14)そこに在らざる航路
ぱちり。
蘇った記憶が、エヴの頬を打った。
「エヴ?」
レオナルドの声に、びくりと肩が震える。いつの間にか、エヴは地面にうずくまっていた。顔を上げると、レオナルドが自分の前に膝をついていた。
眩しい。その声が、その視線が、その魂が。手を伸ばし、言えば、彼は叶えてくれるだろうか。
しかし、違う。違うのだ。彼は彼で、自分のことを何も知らない異邦人だ。彼は母ではない。家族ではない。残念なことに、ここにいるエヴはそれを理解してしまっている。
言えるものか。過ちの残響である自分が、今更。
「僕の、願いは」
孔のない手の中で、にぎりしめた石が砂となる。
「もう叶わない」
白い砂はさらさらと、指の間から零れ落ちた。
「だから、最後に我儘を言っていいのなら」
空になった左手を、レオナルドへと差し出す。
「君に消してほしい」
レオナルドは、傷ついたような顔はしなかった。それが少しばかり寂しくて、エヴは自嘲気味の笑みをこぼす。
「……君は、生きたいとは思わないの?」
「どうして?」
問いながらも、エヴはその先の答えを察していた。
生きていることが苦しい。つらい。それを理解できないレオナルドではないだろう。だがレオナルドは、それを乗り越えてしまったのだ、きっと。
「僕の人生、初めて思い通りにできるのが、この我儘なんだ」
「でも」
「いいから」
レオナルドの左手を取り、エヴは顔を近づけた。レオナルドが息を飲む。
「ダメだ、今触ったら」
言い終わる前に、周囲の景色に亀裂が走る。
クリフが駆け寄ってきた。エヴはレオナルドをそちらへ突き飛ばす。
「エヴ!」
亀裂は地面へ及び、エヴが座る場所が一段低くなった。クリフが両腕でレオナルドを引き留める。エヴは、遠ざかる二人を見上げ、微笑んだ。
(ああ、消える)
最後の呪いが今、解かれた。
エヴを引き取った呪術師たちは、まずエヴが死なないように、魂縛の呪いをかけた。心臓と魂をじかで結びつける、不滅の呪いだ。
肉体が死んでも、魂がそこにあれば『死んだ』ことにはならない。四肢が腐り皮膚が剥がれ喉から血が噴き出しても、治してしまえば生き返る。
だから、エヴはこの庭の片隅に、自分の心を隠すことにした。
「ありがとう、優しい人」
空が砕け、大地が沈む。自分自身の輪郭が溶けていく。ほかでもない、自分自身の選択で。
看取るものはいない。嘆く者もいない。喜ぶ者は、きっといる。
たったひとり、死を待つだけのこの時間が、こんなにも。
「……うん」
こんなにも、愛おしい。
水底から一気に浮上したように、胸の奥が苦しくなる。その胸を叩かれて、レオナルドは詰まっていた息を吐き出した。
「よし、戻ってきたな」
「げほっ……あ、兄上」
全身がガタガタと震えている。立っているのか座っているのかも分からず、レオナルドは震える指でクリフの袖をつかんだ。
「少し休んでろ。ロアル、兄貴!」
クリフが外套を引っ張って、自分から何かを隠す。支えを失い、レオナルドは草地に倒れこんだ。間一髪、ゼオルドの手が頭を受け止める。
ロアルに支えられ、クリフは手探りで杖をにぎった。
目の前に、エヴが倒れている。手足はだらんと投げ出され、半開きの口から血が流れ出していた。
感覚の戻ってきた指で、クリフはエヴの首筋に触れる。
「まだ生きてる」
アルグレッドとロアルの剣が、同時にエヴの頭に向いた。
「待ってください!」
レオナルドが叫ぶ。
「まだ生きているなら、助かりませんか? クリフ、どうにかできませんか!」
「……あのな」
「彼の事情もしたことも、理解しています。その上で。死んで、はいおしまいじゃないでしょう? 誰にだって生きる権利はあるはずです。どんな人にだって、何度だって!」
震える腕で体を支え、レオナルドは咳をする。
「ボクは王子様に反対。殺してあげる慈悲もある」
「俺もロアルに同意だ。生きてるってことはまた敵対する可能性があるってことだ」
「そんな……」
二人の剣士を見上げてから、レオナルドはクリフに視線を向ける。
