8)二日目
エヴが目を覚ましたのは、昼過ぎになってからだった。
寝床には、連れてきた金髪の男だけがいた。手には竪琴がある。疲れているのか、目を閉じている。きょろきょろとあたりを見回し、エヴは首を傾げた。
金髪の男を揺り起こす。何と呼びかけようか、しばらく諮詢してから口を開く。
「にーさん」
目を覚ました金髪の男は、エヴの言葉に驚いたようだった。
「にーさん」
「うん……うん」
ふわりと『兄』が笑う。
「逃げてない」
「ああ」
両手で『兄』の頬を包む。夢でも幻でもなく、自分が望んだものがそこにいる。こちらに向かって笑っている。
抱きしめると、心臓の音がした。体温が感じられた。眠気はないが、もう少し眠れそうだ。『兄』の手が頭に伸びてくる。
エヴは目を閉じる。髪の先に触れるだけの『兄』の手が、上から下へと動く。
「僕はここにいる」
「……あ、あ」
存在を確かめるように、指先で『兄』の輪郭を辿った。速まっていた鼓動が、ゆっくりと静まる。
「大丈夫」
髪から頬へ、『兄』の手が滑った。エヴはもう一度、両腕で『兄』を引き寄せる。
「弾いて」
ねだると、『兄』の指が竪琴へと伸びた。
床から一度起き上がったエヴは、今度はレオナルドにもたれかかって眠っていた。体躯は大人だが、仕草は気まぐれな子供のようだ。
「…………」
レオナルドは小さな人形を取り出した。藁の胴体に木の枝を突き刺したそれは、レオナルドの吐息で跳ね上がり、姿を変える。竪琴を片手で爪弾きながら、レオナルドはそれを見上げた。
「兄上」
空中に、手のひらサイズの少年が浮かんだ。通信機能を兼ねた人造妖精である。
『無事か』
「ええ。兄上の首尾は?」
『上々』
小さな妖精は腕を組み、得意げな顔になった。
「僕のほうもなんとか。それで、ええと……」
隣のエヴを気にしながら、今朝からの出来事を説明する。クリフは邪魔をせず、頷きながら聞いていた。
『そうか。で、今エヴは……』
「僕の隣で眠っています」
『会話は可能そうか?』
「…………」
レオナルドはしばし押し黙る。
初めにレオナルドがエヴに対して感じたのは、強烈な違和感だった。
言動はちぐはぐで、非常に攻撃的であり好意的。超然としながら家族を求め、その原動力は単純な妬みである。
向かい合えば恐ろしさで体の芯が凍りそうになる。だが思い返してみれば、あの姿はあまりにも人間臭かった。
「少なくとも」
手袋越しに、エヴの髪に触れる。
「不可能と判断するのは早計かと」
『……そうか』
うーん、と妖精がうなる。兄によく似た顔だが、丸みを帯びていて幼く見える。
ややあって、はた、と気付いたように妖精が顔を上げた。
『竪琴持ってるって言ったか?』
「はい。古いですけど、音は綺麗ですよ」
レオナルドは竪琴を取り、弦を弾く。控えめに、だが十分澄んだ音がこだました。
「これを聞くと、エヴは眠ってしまうみたいです」
『あ~……えっと。悪い、五分後にもう一回繋げてくれ』
はい、とレオナルドが言う前に、妖精は人形に戻ってぱたりと落ちた。
きっかり五分待ってから、再びレオナルドは妖精を起動する。
『何とかまとまった。お前は体力温存しておいてくれ』
「はい。あの、この竪琴ってもしかして」
妖精が両手を前に突き出し、ぶんぶんと首を横に振った。言うな、ということだろう。
『まず、お前たちがいるその空間は、エヴだけを通さない結界がある。俺とスカーレットさんがどんなに頑張っても、二重の結界を越しての転移術はできない』
「つまり、皆さんを帰すためにはまず、ここから出なければいけないということですね」
妖精が頷いた。
『だが』
妖精の声音が変わる。
『エヴはそれを許さない。あれは独占欲が強いからな。玩具箱に何を入れたかは覚えていないくせに、目の前で逃げ出そうとすると大暴れする。そういう子だ』
鋭い目つきで言い、妖精は腕を組んだ。
「ジャックさんですね」
驚いたように、妖精は片眉を上げる。
