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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第四章 浮木と楔
43/61

9)ひとりぼっちの喘鳴

 夜半過ぎ。大穴からの脱出は順調に進んでいた。あれほど渋っていたヨナーシュも、今はせっせと滑車の準備を手伝っている。

 大穴の底から出口への道は、大きな蔓で編まれていた。元冒険者たちが各所で手を引き、木登りに慣れていない女たちを引っ張り上げる。

 頂上付近の葉に立ち、ロアルは剣を抜いていた。その隣にしゃがみ、ロップロップはロアルを見上げる。


「殺気引っ込めろよ。このペースなら夜明けまでに全員連れだせる」

「懸念事項は解決していないからね」


 二人の視線の先には、エヴの寝床があった。入り口となっている枝に腰掛けているのは、レオナルドだ。竪琴を爪弾きながら、レオナルドは何かを歌っている。


「あの魔術師の弟だっけ? すげぇ度胸」

「うん。ボクもその点は、彼を評価する」


 あの歌と竪琴が、エヴを眠らせているらしい。


「んで、あの魔術師には今何やらせてんだ」

「迎撃準備。備えあれば患いなしってね」


 最後の一人、足の悪い男を背負って、フォレイルが登ってきた。一足先に外に出たアルグレッドが、手を差し出している。


「もういいな」


 ロップロップは穴底へと弩を向けた。

 放たれた矢が、篝火を倒す。ゼオルドが撒いた油に火が付き、蔓の根元に引火した。


「先に出てろ。あいつを回収していく」


 ロップロップは木の根を足場に、レオナルドに駆け寄った。

 穴から出てさえしまえば、あとはエルフの村まで連れて行くだけだ。険しい道中でもない。案内人に、村から戦士を数人借りてきている。

 ロップロップにとってはヨナーシュたちの救出よりも、優先すべき事項があった。


「神器……!」


 レオナルドの手にあるのは間違いなく、探し求めた、神の竪琴である。

 ロップロップは、手のひらを下履きにこすりつけた。目をらんらんと光らせるロップロップに気づき、レオナルドが顔を上げる。


「こっちに来い。それを持って!」


 ロップロップが手招きすると、レオナルドはロップロップの足場を見た。壁を這う木の根は、レオナルドが歩くには少々狭い。


「ちっ、お前もどんくさか。引っ張ってやるから。速く!」

「できない」


 震える声で、それでもきっぱりとレオナルドは言った。


「……は?」

「できない。僕がそちらに行ったら、エヴが起きる」


 レオナルドの手はなお、ゆっくりと曲を弾いている。場違いに優雅な音楽が、ロップロップを逆撫でした。

 たった一歩、レオナルドがこちらに来るだけでいいのに。


「出口まですぐそこだ。エヴはこの穴を出られないし、金髪の魔術師も準備をしてる。逃げ切れる」

「彼に距離は関係ない。だから」

「じゃあお前はどうやって助かるんだよ!」


 壁から根を生やし、ロップロップはレオナルドの腕をつかむ。


「お前を連れ帰ることが条件なんだよ。速く来い!」

「あ、ちょっと!」


 レオナルドの指が、弦から離れた。

 きぃん、と甲高い音が響く。思わず耳を押さえ、ロップロップはよろめいた。レオナルドは後ろを振り返り、顔色を変える。


「……にーさん」


 絞り出すような声は、壁を這いずるようだった。ぬうっ、と、白い骨のような手が伸びてくる。暗い穴を、銀色の光が照らした。


「誰と、話している?」


 エヴは両手で枝をつかみ、ぬるりとレオナルドに近づいた。


「……エヴ」


 エヴの両腕が、レオナルドを引き寄せる。


「ずいぶん静かだ。いない……いない、いない」

「エヴ」

「にーさんしか、いない」


 緑色の目が、ぶるぶると震えた。


「エヴ、落ちつい、落ち着け。僕は、ここにいるから」


 レオナルドはエヴを引き寄せ、骨の浮いた背中を撫でる。ロップロップは竪琴を片手に、じりじりと後ずさった。右手が、腰の弩に伸びる。