「死なせてやれ」
穏やかに、しかしキッパリとクリフは言った。
「こいつは、もうとっくに命の蝋燭が燃え尽きてるのに、魔術で無理やり生かされてた。その魔術……呪いを、お前は解いた」
クリフは黒魔術師の瞳でエヴを見る。魔力の残滓こそあるが、エヴを突き動かしていたもの、肉体を保たせていた魂は、すでに見えない。
「お前は、エヴを救ったんだよ」
痩せこけた青年の肉体は、とうの昔に限界を超えていたはずだ。そもそも人間は、魔術を何時間も使っていたらそれだけ寿命が縮む。
肉体は常に魔術に蝕まれ、自我は保てず、叶えようもない願いを背負わされて。手遅れになってゆく自分を、あの庭のエヴは、どんな気持ちで見ていたのか。
「……埋葬と弔いなら、手伝うよ」
クリフが言う。レオナルドは口を引き結び、俯いて目を閉じた。
波打ち際で横になり、ロップロップは空をぼんやりと見上げていた。
手足の感覚がない。肘から先、膝から下がなくなってしまったかのようだ。痛みはない。ただ全身が、地面に沈み込みそうに重い。
「生きているか」
琥珀色の目の女が、ロップロップの顔を覗き込んでくる。息を詰まらせ、ロップロップはきゅっと唇を閉じた。
「……? エルフのジャック殿……だよな? ずいぶん挨拶が遅くなってしまってすまない」
「ああ……怪我は」
「ほとんど塞がった。この湖には奇跡が宿っているんだな」
スカーレットの指が、ロップロップの顎と首の間に触れる。
「あなたはずいぶん鼓動が弱い」
「死にはしない……ときさかの矢を使ったから、しばらく、休みたいだけだ……」
「ときさかの矢……エルフの奥義か。そんなものを……」
ロップロップは冷たい唇を笑わせた。
「知っているんだな。さすが……」
「祖母に聞いたことがある」
スカーレットは腰の飾りを探る。すっかり冷えた指は、暗闇の中で震えていた。七つの飾りが、かちゃかちゃとぶつかり合う音が響いた。
「私は、曽祖父を探しにきた」
「聞いたよ。魔術師たちから」
ロップロップの眼前に、色褪せた写真が差し出される。
「ときさかの矢を使えるということは、百年以上生きているエルフの戦士と見受ける。彼をご存知か?」
「……よく見えない」
明かりが足りないのではない。瞼が重く、視界が霞んでいるのだ。
「ジャック殿?」
返事をするのも億劫で、ロップロップは目を閉じた。
声を出す体力があるなら、一秒でも長く、意識を保っていたかった。
ときさかの矢は、戦士の誓いと共に鍛えた鏃と、育てた木の枝、そして初めて射落とした獲物の羽で作る。そこから最低でも百年、力を注いで磨き上げる。
しかしロップロップは百年前、一度鍛えるのをやめてしまった。必中必死の矢を使ってでも護りたいものを、永遠に失ってしまったのだから。
そうして錆びついてしまった矢を目覚めさせる方法は一つ。未来の命の前借りだ。
(悔いはない)
自分の過ち、自分の選択だ。それを清算しただけのこと。ここで悔いてしまうほど、生半可な覚悟でエヴを射ったわけではない。
(……だけど)
今眠ってしまえば、次に目を覚ますのはいつだろうか。
(あと、少しだけ……)
曾孫には、きっと二度と、会うこと叶わない。
ならば、少しでも。一秒でも長く。
「スカー、レット」
霞む視界で、その姿を目に焼き付ける。
「……あの子に、よく似ている」
ああ、もう世界が遠ざかってゆく。結ぼうとした記憶の像が、崩れて散っていく。
悔いはないが、どうしても、惜しかった。
長い夜が明ける。水平線の向こうから、朝日がやってくる。
全てが悪い夢であったかのようだった。エルフたちの住処は守られ、異邦の客人たちは一人として欠けることなく朝を迎えた。焼けた草原と陥没した大地も、相手を思えば安いものだ。
明朝。戦いを終えた魔術師の三人は、揃って湖畔のテントに寝かせられていた。突然現れた幻想種もいつの間にやら姿を消し、他の冒険者たちもすっかりくたびれて寝息を立てている。