「長耳の助力が願えるのはありがたいです。よろしくお願いいたします」
『よろしい』
偉そうに妖精が胸を張った。それからすぐに、クリフの表情に戻る。
『できる限りの準備はする。が……レオナルド』
「はい」
『エヴを頼む。実行は今晩だ』
頼むと言っているが、それはほとんど命令だった。レオナルドはゆっくりと頷き、微笑を浮かべる。
「それなら、僕にもできそうです」
隣で寝息を立てている青年は、鼻先をレオナルドの手にこすりつけていた。
午前の仕事を終え、アルグレッド、フォレイル、ゼオルドの三人は、ヨナーシュの家で昼食を受け取っていた。ほかにも数名、家を持たない人々が集まってきている。
「採掘組って、何を掘ってんだ」
「……分からない。けど、掘ると確かに、宝石のようなものが、出る」
「エヴがカササギ村に払ってたっていうやつか。だが……何のためにそれの手伝いを」
この穴底にいる人々にとって、エヴは仇であるはずだ。食料やらなにやらを与えてくる以上、命綱でもあるだろうが。
「働かなくちゃ寝れねぇのさあ」
薬缶を片手に、ヨナーシュが三人の輪に割り入った。
「昨日の今日では分からないだろうけどな。何のためにって言えば、俺たちが俺たちであるがためにだ」
三人のコップに茶を注ぎ、ヨナーシュは次の輪へと移動する。せかせかと動くその背を見て、アルグレッドは頬杖をついた。
活気がないわけではない。新入りである三人を抵抗せず迎え入れ、食料を分け与え、寝床を提供する。それができる地盤がここにはある。不自由でも、人里としての形を保っている。それはおそらく、並々ならぬ努力と試行錯誤の末に。
「……五年か」
だが一方で、ここに渦巻いているのは諦念だ。
この穴底での暮らしを快適にしようと汗を流す。争わないように、対立しないように細心の注意を払って、三十人近い人々は一つの集団を形成している。つかの間の休息に踊り、歌い、そしてまた手に手に自らの仕事を抱え、夜までの時間をすり潰す。
もう帰れないのだろうから。
『兄貴』
アルグレッドの高襟から、ひょこりと通信妖精が顔を出す。突然現れた小人に、ゼオルドが咳き込んだ。
「クリフか。元気そうだな」
『まあな。俺たちとレオナルドの状況言うから、共有しといてくれ』
通信妖精の小さな声は、かろうじてアルグレッドにだけ聞こえる。手早く昼食を流し込み、ゼオルドも妖精に顔を寄せた。レオナルドの無事を確認すると、ゼオルドはほっと胸を撫でおろした。
『で』
妖精は襟に肘をかけ、頬杖をつく。ぱたぱたと短い脚が襟の中で上下した。
『そっちには盾が三人。それだけいれば、何があっても大丈夫だよな?』
ゼオルドはアルグレッドとフォレイルを見上げる。二人は暫時顔を見合わせ、同時に笑った。
「「もちろん」」
二人の声が重なる。間に挟まれ、ゼオルドだけがぶんぶんと首を横に振っていた。
「何をする気だよ」
問うゼオルドの声は震えていた。妖精はにまにまと笑うばかりである。
こそこそと話し合う三人の背を、ヨナーシュが横目で見ていた。
アルグレッドたちがカササギ村から連れ去られ、二度目の夜が来た。
フォレイルが松明を掲げ、暗い道を穴の底へ向かって歩く。採掘組の仕事場は、露出した鉱石で淡く照らされていた。魔力を吸った鉱石特有の、柔らかで青白い光だ。
採掘場の松明に火を移す。隣で、ゼオルドは松明に油を継ぎ足していった。
「もっと派手な作戦かと思っていた」
「?」
不満げなゼオルドに、フォレイルは首を傾げる。ターバンの上から頭を掻き、ゼオルドは舌打ちをこぼした。
「何があっても、とかいうから、夜襲でもするのかと。夜に紛れてこっそり抜け出すなんて、誰でもできるじゃないか」
「でも、誰もやってこなかった」
ゼオルドがフォレイルを睨む。
「そりゃ、外に協力する奴がいなかったからでしょう」
「じゃあやっぱり、誰にでもはできない」
薄く笑って、フォレイルは最後の松明に火を着けた。
「……不満じゃないのか。こんなコソコソ、罪人みたいに逃げ出すの」
