とても寒い冬はそれは長くて、
世界は氷に埋め尽くされた。
二月ではあるが、それでもここまで積もりはしない。もう二メートルは積もっているだろう。
白く染まった街に足を運ぶ。いつもはこんなにも降りはしない雪。この地域は冬でもここまで雪が積もることも、こんなに冷え込むこともない。精々積もって三〇センチ。十数年前は一メートル積もったらしいが、幼かったのでよくは覚えていない。
「慧」
ギュッと腕を掴まれた。少年がその方を向くと、少女が一人。慧と呼ばれた少年は笑顔を見せ、二人は雪の街に消えていった。
世界は三年前より大規模な寒気に包まれ、氷床が広がった。政府に公式発表ではこの寒気は氷河期への前兆であるという見解がなされていて、原因も解決策も分かっていない。そのため当時の政府は解体に追い込まれ、新政府になっても現状を打破できず。
日本では空気が乾燥し、森林に大きな影響が出ていた。
当時は交通機関が完全に停止し、日本海側を中心に積雪で家屋が倒壊する事故が多発。それによる犠牲者が多く出た。また、海外では特にヨーロッパや北アメリカを中心に氷床が広がり、それによる混乱と被害が出ている。その支援に国連が動こうとしたが、国連加盟国の大半が国政に追われたため、支援は予想を遥かに下回って自国で解決するしか他ならなかった。
それは日本にも言えることで、自衛隊を派遣するにも日本国内で人員が不足していたためやむを得ず手が回らなかった。
「にしても、寒いねえ」
愚痴に似たそんな言葉を溢しながら、淹れたてのコーヒーに口をつける。あまりこのような贅沢は出来ないが、たまにはとコーヒーを淹れたのだ。冷害より三年、コーヒーなんて滅多に飲めるものではなくなった。豆が以前よりうまく出来ず、生産量も減っている。
一息つくとまだ仕事が残っているからと、建てられたテントから、分厚いジャケットを着た青年が雪のちらつく中飛び出していった。地方に派遣された自衛官である彼は自衛隊に入隊して三年、こうして地方を周り、支援活動に精を出していた。
「足立、もう良いのか」
上官の池端が青年に声をかける。池端の額には縫った跡が残っている。以前の災害救助で子供を庇った時負った傷らしい。池端曰く勲章だそうだ。
足立と呼ばれた青年は、はい、と元気よく答え、再び雪かきに精を出す。お年寄りが多いこの地域では、屋根の上の雪かきが出来ず、重みで倒壊することが多々ある。そのため、地域の自治体と協力して屋根の雪を降ろし、倒壊を未然に防いでいる。
上官の池端が頑張っているのに、いつまででも休んでいるわけにはいかない。
足立敏幸はこの地域の出で、何か力になりたいと自衛隊に志願した。今や人手不足の自衛隊は来る者拒まずといった感じで、敏幸も一発合格した。自衛官になったからといって、銃が使えたりということはなく、地方に飛ばされては雪をひたすらかいていた。完全にボランティアのような存在になりつつある自衛隊ではあるが、給料はそれなりにもらえたりもする。
人の役に立ちたいと莫大で曖昧な夢を持っていた足立にとってこの仕事は、充実感と快楽に満たされていた。これはまったく自己中心的な気持ちだが、それでも足立はこの仕事を楽しいと感じてしまう。
主にライフラインの確保が自衛隊に課せられた任務なのだが、下っ端の足立には知識も経験もないし、そんな大事な仕事を任されるわけはなかった。若い者は汗をかいて奉仕しろとのことだ。それに対して足立にとって不満はない様子で、体を動かしている方が自分には合っていると感じている。
「よく降るな」
そんな愚痴を溢しながら、スノーダンプで道の雪を押していく。
氷床が広がって陸地が増加した。北海道と本州は陸続きになってしまっている。氷河期に近い状態にある世界の気候ではあるが、日本海側は非常に積雪量が増加していた。一般に氷河期であれば、空気は乾燥し雪はそこまで降らないと言われている。
だが、未だ対馬海流が健在で雪は留まることを知らない。ほとんどの地域で平年以上の積雪量だ。通常夏は降らないが、冬季が長くなっている。それでも日本に大した被害はなく、積雪量が増えたくらいだ。
いくら雪をかいても、かいた側から積もっていく。池端もくそと吐き捨て、除雪していく。こんな状況では士気も下がり、腐ってしまう。足立も同じ心境で、いくらやっても終わらない除雪作業に手を焼いていた。
それでもやらないよりかはましか、と気持ちを入れ替えて作業を続ける。他の自衛官も池端がやめない限り、手を止めることはしなかった。
なんだかんだ作業を続けること一時間。雪が強く降り出し、視界が次第に悪くなっていく。
「おーい、足立。今日はもう終いだ。戻るぞ」
テントを降ろし、テントの脇に道具を固める。テントを残し空き地から、深緑のジープに乗り学校に向かった。市立氷上中学校。この市にある中学校の一つだ。校舎を新設してから二十年程しか経っておらず、まだ綺麗だ。外壁は赤い煉瓦に覆われ、内装は木。そこの宿直室と二階の会議室を借り、そこに支部を置いている。本部は伊丹にある。
中学校に到着し、長靴を履き替え校内に足を踏み入れる。それは少し違和感があり、中学校とはもう無縁の人間がこうして中に入るのには抵抗みたいなものがある。
時間は午後四時過ぎ。今日はこれ以上の活動は出来ないと読み、本日の仕事は終了となった。足立は宿直室のシャワーで汗を流し、タオルを肩にかけたまま部屋を出る。髪はまだ濡れている。
「あ」
そこで女性教員と鉢合わせる。今年の春から赴任してきた西口和だ。和と書いてまどかと読む。初めて名簿を見た時はどうして読むのか分からなかった。美人でスタイルも良いのだが、きりっとした目から和の性格が滲み出ている。また、その立ち振る舞いから真面目そうで、足立にとっての第一印象は固い人。
彼女は大学を卒業してすぐに採用されたので、まだ二二歳。足立は大学を卒業してから自衛隊に入隊したので和とは三つ違いだ。
「そんな恰好で校内をうろつかないでください」
会って早々眉間にしわを寄せ、まるで生徒を注意するかのように言われてしまう。校内に活気はなく、生徒たちはもう帰宅している時間だ。積雪の影響で下校時刻が速まっている。この時期は授業が終わり次第下校しなければならない。
「相変わらずキツイね。もう少し優しくしないと生徒から怖がられるよ」
冗談交じりに言ってみせるが、和の表情は更に険悪な方に変化する。すごい剣幕だ。
「冗談、冗談。怒らないでよ」
足立は両手の平を和に向けながら、どうどうと宥める。冗談と言わないと冗談だと分からないような和は、かなり融通が利かない。それ故に真っ直ぐな性格で、温和や柔和なんて言葉は当てはまりそうにない。
和の表情は少し緩み、拳は収めてくれたみたいだ。言えば分かってくれるので、それだけは助かるところだ。
「今日はもう帰り?」
話を変える。そうしないと再び拳を握りかねない。和の手には紙袋を提げ、肩にはバッグをかけている。ええ、と短い返事を返す。足立の表情が緩んだ。笑みを口元に浮かべた。
和はその口元を見て、ぎくりと息を飲む。和は体の方向を変え、駐車場に続く扉に向かおうとする。
「今日、夕飯でもどう?驕ってもいいけど」
足立と和の距離は五メートル程。この距離で聞こえなかったという理由は通じない。断ればいいのだが、特に断る理由が見つからず、これまでずっと何かにつけて断ってきた。それはもちろん嘘をついたこともあったが、基本的に嘘をつくことを良くは思っていない和は無碍には出来ない。
どう答えるか悩みあぐねていると、足立は以前のことを思い出し、俯いてしまった。
これまで何度も断られてきた足立は、どうせ今回も、という気持ちが当然あった。それに付き合ってもいないし、教師同士という仲でもない。断られるのは道理で、半分諦めていた。それでも言ってみるだけはと、顔を合わせるなり食事に誘っている。
外は雪が降り、空は薄暗くなっている。
「分かりました。今日だけですよ」
少し無愛想にそう和は言う。足立は口を半開きにしたまま固まっている。
「ちょっと聞いてます?」
和は足立に声をかける。足立は予想外の返答に一瞬動揺してしまった。
「ああ、ごめんごめん。てっきり断られると思ってたからさ」
頬を引っ掻きながら、照れくさそうに和を見つめる。
「そこまで失礼じゃないですよ。今日は予定がないので、たまたまです」
和も頬を赤らめながら否定する。完全に図星の反応。足立もそれを感づいたらしい。