疲れているのは皆同じだった。ましてカササギ村の人々は、大穴の底からよじ登り、エルフの村まで歩き通したのだ。それが、到着して半日でエヴの襲来である。眠れないまま夜を明かした人々の多くは、朝日で安全を確認してようやく、泥のような眠りについた。
静かな湖畔を、ただ一人、ロアルだけが起きて動いていた。
「…………」
エヴの遺体は、今夜、エルフ式で弔われることになった。レオナルドの訴えに、エルフたちが折れた形だ。最前線で命を張った戦士の言葉なら、とラッタリッタも頷いた。
呪いは解かれ、人々は穴倉から解放された。倒すべきものは倒され、戦士は疲れて眠りについた。ハッピーエンドの後にやってくるのはいつでも、気だるい現実と後始末だ。
エヴは死んだ。カササギ村の人々は助かった。エルフの里は護られた。
だが、残っている呪いがある。
「安心しなよ、ロップロップ」
ロアルは、ロップロップの隣に立つ。死んだように眠るその体からは、細い根が地面へと伸びていた。
ロアルは無遠慮にその体を転がして、腰のポーチをひっくり返す。石の小刀や種、砥石や鏃が、パラパラと転がり出てきた。ロアルがポーチの底を叩くと、それらの荷物の底、横幅ぴったりに収められていたものが落ちてくる。
油紙の小包。ロアルの手のひらほどの大きさだった。包みを開くと、黒い石と、木材に固定された金属が現れた。
「……長耳妖精は鉄に触れないはずなのにね。ちゃんと取っておいてるんだから、君は」
火打石と打ち金である。
「君の後始末はボクがしよう。これで共犯。君の罪悪は半分、ボクがもらう。どうしてって? あはは!」
ロップロップを元通りに寝かせ、ぽんぽん、とロアルはその胸を叩いた。
「……さあ、どうしてだろうね」
火付の道具を手に、ロアルは湖に背を向ける。仮面を、浮かぶ岩山の島へと向けた。
「けれど、きっと君にもあったはずさ」
もうあの島に、人は住んでいない。エヴを生み出した村は、自らの呪いで滅ぼされた。
「死んだ方がマシだって瞬間が」
呪いの稚児は、その呪いから解放された。
ならばあちらも、解放されてもいいだろう。
ロアルはゆっくりと頷いて、一人、歩き出した。
魔術と呪術。クリフやスカーレットが呼び分けるこの二つに、明確な違いはない。どちらも言葉と魔力で元素を操る、世界干渉の技術だ。
しかし魔術は現代、広く一般にも認知され、その研究分野は多岐にわたる。魔術師の資格証があればどの国の図書館にも出入りできる。一方で呪術師は明確には存在せず、考古学、民俗学などと同じように、古来呪術学がある程度だ。
呪術。呪い。その言葉は知られている。しかし魔術師以外の人々にとってそれは迷信のようなものだ。実在すると言われても、魔術との区別はつかない。
では、魔術師たちはどこで、魔術と呪術を線引きしているか。結論だけを言うならば、『魂への加害性』の有無である。
現代魔術における魂とは絶対の不可侵領域である。
ゆえにこそ、その魂に触れ、操る黒魔術は忌避され、禁忌となった。
「……あのぉ、スカーレットさん」
つまりクリフも、どれほど才能があろうとも、黒魔術を行使した時点で罪に問われるということだ。
「……はぁー……」
夕暮れの湖畔で、スカーレットは額を押さえてため息をついた。
エヴとの戦闘から丸一日。気絶するように眠っていた人々も起きだして、夕食の準備に取り掛かっていた。
湖畔のテントも撤収されている。スカーレットが人払いしたため、近くには誰もいない。やや遠くで、トートがエルフの女たちと縫物をしていた。
「お前が黒魔術のエキスパート資格を持っていることは知っていた」
「地獄耳……」
「だが、それを使うほど軽率ではないとも思っていた」
スカーレットはクリフの杖を取る。大きな水晶の内側で、黒い澱のようなものが揺れていた。
「エヴへの対応は評価する。だが黒魔術は魂に干渉する。自分のであれ他人のであれ、それは禁忌だ」
「分かっています」
「理解しているのか? 魂に触れる代償はすべて、お前自身が支払うんだ。いずれ」