「君は、不満なのか」
「エヴに背を向けて逃げようってんでしょう? そりゃあ、モヤモヤするっつーか……クリフォードなら、どかーんっ! ってやっちまえそうなものなのに」
ゼオルドは拳をぐるぐると回した。フォレイルは火の始末をし、盾を置いていた場所まで戻る。
「俺の、仕事は」
ざっ、と、金属製の盾が重々しく地面に突き立てられた。
「護ること。俺にできるのは、それだけだし、人でもなんでも、傷つけるのは、いやだ」
「……はあ」
「ここには、三十人くらい、人がいる。戦えない人も、たくさんいる」
ゼオルドを振り返り、フォレイルはゆっくりと瞬きをした。色の薄い虹彩に、炎の揺らぎが浮かぶ。
「俺なら護れる」
「……だから」
「エヴを怒らせたら、護れない」
珍しく饒舌に、フォレイルは言葉を続けた。
「護るって、難しい。危機を遠ざけるのが、護ることなら。見つからないように逃げるのは、護るために、一番いい手段だと、思う」
「そりゃ、理屈は分かるけど……」
「クリフォードに頼るのは、簡単だ。言ったら多分、やってくれるし。でも、それって他力本願だ」
フォレイルが暗い空に向かって手を振る。ゼオルドはその背を見上げた。
「……他力本願」
責める口調ではなかった。ゼオルドが見る限り、フォレイルは人を言い負かすために言葉を使うタイプではない。
だからこそ、『他力本願』という言葉は、重い。
ゼオルドは足を止め、俯く。火の光で、足元には濃い影ができていた。
エスクード。そう名乗る以上、ゼオルドの仕事もまた、レオナルドを護ることである。そう言い聞かせられて育ち、そうなれるよう鍛えられた。人の護り方など知り尽くしている。
だというのに、何の教育も受けていないであろう冒険者の盾士に諭されるとは。
釈然としないまま、ゼオルドは最後の松明に油を足した。
隙間風で明かりが揺れる。
「手短に」
アルグレッドの向かいに座り、ヨナーシュは葉巻に火をつけた。広いヨナーシュの家だが、今は二人だけである。
「まず、新参者に時間を取ってもらえたことを感謝する」
「なんだよ水臭いな。ここに来たからには家族みたいなもんだ」
へらっ、と笑って、ヨナーシュは薄い煙をくゆらせる。
「俺から言っても効果がないので、あんたに動いてほしい。今晩、この穴から脱出する」
「……へえ」
何度か頷いて、ヨナーシュは水皿に灰を落とす。
「今朝がた脱出した仲間がいただろう。あいつらが、エルフ……ジャックさんのとこの族長と話をつけられたそうだ。もう一人がエヴを寝かしつけてる間に逃げ出す。夜明けまでには全員出られるだろう。ジャックさんとこで保護してくれる運びになっている」
「今から全員、叩き起こしてこいってか。そんで穴の底でコソコソしてるお仲間のところに行けと」
アルグレッドが頷くと、ヨナーシュは一度、大きく息を吸い込んだ。
土に囲まれた空洞の底は、小さな音がどこまでも響く。草の葉が擦れる音も、鳥の羽ばたきも、虫の羽音もしない。ちりちりと、明かりの芯が燃える音だけが耳に届いた。
ぽたり。煙草から落ちた灰が、水皿に波紋を作る。
「……なあ、アルグレッド。あんた、人を殺したことはあるか?」
俯き、ヨナーシュは額にこぶしを当てる。アルグレッドは黙って首を横に振った。
「じゃあ、近しい身内が殺されたことは?」
「……ない」
「暗闇しかない場所に放り込まれたことは? 飢えと渇きで気が狂いそうになったことは? 絶対敵わない相手に頭をつかまれたことは?」
顔を上げないまま、ヨナーシュはたたみ掛ける。
「ないだろう。ないよな。幸せそうな面しやがって。口の悪い剣士と態度の悪い弓使いと口がきけねぇでくの坊が、何を助けるってんだ」
憎々しげに吐き捨てて、ヨナーシュは煙草を揉み消した。
「帰れないんだよ俺たちは。故郷に帰れない。親にも子にも会えない。二度と。二度とだ! ここから逃げたからってなんだ。その先でだってよそ者じゃねえか! エヴにぶっ殺される危険を負って、またゼロからやり直せっていうのか」