「もしかして、図星だった?断る理由探してたとか」
瞬く間に和の顔が真っ赤になる。ぐっと拳を握る。図星に図星をつかれ、怒りの感情が再び上がってくる。足立は、ごめん、と一言謝り、和の拳を手に取る。
「じゃ、ちょっと待ってて。すぐ着替えてくるから」
足立は小さくステップを踏み、上機嫌で階段を上っていく。会議室は二階にあり、そこに寝泊まりしている。
あんな楽しそうな姿を見ると、今後断りずらくなってしまう。そう後悔した和。しかし、今まで断った時に見せる切なそうな寂しそうな顔も中々耐えがたかった。
別に足立のことが嫌いなわけではない。でも、どこかそういう関係には成り難かった。単純に足立の軽い感じの性格に合わない。それが理由だった。よく友人からは固いし、真面目すぎると言われている。
別にそんな気はないのだが、外から見るとそう見えてしまうらしい。確かに少し融通が利かない部分はあるかもしれないけれど、それが今まで当たり前だったので急に変えることなどできない。
大きなため息をつく。いや、出たというのが正しいか。
その場に立ったまま、握られた手を開く。今まで肩に力が入っていた。
階段から足音。思ったより早い。和は階段のように目線を送る。
「あれ、確か三年生の・・・」
紺のブレザーを着た女子生徒。まだ、自分のクラスと担当教科の授業の生徒以外は分からない和だが、彼女のことは知っていた。
「山埜雫さん。もう下校時刻は過ぎてるのよ」
傍と口調がきつくなっていることに気が付き、いけないと気持ちを切り替える。
「早く帰らないと、親御さんが心配するよ」
笑みを作り、下校を促す。雫は和を一瞥し、下駄箱で靴を履き替え外に出て行った。
暗い感じの子。それが初めて廊下ですれ違った時の感想だった。それから偶然名前を知り、それ以来彼女の姿を見るたび目が追っていた。
一度も笑ったり楽しそうな姿を見たことがない。どこか危なっかしい。そんな気がしている。でも、彼女の秘密に触れれば、彼女を壊してしまうような気さえしていた。
だから、彼女に話しかけようにも出来ず、気にはかけている状態だった。彼女からいつか話してくれれば。そんな淡い期待をしている。
雫を見送ってすぐ、足立が慌ただしく階段を下りてきた。
「お待たせ。じゃあ、行こうか」
少し息が上がっている。そんなに急がなくてもよかったのに。そう和は思いながら、俯いた。足立は和が落ち込んでいる、いや怒っているように思え、恐る恐る問いかける。
「もしかして、まだ怒ってる?」
いえ、別に。と返事に元気はなく、さっきとはまるで様子が異なる。
駐車場に行き、ジープに寄る。この不景気の中、なかなか高い買い物はできない。足立は池端に車の利用許可を取り、こうして和との食事に向かっている。
キーを挿し、回す。エンジンがかかり、サイドブレーキを上げ、ブレーキから足を外す。ゆっくりと車体は前に進み、学校の駐車場を出る。公道に出て、市内の方に向かって走り出す。
結局、和は希望がなく、足立の一存で中華になった。場所は和も知っているらしく、ナビはいらない。
相変わらず和の表情は暗く、まるで今の空のようだ。足立は見るに見かねて、いくつか質問を投げかけた。何か悩みがあるのは明確で、それを聞き出そうと試みる。
「教師は楽しい?」
すごく大雑把な質問だ。和は少し間を置き、楽しいけどシンドイ、と答える。
「何がシンドイの?」
毎週の小テストの作成だとか、担当のクラスのことだとか。愚痴交じりに答えてくれた。和は聞きもしていないのに次々と、あの先生のあれが駄目だとか、あのクラスは授業中にこんなことをし出すとか、いろいろ話してくれた。
さっきまでとは違って、少し表情が柔らかく明るくなったような気がする。大分内に溜め込んでいたみたいで、あれやこれやと話をしている。
足立も黙って相槌を打ちながら話を聞く。あれやこれやと話していくうちに、一瞬表情が再び曇った。
「悩みとかあるんでしょ」
今まで黙っていた足立が、雪降る道に目を向けながら言う。
和は口を紡ぎ黙ってしまった。車内は静まりかえる。ワイパーの動く音が大きく感じた。
「我慢はよくないよ」
足立はそれが何なのかに、あまり興味はなかった。知ったところでどうしてやることも出来ず、ただ黙って聞いてやることしか出来ない。別にカウンセリングをしているわけではない。そんな大層なものが自分に務まるわけはない。
そう思っていても、そんな顔をされたら夜も眠れない。それが気になっている異性ならなおのこと。いつも元気でいてほしいと思うだろう。
我慢はよくないよ。そう足立は言ってくれた。和はそれが堪らなく嬉しかったが、悩みを口から出そうになるのを抑えていた。
理由は、これが自分の仕事だから。生徒の悩みを聞いてあげる。その原因を解決までとはいかなくても、現状をどうにか良い方向に向かうために力になることが出来る。そう思っていた。これは教師である私の仕事。だから、彼に助けを求めてはいけない。
かなり馬鹿げた理由かもしれないが、教師になったからには教師である自分が生徒のためにならなければ。そんな思いが胸にある。
でも言いたい。聞いてもらいたい。それに彼なら黙って聞いてくれるし、彼女とは関わりはない。
「あの、その」
言いかけて止まる。果たして本当に良いのだろうか。信号が赤に変わり、ブレーキを踏む。
足立は確かに軽そうだが、芯は真面目で親切で優しくて。頑張っていて。
あれ、私は何を考えているの。和は頭を二三振り、頭を切り替える。
はたと脱線したお頭を切り替えた和は、助手席の足立に目を向けた。
一瞬どきりと鼓動が跳ねる。真っ直ぐな眼差しが和の眼を捉えていた。真剣な表情でじっと見つめる。
心拍が徐々に早くなり、音も大きくなっていく。足立に聞こえるかもしれない。逃げるように、和は視線を前方に向けた。
「信号、青になりましたよ」
前の車が動き出した。
「あ、ああ」
足立は前を向きなおし、アクセルをゆっくり踏む。
落ち着いて、息を整えて。車内の暖房が暑く感じてくる。和は手でぱたぱたと顔を仰ぐ。
市内の駅前。近くの駐車場に車を止め、店に徒歩で向かう。とはいっても三〇秒。外は大分気温が下がっていて、コートを着ていても寒く感じた。
足立はジーパンロングTシャツ。その上に茶色のジャケットという如何にも取って付けたような服装。髪を乾かすのに思ったより時間がかかり、急いで服を着てきたせいだ。選ぶ時間も裂いて、待ち時間を削った。
奢りということで財布は車内に置きっぱなしで、和は白のコートだけ羽織った。
さっきの続きが気になるところだが、寒いので店に入ってから。
暖簾をくぐり、扉を開く。らっしゃい、と少し年配の男性の声がする。
「大将、久しぶり」
「おお、敏志んとこの敏幸くん。よう来たな」
笑顔で出迎えてくれたのは、中華飯店『宥恋』の店長、安田孝道だ。いつも大将と呼ばれ、それが完全に定着している。
大将は敏幸の父・敏志と高校の同級生だ。仲が良く、卒業後も機会があれば遊んだりしていた。そして中華料理屋で修業していた大将が自分の店を持つことを知り、不動産会社に勤めていた敏志は、駅前の土地を安値で譲った。
駅前に店を構えて三〇年弱。未だに客足は途絶えず、人気の店の一つだ。
店内は狭く、カウンター席しかない。それも一五席程。もともと土地が狭く、そこに建てた店は必然的に狭くなってしまった。それでもお客と店の従業員が近く、楽しく話せるという利点がこの店の人気の一つだった。
料理もさることながら店長の人柄も良く、よく悩みや相談事を聞いてもらうために足を運ぶ客も少なくないと聞いている。
三人しか客はおらず、一番左の席に和を座らせ、足立もその隣に腰掛ける。
「何食べたい?」
足立は座るやすぐに壁に貼ってあるメニューを指しながら問う。和は少し悩み、酢豚と餃子と答えた。
「大将。酢豚と唐揚げ。それと餃子を二つ」
はいよ、と大将は返事をし、調理を続ける。その手際は素晴らしいもので、無駄がほとんどなく、次々にオーダーを消化していく。先にいた客三人はどうやら同僚らしく、会社の愚痴や不満を溢している。
まずは餃子が運ばれる。目の前に皿が置かれる。何とも香ばしい。小皿にたれを二人分作り、片方を和の方に渡す。外はパリッとしていて、中はジューシー。見たままのうまさだ。
和も一つ箸で取り、たれを付けて一口。おいしい、と自然にこぼれる。足立はそんな和の言葉を聞いて、ほっとする。