 エヴの目が、ロップロップを睨みつけた。


「っ!」


 破裂音とともに、弩が内側からはじけ飛ぶ。同時に発射された矢は、空中で不可視の壁に激突した。


「返せ」


 エヴが、ロップロップに手を伸ばす。その手を、レオナルドがつかんだ。


「ジャックさん、退避を!」

「だけど」

「速く!」


 レオナルドはエヴを抱き寄せ、青白い顔になる。レオナルドの腕の中で、エヴは喉からうめき声を漏らした。指先が、レオナルドの肩に食い込んでいる。


「返せ、返せ、返せ返せ返せ返せ! 僕のだ。僕のかぞくだ。僕のともだちだ! 奪うならお前たちからだって奪ってやる!」

「エヴ!」

「あああ嫌だ、嫌だ誰もいない、いない、いない! 返せ、返せよぉ! 何もないのに、僕には何もくれなかったくせに!」


 駄々っ子のように喚き散らし、エヴは何度も床を蹴った。

 ロップロップは根の上を走り、レオナルドの襟に手をかける。しかしエヴの腕ががっちりと、レオナルドを引き寄せたまま動かない。


「速く逃げろって言ってんですよ!」


 レオナルドが声を荒げた。鋭い声にロップロップが怯んだ瞬間、ロアルがその首根っこを引っつかむ。


「ううヴ、うああぁあああああああああああああああああああーっ!」


 エヴの叫びに伴って、光輪がひときわ激しく輝いた。




 脱出する一同のやや上空に、クリフは浮遊していた。両手で杖をにぎり、口の中で絶えず呪文を重複詠唱している。


(やっぱりこの結界、ゆるんでる)


 空間を断絶する結界は、大きく二種類ある。対象を包み込む箱型のものと、通路を塞ぐ扉型のものだ。エヴを閉じ込めていたのは、扉型だった。ラッタリッタ曰く、五年前、この村を訪れた『琥珀色の目の占い師』が、エヴをここに閉じ込めたらしい。


(それが本当なら、相当な手練れだろうに……どうしてエヴを生かした?)


 魔術の解析というのは本来、時間がかかる行為だ。スカーレットのように、見えない魔力を視覚化するのは高度な技術である。

 ロップロップたちと廃村に戻り、ひと眠りしてから現在まで、クリフはほとんど休まずに解析魔術を回していた。月が昇り始めたころに、これは明け方までかかるかもしれないと思ったが、明日の昼になっても終わりそうにない。


(現代魔術から古代魔術まで、ありとあらゆる魔術と呪術が何重にもかかってやがる。しかも、これ、全部……エヴに……)


 耳鳴りがして、クリフは目を開く。すでに月は高く昇っていた。

 軽やかに飛び回っていたエヴを想起する。あの細い肉体に、いったいどれほどの術が刻み込まれていたのか。重苦しい鉄鎖のように、幾重にも、幾重にも、幾重にも。


(…………)


 浮かんだのは、『可哀想』という言葉だった。口に出せば安い同情かもしれないが、エヴの肉体は間違いなく、他人に押し付けられた術に蝕まれている。それが可哀想でなくて何なのだ。

 救えるだろうか。


「……さすがに、傲慢か」


 ロアルが、ロップロップを引きずって穴から飛び出してきた。クリフは杖を左手に、ゆっくりと息を吸う。

 地鳴り。触れていないはずの足に、その振動が伝わってくる。どたばたと穴から離れるロップロップが、クリフを見た。


(破れる)


 岩肌を亀裂が走る。小さな穴を起点に広がったそれは、瞬く間に崖の上まで到達した。クリフは空中で体を固定し、杖を弓のように構える。


「【閃光(スパークル)】【弓矢形態(タイプ:アロー)】」


 親指に弦を引っ掛け、引き絞る。矢の数は四。

 轟音を轟かせ、結界が内側からはじけ飛んだ。岩山が振動し、内側に崩れ始める。土煙の中に、光輪が見えた。

 クリフは矢を放った。魔術で編まれた矢は土煙に飲み込まれ、炸裂することなく消滅する。


(やっぱり対魔術対策はあるか)


 注意は引けたはずだ。急降下し、クリフは次の魔術を準備した。

 岩山は、廃村にある家の三倍ほどの高さだった。エヴが結界から出ると同時に、支えを失ったように崩れ、土煙が舞い上がる。だが、下方にあるはずの大穴に飲み込まれることはなかった。体積だけで言えば、岩山が三つは入るほどの空間があったはずなのだが。


