあがる花に目を奪われた。

 二人を付けていた雫と優香も花火が上がるとそれに気を取られ、そちらにばかり目がいっていた。

 二人は完全に慧たちのとこを忘れ、夜空を見上げていた。ちらりと慧が振り向く。それで二人を見つけてしまった。実際は付けられていたことを知っていた。

 前を向き直り、くすっと笑う。どうしたの?という沙弥子の問いに、何でもないと答え、またくすりと笑った。沙弥子はどうして慧が笑っているのか分からず、それもどうでもよくなって、夜空を見上げた。

 そこに多くの光の花が咲いていた。


***


 学校が始まってから、彼女は彼の自宅に赴いた。今日は二学期始まっての初の日曜日。場所は大体知っていたし、真由美も付き添ってくれた。

「うー、緊張する」

 沙弥子はそう漏らしながら、真由美と土手道を歩いていた。中学校はまだ先で、そこまでは行かない。真由美の家は中学から近く、慧の自宅からも歩いて五分のところ。だから真由美と慧は小学校からの仲で、本人たちは腐れ縁と思っていた。真由美にとって慧は恋愛対象に入らず、どう考えても友達以上には発展しなかった。

 小学校の頃、名前で虐められていた慧は女友達がおらず、真由美一人だった。正確には女の子といると更にからかわれるので、一緒に居たがらなかった。それでも真由美は別で仲が良かった。家が近かったこともあり、下校は一緒。真由美から見れば、慧は弟のような存在だったに違いない。

 慧には妹がいた。可愛らしくて、慧によく懐いていた。それが義兄妹と知ったのは中学に上がってからで、それまでは仲の良い兄妹だと思っていた。真由美には兄弟がおらず、そんな慧が羨ましかったのかも知れない。

 小さいことから男に負けたことはなかった。かけっこも勉強も喧嘩も何もかも。男勝りな女の子だった。だからなのか、虐められている慧を放っておくことが出来ず、知らないうちに手を貸していた。

 慧が虐められていると飛んで行き、虐めていた男子を一蹴。それで何度か泣かして、先生に怒られたこともあったが、そんなこと些細なものだった。

 私は正しいことをしている。その気持ちが自分を満たしていて、気持ちよかった。自分勝手な正義感。それが分かったのは高学年になってからだったが、それでも自分が正しいと信じて止まなかった。

「ありがとう」

 慧を助ける度にかけられるその言葉。それを聞くためだけに何度も手を貸して、何度もその言葉を味わった。

 正直に嬉しかったのだ。誰かのために動き、そして感謝される。それが一番の楽しみだった。

「何言ってんの、ここまで来といて。今更やっぱ無理はなしにしてよ」

 真由美にとっても慧の自宅に上がったことはなく、これが初めてだ。そう思うと緊張してきてしまう。慧には今日行く約束をしていたので、何も勝手に行くわけではない。

「おかしくない?」

 昨日は真由美の家に泊っていた。両親は了承済みだ。九月といってもまだ少し気温は高め。それでも平年よりは低く、半袖だと肌寒い。

 膝下まである空色のスカートに、白地に某ネズミのイラストがプリントされたTシャツ。それに黒のジャケットを羽織っている。真由美はジーンズに青いパーカーというラフな格好だ。足元も白のリボンがついた可愛らしいサンダルと比べ、同じく白いがスニーカー。

 二人はすぐに慧の家の前まで辿りつき、チャイムを鳴らした。

「ちょっと。もう?」

 沙弥子を放っておいて、真由美は呼び鈴を押した。すぐに扉が開いて、中から慧が出てきた。

「おはよう。時間ぴったりだね。上がって、上がって」

 ジーンズに長袖のTシャツ姿で、つっかけを履いて出てきた。金門を引いて、二人を中に招き入れた。玄関から居間に至るまで、綺麗にされていた。散らかっているところは一つもない。