「ここ、親父とよく来てたんだよ。親父と大将は高校の同級生で、この店が出来た時の来客一号だったんだ」
足立は熱々の餃子を食べながら、そう教えてくれた。和は初めて足立のことを聞いた。今までは足立が一方的に話しかけ、和だけ自分のことを話していた。それを足立は聞くだけで、自分のことは一切話さなかった。
話したくないのかもしれないと、和は木をつかっていたがそうではなかったようだ。
唐揚げ、酢豚の順で料理が運ばれてきた。その間、足立は実家の話だとか、学生時代の話だとかをしてくれた。今まで知らなかった足立のことを知った和は、今まで以上に足立が近い存在になった。
「高校の時はここでバイトしてたなあ」
「そうだ、そうだ。勝手が分かってるから、他のバイトより断然使えたな」
大将は、知りすぎているのも少しまずいがな、と付け足す。勝手を知っているが故の悪さ。
「でも、今は雇ってねえんだろ?」
「今は不景気だからな。雇う余裕がないな。お前なら大歓迎だが」
この雪の影響で客足は落ち気味らしい。冬場の客が少ないため、冬の間はあまり店を開けないそうだ。
一通り料理を満喫して、お冷を飲む。
「それで、悩みって何?」
客は足立と和以外おらず、大将と三人だけだ。自然に言ったつもりだったが、和はさっきまでのようには話してくれない。
和は少し俯き、小さい声で話す。
「私が持っているクラスではないけど、気になる子がいるんです」
「男子?それとも女子?」
「女子生徒。いつも悲しそうな顔をしていて。あいさつしても返してくれないし」
声は弱弱しくなり、最後の方はほとんど聞こえなかった。だが、足立は和の悩みがなんなのか、理解できた。
ようは学校に馴染めていない生徒がいて、その子が心配で堪らないらしい。俺から言わしてもらえば、他のクラスの生徒のことなんて、そのクラスの担任に任せておけばいい。そう思ってしまう。
真面目な和のことだろう。その子と今日も会って、いつもと同じような感じだったから、更に不安に思ってしまった。虐めを受けているのではないかとか、虐待を受けているのではないだろうかとか。いろいろと考えてしまう。
「そう、返してくれないんだ。名前は?教えてくれない?」
足立は優しく笑む。
「それは駄目。絶対その子を探したりして、話をする気でしょ」
勘が鋭い。図星をつかれた足立は、しない、と否定するも和は教えてくれそうになかった。なら、その子の特徴をもっと聞き出して、探すしかない。
「他にはどんな感じの子なの?」
「どんな感じ・・・。暗くていつもどこか遠くを見てる。あ、綺麗な子だと思います。女の私から見ても」
美人で不思議な子。どこか遠くを見ているというのは、恋煩いか何かなのでは?そう思った足立は更に突っ込む。
「彼氏とかいるんじゃない、そんな可愛い子だったら。俺ならほっとかないと思うけど」
急に和の顔がきりりとする。鋭い眼光がこっちを見ている。
冗談、冗談。そう言って和は少し警戒を緩める。
「彼しかどうかは知らないですけど、毎日校門で彼女のことを待っている高校生の男子がいます。私が赴任してきた頃からずっと」
その子を待つ男子高校生。年上に彼氏か。でも、付き合っているとすれば恋煩いではないだろう。では何だ。彼女には妄想癖でもあるのか。妄想癖があるのは俺か。
頭の中で考えてみるが、状況がよく分からない。足立からしてみれば、彼氏がいて毎日迎えに来てくれて。楽しいに決まっている学校生活が、何故そんな憂鬱に思えてくるのか。まったく理解できなかった。
気がつくと和が顔を覗き込むようにして、心配そうに様子を窺っていた。
「あの・・・」
言いたいことは何となく理解できた足立は、笑顔で答えた。
「大丈夫。別に詮索はしないからさ」
たぶんあまりこの状況が悪化することを好ましく思っていないらしい。首を突っ込んでいいのか、何もせずに見守った方がいいのか。そんなこと他人には分からない。本人がどう思っているのかなんて、本人以外誰も知らないのだから。
「あまり詮索しない方がいいと思うんですけど、ね・・・」
「そうだね。まあ、あまり心配しなくていいと思うよ。その子も親しい人はいるみたいだし、その高校生に相談とかしていると良いけど」
和にカウンセラーの真似事など出来ないし、それは足立だって同じだ。でも、話を聞いてあげるくらいのことは出来る。
「少し話をするだけでも、大分違うと思うよ」
うん。和は小さく頷く。不謹慎かもしれないが、美人の悩む顔も落ち込む顔も見ていて飽きない。面白いとは違い、そんな顔も綺麗だと思ってしまう。
足立は、話はここまでと宣言し、これ以上は触れなかった。その代わりなのか、また小さい頃の話を持ち出し、面白可笑しく話してくれた。和にとってそれだけでも大いに気持ちが軽くなり、話して良かったと思えてきた。
大将が少しまけてくれたお陰で、思ったより財布に残った。足立が、今度は飲みに行こうか、と誘うと和は少し照れながら言う。
「暇なら」
足立は思わず吹き出し、笑いだした。見透かされたような気がして、和の顔は更に赤くなった。アパートに着くまで俯いたままだった。
***
山埜慧は強烈な悪寒で目が覚めた。どうやら足が布団からはみ出てしまっていた。昨日の夜から熱が出て、寝込んでいた。
時計に目をやる。午前五時。悪寒はするが、昨日よりはずっとマシだった。重たい体を起こす。
「あっ」
ベッドの脇でうつ伏せの状態で寝ている妹の姿が目に映った。すーすーと音をたて、まだ眠っている。昨日、一晩中付いていてくれたのか。
慧はそっとベッドから出て、彼女を抱き抱える。ベッドに寝かせ、布団をかける。起きる様子はなく、気持ち良さそうに眠っていた。慧は部屋を出た。
体が重く頭が痛む。それでも昨夜よりかは断然弱く、我慢できる範疇だ。少しは薬が効いたようだ。汗をかいていたので、シャワーを浴び、清潔な衣服を身に付ける。風邪がこれ以上悪化しないように、いつもより厚着だ。リビングの暖房をオンにして、台所に立つ。食事は妹には任せられない。以前任せたところ、キッチンは大惨事になってしまった。昨日もおかゆを作ると言ってくれたが、台所に行き、自分で作った。
妹に嫌われようが、そんなこと知ったことか。もし怪我でもすれば、そう思うと心配で不安でいてもたってもいられない。過保護かもしれないが、それでも心配でたまらない。
両親がいない自分にとって、妹は唯一の家族で、それは妹も変わらないだろう。
それに妹とは義理の兄妹だ。両親とも慧とも血は繋がっていない。孤児だった子を引き取ったのだ。
慧の母は慧を産んだ際、子供を産めない体になってしまった。正確には、産めば命の保証はないと言われた。慧を産んだ時も、産めば母体が危機にさらされると言われた。
そんな時、父は反対したが、母は産みたいと思ったらしい。奇跡的に母体も慧も助かった。だが、父にもうこれ以上は心配をかけたくないと、避妊手術を受けた。
しかし、子供が欲しくなった。それは母も父も思ったことらしく、慧に兄弟を与えたかったらしい。一人っ子よりも二人いた方が、寂しくないと考えたそうだ。
それでたまたま紹介された孤児院を訪れた時、雫に出会った。雫は父親が誰なのか分からず、母親一人で育てられた。しかし、育児のための資金が足りず、母親は働き詰めになった。我が子のために。その一心で働いたが、それが祟ってか過労死した。
当時二歳だった雫は孤児院に入るよりも、山埜家に引き取ってもらった方が良いと判断されたらしい。山埜家も大いにそれを喜び、即断で雫を受け入れた。
とても優しい両親は、雫を差別したり虐待したりしなかった。我が子同然で可愛がった。過保護ともとれるようなその愛情の注ぎようは、慧以上だった。慧はそれを良くも悪くも思わず、お兄ちゃんだから我慢しないと、と子供ながらに思っていた。なんとも可愛らしいことだが、妹を優先に生きてきた。
そんな幸せの中、事件は起こったのだ。
慧が小学五年、雫が四年生の時、冬のある日。その日の前日に雪が積もり、十二月には珍しく三〇センチは積もった。
当日、妹のピアノの発表会があり、両親共々四人で会場に向かっていた。当然、車でタイヤは冬用だ。ピアノを始めて、父親が見に来るのは初めて。雫もそれが嬉しくて仕方なかった。
車の中ではいつも以上に騒ぎ、落ち着きがない様子。
