天翔ける仔のトッカータ
真っ暗な地の底で目を覚ました。
眩しくてうるさい世界に引っ張り出されて、また冷たくて暗い場所に閉じ込められた。
本当の名前も、家族も覚えていない。十年以上、どこで生きてきたのかも正直分からない。ただ気づけば、自分はお腹をすかせて、この世界に存在していた。
まるで取り替え子だと、口さがない冒険者が怯えていたのが、始まりの記憶だ。
けれど、多分。自分は、真っ暗な地の底で、誰かと一緒に生きていたはずなのだ。それが誰かすら思い出せなくとも。
そうでなければ、自分は――――。
古い記憶がうずいて、少年は目を覚ます。目を開くと、窓から月明かりが差し込んでいた。両手が毛布を握りしめて、冷たくなっている。
布団の中は温かかった。柔らかいシーツとマットレス。つい数日前まで、冷たい床と薄っぺらい毛布が自分の寝床だった。快適には違いない今の寝床に、まだ慣れない。
毛布の下で身をよじり、体を起こす。冷えた空気が、首筋をなでた。
「………………」
鱗のある肌に、毛布が引っかかる。たしか寝間着をもらったのだが、暑くて脱いでしまったらしい。手探りでそれらしいものをつかむ。
きゅう、と腹が鳴った。
「……ソル?」
隣のベッドから声がする。びくりと身を縮めて、ソルードは両手で頭をかばった。縮こまった尾が足に触れる。逆立った鱗が皮膚をこすった。
「起きちゃったんだね。お腹すいた?」
寝間着を引き寄せ、ソルードはぶんぶんと首を横に振る。そんな仕草とは裏腹に、腹の虫はぐるると派手に鳴く。
「あはは。内臓が健康になってきた証拠だ。おいで」
暗闇から、ぬうっとロアルが現れた。月明かりの中でも、ソルードの目にははっきりと見える。真っ黒な服と、黒っぽい仮面。広げられた両腕に、のそのそとソルードは近づく。触れても体温はなく、まだ冷たい毛布にくるまっているような気分になるが、そっと背中をなでる感触が、なんだかとても落ち着いた。
足が浮いて、ソルードはきゅっと目を閉じる。ロアルは外套でソルードをくるみ、足音を立てずに部屋を出た。
宿の廊下は薄暗いが、ぽつぽつと水晶灯が点いていた。青白い光は月光にも似ている。軋む床を踏みながら進み、突き当りの階段から下へ。冒険者ギルド併設の宿は、大抵二階に渡り廊下がある。路地をまたぐ廊下では、疲れた顔の男が煙草をふかしていた。窓から外へと、煙が吐き出されている。
ザマルの冒険者ギルドは大きい。都市国家とはいえ、国を出入りする多くの冒険者を管理する場所だ。昼夜問わず人がおり、食堂も当然二十四時間営業である。一方でザマルの城門は夜間閉じるため、ギルドのカフェは近隣住民の駆け込み場のようになっていた。そのほとんどが、夜泣きがひどい赤子を抱えている。控えめな夜間灯に浮かび上がる顔は皆、冒険者に引けを取らないほど疲れ切っていた。
ロアルはカウンターに座り、メニューを見上げる。ソルードはするりとその手を抜け出した。
「サンドイッチでいい?」
「?」
「ピーナッツクリームなら、間違いなくおいしいと思うよ」
隣の椅子に座り、ソルードは足をぶらぶらとさせる。
ぐずる赤子をようやく寝かしつけ、一人の女がふらふらと席に着いた。注文を済ませ、ロアルは自分の膝を叩く。ソルードは周りを見て、首を横に振った。
数人の冒険者が、どやどやとカフェに入ってくる。ついさっきザマルに着いたようで、手にはまだ城門の通行証があった。入国手続きに時間がかかったのだろうか。子供を抱いた青年が、入れ違いにカフェを出る。
サンドイッチとホットミルクが、ソルードの前に置かれた。即座にホットミルクに手を出して、その熱さにソルードは飛び上がる。
「あちちだった?」
「あち、だった」
ソルードは手に息を吹きかけた。カウンター奥の店員が、冷たいおしぼりを持ってくる。
「ふーふーして、ゆっくりそーっと飲むんだよ」
「ふーう?」
ロアルを見ても、ロアルの顔は仮面なのでよく分からない。クリフがいれば、やって見せてくれるのだが。あの金髪のお兄さんは、今頃ぐっすり寝ているだろう。