 リビングに案内され、慧はキッチンに立った。三人分のお茶を入れ、居間に戻ってくる。入れてきたのはレモンティーだ。

「ありがとう」

 紅茶の香りが漂ってきて、良い気分になる。一口飲み、おいしいと笑った。

「いいな。私も飲みたい」

 二階から降りてきた雫が慧に言う。その時、二人と目が合った。一人は金子真由美。近所に住んでいる一つ上の慧の友達。もう一人は・・・。

 あっと思わず声をあげてしまった。一目見ただけで直感した。祭りで一緒に慧といた女の人。雰囲気も体系もあの時の人と同じ。

「はい、雫」

 慧は雫にカップを手渡した。

「妹の雫。今年高校一年で、同じ高校に通ってるから」

 二人ともそれは知っていた。可愛い下級生が入学してきたと男子たちの中では専らの噂だ。確かに面と向かって見ても、整った顔立ちで、雰囲気も服装も女の子らしく可愛い。

 真由美も実際に見るのは中学以来で、また一段と大人になったなあと思う。沙弥子にしてみても、妹にしたいと思うほど可愛らしい。

「真由美は知ってるだろ?」

 うんと雫は頷く。真由美も覚えていてもらい内心ほっとする。

「それでこっちが、芦田沙弥子ちゃん。同じクラスで副委員長」

 芦田沙弥子。名前は知っていた。クラスの女子が一つ上にすごい美人がいると言っていたからだ。遠目からは見た事あったが、こうして間近で見るのはこれが初めて。

 お互い初の顔合わせだった。実際は入学式の時顔を合わせていた。それでも意識して見たのは今日が初めて。

 お互い軽い会釈をして、雫はソファーに腰掛けた。隣に真由美が座り、反対には慧が座った。真由美を挟んで、二人の間に気まずい雰囲気が漂う。それを察したのか、真由美はカップをテーブルに置き、席を立つ。

「トイレ貸していい?」

「うん、こっち」

 そう言って慧と真由美はリビングを出た。二人だけになり、更に気まずくなる。

「あの・・・」

 沈黙を破るように雫が口を開いた。質問を投げかけた。

「慧。兄は学校ではどうですか?」

 何てない質問だ。しかし、それは気になっていたし、そんなことが聞ける上級生は彰信を除いて他にいない。それに彰信は雫に気を使っている節があり、うまくごまかされたりしてしまう。

 慧に気を使われていることは以前から知っていた。料理もその内の一つだ。自分が怪我しないようにと、やらせてくれるのは混ぜるか潰すかそんなことばかりだ。包丁なんて滅多に握らせてくれない。

 確かに経験は浅いけれど、過保護過ぎて参ることも一度や二度ではなかった。それが優しさから来ていることは知っていたし、それを嬉しくも思っていた。

「どうって?」

「例えば、居眠りしてるとか。喧嘩とか。勉強とか」

 慧が優秀なことは知っていた。でもテストで何点取ったとか、誰かと喧嘩したとか、そんな話は一切出てこない。毎朝朝食と弁当を作り、夜は遅くまで勉強している。学校で居眠りなんてしていないかという心配もあった。

「居眠りは見たことないし、喧嘩も。勉強はいつも予習してきていて、復習も完璧。答えられない問題なんて滅多にないけど。それにいつも優しいし、誰も見てないところで気を使ってる」

 笑顔で楽しそうに語る沙弥子を見て、雫は羨んだ。一つ違うだけで、こうも一緒にいる時間が短くなる。家では一緒でも、学校では滅多に顔を合わせない。

 だから、学校での様子は分からないし、知らない。知りたいとは思っていても、話せる人はほとんどいない。

 今日はそれを聞く絶好のチャンスだった。実際、慧が自宅に入れた同級生は友沢彰信以来、久しいことだったからだ。

「沙弥子さんは兄をどう思いますか?」

 この言葉は沙弥子に動揺を与えた。聞かれた瞬間びくりと体が跳ねたと同時に鼓動が跳ねる。あ、う、と言葉を濁しながら、顔を赤くしていく。

「や、優しいと思う・・・」

 小さな声で呟くように答えた。それで、あーこの人は慧のことが好きなんだなあ、と実感した。

 トイレから真由美が戻り、ソファーに座る。慧は?と問うが二人はだんまりだ。少しして、階段を下る足音がして慧が戻ってくる。両手には複数の本が持たれていた。それをテーブルに置く。