トンネルに入り、ライトを付ける。暗いトンネルを抜けて、外に出た。緩いカーブに差し掛かる。右カーブだ。
クラクションが鳴る。車が急ブレーキをかける。
凄まじい衝撃で前方のシートにぶつかる。雫と慧は後部座席で話をしていたので、まったく前方を見ていなかった。
一体何が起こったのか。二人は理解できなかった。
「おとう・・・」
状況を聞こうと運転席に座る父親に、慧は問おうとした。
しかし、父親はエアバックとシートとの間に挟まれ、頭から血を流していた。首に力がなく、ぐったりと倒れている。フロントガラスには全体にヒビが入っている。
「お母さん、お父さんが」
母親も体を挟まれ、意識がない。雫はと慧が目を向けると、頭をシートにぶつけて、頭から血を流していた。すぐに雫を連れ、車から降りる。雫は未だ何が起こったのか分からない様子で、慧に連れられるまま外に出た。
慧たちが乗っていた車が潰れ、その先には大型のトラックが止まっていた。そのトラックも前方が潰れていた。トラックの運転手はあわてた様子で、電話をかけている。
少しして、救急車のサイレンの音が近づいてくる。パトカーや消防が忙しく動き回る。
慧も割れたガラスで頬を切っていたが気にはならず、雫を乗せた救急車に一緒に乗った。
覚悟は出来ていた。
雫の治療をし、慧も頬に絆創膏を貼り、雫を連れ霊安室に連れられた。白い壁に二つの台の上に二枚の白い布がかけられていた。
慧は雫の手を強く握った。握った手に力が知らずに入り、雫もそれを感じ取った。二人は無言でその場に立ち尽くした。
それから、親族による葬儀が行われた。
父方の親族が葬儀を取り持ち、母方の親族も多く参列した。
「あの子が引き取った?」
参列した大人たちが話しているのをたまたま耳にする。
「あの子のピアノの発表会に向かう途中に事故に合ったんですって。気の毒に」
「引き取らなかったら、こんなことはなかったのに」
「子供が産めなくなって、今度はこんなことに」
直接には名前を出さないが、雫に対する陰口に他ならなかった。大の大人が。そう慧は思ってしまう。
それに悪いのは雫ではなく、車線をはみ出してぶつかったトラックだ。それを雫がいたからと。雫のせいだと。そう言っている。そのようにしか聞こえない。
父方の親族である、父の姉にあたる人の家族に引き取られることになった。が、慧も雫もそれを拒否した。しつこくは引き取ろうという気はなく、元の家に二人は戻った。
そこで初めて二人で涙を流した。
静まり返った家で。温かさのない家で。二人のすすり泣く声。
小一時間は泣きあかし、目は真っ赤になっていた。どんなに悲しくても、お腹は空くもので。慧は台所に立つ。料理の知識なんて、母親の手伝いをしていた程度のもの。何か作れと言われても作れるわけはなく、財布を持って家を出る。
母親の財布を手にコンビニエンスストアに向かい、そこでおにぎりとサンドウィッチ。ジュースやお茶は冷蔵庫にあったので買わない。
コンビニのレジ袋を片手に家路を歩く。その足取りは重く、とても弱弱しい。
家の前で妹の雫の姿があった。雪を踏む音に気付き、雫がはっと顔を上げて走ってくる。その勢いのまま、慧に抱きついた。
ううと噛み殺した声で泣いている。
「一人にしないで」
ぐっと腕を掴み、堪えるように泣いていた。慧も思わず、泣きそうになる。それを堪え、呟く。ごめん、と。
それから五年。高校一年生と中学三年生に成長した二人は、両親亡き後変わらぬ家に暮らしている。今でも家の中は静かだ。それでも以前のような寒さや寂しさはなく、楽しく暮らしている。
しかし、冬を迎えると、雪を見ると、あの日の記憶が蘇ってしまう。血に滲むあの惨状。
はあと大きなため息がでる。振り切ったつもりでも、未だに頭から離れない。
鍋に水を張り、ダシの素を入れて火にかける。昨年コンロからIHに替えた。乾燥する冬場に火事が起こり易く、政府でもIHを進めている。政府の公的援助もあり、買い替えに踏み切った。
大根を切り、卵を割る。切った大根を鍋に投入し、左にフライパンを温める。卵を溶き、醤油とダシを混ぜる。熱したフライパンに油を引き、卵を流し込む。それを綺麗に畳み、卵焼きを作り火を止める大根が軟らかくなったら、豆腐を切って入れる。味噌を溶き入れる。
たたたと階段を下る足音。
「ごめん、寝坊した」
慌てて雫がキッチンに入ってくる。髪の毛はバラバラで、手櫛で直している。肩まで伸びた髪がふんわりと揺れる。綺麗な少し赤みがかった髪と整った顔立ち。細身で女性らしい体付き。当然毎日見ているから多少の変化には気が付きにくいが、ここ数年でずっと女性らしくなった。女の子は成長が早いと聞くが、思ったよりずっと早かった。
異性として意識し始めたのは、雫が中学二年生になった頃だった。妹だという自分で引いていた線を越えてしまった。壁が壊れてしまった。
クラスでもよく雫がかわいいと話になっていた。いいよな、お前は。そう言われることが多々あった。それから何となくそんな気持ちで雫を見始めてから、だんだん意識するようになっていた。
好きな子の前では緊張してしまう。それが妹でも同じ。毎日会っていても、緊張してしまう。今は慣れたが、たまにドキッとしてしまうことがある。
「と言うか、慧は風邪ひいてるんだから休んでて。後は私がやるから」
そう言ってお玉を取り上げ、慧の背中を押してキッチンから出す。慧ももう料理は出来ているから心配はなく、リビングのソファーに腰掛けた。リモコンでテレビの電源を入れる。
「昨夜から降り続く雪は今日の夕方までには止みそうです。雪の影響により交通機関で遅れがあり、高速道路は今も通行止めです」
朝からニュース番組を見る。これはたぶんどの家庭でも同じように日課になっている。交通情報や天気予報は今の生活には欠かせない。知っていなければいろいろと不便だし、いつも携帯電話などで情報をチェックする必要がある。
電車が動かなくなることもしばしばで、大抵の駅では暖房管理の待合室が設けられている。バスは今でも運航しているが遅れることは毎回で、このシーズン利用客はあまり少ない。かといって自家用車を利用する人も少なく、あまり家からは出たくないようだ。
それでも学校はいつも通りあり、学生はこの雪の中向かわなくてはならない。まあ、少々の遅刻は多めに見てくれる。学校としても利用できる交通手段が電車やバスくらいでそれも大した当てにはならないので、学校が通学用のバスを手配している。
今日もバスが向かいにくるので、通常通り学校はある。休みの基準は交通機関の停止か警報が出た時だ。これは以前と何ら変わりはない。
休みがこの時期多くなるので、夏休みを二週間程にし、冬休みを一カ月弱取っている。もうすぐ冬休みに入るが、それまでは後一週間ほど猶予があった。
「はい、お待たせ」
テーブルにさっき作った卵焼きと味噌汁が置かれる。雫はご飯を茶碗によそいながら、テレビに目をやる。現地リポートを吹雪の中で記者が行っている。
「今日も寒そう」
落胆した声で雫はご飯を盛る。
「そんなにいらないよ。食欲あまりないし」
そう慧が言うと、食べないと元気になれないよ、とそのまま慧の前に置く。自分の分は少し控えめによそう。
「雫も食べないと持たないよ」
「いいの。今ダイエット中。冬はすぐ太るんだから」
雫は慧の向かいに座り、手を合わせてから食べ始める。慧も手を合わせ、箸を持った。
いつもこうして二人で朝食をとる。夕食も同じように二人だ。それ以上もそれ以下もない。いつも二人で。
慧は何とかお茶漬けでご飯を流し込み、食器を流しに持っていく。いつも洗うのは雫担当だ。料理が苦手な雫は洗うのだけは一人ですると意地を張っている。まあ、慧としてもそれは助かるので、雫に任せている。
市販の風邪薬を水で飲み、ソファーに座る。チャンネルを回すが、どれも積雪情報や天気予報ばかりだ。昨日もよく降ったから、一日で四〇センチは積もったか。
テレビを消して、自室に戻る。二日は休むと高校側に伝えてあるので、今日も無理せず一日寝ていよう。
慧はベッドに横になる。昨日あれだけ寝たのだから、すぐには寝付くことが出来ない。
慧。けいではなく、めぐみと読む。苗字と合わせると、やまのめぐみ。
両親が付けた名前はとても気に入っている。だから、山埜の姓が失うのが嫌で、養子になることを断った。姓と名前で一つの意味になってるこの素晴らしい名。それを失うと両親の思いまで踏み滲むような気がして嫌だった。幸い伯母も乗り気ではなかったんで、簡単に手放された。遺産の管理などはまだ任せているが、近いうちに自分たちで管理しようと思っている。