スカーレットは水晶をクリフの鼻先に突き付けた。石の中で水が揺れるように、澱は左右に揺れ、底に溜まる。
「……分かってます。二度と、とは言えないですけど」
「【八重塔遺跡】では、代償をあの【亡霊】たちが持って行ったからいいものの……はあ」
杖を返し、スカーレットはまた頭を抱える。クリフは姿勢を正したまま、じっと水晶の中を見た。
「やるならバレないようにやれ。それと乱発はするな。絶対に」
「お優しいっすね」
「私はお前を評価しているんだ。クリフォード」
はあ、と頷きながら、クリフは釈然としない顔になった。スカーレットは立ち上がり、裾の土を払う。
「ところで、ユークリッドはどこに行った?」
「多分【人頭果】を焼きに行ったんだと……あ」
クリフも立ち上がり、夕日側に顔を向ける。
「やあやあおはよう。近づいてもいいかな!」
ロアルが二人を見下ろし、手を振っていた。
「……お前っ!」
クリフが血相を変え、坂を駆け上がる。ロアルは全身、煙でいぶされた臭いがした。
「くっせぇ!」
「仕方ないじゃない。生木ってなかなか燃えないよね」
「あーあーあーあーいっぱいくっつけて来やがって。今祓うか……ら……」
杖を振ろうとして、クリフはさっとスカーレットを見る。
「……さーせん」
「【亡霊】化していない魂なら、放っておいてやれ」
「はい……」
二人の魔術師を見比べ、ロアルは首を傾げた。
「……あれ? 今、ボクに幽霊いっぱい憑いてるって言った!?」
「あー……うん、ハイ」
クリフはロアルから視線を逸らす。ロアルは両手でクリフの袖をつかんだ。
「とってよ! 絶対あの林檎の人たちだろう? 恨んでるかなあ、恨んでるよね!」
「いや表情までは」
杖を下ろし、クリフは呆れたような表情になる。精霊も【亡霊】たちも恐れないのに、人間の霊は怖いのか。
「お前も似たようなモンじゃん」
「生きた人間だってすぐそばにいっぱいいたら怖いだろ!」
ロアルは両足で地団太を踏む。
「とにかく祓うのはやめ。一日くらい放っておいたらいなくなるからな。多分」
「わーん!」
「はいはい洗濯するから本体よこせ」
ロアルのローブをつかみ、クリフはトートたちのほうへ向かう。洗濯板くらいあるだろう。猫のように引きずられながら、ロアルは不満げに腕組みをした。
「……黒魔術師」
目を細め、スカーレットは視線を鋭くする。
現代、禁忌とされる黒魔術を扱える魔術師は存在しないことになっている。手を出す魔術師はゼロではないが、そもそも師がいなければ術を修めることはままならない。クリフの年齢では、まだ黒魔術の本に触れることもできないはずだ。ザマルの魔術学校では、黒魔術に関連する書物はすべて、教員専用の書庫に集められている。
だがクリフは、手足のように術を使いこなしていた。自身とレオナルド、二人分の魂をエヴの中に送り込み、無事帰還させるという無茶もこなしている。
さぞいい師だったのだろう。【幻惑の森】の『すごく強い魔術師』とやらは。
そして、精霊が住まう森へと向かい、その後の足跡が知れない黒魔術師をひとり、スカーレットは知っていた。
「……お前は本当に、面白い星のもとに生まれたらしい」
風が吹き、スカーレットは目をつぶる。
死神のような影を背負いながら、やかましく生きるクリフの道行き。それを今視てしまうのは、少しもったいない。
クリフたちに背を向け、スカーレットはなだらかな坂を登る。仮面は見つかるだろうか。エヴに弾き飛ばされてしまって、そのままだが。
「上機嫌そうだな、庭師」
スカーレットの肩に、エストレーラが乗る。白い幻想種の少年は、不思議そうにスカーレットの顔を眺めていた。
「そう見えるか?」
「ああ。とっても」
そうかと微笑して、スカーレットは顔を上げた。
「さて」
スカーレットが手を差し出し、その甲にエストレーラは移動する。
「お前の望み通り、エヴという脅威を退けた。それでもまだここにいるということは、探し物に期待しているのか」
「よく分かっているじゃないか。ここからはエヴではなく、お前たちのための話だ」
