15‐1)夢でさえも叶うなら
時を遡る。それは、誰しも一度は願い、夢を見る行為である。
不可能だからこそ憧れる。かつて科学と魔法を手に入れた人間は、当然のようにこの永遠の命題に挑み、惨敗してきた。
余白の最終定理は証明され、空に浮かぶ月の裏すら暴かれていた時代である。生物であれば逃れられない、時間という最大の理に手をかけるのは、人類の夢でもあった。
仮説。反証。実験。繰り返された試行錯誤は少なくない犠牲を生み、いくつかの研究チームは共通の答えを出した。
すなわち、人類が存在する世界における時間遡行は不可能であるということ。
「まさか、そんな架空を体験できるなんてね」
ずいぶん昔の知識を辿り、ロアルは小さく笑った。
百年前のイワサザイ村は活気があった。異邦の商人が市を開き、小高い岩山の上に舞台ができている。その岩山のふもとに、黄緑色の扉が作られていた。
ロアルはロップロップに竪琴を握らせ、胴体の中に収める。
「もう少し頑張っておくれよ」
屋根の上に伏せ、ロアルは夜を待った。
「なんでそいつを連れてきたんだ?」
ロアルの前に、エストレーラが下りてくる。
「百年くらい眠れば、彼も元気になるだろう?」
「そりゃあそうだが……」
「ボクはね、悲劇にはハッピーエンドが欲しいんだ」
ロアルは仰向けになり、喧騒を聞く。その中に、知った声が一つあった。
「……まして、その悲劇の引き金を引くのが、ボクだったんならね」
知った声は、若い女の声と話している。すぐに追いつくから。先に行っているように。ぐずる子供の声を、明日にはいい土産を持っていくからとなだめすかして。
(……ああ、嫌だ)
もうじき夜が来る。自分が竪琴をすり替えれば道は閉ざされ、エルフの父と人間の母子は永遠に引き裂かれてしまう。
けれど、そうしなければならない。過去の出来事は変わらない。その過去と、ロアルが旅立った現在が地続きである限り。
変えられるのは、過程だけだ。
「ねえ、神様」
「?」
服越しにロップロップを撫で、ロアルはエストレーラを見下ろす。
「ちょっとお目こぼし、してくれない?」
エストレーラは腕を組み、眉間にしわを寄せた。
不思議な夢を見た。
ロップロップは眠っていた。程よく温かいが、よく揺れる寝床だった。目を開けるのも難しいほど、全身が疲れきっていて、夢の中だというのに息をするのがやっとだった。
竪琴の音が聞こえる。それが、ロップロップの目を醒まさせた。瞼を開くと、白と緑が入り混じった、光の道の中にいた。まだ半分眠っているような、夢の中独特の意識でロップロップは立ち上がり、誰かに手を引かれて歩き出した。
ずいぶん昔、同じ場所に来た気がする。しかし思い出そうにも、意識に靄がかかったようだった。どろんとした眠気が絶えず、頭の芯を支配しているような。
冷えた空気が頬を撫でる。ざざ、と、砂がこすれあうような音がする。
(……海の音だ)
眠たくなって倒れそうになると、手を引いていた誰かに肩を叩かれた。
「君の奥さんを、紹介してくれる?」
意識が覚醒する。
吹き抜ける夜風が、ロップロップの背を押した。
「……え?」
潮の匂い。砂と水の感触。空に浮かぶ、青白い月。
カササギ村だ。
竪琴の音が聞こえる。何故とも思わないまま、ロップロップは走り出した。まだ体は重い。だがそれが何だという。
夢か幻か。夢でもいい。幻でもいい。今、自分はカササギ村にいる。この感覚だけは本物だ。
見慣れた道を走り、見覚えのある角を折れて、知っている家にたどり着く。木戸は軋みながら押し開けられた。窓から差し込んだ月明かりに、三人の寝姿が浮かび上がる。
「……サルビア、カメリア」
ふらりと近づく。呼吸が速くなっているのが分かった。膝をつき、腕をいっぱいに伸ばして、ぎゅう、と二人を抱き寄せる。
よく知っている感触だった。よく知っている体温だった。もうとっくに消えてしまったと思っていた記憶が、大波のように蘇ってくる。
「ごめんな……ごめんなぁ」
震える息を一つ吐くと、あとは涙しか出なかった。
道が閉ざされたと知ったあの日。言い争う人間たちに割り行って、どういうことだと怒鳴り散らした。諦めきれず、道を探してほうぼうの島を訪ねて回った。人間の魔術にも手を出した。春が来るたびに娘の齢を数えていた。その数が人間の寿命に近付いて、数えることをやめてしまった。
少しずつ、思い出は遠くなっていった。長い長い一生の、ほんのしばらくの道連れ。たった数年の記憶を抱きかかえているために、いろいろと犠牲にしたものだ。
こんな夢を見ることも、もうないと思っていた。