小さい頃はよく名前で虐められた。めぐみ。女みたいな名前。
そう言われる度に、自分の名前が嫌いになっていった。どうして両親はこんな名前を付けたのか。ある時、母親に尋ねた。
苗字と続けて名前を言ってみなさい。
やまのめぐみ。
そう、山の恵み。苗字と意味が通るようにしたのよ。綺麗な名前でしょ。
その時ほほ笑む母の顔を見て、名前の意味を知った。その笑顔は本物で、とても印象深い。今でも頭に残っていて、思い出すと優しい母の顔が浮かぶ。
そうして考えると、雫を引き取るときも躊躇しなかった。
やまのしずく。山で木から落ちる雫のこと。
綺麗な情景が浮かんでくる。
それを考えると、即決した両親の気持ちが何となく分かってくる。意味が通る名を持つ二人。両親が思いを込めた名。
名は体を表す。その言葉通り、雫は綺麗に美しく育っている。慧もその名の通り、優しく思いやりがあり、相手を理解する心。
目頭が熱くなる。慧はぐっと堪える。一瞬涙が出そうになった。両親のことを思い出すと、ときどき泣きそうになってしまう。何とも恥ずかしい話だが、未だに悲しさが消えないのだ。
それでもまだ一人でないだけマシで、もし一人なら死んでいたかもしれない。そう思ってしまう。そんな自分が情けなく、恨めしく思う。
階段を上る足音がして、部屋の扉が開く。
「じゃ、行ってくるね。ちゃんと寝てないと駄目だからね」
もう制服に着替えていて、コートやマフラーも装着済みだ。
「うん、分かってる。雫も温かくして風邪ひかないようにね」
「うん。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
笑顔で扉を閉め、階段を下りて行った。いつもはバス停で別れるのだが、その時見せる顔と同じように笑顔だった。今日も迎えに行くことは出来ないが、家で無事帰ってくることを待とう。
慧は布団をかぶり直し、目を閉じた。
***
家を出て学校に向かう。家からは徒歩十分程にある中学校。雫は雪道を歩いていた。
今日は早く帰らないと。
兄である慧が心配で仕方がない。放っておくとすぐに無理をしてしまう。そんな兄のことが愛おしくて仕方がない。
こんな自分はおかしい。そう思っていても、この気持ちを欺くことはできない。好きなものは仕様がない。この気持ちまで認めなければ、自分は自分でなくなってしまうかのようだった。
学校に着くころには、生徒が疎らに登校しているのが見える。その中に雫も混じっていく。特に親しい友人の姿もなく、下駄箱で上履きに履き替えて教室に向かった。
三年生の教室は二階にあり、学年を追う毎に階が下がっていく。一年生は四階だ。
一階には職員室や校長室などがあり、教員が多く利用する部屋がある。
教室に入った雫の眼に黒板が映った。そこには大きな字で、「兄妹の禁断の愛」などと落書きされていた。兄と妹の相合傘など、小学生染みた落書きだ。
雫はそれを無視して自分の席に座る。鞄から教科書やノートを出し、机に仕舞う。紙のカバーがかかった文庫本を片手に読み始める。慧が面白いと渡してくれたものだ。
クラスの男子が騒ぎ立てる。
今日、兄貴はどうしたんだよ。バス停にいなかったぞ。
もしかして喧嘩か。
痴話喧嘩だろ、どうせ。
聞こえているが、全て右から左に聞き流す。こんなこといつものことだ。無視していれば、いずれ飽きてやめる。
教室のドアが開き、委員長の優香が登校してくる。前髪をピンで分け、後ろで短いポニーを作っている。黒板を見るなり、声色を変えて叫んだ。
「誰よ、一体こんなことしたのは。男子、あんた等でしょ。すぐに消しなさい」
まるで自分のことのように怒る優香は、雫が唯一親しくしている友達だ。慧とも面識があり、家に呼んだこともあった。
男子は無視をして、教室から出て行った。優香は鞄を机に置くと、黒板の落書きを消していく。消し方に今の心情が表れている。
落書きを一通り消した優香は、雫のもとにやってきた。
「雫、大丈夫?」
本を下ろし、顔を上げる。
「大丈夫。もう慣れたから」
笑顔で雫は答える。優香はそれが嘘だと分かった。
雫とは小学校からの付き合いで、お互いのことはよく知っているつもりだ。我慢している時に限っていつも強がる癖がある。雫は絶対人前で泣いたりしない。泣くとすれば、兄である慧の前だけであろう。
こんな時、慧さんがいてくれれば。そう思う優香は、雫の前に座る。
「それ、面白い?」
本を指差して聞いた。雫は本をめくり、タイトルを見せる。
「慧から借りたの。面白いって。まだあんまり読んでないからわかんない」
夏目漱石のこころだ。内容は知っているが読んだことはなかった優香は、何でこんな重たい内容のものを、と嘆いた。
本を読んでいる雫の姿は珍しく、気になった。読んでいるのが、こころだとは思わなかったが、本を読むことが悪いとは言わない。しかし、このご時世内容が重たくて、もう少し明るい内容の本を読めば良いのにと思ってしまう。
慧が本の虫なのは以前から知っていた。優香が雫の家に遊びに行った時、いつも本を読んでいたからだ。部屋も棚いっぱいに本が並んでいて、今ではもう溢れているだろう。
優香も本を読むが、慧程ではない。そこまで読むのが早くないし、嫌いではないが取分け好きでもない。
「今日、遊びに行ってもいい?」
優香がそう聞くと、雫は頷く。
チャイムが鳴り、優香は自分の席に戻る。出て行った男子たちも戻ってきて席に着いた。
今日から学校は午前のみ。中学は給食があるが、今日からそれもなくなる。優香と雫は一緒に帰ることになった。優香は自宅に携帯電話で連絡を入れた。
携帯電話は大半の人に持たれていて、その利用率は中学生で九割を超えている。小学生でも五割を超え、高校生ともなるとほぼ十割だ。社会人で持っていない人は探してもなかなか見つからない。
優香も中学に上がると同時に持たされ、連絡用に使っている。GPS装備の携帯電話が大半で、もし事故や災害が起こってもすぐに位置が分かるようにしている。
優香の携帯にも付いていて、もしもに備えている。
「ありがと。じゃあ、帰ろうか」
電話をし終えた優香は雫の隣を歩きだす。まだ雪がちらついていた。
雫と一緒に帰るのは、いつ以来だろう。そんなことを考えながら、雪道を歩く。
それに雫の家に上がるのは、小学生以来だ。優香は、緊張してきたようで足取りがどこかぎこちない。
雫は淡々と歩き、優香は離されまいとスピードを合わせて歩く。
「何を緊張してるの?」
雫が単刀直入に聞いた。そこで優香は、ふえ、と変な声を上げた。完全に図星だ。
「あ、あのね。雫の家に上がるの、小学校の時以来だなって思って。久しぶりで、ちょっと」
俯き加減にそう答えた。少し赤面した様子で、それを雫に見えないようにしている。それは本当の話で、小学校以来だ。あれから一度も行っていないのだから、緊張もするかもしれない。
「嘘つき」
雫は聞こえない小さな声で呟いた。優香が何と聞き返す。が、雫は何も言わなかった。
歩いて十分。そうして雫の自宅に着いた。洋風で今時の家だ。作るのにそうは時間がかからない、組み立てるだけの家。最近ではそれが主流で、どの家も同じに見える。住宅街なんて最悪で、どの家も同じでまるで模型のように見えてしまう。
画一化された家や整備された道路で、似たような風景がどこにでも存在する。自分が今どこにいるかなんて、電信柱の番号を見ないと分からない。
その中でも、雫の周りの家は昔とそう変わらなく、家の形も様々だ。茅葺はさすがに残っていないが、平屋は未だに存在する。
門の扉を引いて中に入る。ポストの中を探り、郵便物がないかチェックする。それを終え、雫は鞄から鍵を取り出し、開ける。
「ただいま」
「お邪魔します」
二人は靴を脱いで、リビングに入っていく。
「ここで待ってて。すぐ着替えてくるから」
そう言って雫は自室に上がっていった。優香は部屋を見渡した。
少し部屋の物の配置が違うくらいで、あの頃と変わっていない。変わったのは、おばさんとおじさんがいないこと。
両親が亡くなってから、優香は何となく行きにくくなっていた。他人の私が、押し入っていいものだろうか。
当然悪いことはないとは思うが、それでも今行くと気まずくて話なんて出来ない。そういう思いで、なかなか足を運ぶことは出来なかった。