スカーレットの目線まで浮き上がり、エストレーラは腕を組んだ。
「お前たち、このままでは帰れないぞ?」
からかっているような、急かすような。冗談とも真剣ともとりがたい声音だった。
風に夜の匂いが混ざる。既に日は沈みかけていた。ここへ訪れて、四度目の夜だ。
七日目を過ぎれば、【周遊する異界】はカササギ村を離れる。この箱庭と外の世界が最も近づくのが、この七日間だ。タイムリミットを過ぎれば、人間の魔術では到底届かない距離になってしまう。
「分かっている」
薄い笑みのまま、スカーレットは頷いて見せた。
五日目の朝。本調子になったクリフとレオナルドは、早朝にスカーレットに呼ばれた。
「作戦会議だ」
大木の間、天幕が張られた地面に布が敷かれ、円形に座布団が置かれている。
双子とスカーレットが到着するころには、ほかの座布団は埋まっていた。参加者はヨナーシュとラッタリッタ、ロアル、そして木彫りの兎である。
六人と一体の中心には、古びた竪琴が置かれていた。
「エヴも埋葬して、大団円と行きたかったが。貴殿らはカササギ村に帰りたいという」
「はい。帰らなければいけません」
ヨナーシュが言うと、ラッタリッタは難しい顔で髭を撫でた。
「しかし、肝心の竪琴が壊れていては」
「その竪琴が、鍵なんですか?」
レオナルドの問いに、「そうとも」とラッタリッタは頷いた。
「三百年ほど前のことだ。ひとりの人間が、『外』とこの世界をつなぐ道を創った。世界のどこにも存在しない道だ。一年のうち七日間だけ、この竪琴の音が道を作る」
「そんなに大事なものを、どうしてエヴが」
「イワサザイ村……エヴが生まれた村の人間が管理していたから、不思議ではない」
しかし、とラッタリッタは首を横に振った。
「百年ほど前。イワサザイ村とカササギ村の間でいさかいがあった。神はそれに怒り、竪琴を破壊され、道は閉ざされた……と伝わっている」
「ふむ。どうだ?」
スカーレットの襟から、エストレーラが顔を出す。ラッタリッタとヨナーシュが、ぎょっと目を丸くした。
「壊したのは俺様たちではない。人間だ。俺様たちは欠片を拾い集めて、その形に直したんだ。なのに弦が一本、なくなってしまった。……と聞いている」
「だ、そうだ」
「そ、そうか……では、イワサザイ村の人間が、弦を盗んだと?」
「さてなぁ」
木彫りの兎が震え、首を振って耳を立たせる。
『つまり弦さえあれば、道は作られるんだな?』
「兎……だが俺様たちが毎年毎年探しているのに、どこにもないんだぞ? 今年だって俺様がカササギ村を探したとも」
『人間の視点でこそ見えるものもあるだろう。僕は子供たちと、こちらで弦を探そう』
レオナルドは思案するように、唇に指を充てる。
「あのぅ。新しく弦を作る、とかはいけないんですか?」
「……難しいな。術者が去り、弦を失ってなお、エヴを眠らせる……エヴの呪いを一時弱める力を持っていた。それほど強力な魔道具に見合う弦を作るのに、三日は短すぎる」
「作るか? 時間」
スカーレットを見上げ、エストレーラは指をくるくるとさせる。
「五年でも十年でも。隠者のように空き島に住めば、今に帰ってこられるはずだ」
「でもそんなに時間をかけたって、使えるかどうか分からないんだろう?」
ロアルの言葉に、スカーレットとクリフは難しい顔で頷く。ロアルは仮面の唇に指をあてた。
「ふむ。その神様の『時間を作る』って、どうやって?」
「過去に遡るということだ」
「……へえ。かの帝国ですら匙を投げた時間遡行か。しかし、その様子だとどうやら一方通行だね?」
エストレーラは唇を曲げて肯定する。
一同は押し黙る。ラッタリッタが全員の顔を一度見て、咳払いをした。
「では現状、可能な手段は三つであるな。弦の捜索。弦の作成。それと、魔術師殿たちによる、新たな道の作成」
「いいや、四つだ」
ロアルが指を立て、前かがみになった。
「百年前。壊れる前の竪琴と、この竪琴を取り換えっこする」