「……だけど」
「あァあァうるせぇ、うるせえな! 何も知らねぇだろ、俺たちがどうやってここで暮らしてきたかなんて!」
ヨナーシュが立ち上がり、同時に、重々しい足音がアルグレッドの背後に迫った。
「和を乱すなよ、頼むから」
錆と刃こぼれの目立つ刃が、アルグレッドの首に触れる。じわりと、額に汗が滲むのが自分でも分かった。アルグレッドは一度まばたきをして、心臓を落ち着かせる。
息遣いと足音、そしてヨナーシュの目線からして、背後にいるのは四、五人。自分は座っていて、ヨナーシュ含めたほか全員は立っている。首の皮を犠牲にすれば、逃げ出すことくらいはできるだろうか。
ロアルなら飄々と、ヨナーシュを煽るのだろう。そのうえで全員を叩きのめす力と速度を、あの双剣士は持っている。
スカーレットならばどうだろうか。彼女も特別、焦りはしないはずだ。手の内に魔術を隠して、ぎりぎりまで交渉を続けるだろう。内心の有利を保ったまま、表向きは対等であるような口ぶりで。
アルグレッドにそんな実力はない。対等な話し合いというのは結局のところ、相手も交渉を望んでいなければ実現しない。そのための抑止として、力が必要だ。
アルグレッドは右手をゆっくりとにぎりしめる。手袋が鳴った。
ないものねだりをしている時間はない。
「俺たちは、ここに連れてこられる一日前に、カササギ村についた」
ヨナーシュたちとて、帰りたいに決まっている。必要なのは理由だ。恐怖を、のしかかった絶望を押しのけてでも帰らなければと思わせるような。
「生き残りは子供十人。大人……年寄り連中は全員、病で死んでいた」
「……は」
「今あの村に、大人は一人もいない」
もとから人里の少ない春寄谷でも、カササギ村は特に辺鄙な場所にある。そこに村があると知っていなければ、商人も旅人も来ないだろう。
ソルードを残してきたのは、それが理由でもある。レオナルドとゼオルドが残る予定ではあったのだが、それもできなかった場合の保険として、ソルードには、子供たちと【秘密箱】に入っておくように言っていた。火起こしも簡単な煮炊きもできるソルードと、絶対安全な【秘密箱】があれば、しばらくは生き延びられる。少なくとも、出入りしていた商人がやってくる程度の期間は。
だが、ヨナーシュはそのことを知らない。
「……ティタ」
ヨナーシュの声は震えていた。瞳が揺れ、見開かれた目にアルグレッドが映らなくなる。息が荒くなり、肩が上下した。指の間から、煙草の燃えさしが零れ落ちる。
「ヨナーシュさん」
刃を押しのけ、アルグレッドは立ち上がった。
「俺たちは行く。帰る手段なら、うちの義弟たちが見つけてくれる」
ひるんだように、ヨナーシュは半歩引いた。
「あんたたちは、どうする?」
耳鳴りが、仮眠からスカーレットを覚醒させる。
エヴの寝床から抜け出して、半日ほど経っただろうか。廃村の木陰から空を見上げ、スカーレットはその眩しさに目を細めた。
スカーレットが【周遊する異界】に突入した元々の目的は、曾祖父の縁者を探すことである。だがエヴの所業を見せられては、放っておくのも寝覚めが悪い。
廃村と人頭果の林には、数人分の足跡が残っていた。大きさからしてクリフとロアル、トート、そして一回り小さいのはジャックのものだろう。
(……ジャックはエルフだったか)
レオナルドから話は聞いている。だがアークリヴァルティで、エルフは千年以上前に姿を消した種族だ。現代では存在そのものを知らない人間も珍しくない。
スカーレットの曾祖父がエルフだったとして、この閉ざされた世界とカササギ村を、どうやって行き来していたのか。
「……【簡易工房】」
比較的無事な廃墟に結界を張る。頭の中で整理してみると、状況はなかなか面倒になっていた。
曾祖父の血縁を探せたとして、探した後は帰還しなければならない。
帰還するには、カササギ村への転移ができなければならない。