家の中はしんと静まり返っていて、人のいる気配がしない。心がずきりと痛んだ。
寂しい家。静かな家。以前とはまるで違う。あの時は、おばさんがいてお菓子を出してくれて、温かく迎えてくれた。雫も笑っていた。
今では学校で笑っている姿を見たことがない。怒ったところも見てはいないが、いつも無表情で無関心だ。そんな雫が優香には危なっかしく見えて堪らない。
放っておくと消えて無くなってしまいそう。
階段を下りる足音がする。二つだ。
「お待たせ」
「こんにちは」
着替えを済ませた雫の後ろに、慧の姿があった。
「こ、こんにちは。お邪魔してます」
まさか、家に慧がいるなんて思わなかった優香は意表をつかれる形となった。思わず声が裏返りそうになる。それを何とか戻し、平静を装う。
「慧さん。今日学校はどうしたんですか?」
高校が同じく昼まででも、家から近い雫や優香も方が早く着くはず。早退や欠席をしない限り、ここにいることはなかった。
「昨日から風邪ひいちゃってて。もう熱は下がったけど、今日も休ませてもらったんだ」
慧の姿は水色のパジャマに上着を着ているだけだった。少し顔が赤い。それに眼が少し虚ろだ。
「優香ちゃんでしょ?入学式以来じゃないかな、会うのは」
「はい。ここに来るのは、小学校五年生以来です」
笑顔でそう答える優香の眼には、少し俯く慧の姿が映った。しまった。
そう思った時にはもう遅く、慧はすぐに笑顔をつくった。
「お昼、まだでしょ?何か作るから、少し待っててね」
慧は重たい体を動かし、キッチンに向かった。あ、と手を伸ばしたがその手は宙を掴み、優香はその手を下ろしてしまった。
ごめんなさい。そう言いたかったが、慧の笑顔は何も言うなと言っているかのようだった。だから優香は何も言えずに、立ち尽くすしかなかった。ぐっと拳を握る。
雫は白のパーカーにジーパン姿でソファーに座り、テレビの電源を入れた。この時間はお昼の長寿番組を見るのが、日本人の定番だと思っている。もう何十年も続いている。
優香はコートを脱ぎ、畳んで鞄の上に置いた。邪魔にならないように、端っこに鞄共々寄せる。マフラーと手袋も一緒に置く。
キッチンからは良い匂いが漂い始め、空腹だった優香はお腹が鳴りそうになった。
慧は二人のもとに出来たての焼き飯を運んでくる。香ばしい匂いが食欲を駆り立てる。二人は瞬く間にそれを平らげた。
「おいしかったです。ごちそうさまでした」
優香は流しに食器を返しながら、お礼を言う。慧がこんなに料理がうまいなんて知らなかった。毎日こんなおいしい料理を食べられる雫が羨ましく思う。
「お粗末さまでした」
食器を洗いながら、慧は笑顔で答えた。おいしいと喜ばれることは嬉しいことで、思わず顔が綻んでしまう。
洗い終わった後、慧は再び部屋に戻ってしまった。優香は残念そうにその後を見ていた。
雫と優香は何をするでもなく、ただ時間だけが過ぎていってしまった。テレビを見ていた優香と雫は、時計に目をやった。
「そろそろ帰るね」
優香は立ち上がり、そう告げる。雫も、うんと頷き、玄関まで優香を見送る。外はもう暗く、雪は止んでいるが昼間より積もっていた。
「気をつけて帰ってね」
雫の顔が少しほほ笑んだ。優香の心が少し温かくなった。
「うん。今日はありがとう。今度は私の家においでよね」
思わず優香まで笑顔になる。そうして二人は別れ、優香は家路を歩いた。
「優香ちゃん、帰っちゃったのか」
雫が振り返ると慧が階段から降りてきていた。手には、一冊の本が握られていた。
「渡そうと思ったのにな」
残念そうに呟き、踵を返し階段を上がっていった。
雫は落ちていた手袋を拾う。優香のものだ。忘れていったのだろう。雫はそれをぐっと握った。
***
今、国会は大いに揺れていた。冷害が始まってから、二人の総理大臣を挟み、再び総理になった塚本は、エネルギー確保に最初に取り組んでいた。
燃料。つまりは石油やガスなどにあたるそれらは、世界的にも不足気味で、価格も冷害前の三倍にまで引きあがっていた。日本でも価格も引き上げは止むを得ず、ガソリン税を取るとまたバカみたいな値段になるので、ほとんど付いていない。
日本のエネルギーは海外からの輸入に頼っていた。唯一出ていた石炭もとうの昔に無くなり、今や原子力発電のみの電気エネルギーがほとんどだ。
火力発電は一年前に中止され、代わって原子力による発電が推進された。それでも安全面で不安な原子力発電は、設置場所の問題があり地元住人が反対する中、強制的に建設されていた。
原子力発電により何とかなってはいるが、電気の使用量は半端ではなく落ちる寸前だ。政府は早いエネルギーの確保に動かなくてはならない。
しかし、日本に頼れる中央アジアの国は無く、どこも友好的ではない。それは当然で、いつ自国が氷床に覆われるとも分からない今、簡単に石油やガスを分け与えるわけにはいかないのだ。
友好国のアメリカに相談を持ちかけてはいるが、良い返事は返ってこない。
アメリカは中央アジアの国に軍を置き、アメリカの味方を多く作っていた。それも一つや二つではなく、四つもの国を味方に燃料を格安で仕入れていた。
アメリカは9・11以来、中央アジアの国家に戦争を仕掛けていた。テロリストのアジトがあるだとか、核兵器があるだとか、何かと理由をつけて。今思えばそれは言い分で、この状況を見越しての戦争だったという評価が多い。
そう考えれば、先の戦争の理由は納得出来る。いずれ来る冷害に備えてのエネルギーの確保。それがあの戦争の本当の理由。
国会中継を見ながら、足立は上司の池端に質問をする。今日は吹雪が酷く、今日のところは休みとなった。久々の休暇だ。
「これから俺たち、どうなっちまうんでしょうねえ」
まったく意味のないことだと分かっていたが、今の政府を見ていると不安になってしまう。
「さあな。俺に聞くな」
池端は呆気なく流した。政府の命で動いている自衛隊にとって政府の動きは気になるところだ。
「にしても、いつまでこうしてるんだろうな」
池端は外を見ながら、そんなことを溢した。いつもはそんなこと言わないのに、どうしてしまったのか。足立は、どうしたんです?と聞いてみた。
「もしかしたらな、戦争になるんじゃないかって。このまま冷害が広がれば、いずれは食糧や燃料は底をつく。そうしちまったら、もう奪うしかないんじゃねえかって」
そう。日本でも食糧危機に陥るかもしれない。それに両極に近い国家は、海外から買うほかに術はほとんどなく、いつ終わるかも分からないこの冷害に痺れを切らしているだろう。
戦争。それは国家間だけで行われるものではなくなるだろう。世界中でそれは起こる。
第三次世界大戦。それが起こる心配は多くの人によって予想されていた。このまま続けば、いずれ戦争が始まる。そうなれば、日本だって戦わなくてはならなくなる。自分だけ傍観しているわけにはいかない。日本も標的にされるに違いはないし、今大した戦力も持たない日本を落とすのは容易い。
「まさか・・・」
言いかけて足立は止めた。ならないとは、起こらないとは誰にも言えない。なってはほしくなくても、日本がそうはしなくても世界はそうなるかもしれない。それを否定することはできなかった。
戦争になんてなれば、日本はどうなるのか。
日本の理念。それを守れば国は滅び、守らなければ今まで積み上げてきたものが一瞬で壊れてしまう。
それにアメリカを含む核保有国が有利になるのは必至で、日本やその他の核を持たない国家はすぐに占領されることだろう。力なきものに勝ち目はない。いくら今から軍備を増強しようとも、遅いだろう。それに平和ボケした日本人には戦争をやるなんてことできないだろう。
いくら起こったとしても、まるで人事のような反応が返ってくるに違いない。私たちには関係ないとでも言いたげに。
銃も撃ったことがない足立にとって、戦争なんてものは遠い存在だった。自衛隊に入ってからもそんな事態にはならないと思い、入隊した。と言うより、銃なんて握りたくはないし、撃ったりなんて以ての外だ。そんなことのために自衛隊に入ったわけではない。
足立はそう心で思ってはいるが、状況が状況なだけに軽率なことは言えない。
冷害なんて言っているが、これは氷河期への前触れだと言う科学者が多い。いや、ほとんどがそう言っている。これから世界はもっと寒くなり、日本も近々氷床に覆われるだろうと。海流は完全に止まり、極寒の大地に変わるだろうと。