「これ、僕のお勧め。借りたいって言ってたから。前に読みたいって言ってた本」

 そう言って、一冊の文庫本を手渡す。沙弥子は恋愛小説を主に読み、必ず一冊は携帯している。慧が渡した本もある女性作家のデビュー作品だ。ある災害に巻き込まれる高校生と自衛官の物語だ。

「ありがとう。覚えててくれたんだ」

 表紙を眺め、それからページを開いていく。沙弥子はすぐに本を読み始め、真由美も一冊の本を手に取った。これもある人気作家の小説で、逃亡者を描いた作品だ。映画化もされ、有名な役者が多数出演していた。

 慧も本を開いて読み始めた。国営放送の記者が書いた小説だ。居間の空気が一瞬にして静まり返った。紙をめくる音しかしない。

 そんな中、雫はじっと三人の様子を眺めていた。

 雫にとって本はあまり興味の対象ではなかった。慧がよく読んでいるので手には取って見るものの、すぐに飽きてしまう。活字離れした現代人の象徴のようになっていた。

 それに比べ、慧と沙弥子は本の虫。真由美も本は比較的好きで、二人程ではないが暇なときは読んだりする。面白いと思うし、最後まで読む。

 三人は無言で読書を続け、それに溜まりかねて雫は席を立ってしまった。そして、自室に戻ろうと静かに階段を登っていった。

 その様子を慧は横目で確認し、慧も席を立つ。物音をたてないように二階に上がって、雫の部屋をノックする。

「雫。入るよ」

 部屋に入ると雫はベッドに横になっていた。つまらなさそうに慧を見た。

「何?」

「もしかして、怒ってる?」

 慧も雫の様子を察したのか、単刀直入に聞いてみた。

「別に、怒ってない」

 枕に顔を埋めて、布団を手繰り寄せた。そうして寄せた布団をかぶり、団子虫のように丸くなった。

 怒ってる。と言うより、不貞腐れてるかな・・・。

 慧はこの場合放っておくのが一番良いと判断し、静かに戸を閉めて一階に降りた。読書中の二人は、慧に目も向けず読書を続けた。

 昼食は慧がご馳走し、午後からはどこか外に行こうとの提案が出された。出したのは真由美で、雫はお昼から優香と買い物の約束をしていた。

「気をつけてね」

 そう言って雫を送り出し、慧たちも支度をする。真由美と沙弥子は一端家に戻り、沙弥子は荷物をまとめ、真由美は着替えに戻った。二人は自転車に跨って慧宅へ。慧も自転車を持ち出す。

 高校生にとって最大の移動手段は電車と自転車。バスもそれに入るが、なんせ田舎なだけに一時間に一本が限界。それは電車でも同じことが言えるのだが、移動距離と値段が違う。雨や雪ならそれも考えるが、晴れている日に自転車を使わないのは少し気が引けた。

 どこか行くといっても、田舎のこの町は何もない。ショッピングモールが辛うじて一つあり、映画館も遊園地もここにはなかった。三人は駅に行き、沙弥子はコインロッカーに荷物を預けた。

 電車に乗り込む。ゆっくりと景色が動き出し、流れていく。山の中を走る電車の窓からは草木や河川が見えた。トンネルを抜けても大して景色は変わらず、田舎のままだ。三十分もして、やっと様子は変わっていた。建物が増え、自然は激減していった。コンクリートのビルや住宅街が窓から見える。

 一時間くらい電車に揺られた。駅に着いたのが二時半過ぎで、駅を出て街に繰り出す。若者に人気の街で、おしゃれな店がずらりと並んでいる。三人はそこで何をするでもなく、店を見て回った。