「……あなた?」
声に、はじかれたように顔を上げる。ああ、ああそうだ。彼女はこんな声だった。
「どうしたの? 明日の朝、来るって言っていたじゃない」
「……、」
話したいことがたくさんある。言わなければならないこともたくさんある。だというのに、喉からは嗚咽しか出てこない。
「サ、ルビ、ア」
ようやく、名前が呼べた。月光の中で、琥珀色の瞳が微笑んでいる。ああそうだ。彼女はいつもそうして、愚鈍な自分を待ってくれた。
「……どうしたの、ロップロップ」
何かを、言わなければ。重たくなる体の中で、ぐるぐると思考が巡っている。
もしも。
もしも過去に戻れたのなら。二度と会えないと知っている自分が、妻に何を言えばいいのか。
二度と会えないならば死んだも同じだ。未練を残すようなことを言って、彼女の傷を増やすのか。
(ああ、最低だ)
会いたかった。声を聞きたかった。いずれ時間に引き裂かれても、最後までその笑顔を見ていたかった。彼女にも、そうあって欲しいと願っていた。
(……これはエゴだ)
忘れてくれ、とどうしても言えない。自分に囚われてくれたらと願っている。短い命が終わるその日まで、明日になれば会えるかもしれないと期待してほしい。自分だって数十年、諦められなかったのだから。
こんな執着を、愛だなどと言えるものか。
「……少し、遠くへ、行くから」
ゆっくりお眠りと、柔らかな頬を撫でて。
「戻ってくるまで……、元気で」
ロップロップは微笑する。震える言葉に、願いを乗せる。
どうかその命が、健やかであるように。
どうかその運命が、穏やかであるように。
「…………うん」
静かな寝息が聞こえてくる。ロップロップは懐を探り、そこから一つの鏃を取り出した。まだ飾り彫りを施しただけの、刃のない石の欠片だ。震える指で、それを妻の手に握らせる。
(ああ、もう……夢が終わる)
また、どろりとした眠気が襲ってくる。目を閉じれば、二度とここには戻ってこられないと分かる。
妻の首と娘の額にキスをして、ロップロップはそのまま体を横たえた。
ロップロップを右腕に、弦が十九本揃った竪琴を左手に、ロアルは夜の道を走った。
イワサザイ村には、弦の足りない竪琴が残っている。既に道は閉じ、朝が来れば騒ぎになるだろう。その前に、この竪琴とともに、見つからない場所に隠れなければ。
「さて、どこにしよう」
イワサザイ村のある島から、ワイヤーを滑り降りてエルフの島へ。湖の水平線が、もう白み始めていた。少しのんびりしすぎただろうか。
「あの湖の近くがいいな。ロップロップも、それなら早く元気に……」
森を抜けたところで、ロアルは足を止める。少し先を飛んでいたエストレーラが、怪訝な顔で振り向いた。
「……見つからない、場所」
ロアルの腕の中で、ロップロップが顔を上げる。震える手が、ロアルの外套を握りしめた。
「夢の礼に、教えてやる」
絞り出すような、感情を押し殺した声だった。
「……あはは。それは、ありがたいなあ」
夜が明ける。藍色だった空が橙色に染まり、島の影はより濃くなった。水平線の果てから現れた太陽が、目覚めの時だと世界を照らす。
静かな暁の中、ロアルはまっすぐに、ロップロップが示した方角へと走った。
百年の鶴首がやってくる。
暗闇で、竪琴の音が反響する。
「ロップロップ。……ああ、もう寝たんだね」
沈黙に飽きて呼びかけ、またロアルは口を閉ざす。
ロアルの視界では、薄緑に色付いたロップロップの輪郭と、白いエストレーラの輪郭がはっきり見えていた。エストレーラはロアルの膝に乗り、小さな足をぱたぱたとさせている。
「君も暇なのかい」
「うん? ああ……そうだな」
「それじゃあ、君が話し相手になってくれると嬉しいな」
「庭師もそれを言っていたな」
エストレーラはひょいと立ち上がる。
「人間は、寂しいと死ぬのか?」
「まあね」
「ふうん。難儀な生き物だ」
ロアルは笑う。
「君たちだって、寂しいから、この箱庭を作ったんだろう」
「………………」
しばらく黙ってから、エストレーラはロアルを見上げる。
「ああ、そうかもしれないな」
二人が黙り、暗闇にまた竪琴の音だけが響く。
「何を話そうか」
「俺様には話せることはないぞ。ここに来るために力をたくさん使ってしまった。俺様たちの声も聞こえないし、俺様は生まれて数か月だ」
「そう。じゃあボクが話そう。昔、たくさん、たくさん本を読んだからね。けれど、百年となると、さすがに時間が勝りそうだ。……まあ、きっとクリフがボクたちを見つけてくれる。その日まで、のんびりお話していようか……」