スカーレットが目を丸くして、ロアルを見た。ロアルは、スカーレットの肩へ顔を向ける。エストレーラはさっと襟の後ろに隠れた。
「隠者のように、ということは。百年前から現在まで、誰にも見つからなければいいんだろう? そしてここに都合よく! 飲まず食わず休まずで、動き続けられる奴がいる」
「ふざけんな」
間髪入れず、クリフが吐き捨てた。怒気を押し殺した震え声だ。
「でも、確実だろ?」
「確実かどうかはお前による。私も賛成しない」
「おや。スカーレットさんはこちら側だと思っていたけど」
ロアルは首を振り、レオナルドたちへ意見を求める。
「僕は……賛成はできません。ただ手段としては、確実性は高いかと。ヨナーシュさんはどう思われます?」
「聞いてくれるなよ。なんもかんも素人の田舎もんだぜこっちは」
木彫りの兎はじっとロアルを見上げ、ラッタリッタは腕を組んで黙っていた。
再び沈黙が訪れる。クリフは眉間にしわを寄せ、苦虫を嚙み潰したような顔になっていた。
期限は三日、提示された方法は四つ。
まず、失われた弦を探す方法。しかし、幻想種が百年探して見つかっていない事実からして、あまり現実的ではない。
次に、失われた弦を作る方法。三日ではとても足りず、数年かけたとしても使えるかどうかは分からない。これもあまり現実的ではない。
そして、新しい転移魔術を組む方法。これはクリフとスカーレット次第である。
最後が、百年前の竪琴と入れ替える方法。弦を失っていない竪琴を、ここに持ってくるということである。
「……クリフ」
「お前さ」
思案を巡らせていたクリフは、三度同じ結論にたどり着き、目を開いた。
「俺たちがどれを選んだか、もう分かってんだろ?」
ヨナーシュだけが、驚いてロアルを見る。スカーレットは立てた膝に腕を乗せ、首を横に振った。レオナルドも沈鬱な表情で俯いている。ラッタリッタは変わらず、目を伏せていた。
「……えっと、どういう……」
「昔の幻想種は、壊れた竪琴をかき集めてこの竪琴を作り直した」
クリフは竪琴を取り、ぴんと張られた弦に指を当てる。
「だが弦が足りない。探しても探しても見つからない。……どうしてだと思う?」
クリフはヨナーシュを見る。分からない、とヨナーシュは首を横に振った。
「壊れる前から、弦がなかったんだよ」
「…………」
ヨナーシュはゆっくりと、クリフ、レオナルド、スカーレット、ラッタリッタ、そして木彫りの兎へと顔を向けていった。
「……まだ分からねえんだけど」
「つまり、ボクは今から百年の旅路に出ると決まっていたのさ!」
跳ねるように、ロアルが立ち上がる。
「そうと決まったらさあ行こう。すぐ行こう。長殿、ついでにロップロップも連れて行っていいかい?」
「構わないが……」
ロアルはクリフの手から竪琴を、スカーレットの肩からエストレーラを引っさらった。そのまま五人と一体を置き去りに、ロアルは日向へ駆け出す。
「ではでは諸君。百年後の今日でまた会おう。夕飯前には戻ってくるよ!」
「ロアル!」
座布団を蹴り、クリフは裸足でロアルを追った。
「何さ。止めないよね?」
「止めても無駄だろ。だから言うけどよ」
手を伸ばしても届かない距離で、クリフは足を止める。朝日を受けて、ロアルの仮面の、銀色の蝶が光っていた。
「必ず見つけるから、負けんなよ」
朝の陽ざしは、蝶の銀色と混ざって金を帯びる。無いはずの胸に息が詰まったようで、ロアルは用意していた言葉を飲み込んだ。
光の中、クリフは一歩、ロアルに近づく。ロアルは一瞬俯いて、
「……あはは! 君ってば、本当に格好いいんだから!」
できる限り嘘っぽく、笑った。
からかうなと言うクリフに背を向けて、湖畔のロップロップを回収する。いくつもの足音が、自分を見送りに来ているのが分かった。
「それじゃあよろしく、神様」
「……いいんだな」
「ああ、もちろん君も付き合ってくれるんだろう? 百年」
ロアルにエストレーラの表情は見えない。だが白銀の輪郭が、少し嫌そうに揺れた気がした。