 沙弥子と真由美がよく気を取られていたのが、装飾品の店だ。あれが可愛い、これが可愛いと目移りし放題。でも、どれも値段を見て、高いと嘆いていた。

 いい加減二時間も歩くと足が疲れ、近くのファミレスで休憩した。ドリンクバーを頼み、各々好きな飲み物を入れてくる。

「はあ、いっぱい見たー」

 真由美はジュースを一気に飲み干した。

「楽しかったね」

 笑顔で満足そうに沙弥子は頷いた。

「でも、高すぎ。あれじゃ高校生の小遣いじゃ買えないって」

「だよね。私もあれ買っちゃうと、本買えなくなるし」

 沙弥子にとって本はアクセサリーよりも大事らしい。慧もそれは一緒で、欲しい本があれば必ず買う。それで服が買えなくてもだ。

「バイトでも出来れば良いのにね」

「うちの高校はアルバイト禁止だしね」

 真由美は高校に入ってアルバイトをしようと思っていたが、一年生の初めのホームルームで、バイトは禁止と釘を刺された。実際、生徒手帳にも記してあり、見つかって停学を受けた生徒もいた。もちろん生徒はバイトを強制的に辞めさせられた。

 唯一認められているアルバイトは、郵便局でのアルバイトだ。期間は年末年始二週間。それで四万以上は稼げるが、かなりきつい。雪の中を自転車で配達しないといけない。それに年賀状はかなり多く、かなり重い。何気なく受け取っている年賀状は、そこに届くまでかなりの努力がある。

 それに二週間のうち休みは二日で、年末年始は休めない。その時が一番ピークで忙しい。大半が力仕事なので、男性が大半だ。女性でバイト希望なら事務に回されていた。葉書の仕分けだ。部落ごとに分類し、それをまた同じ住所で纏めていく。

「郵便局は嫌だしね。聞いた話じゃ結構しんどいって」

 真由美は落胆し、テーブルに頬を付けた。そう言った慧ももう二度としないと決めていた。毎日八時には出勤し、五時までは仕事。おまけに配達ルートを暗記し、毎日二階の配達。自転車で二時間以上は走り回り、休憩はお昼と途中に何度か軽いもの。

 朝が早いので年末年始は夜更かしできないし、帰ったらクタクタで遊ぶ元気もない。それに雪が半端ではないので、配達も命がけだ。こけたら葉書をぶちまけることになる。一度、自転車を倒して葉書をばら撒いたことがあった。葉書は無事だったが、自転車を止めている時でさえ、気が抜けなかった。

 割に合わない。それがこの仕事だ。

 ファミレスで一服して、再び街に繰り出す。慧と沙弥子の希望で、本屋に寄って時間をつぶした。地元にある本屋とは規模が倍近くある。

 六時を回ったところで真由美の提案で帰宅することになった。このまま放っておいたら、閉店まで気付きかねない。二人の背を押しながら店を出て駅に向かった。

 地元に戻り、駅でお開きとなった。沙弥子の家とは方向が違うことから、慧たちとは別れた。慧が送ろうか?と問うと、帰るのが遅くなるから大丈夫、とそれを断った。各々自転車に跨って、家路を走った。

 そして休みが明け、学校に向かった。

 昼休み。いつものように食堂で弁当を広げて慧と彰信は昼食を取っていた。そこに沙弥子と真由美も同席した。弁当が空になった頃合い。真由美は職員室に用があるとかで、席を立ち、彰信も野球部の監督に練習メニューを聞きに出ていった。

 何となく二人になり、そろそろ教室に戻ろうかと席を立った。

「昨日は妹がね。本を貸してって部屋に来て、貸したんだけど。結局、一時間もしないうちに返しに来て。一時間じゃ到底読めないんだけど。やっぱ、途中で飽きたみたいでさ」

「そう言えば、昨日貸した本も一度妹が手を出して、すぐやめたんだ」

「そう言えば一昨日テレビで活字離れの現代人なんて番組がやってたけど、まるで妹見てるようで、笑っちゃったよ」

 廊下を渡って、教室の前に立つ。先を行く沙弥子は扉の前で止まってしまった。

「どうしたの?」

 そう問うが、返事は戻ってこなかった。沙弥子は踵を返し、どこかに向かって歩き出した。慧も心配になって後を追う。渡り廊下の途中で思わず腕を取ってしまった。

 どうしての?と投げかけたが、俯いたまま黙秘を続けた。慧も黙ってしまって、聞こえてくるのは雑音だけ。廊下に他の生徒が来る気配はなかった。

「え・・・」

 思わず声を漏らした。慧は動揺し、掴んでいた手を離した。

 泣いていた。沙弥子は泣いていたのだ。その原因が慧には見当たらなくて、いったい自分がいつ何をしたのか。記憶を漁った。

 分からない。見つからない。いったい何をした。何か言ったか。自分ばかり話していたから気を悪くしたのか。いや、気を悪くしたなら怒るはずだ。なら、無意識のうちに酷いことを言ったか。