カササギ村へ転移するには、その土地に縁の深いカササギ村の住人が一緒のほうが都合がいい。一人二人だと後が怖いので、全員。
全員を転移に巻き込むには、エヴが邪魔だ。
エヴをどうにかするには、エヴが使う魔術を理解しなければならない。
エヴの魔術を理解するためには、エヴをああした相手に話を聞かなければならない。
そしてその相手は、この廃村と、あの人頭果たちである。
「おぞましいことをしてくれる」
ついでに言えば時間もない。【周遊する異界】が地上に出現している間にかたをつけて帰還しなければ、次に機会が巡ってくるのは一年後になってしまう。
あと六日。
魔術の規模は問題ではない。クリフとレオナルドがいる。
エヴの単純な力押しも問題ではない。自分がいる。
「ふむ」
枯れ枝を放り投げ、スカーレットは立ち上がった。
(痕跡は視える……が、もう少しこの世界を知らなければ確定できないな)
仮面を目元におろす。
スカーレットの特化魔術は橙魔術。特に、その強力な千里眼はザマルの議員にも恐れられている。『見抜く』という行為において、スカーレットの右に出るものはいない。
その千里眼に自ら縛りをかけ、より精密化させるのがこの仮面型の術具だ。
琥珀色の目を開き、スカーレットは空を見た。
雲一つない快晴。だがスカーレットの眼には、そのただなかを渦巻く文字列が見える。この世界を形作る、魔術の痕跡だ。
(読める……ということは、人間の魔術か)
廃村へ視線を落とすと、眩しい痕跡が散見された。エヴの攻撃と同じ色だ。触れて解きほぐし、手帳に書き留める。
「…………」
人頭果の林には、薄緑色の魔力痕があった。スカーレットはそれも書き留め、一度目を閉じる。
歩き回るスカーレットの足元に、一羽の小鳥が飛んできた。真っ白に光るそれが地面に降りると、そこだけぽっかりと景色に穴が開いたようになる。小鳥の小さな嘴が、スカーレットのブーツを突いた。
スカーレットは足を止め、ぶつぶつと思考をこぼす。小鳥はスカーレットを見上げ、小首をかしげた。手を叩き、スカーレットは簡易工房へ駆け戻る。ポーチから引っ張り出したのは、使い古しの紙をつなぎ合わせたメモ用紙だった。巨大な長方形のそれを空中に固定し、鉛筆を走らせる。
足元の小鳥はというと、スカーレットのブーツに飛び乗り、何度も嘴を突き立てていた。一心な姿だが、スカーレットが数歩動くたびに振り落とされ、腹を上にして転がってしまう。
何度目かの落下のあと、小鳥は焦れたように地団太を踏んだ。
「おい!」
小さな指が、スカーレットの耳を引っ張った。集中が途切れ、スカーレットは勢いよく振り返る。肩から転がり落ちたのは、白く、小さな少年だった。
「……なんだお前」
「かーっ! こんなに歩み寄ってやっているのに、これだから人間は鈍感でいけない!」
手のひらサイズの少年は、地面に手足を投げ出してじたばたとする。
「俺様たちの箱庭を食い荒らすやつをお前が退治してくれると思ってたのに!」
指先で少年をつまみ上げ、スカーレットは仮面を上げた。
「……今年の【周遊する異界】か」
「ツァッド様と呼べ。人間」
吊り下げられたまま腕を組み、少年は偉そうに鼻を鳴らす。
「食い荒らすとは、エヴのことか? 困っているならお前が干渉すればいいだろう」
スカーレットは少年を肩に乗せ、メモに向き直る。
「箱庭でどの種がどう栄枯盛衰しようと俺様たちのあずかり知るところじゃない。そこは自然に任せるべきだ。だけど箱庭に大きな蜘蛛が入ってくるなら、嫌だなあと思うだろう。 な? なあ……聞いているかーっ?」
少年はスカーレットの耳に頭を突っ込む。
「うるさいな。そもそもお前たちがこんな箱庭を作るから、面倒くさいことになっているんだ」
「だが俺様たちが箱庭を作らなければエルフは早々に滅びて、お前は生まれていないぞ」
「先祖の礼に、箱庭の手入れを手伝えと?」
「話が早い!」
手を叩き、少年は飛び跳ねた。