「退避ーっ!」


 そんな疑問を投げる間もなく、ロアルは村人たちを追い立てる。ロアルの視界には、赤い結界が打ち砕かれる様がはっきりと見えた。その向こうから、光の塊――エヴがやってくる。

 土煙を突き破り、エヴが飛んできた。最後尾を走っていたロップロップが、ひゅんっと息を飲む。エヴはその頭上を通り過ぎ、一行の先頭、ヨナーシュの前に降り立った。


「まずい」


 ロアルが飛び上がり、木の枝を足場に前へ出る。

 廃村から島の端まで、まだ少々距離がある。ここでパニックでも起こされたら、収拾がつかなくなる。

 エヴは足を、ヨナーシュの肩に乗せた。顔を青くし、ヨナーシュは足を止める。

 近くで顔を見るのは久しぶりだった。だが忘れようもなくはっきりと、その鮮やかな緑の瞳はヨナーシュの脳裏に焼き付いている。


「どこに行く?」

「……エ、ヴ……」


 目の前に、エヴがいる。その足が肩に触れている。指先一つで、自分達の生活を何もかも変えてしまった存在が。


「壊れてしまった。お前たちの居場所が、ようやく形になったのに」


 エヴは詰問するような、厳しい口調ではなかった。淡々と事実を述べたうえで、純粋に疑問を投げつけている。


「何がいけない? 何が欲しい? 腹が減るなら飯をやる。眠りたいなら寝床をやる。何が欲しくて逃げ出した?」


 ヨナーシュの膝が笑っている。隣のアルグレッドが、ヨナーシュの腕をつかんで立たせていた。


「……か」

「あ?」


 蒼白な顔で、震えながら、ヨナーシュはエヴを見上げた。


「家族に、会いたい」


 ようやく、言葉を絞り出す。エメラルド色のエヴの目が、いっぱいに見開かれた。

 数秒の沈黙。


「…………い」


 エヴのか細い声が、薄い唇から零れ落ちる。


「ずるい」


 自らの頭を引っ掻きながら、エヴは呻くように吐き出した。


「かぞく? 家族。家族! そうかいるのか、いいなぁいいなぁ羨ましいなあ! 会いたい家族がいるなんて!」


 指先が頭皮を削り、エヴの額から頬まで血が流れ落ちる。

 背負う光輪が明滅する。エヴの感情と一緒に揺れているようだった。今にも倒れそうなヨナーシュを支え、アルグレッドは剣に手をかける。


「羨ましいから、俺に」


 孔のある手のひらが、ヨナーシュの頭へと伸びる。ヨナーシュは身を縮め、ぎゅっと目をつぶった。


「させるか!」


 ロアルの蹴りが、エヴを横から襲った。


勇者君(ジャルター)走れ! クリフの結界の外まで!」

「お、おう!」


 吹き飛んだエヴは、木に激突して墜落する。ロアルはそれを追いながら、ブーツを引っこ抜く。内側に、ロップロップの矢が固定されていた。


「しっぽ君!」

「お前その呼び方やめろ!」


 木の枝を足場に、ロップロップが追いついた。ロアルはエヴの胸ぐらをつかみ、そのまま木の幹に押し付ける。


「お前、」


 エヴの指先が、ロアルの仮面を弾いた。ロアルは構わず、握りしめた矢をエヴの胸に突き立てる。肋骨の隙間、肺と心臓のある、人体の急所だ。矢の先端が、木の幹にめり込む音がした。


「リリム・エシャ・ルリパット!」


 ロップロップが命じ、周囲の木々がその号令に従う。枝葉が瞬く間に伸び、隆起した根が絡み合った。エヴの四肢が、伸びた枝に捕らえられる。

 抜け出そうとするエヴの口に、ロアルが片手を突っ込んだ。そうして舌を抑え込みながら、もう片方の手では喉をつかんでいる。

 ものの数秒で、木々の枝葉は卵型の空間を作り出していた。中心にいるエヴは、さらに多くの枝と蔦で動きを封じられる。


「クリフーっ!」

「わぁってるよ!」


 杖を片手に、クリフが隙間から飛び込んできた。


「【落睡(スリープ)】【麻酔(アナスセティク)】【魔封じ(エタセタ)】【反転(リベル)】、【顕現せよ(アヴリオ)】!」


 重ねた魔術を、まとめてエヴに撃ち込む。血の泡を吐きながら、エヴはクリフを睨みつけていた。

 エヴの光輪は、それそのものが実体のない魔道具に近い。エヴへの魔術攻撃を無効化すると同時に、エヴの思うまま、攻撃や移動ができる。一方で物理的な攻撃には無力だ。クリフがスカーレットを庇うため、エヴを突き飛ばせたように。