「そうなっては、ほしくないですね」
呟くようにそう言った。その言葉に偽りはなく、本心だ。人に向けて銃は撃ちたくないし、そもそも銃なんて向けたくはない。足立は池端を見るが、池端は俯いたままじっとしていた。
この日も雪がよく降り、外はとても寒そうだ。足立は窓の外を眺めた。
***
和は休校であるにも関わらず、学校にいた。職員室の席に腰を下ろし、机に向かっていた。ため息をつく。
吹雪の中、足を運んだが誰もいなかった。中学校近くのアパートを借りている和は、歩いて十数分で学校に行ける。今日は吹雪の中、身を挺して学校に来た。小テストの採点を行うためだ。
三年生は三月に公立高校の受験が待っている。それに向けて小テストや模試を行っている。和も小テストを作り、少しでも力になろうとこうして頑張っている。
最後の答案の採点を終え、一息つこうとコーヒーを淹れた。口いっぱいに苦みが広がる。砂糖やミルクは入れなかった。そういう気分だった。
椅子に深くもたれる。椅子が軋み、和は体を起こした。
あの人は今日何をしてるんだろう?今日も除雪作業を頑張ってしるのだろうか。
はたと我に返った。一体何を考えていたのだろう。どうしてあの人のことが。少し優しくしてもらっただけで、どうしてあの人のことなんて想っているのか。
一気に残ったコーヒーを飲み干す。
「大体あの軽そうな口調が嫌なのに。いつも臭いことばかり言ってくるし。恰好つけたがるし。別に恰好よくはないのに・・・」
誰もいない職員室の中でそんなことを口走っていた。誰も聞いていなかったから良いものを、もし聞かれたらどうしよう。愚痴を言っているが、まるで好きな相手をわざとけなしているみたいだ。嫌よ嫌よも好きのうち。
つくづく馬鹿だと嘆いた。そこに突然扉が開いた。
「おお、何だ。声がすると思ったら、和じゃんか。何してんの?今日は休みだぜ」
唐突に開いた扉に足立が顔を出した。心臓の鼓動が跳ね上がった。思わず、変な悲鳴を上げてしまった。
「ひゃって、なんて声上げてんの?もしかしてビックリさせた?ごめん、ごめん」
足立は謝りながら、散ったプリントを拾った。どうやら立ちあがった拍子に、プリントが机から落ちたみたいだ。和は赤くなった顔を隠しながら、プリントを拾った。
神出鬼没。足立はいつもタイミングが悪い。足立は拾ったプリントを和に渡す。和は眼を背けながらそれを受け取った。それが失礼であることは重々承知だが、赤面した顔を正面から見られると、余計に恥ずかしかった。
「ありがとうございます」
ぶっきら棒に礼を言う。足立は、どういたしまして、と返した。少しの沈黙。和はプリントを机に戻しながら言う。
「さっきの質問ですけど。小テストの採点があったので、学校に来ました」
足立は一瞬止まったが、すぐに思い出したように手を打った。
「ああ、何してる?の答えね。テストの採点か。先生は大変だねえ」
まるで人事のように言っている。実際、人事なのだが、そうと分かっていて和は頭に来てしまった。
「ええ、大変です。こんな吹雪の中来なくちゃいけませんから」
突き放したような態度で和は椅子に座った。足立はどうして怒っているのか分からず、動揺してしまう。少し考え、職員室を出ていった。
和はその姿を追いながら、少し後悔した。もしかして、見放されたか。
一人寂しくテストの採点とは、疲れも孤独感も増す一方。そこにたまたま来てくれた足立を追いだす形になってしまったからだ。
再び椅子に深くかけた。今日のうちに他のこともやってしまおう。和は次の授業の資料作りを始めた。
担当教科である数学の問題を作る。これは授業中に行う小問題だ。教科書から問題を索引し、似たような問題を作っていく。
数問考えたところで、再び扉が開いた。足立が入ってくる。カップを片手に、和に歩み寄っていく。
「はい、どうぞ」
足立はカップを和に差し出した。それを和は受け取る。コーヒーだ。
「これ・・・」
「まあ、飲んでみ」
足立はさあさあと飲むように勧める。和は恐る恐る口を付ける。
「おいしい」
思わずそう溢していた。本当においしい。和は目を丸くして、二口三口と飲んでいった。
一体何が入っているのか。ミルクと砂糖はたぶん入っている。だが、それとは別に何か入っていることは分かった。でもそれが何なのか分からなかった。香りが以前のものとは違う。
「一体何を入れたんですか?」
足立は笑顔でこう答えた。
「秘密」
その子供みたいな馬鹿みたいに明るくて無垢で屈託のない笑顔は、和には輝いて見えた。眩しく見えた。
「もう。教えてくださいよ」
じゃれるように話す二人。二人は笑い、会話を弾ませる。
やっぱり私は。
和は確かに芽生えた心に、気付いてしまった。
***
慧は窓の外を眺めていた。止まない雪。白く綺麗な雪がこんなにも邪魔だとは思ったことはなかった。
二日間病欠し、今日も休校で休み。事実上、三日休んだことになってしまった。それは仕方がないことと言えばそうだし、それはどうしようもないことだ。
いつも悪い夢を見て、朝いつも寒さで目が覚める。そうして一日が始まり、今日もまた同じように始まっていた。
雫は高校受験に向け、自室で勉強中。それなりに頭が良い雫はそこまで必死にならなくても、同じ高校には入れるだろう。高校は市内へバスで十分くらいのところにあり、然程遠くはない。冬場はバスを利用し、雪がないときは自転車で高校に通っている。
自転車で風を切る感触はなんとも気持ちの良いものだ。自転車なら三〇分程度だ。
時計は一〇時過ぎ。丁度息抜きには良い時間かと、お茶を雫の部屋に運ぶことにした。慧は急須に茶っ葉を入れ、ポットのお湯を注ぐ。それをお盆に乗せ、湯呑と共に持って上がる。
コンコンと扉をノックして部屋に入った。雫は電気を付け、机に向かっていた。
「休憩しない?お茶、持ってきたから」
青のテーブルに盆を置く。勉強机から離れ、テーブルのあるカーペットに腰を下ろした。慧は茶を淹れ、雫に差し出す。
「ありがと」
雫は礼を言うと、温かい茶に口を付けた。体が温まる。体温の上昇を体感する。慧も茶を飲み、冷えた体を温めた。いつも使わない部屋はエアコンを切っているため、こうした休みの日は、自室にいるかリビングにいることが多いため、他の部屋は切ってある。
今日はリビングも大して使わないので、使うときだけ付けるようにしていた。だから、今は切ってあり、慧は底冷えしていた。
雫も部屋自体は暖めているが、壁や窓から冷気が伝わり、少し部屋は寒かった。何枚か着こんではいたが、顔や手は隠すことが出来ず、冷たくなっていた。湯呑が温かくて、手の感覚が戻ってくる。顔にも当てて温めた。
慧はちらりと机の上のノートを見た。苦手な社会の勉強をしていたようだ。暗記科目は比較的苦手で、数学や国語は得意だ。英語はまずまずで、理科も特には大丈夫だ。強いて言うなら社会、特に歴史で、雫は苦手科目の克服に時間を費やしていた。
テストの点などを見ると、特に得意不得意はなく、バランスよく点を取っている。慧から見れば、何をそんなに張り詰める必要があるのかと思ってしまう。
昨日から受験勉強をすると、遅くまで勉強していた。朝も慧より早く起き、机に向かっていた。
一体何が雫を変えてしまったのか。慧には見当もつかなかった。以前から負けず嫌いなところはあったが、ここまで露骨ではなかった。あくまでも人並みだったと記憶している。
何はともあれ、勉強することはいいことなので、口は出さないでおこう。
慧は盆をキッチンに戻し、自室で読書をすることにした。この二日で三冊程読み終えてしまい、あまり読むものがなくなりつつあった。
「早く買いに行きたいなあ」
カーテンをめくり、外を見る。まだ雪が降っていた。
しばらく読書にふけり、気がつくとお昼を過ぎていた。もう一時だ。雫は何も言ってこず、たぶん勉強をしているのだろう。本は読み終えてしまい、部屋にあるものはすべて読んでしまった。
はあとため息をつく。お腹は然程空いてはいない。ベッドにごろりと寝転んだ。
飽きた。さっき読んでいた本は一度もう読んでいた。内容は覚えていたし、先も見えていたので、初見の感動はなく、ただ暇つぶしに読んだにすぎなかった。
下に降りて昼食を作る。コロッケを揚げて、皿に盛り付けた。雫の分はラップをして置いておく。それとメモ書きを残して、家を出た。