「それでなぁ~? ついでに。ついでに、だ。俺様たちの権能をちょこっと貸してやるから、探し物をしてほしくてな?」
「そっちが本題か」
スカーレットは苦笑いをする。小さい体で揉み手までして、分かりやすいことだ。
「了承するなら、お前の探し物にも付き合うぞ。俺様たちはどこへでも行ける」
襟によじ登り、少年はスカーレットの髪につかまった。
「お前たちがどうにかしたい、エヴが生まれたその年にも」
「一方通行だろう。ごめんこうむる」
ふいと少年から顔を背け、スカーレットはしばらく黙った。少年はぶー垂れて、スカーレットの頭に寝転がる。
「そもそも、探し物が何かを聞かなければ判断もしかねる」
「話せば頷くか?」
「話の内容次第だ、と言っている」
「了承しないなら話したくない!」
「駄々っ子が」
スカーレットは少年をわしづかみにした。そのまま大きく振りかぶり、林のほうへと放り投げる。小さな悲鳴が、長々と尾を引いた。
「……邪魔が入った」
スカーレットはメモを折りたたむ。次に行く場所も決まっている。【周遊する異界】がこの場所を『箱庭』と呼ぶのならば、それを維持するための核があるはずだ。幻想種の作る結界とは一つの世界であり、核――それぞれの太陽を持っている。
そして、空中の魔術痕。あれを施したのは、おそらく【絡繰師】だ。
「……『かみさま、かみさま。そんなに寂しいなら』……」
母の寝物語を思い出しながら、スカーレットは杖を振る。結界が解かれ、次の魔術が準備された。
「『君の中の楽園に、僕が道を作ってあげよう』」
「『僕の記憶に、君の椅子を作っておくれ』!」
先の台詞を横取りして、【周遊する異界】の少年が飛んできた。
「吟遊詩人の言葉じゃないか。やっぱり、探しているものはきっと一緒だ」
にっ、と少年が笑う。
「よぅし魔女。お前を俺様たちの箱庭の庭師に任命する!」
「ことわ」
「報酬は時間だ。年単位でくれてやる。百年くらいでいいか?」
スカーレットは少年を振り向き、じっと見た。琥珀色の瞳に見据えられ、少年は笑みを引っ込める。
「な、なんだよぉ」
「あのな、幻想種」
杖が、少年の腹を小突いた。
「私は人間だ。私の寿命は、あとせいぜい四十年。魔術で酷使しているので、もっと短いかもしれない」
「……うん」
「医療と公衆衛生の発達で、百年前と今では平均寿命もずいぶん変わった。七十まで生きる人間も珍しくなくなった。それでも七十年だ。お前にしてみれば短いその時間で、しわくちゃになって死んでいく」
少年はきゅっと唇を閉じ、スカーレットを見上げていた。
「百年とはそれほどの時間なんだ」
報酬として時間をやる、というのは、幻想種らしい全能感あふれる台詞だった。しかし、その報酬が魅力的でなければ意味がない。
スカーレットとて、命を粗末にしたいわけではないのだから。
「……あー、うー」
空中で回りながら、少年は頭を抱える。
「でも、俺様たちが用意できる報酬はそれくらいだし……」
「たとえば」
スカーレットは嘆息する。
「私の時間を止めることができるなら、報酬も有り難く受け取ろう。だが」
「なんだ、それでいいのか!」
少年はぱんと手を叩いた。
「……うん?」
「できるとも。お前の時間を止めるんだろう? じゃあ五年やろう。エヴが生まれてから今までの時間だ」
何でもないことのように少年は言う。スカーレットは少年に目線を合わせ、ゆっくりと繰り返した。
「私の時間を止めるんだぞ。生き物の寿命をいじるということだ」
「だから何だ。ここは俺様たちの世界」
短い腕をいっぱいに広げ、少年は得意げに胸を張った。
「俺様たちは全知全能だ。その願い、聞き届けた」
少年の小さな指が、上を示す。
「箱庭の出口は、あそこだ。連れて行ってやる。あとは俺様たちに任せておけ」
スカーレットは目を細めた。蒼穹に浮かぶ太陽に、小さな黒点がある。少年が指を右から左へと動かすと、黒点は空を裂く線となった。
「取引成立だな? 庭師」
空の隙間から、巨大な目玉がこちらを見下ろしていた。