 ならば、ロアルとロップロップが力づくで動きを止めさせ、クリフが光輪の効力を中和する。そしてその隙に意識を奪い、拘束する。一から十まで力技だが、細やかな作戦を練っている時間などなかったのだから仕方がない。


『力押しは正道だよ。圧倒的な地力の差を見せつけることこそ、相手の気持ちを折るのにいいんだ。五人の精鋭より、百人の兵隊を準備できる軍のほうが勝つに決まっている』


(あいつのたとえ話はよく分からねぇけど)


 戦時を生きたロアルがそう言うのだから、そうなのだろう。


「【(セット)】!」


 クリフは強制昏倒の魔術を重ね、エヴの頭を鷲づかみにした。


「寝ろ。眠れ。頼むから眠ってくれ!」

「う、うぅう、うあああああ」


 傷に手が触れ、ぬるりとした血の感触がする。


「しっぽ君、次の矢は!?」


 ロップロップは矢筒に手を伸ばし、ぎゅっと眉間の皴を深める。


「虎の子しかない。魔術師!」


 クリフは息を吸うと、額をエヴに打ち付けた。


「寝ろ!」


 ゼロ距離での直接の魔術行使。緊急治療の魔術でもそう使わない最終手段だ。クリフの体で編まれた魔術が、そのままエヴへと流れ込む。


「いぃ、いたい、痛い、いやだ、やだ」


 枝を引きちぎり、エヴの手がクリフの頬にかかった。


「にーさん、どうして」


 爪が、一文字の傷を作る。クリフが額を離すと、緑の目に金色の光が浮かんだ。

 瞼が落ち、エヴの手から力が抜ける。がくりと、首が前に垂れた。


「……死んだのか」

「これで殺せたら世話ねぇよ」


 立ち上がり、クリフは手のひらの血に視線を落とす。


「こいつ、死なない呪いがかかってる」


 事実、胸からの出血はすでに止まっている。呼吸も鼓動も確認できる。体温は元から低いようだが。


「ともあれ、丸二日くらいは寝てるはずだ。その間にカササギ村への道を作る」

「その前に」


 ロアルが、よだれまみれの指をクリフに突き付けた。


「君は休まないとね」

「……あと一仕事してからな。その前にお前は手ぇ洗え」


 杖を拾い、クリフは手のひらをズボンにこすりつけた。




 結界の中で、レオナルドは通信妖精を握りしめていた。半透明の結界は、大岩や土にすっかり埋まっている。

 エヴは、レオナルドを振り切って飛び出してしまった。その直後、周囲の岩壁が崩れてきたのだ。妖精が張った結界で、呼吸は確保できている。だが周囲を埋め尽くす土砂から出るすべはない。

 手袋の金具が、小刻みに鳴っている。

 妖精にこんな術まで仕込んでおいたのだから、兄が自分の無事に気付かないはずがない。だがエヴと自分では、エヴのほうが喫緊の課題だろう。

 自分は助かるだろうか。


(僕が、自力で脱出さえできれば)


 ただ救助を待つ間ほど、自分の無力さを噛み締める時間はない。

 魔法の才能がないと判断されたのは十三の頃だった。それから五年、思えば自分は、ない才能に安堵していたのだろう。魔術を磨き、王になるに相応しい才覚を持ってしまえば、いずれ王冠が頭に乗る。

 担ぎ上げるほど派手でもなく、前に立って導けるほどの素質もない。凡俗な自分に玉座が用意されていたのは、ひとえに王家の血筋であったからだ。

 だからこそ、(クリフ)と再会したときは安堵した。


(僕は、ひどいな)