 声を殺して泣く背中はとても愛おしかった。ここで抱きしめたら、どこかのドラマか何かの恋人のようだ。でもそんな覚悟も関係もない二人にそれはどうかと思う。

「・・・ごめん」

 知らずのうちにそう呟いていた。何か言わなければ。その一心で出た言葉がこれだ。それでも涙は止まる様子はなく、背中をむけたままだ。

「どうして、謝るの」

 弱弱しい声が耳に入った。聞きとることも困難な程に小さかった声が確かに慧の耳には聞こえた。はっきりと。

 だが、その答えを知らなかった。分からなかった。咄嗟に出た言葉。だから、今度は慧が黙ってしまった。

「ずるい。ずるいよ」

 言いながら振り向いた沙弥子の目には涙が溜まっていた。頬を伝いながら、こぼれ落ちていく。それで更に罪悪感が増した。本当に泣いていた。だから、原因が何なのかはさて置いても、慧が原因で泣かせたことには変わりない。

 ごめんと俯き加減に謝った。謝るしかなかった。泣いている相手をどうしていいのか分からない。それは何度も経験したことだが、未だに慣れない。

 泣いている雫をいつも見ていることしかできなかった。それでいつしか雫は泣かなくなった。慧の前では。

 自分の妹でさえ、どうしていいのか分からない慧にとって、それよりも相手のことを知らないのだから、打開のしようがない。

「慧くんは、いつも優しい。誰にでも。どんな仕事も嫌な顔一つ見せないでやって。一緒にやっている人の分まで手伝って」

 とぎれとぎれに放つ言葉の度に涙がこぼれていった。その瞳はじっと慧を捉えていた。慧は俯いたまま、じっと聞いていた。

「だから好きになった。そんな慧くんが好きだった」

 それで慧の顔は上がった。驚いて顔をあげた。その際、目が合ってしまい、そこから離せなくなった。

「でも。私がいても、誰と一緒でも。いつも雫ちゃんのことを見ていた。話に出てくるのはいつも雫ちゃんのことで」

 嗚咽が混ざる。より一層涙が流れだして、止まらなくなった。

「目は私を見ていても、心は雫ちゃんを思ってる」

 騒ぎを聞きつけ、野次馬が集まりだした。廊下を挟んで野次馬たちがじろじろと見てくる。沙弥子と挟まれて、更に慧は気まずくなる。

 これ以上ことを大きくしないでくれ。たぶん、僕は悪者に見えてるんだろうな。

 卑下したところでこの状況は打破できない。解決されない。でも、それが気になってしまう。

「あの・・・」

 この状況を何とか解決しなければ。その思いで声をかけたが、その後に何を言っていいのか分からない。ぐっと口を結って、言葉を考える。

「・・・私を。私だけを、見ていてほしい」

 いつになく迫力のある目で更に訴えかけられる。それは彼女の強い独占力だった。

「それは・・・」

「私と付き合ってください」

 愛の告白だった。辺りからはからかいの声が、驚きの声が上がり、辺りは騒然とする。

 告白された。高校に入ってから、いつも憧れていた女の子に。嬉しかった。でも、何かが心に引っかかった。

「ごめん、あのね」

 そう言いかけて、沙弥子はぐっと歯を食いしばって、怖い顔になった。そうして、慧に背を向けて走っていった。

 沙弥子を避けようと野次馬の集団は道を開け、その中に沙弥子は走り去って行ってしまった。

 結局、午後の授業には戻ってこず、優等生の彼女には珍しいことだった。教員も理由を聞くが、決まって慧の方をみんなが見る。授業中も何度もちらちらと見られ、休み時間になると決まって廊下に集団が押し掛けた。

 慧はそれに耐えかねて、六時間目の授業には出なかった。図書室に逃げ込み、生徒が帰るのを待って、下校した。


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