ホットミルクを諦め、ソルードはサンドイッチに手を伸ばした。パンとピーナッツクリームは聞いたことがある。たまに、檻の外から差し込まれていたあれだろう。
口にパンを押し込んで、咀嚼する。初めは冷たくなくて柔らかいとしか思わなかったサンドも、甘いとかしょっぱいとかが分かるようになってきた。今日のは特別甘い。
「んふー」
口いっぱいの甘味に、自然と声が漏れる。サンドを食べ終わるころには、ホットミルクもほどよく冷めていた。
「腹ごなしに夜のお散歩して、歯を磨いて寝ようね」
「ん、い!」
上機嫌に体を揺らし、ソルードは軽くなったカップを置いた。
懐かしい夢を見た。
目を開くと、昼下がりの空が広がっていた。隣にはクリフとグレンがいる。少し休憩にしようと言って、そのまま眠ってしまったらしい。いくら炎の精霊の縄張りだからと言って、今は真冬だというのに。
風は穏やかで、弱い日差しに反して気温は高かった。春とはこんな気候だろうか。ソルードが冒険者に連れ出されたのは初夏、少し歩くだけで汗ばむような季節だった。
二人の魔術師の間に寝転がって、ソルードはまた空を見る。魔術のことはよく分からない。だが二人が、たくさん頑張って疲れているのは知っていた。なので、遊んで、という言葉も今は飲み込むことにする。
「……んふふ」
クリフの腕を持ち上げ、その下に潜り込む。腕の重さで、抱きしめられているような気分になる。
時々、今こそが夢なのではと思う。
真っ暗な地の底で目を覚まして、右も左も分からないまま、時間だけが過ぎていた。観察だけは得意だったので、ずっと人間を見て、言葉はいくらか覚えた。それでも、自分が置かれた状況に、理解も納得もできていなかった。
自分はまだ、あの冷たい檻の中にいるのではないだろうか。雪の降るような季節で、起きている元気もなくなってしまった、刹那の夢の中にいるのでは。そうでなければ、都合がよすぎる。助け出され、世話を焼かれ、広い世界に連れ出されるなど。
「…………」
クリフの手が、ソルードを引き寄せる。額をクリフの胸元にこすりつけ、ソルードは目を閉じた。
空は快晴、風は微風。土と青草の匂いが、今は心地いい。ぽっかりと浮かんだ雲が、東から西へと空を流れていく。
ロアルは今日は、どこにいるだろう。夕食には間に合わせるといつも言っていて、確かに夕暮れ時になると帰ってくる。クリフもそうだ。しかしザマルを出てからというもの、四六時中一緒にいるのが当たり前だったので、少し寂しい気持ちもある。
(……慣れなきゃなあ)
クリフもロアルも冒険者。自分は違う。二人とも仕事に行ってしまって、自分一人で待つこともあるだろう。ユゥロの時のように。
そのとき自分は、追いかけることを我慢できるだろうか。いつもいつも、グレンのような頼もしい助っ人がいるとは限らない。自分にできることは、走ることと、跳ぶことくらい。それで役に立つからと連れて行ってくれるほど、クリフもロアルも優しくはない。
遊びたい。話したい。一緒にいたい。そんな我儘ばかり膨れ上がっているような気がする。『寂しい』は贅沢だ。空腹でもなく、寒くもない、毛布にくるまっていられるだけでも十分――――
「……にいしゃ?」
寝ていると思ったクリフの手が、頭を撫でてくる。ソルードは身をよじり、さらにクリフにくっついた。
「……あせくさい」
「お前自分でひっついといて」
「にいしゃ、起きてた?」
「まあな」
体を起こし、クリフは伸びをする。ソルードもそれを真似て、両腕を空へと伸ばした。
「グレンさん起きないし、遊ぶか。何する?」
ぱっと顔を明るくして、ソルードは飛び跳ねる。
「おれ、ぶんぶんごまやりたい!」
「うえぇ、あれあぶねぇんだけど」
「やーりーたーいー!」
しょうがない、と肩を回し、クリフは外套を脱いだ。
「まあ受身も練習ってことで……俺の力ならそんなすっ飛ばないし……」
軽くストレッチをして、クリフは両腕を広げる。
「よぉし来い!」
「ぁい!」
陰った気持ちを振り払うように、ソルードは腕の中に飛び込んだ。