 これも、走馬灯のようなものだろうか。

 膝を抱え、レオナルドは目を閉じる。


「……、」


 思考が途切れれば、途端に恐怖が蘇った。


「……兄上……」


 か細く、声が震える。

 その口元に、光が差した。


「呼んだか?」


 はっ、とレオナルドは顔を上げる。

 月を背負い、クリフが立っていた。




 朝日が昇るころには、一行はエルフの村にたどり着いていた。


「戻ったか、魔術師殿」

「は、い。ロップロップと、ロアルは、監視に残って……連れてきた、のが、三十……」


 言葉の途中で、クリフは倒れる。頭を打つ寸前で、アルグレッドが襟首をつかんだ。


「おい!」

「やれやれ。あの湖に浸してくるといい。他のものにも寝床を準備しよう」


 ラッタリッタが手を叩き、大木からゾロゾロとエルフたちが顔を出した。

 アルグレッドはクリフを担ぎ、湖へと走る。引きずられる杖の先端を、レオナルドが持ち上げた。


「兄上、兄上!?」

「うあ、う、るせ……」


 波打ち際に下ろすと、クリフの顔は鼻血と涙でぐしゃぐしゃになっていた。目は充血し、顔は蒼白だ。レオナルドとアルグレッドに服を引っぺがされ、そのまま波打ち際に寝かせられる。


「顔は横にしたしたほうがいいんじゃないですか?」

「窒息しそうだもんな。じゃあこっちの腕をこうして」

「……寒いんだけど……」


 当人の言葉は特に聞き入れられることなく、クリフは胸元までを湖に入れられた。


「お前、まぁた魔術で無茶したのか」

「うぅ……」


 ひどい耳鳴りと頭痛がする。完全に魔力過剰(オーバードーズ)状態だ。


「兄上のような魔術師でも、魔力酔いってするんですね」


 不慣れな手つきで、レオナルドはクリフの顔を拭く。使っている布が、真っ白な絹のハンカチであることを指摘する元気はクリフにはなかった。


「ここは、魔力が多くて……簡単に、大規模な魔術が、使える、から……気持ちワルイ」

「吐きます?」

「ギリ大丈夫……」


 寄せては引く湖の水は、クリフに触れると淡く発光した。水をもらってくる、とアルグレッドが立ち上がる。

 クリフの肩に外套をかけ、レオナルドは鼻を啜った。

 顔を上げると、東の空から朝がやってきていた。湖の中心で、大木が朝日を受けて枝を広げている。水平線が金色に縁取られ、波間に白銀の光が揺れた。

 光が当たると、クリフの呼吸が穏やかになる。


「……これは、できれば忘れてほしいんですけれど」


 一度目を伏せ、レオナルドはゆっくりと一つ、息を吐いた。


「僕、兄上に嫉妬していたみたいです」


 横目でクリフを見下ろす。クリフは目を開いていたが、口は挟まなかった。


「母上が亡くなって、兄上も遠くの国に行ってしまうとなって……アルグレッドさんも一緒に行くと決まって。僕にはゼオだけになってしまいました。……兄上、僕と最後に、何を話したか覚えていらっしゃいますか?」

「…………」

「その時に、僕、思ったんです。『ああ、もう生きていても何の意味もないんだなあ』って」


 カササギ村で、クリフが言い当てたように。レオナルドにとって、母も兄もいなくなった世界はすべてが他人事で、惰性で、どうでもいいことだった。

 王子だから生かされている。無才の木偶だろうと、愛想をふりまくだけの道化だろうと。皆が自分に期待しないのなら、自分だって皆に期待しない。

 国という巨大な機構の歯車の一つ。代替が効く量産品。ただ数十年後の歴史書に、即位の期間が記されるだけのお飾り。そうやって、自分の一生は消費される。

 それでも、王子としての務めさえ果たせるのならば、まだ自分に価値を見出せた。

 兄に、魔術の才能さえなければ。


「兄上が魔術を使えるから、僕、本当にお役御免になっちゃって」

「……レオ」

「でも嬉しかったんですよ。会えたのは。本当です。全部本当なんですよ」


 首を振って、レオナルドは空を仰ぐ。まだ淡い、朝の蒼穹だ。


「全部どうでもいいって、世界に絶望して。でも、兄上に会いたくて、国を飛び出して。会えて嬉しくて、でも、国に帰ったら、僕はもう要らないんだなあって。どうでもよかったのに、それが、悲しくて。帰りたくなくて……」