「う、さむ」
雪はまだ降っていた。風が吹き、顔に直接降りつけてくる。ジーパンにセーター。ジャケットを羽織って、上着だけで六枚。それでも寒さを感じた。ネックウォーマーにニット帽。靴はハイカットを履き、靴下は二枚重ね。
完全装備のようだが、歩いて三十分以上。本屋までの道のりは険しい。吹雪く中、一歩一歩進んでいった。
それでようやく目的地に到着する。こんなに遠かったかな、と思うくらい時間がかかってしまった。腕時計で時間を確認すると、丁度一時間が経っていた。
本屋とは言っても、ショッピングモールの中にある。ジュイスは全国各地にあり、地方を中心に展開している。この悪天候でもジュイスは開いていた。肩や頭に積もった雪を払いのけ、中に入っていく。
中は暖房が利いていて、暖かかった。歩いてきた慧の体は冷えていて、生き返る心地がした。帽子とネックウォーマーを取る。
慧は中をブラブラ歩いた。所々シャッターが下りていて、やっていない店もあるようだ。客は少なく、凄然としていた。幸運にも本屋は開いていて、慧は中に入っていった。
文庫本と新刊のコーナーを行ったり来たり。どれを買おうか迷っていた。背負ってきたリュックを開け、財布を出した。財布には五千円札が一枚。買えないことはない。
よしと意気込んで、新書を一冊手に取った。ハードカバーで分厚い。それをレジまで持っていき、会計を済ませる。
ふうと息を吐いた。これでようやく楽しみを手に入れた。安堵の表情で買った本を鞄に仕舞った。モール内を再び練り歩き、一時間ほどで一周出来た。神戸や福知山のものに比べるとそれほど広くはない。あれを回ろうと思えば、二時間や三時間はかかってしまう。
特に買うものも無かったので、慧はジュイスを後にした。
帰りも想像通りの寒さと視界の悪さに手間取り、帰るのに一時間もかかっていた。足場が悪いせいもあり、少し回り道したりもした。だが、行きで大体の道や状況は分かっていたので、行きよりかは割と楽だった。
自宅に着き、雪を払って家に入った。丁度日が落ちる頃合いだったので、街灯も付いていた。しかし、雪の影響で大した役には立たず、急ぎ足でここまで辿りついた。リビングには電気が灯っていた。雫が降りてきているようだ。
「ただいま」
玄関で靴とジャケット、帽子を脱いで上がる。靴は端っこに寄せ、ジャケットは何回か振って、雪を落とす。
リビングへと入った慧の前に、雫が立ちはだかった。慧の眼をじっと見つめ、その場を動こうとはしない。
いったいどこに行っていたのか。どうして声をかけなかったのか。どうしてこんな天気の中、外に出たのか。そんなことを言いたげなその目に慧は負けた。
「ごめん。黙っていなくなって」
俯きながら、反省する。慧はその場で立ったまま、目を伏せた。たぶん本当に怒っているんだな。殴られても仕方がない。そう覚悟した慧に雫は勢いよく抱きついた。
痛いほどきつく抱きつく雫に慧は驚いた。どうして。そう言いそうになって、その答えを思い出した。以前にもこんなことがあった。
一人にしないで。
そう言った雫の顔は、今にも涙が溢れそうだった。いや、僕を見た途端泣きだしてしまった。
雫は泣いていた。声を殺して。慧はその時、雫の本当の気持ちに気付き、そっと抱き締めた。
「ごめん。本当にごめん」
悔いるように、祈るように、耳元で謝り続けた。ただ、ごめん、と。
その夜、二人は同じベッドの上にいた。
もうどこにも行かない。そう誓った慧は、今日の反省を込めて雫のわがままを一つ聞くと約束した。
「今日、一緒に寝てほしい」
目を赤くしながら、雫はそう言った。言ってから赤面し、顔を押さえていた。釣られて慧も顔を赤くしていた。
今に思うと兄妹と言うよりも、むしろ恋人に近かった。それもまだお互い純粋で照れ隠しながらの。そんな不器用な関係。
二人は同じ枕に頭を置き、同じ布団をかぶった。雫が手を握る。最初は触れただけかと思ったが、手繰り寄せるように手を取った。慧もその小さな手をそっと握る。互いの指を絡ませ、しっかりと握りあった。
もう、離さない。お互いがそう言っているかのように、固く結んだ手。
知らないうちに夢の中へと落ちていった。
***
春の訪れは未だなく、雪も道路に残ったままだ。三月中旬。卒業式シーズンで、ここ氷上中学校も卒業式を迎えていた。卒業生にとっては、二日後に公立高校学力調査があり、その出来によって進学が左右される。ようはセンター試験のようなものだ。これに失敗すれば、自分の思う進路には行けない。
三月に入ったというのに、気温は平年の二月並みの寒さらしい。冷害から一向に冬期が長くなっている。このまま行けば、三年後には桜は六月か七月に咲くいてしまうのではと言う心配がなされている。
試験の心配はさて置き、卒業式ではやっぱり泣いてしまう人も出てくる。優香もそのうちの一人で、終わる頃には、目を真っ赤にしていた。
もてる男子生徒は、女子からブレザーにボタンをせがまれている。これは卒業式によく見る光景だ。この日に告白する人までいる。人生最後の日。もう会えないならと思いきった行動に出るのだ。
雫は卒業式に来てくれた慧の側に駆け寄っていった。多くの男子が注目する中、慧の腕に抱きついた。
「おめでとう」
誰よりも早く、その言葉を雫にかけてやる。雫は満面の笑みで、ありがとう、と答えた。
晴れてはいるが風は冷たく、道の端々に雪が残っていた。まだ解けていない。
そこに、一人の男子が思い切って、雫に話しかけてきた。
「あ、あの。山埜さん。ちょっと話があるんだけど」
顔を赤くしながら、雫の方を見ている。視線はきょろきょろと定まらず、挙動不審気味だ。どうやら緊張しているみたいで、これから愛の告白といったところだろう。
「雫。じゃあ、また後でね」
慧は腕を解いて、立ち去っていった。気を使い、その場から去る。雫は慧の背中を目で追いながら、男子生徒の方に寄っていった。
「あれ、誰?」
そんなことを聞いてきた。本当に言いたいのは、そんなことじゃないでしょう。そう雫は心の中で愚痴を溢す。
「兄です」
無表情でそう返した。男子生徒はほっとしたのか、安堵の表情を浮かべた。
「前から、山埜さんのことが好きでした。だから、付き合ってほしい」
お辞儀をしながら言った。とても在り来たりなセリフ。好きな人から言われればぐっと来たりするのだろうが、雫には迷惑の他に何もなかった。
「ごめんなさい」
そう即答した。返事を聞くなり、男子生徒はうなだれてしまった。ああ、面倒くさい。雫はそう思いながらも口には出さず、その男子生徒が顔を上げるのを待った。
しばらくして顔を上げた男子生徒の目は、濡れていた。号泣程ではないが、充血した目が痛々しい。
何も泣くことは。そう思った雫は、余計に面倒だと思ってしまった。泣くことなんてない。別に死んでしまったわけでもないし、二度と会えないわけでもない。高校が違えば可能性は低くなるが、街でばったりなんて無いとは言えない。
雫はその涙の意味が分からず、どうしていいのかも分からなかった。ただ待つことしか。気まずい。そうとしか思えず、耐えきれなくなりその場を去ろうとする。背中を向け、歩き始めた。その時、声がかかった。
「ありがとう。さようなら」
男子生徒は皮肉か感謝なのかそんな言葉で、別れを告げた。またどこかで会うかもしれない。でももし会ったとしても、他人のふりをするだろう。
雫は教室に戻る途中、何度か呼び止められたが、用があるから、と全て振り切った。
教室でさっさと荷物をまとめて校舎から足早に出ていった。一度だけ振りかえる。
もうこの校舎ともお別れか。そう思うと少し切ない。
校門に向かった雫の目には、そこで佇んでいる少年の姿を見つけた。兄だ。
「慧」
そう控えめに呼ぶと、それだけで気がついてくれた。雪がない道路を歩き、自宅に向かった。慧が今日はお祝いをしてくれるのだとか。ささやかながら、今日はふんぱつすると言っていた。
雫は家路を軽快に歩いた。
「あの子も卒業か。高校に行っても大丈夫だろうか」
和は卒業生を送り出しながら、雫の背を追っていた。それにさっきの男の子。高校の制服着てたけど。
和にとって雫の存在はすごく気懸りで、心配だった。でも、二人の姿を見るとそんな気持ちも少しは和らいだ。
あんな顔もするんだ。新たな発見に心躍らせ、和は彼女から目を逸らした。そして思う。
桜が咲くのはいつになるんだろう。