 だから、カササギ村に同行した。国を思うならば最も避けるべき、寄り道であるのに。

 クリフの手が、レオナルドの手の甲に触れる。レオナルドが見下ろすと、クリフはじっと、こちらを見上げてきていた。


「……兄上が、何かを気に病む必要なんてありませんよ。兄上こそ、大人の都合で振り回されたんですから」

「お前の話は分かった」


 クリフはレオナルドの腕をつかむ。そのまま、ゆっくりと体を起こした。


「今度は、俺の話を聞け」

「……はい」


 並んで座り、双子は水平線へと顔を向ける。金色の髪が、朝の風に揺れていた。水面を漂う靄が、その風にかき消されていく。


「十四歳の頃の話だ」


 しばらく黙ってから、クリフは口を開いた。


「俺は魔術学校で、体に魔術の刻印を入れ始める時期だった。魔術を簡単に使えるように、魔術師はみんな、体に術式の刺青をするんだ。それに先立って、全身の検査がされた」


 心臓のあたりに手を当て、クリフは目を閉じる。


「そこで、心臓に呪いの痕跡が見つかった。これを解かないで刻印を入れると不具合があるかもしれない。だけど心臓の結び目は記憶の蓋だ。嫌なことを思い出すかもしれない。俺は、記憶がないのなんて、エンデの村に着く前のことだから、解いてくれと頼んだ」

「…………それって」

「そして思い出した。俺がエルディンバルラの王子で、母親が死んでいて、父親に捨てられたこと。それから」


 二人の視線が交わった。


「大切な弟がいるってこと」


 息を吸う音が、やけに大きく感じられた。レオナルドは詰まった息を、倍の時間をかけて吐き出す。頬から耳まで、体が熱を持っている。手を当てずとも、心臓の拍動がはっきりと感じられた。


「お前にそっけなくした自覚はある。嫌だったんだよ。今更、お家騒動にでも発展したらって。俺は王子じゃなくて田舎の農夫で、魔術師で、冒険者だ。そう育ってきた」


 ゆっくりと瞬きを一つ。蜂蜜色の瞳が重なり、クリフは口元を緩ませる。


「でも、嬉しかったんだよ。俺だって。本当に」


 目じりが下がり、自然と顔が笑みを浮かべていた。


「だから、な? そろそろ、『兄上』ってやめてくれ」


 レオナルドは、泣き笑いのような表情になった。喉からは「へぁ」と間の抜けた声が漏れる。目元をぬぐい、レオナルドは肩を震わせた。

 湖畔を見下ろせる場所に、アルグレッドは座っていた。声を掛けようとしたゼオルドを片手で引き留める。


「なんだよ」

「野暮だっての」


 ふん、と鼻を鳴らして、ゼオルドはアルグレッドの隣に座った。


「あんたもクリフォードくらいお優しければな」

「そういう物言いは敵を作るぜ」


 ぶすっと唇を尖らせて、ゼオルドは頬杖をつく。アルグレッドは、エルフの族長から貰った果実を絞っていた。朝焼けのような橙色の果汁が、コップに溜まっていく。


「あんたは、記憶なくしたりしてないし。覚えてるだろ。あんたになついてた異父弟のこと」

「ああ、よぉく覚えてるよ」

「じゃあ、その……う、嬉しいとか、ないのかよ」


 ゼオルドの視線は、地面を向いていた。その横顔を見て、アルグレッドは目を細める。

 同じ髪色。同じ目の色。肌の色が違うのは、父親が違うからだろうか。顔もきっと、よく似ているのだろう。


「お前は、俺に会って嬉しくないんだろ?」


 ゼオルドが振り返る。ターバンが緩み、首に落ちた。


「だって、俺は……」

「でもあの坊ちゃんは、お前を傍に置いてるだろ」


 ゼオルドは苦虫を嚙み潰したような顔になる。


「さて、俺はあいつらを寝かしつけてくるとするか」


 アルグレッドは立ち上がりながら、乱暴にゼオルドの頭を撫でた。ゼオルドの喉から声が漏れる。

 坂を下る背を、ゼオルドは座ったままで見ていた。

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