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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第三章 薔薇と兎
21/61

3)魔法使いの夢うつつ

 いつかと同じ夢を見ている。

 月光に照らされた石畳。道の左右は背の高い建物が続き、見上げれば空中歩道が何本も渡されている。その先の狭い空に、星が瞬いていた。


「よぉ、お姫様」


 渡り廊下の手すりに、誰かが座っている。月光が眩しい夜でも、その顔は影になって見えなかった。


「旧市街なんかに何のご用だい」


 立ち上がると、人影は存外小さかった。白い石造りの街並みの中に、ポツンとできたシミのようだ。

 影は手すりの上を歩き、何かを言っている。だが、月を背負ったその声は、どうしても聞こえなかった。




 頬を叩かれて、クリフは顔を上げる。


「おはよう」

「……ん、おう」

「風の精霊が呼んでるんだ。起きられる?」


 体はまだ寝たいと主張していたが、クリフは頷いて伸びをした。

 部屋にはクリフとロアルしかおらず、開いた小窓から朝日が差し込んでいた。外から、子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。


「あいつらは……」

「ソルはご飯。あの女の子はボクを見て、びっくりしたみたい」


 服の皺を伸ばし、重い頭に手を当てる。


「ねっむ……」

「歩けるならそれだけでいいよ。警戒とかはボクがする」

「悪い……いや、すぐ目ぇ覚ます」


 のそのそと杖に手を伸ばし、クリフは「【術式起動(オープン)】」と唱えた。魔力が皮膚の回路を走り、脳が臨戦体制をとる。眠気は押しやられ、重たかった体の感覚も戻ってきた。


「よし」

「よくないよ」

「精霊様がお呼びなんだろ。万全でいたほうがいい」


 梯子を下りると、長が茶を淹れているところだった。




 からりと晴れた蒼天を、小鳥が横切っていく。木の枝に腰掛け、グレンはそれを見上げていた。手を伸ばし、寝床から朝食のパンを取る。外見こそ年若い少女のものだが、眠い目を瞬かせる表情は渋く、パンを千切る手にはいくつもの古傷があった。

 グレンの寝床は、太い枝の間に板を渡し、木の葉と布で床を作っている。風の集落の隅にあるこの寝床が、グレンの数少ない持ち物であった。味気のないぱさぱさとしたパンを水で流し込み、また空を見上げる。


「グレン、いるか?」


 木の下から、子供の声がした。グレンは地面に飛び降りる。少年は小さな銀の輪を持ち、グレンに手を振った。


「何だ」

「暇?」

「申しつかっている仕事はない」

「父さんが気持ち悪いって。診て」

「いいだろう」


 少年に手を引かれる。日の光が当たると、黒髪に緑の艶が浮かんだ。

 グレンの刺青は、手足に絡みつく蔦のようだった。手の甲から肩へ、よれた胸元から首、頬まで伸びている。長い前髪が目を隠し、俯くとその表情はほとんど見えなくなった。

 少年に引かれるまま、集落を横切る。広場の石碑の前に、見覚えのある黒い人影と、見覚えのない白い人影が立っていた。さっとグレンを追い越した子供が、その二つの間に割り込んでいく。

 珍しいことに、石碑の前には精霊が姿を現していた。気ままな風そのものであるハユ・エ・トゥラは、十日に一度集落を訪れれば多いほうだ。よほど、あの客人が気に入ったのだろうか。

 グレンは視線が合わないように、下を向いたままその四人の隣を通り過ぎる。あ、と、聞き覚えのある声がした。待っていた少年に頭を下げると、少年は一足先に家まで登っていった。


「……黒」


 螺旋階段を登りながら、白と金の青年を振り返る。子供に背中をよじ登られ、青年はよろけていた。身の丈より大きな杖と、頭ほどもある巨大な魔導鉱石。とんがり帽子でも乗せれば、すっかり、絵物語の魔法使いだ。

 肩車の位置に収まった子供が、魔術師の頬を叩いてこちらを指さす。視線が交わる前に階段を登り切り、グレンは少年の家に入った。つん、と鼻につく匂いがする。


「父さん、グレン呼んできたよ」


 寝床に転がったまま、父親は呻いている。口元を片手で覆い、グレンは顔をしかめた。


「グレン、父さん病気なのか?」

「酒の飲みすぎだ」

「お酒? ああそっか、昨日、お客さん来たから」


 少年が合点がいったと手を叩くと、父親は片手を力なく振った。どうやら拍手の音すら気持ちが悪いらしい。


「なあんだ。グレン、ご飯食べてく?」

「いただこう」


 何度も踏んで柔らかくされた葉の床は、踏みしめると少し沈んだ。窓を開き、匂いを逃がす。外の風が吹き込むと、父親は安堵したような息を吐いた。




 グレンが共用の炊事場に行くと、角の生えた少年が小麦を挽いていた。村の女衆に囲まれ、石臼を回している。


「あらぁ~ちいちゃいのに力持ちねえ」

「働き者で嬉しいわぁ。美味しいパン作るからね」


 褒められて気分がいいのか、少年の尾は体に合わせて揺れていた。やや小柄ではあるが、年は十一、二歳だろうか。旧い石臼は子供には相当重いはずなのだが。


「あらグレン。調薬?」

「ああ。二日酔いの薬を」

「それならうちの人にもお願いできる? 全く、たまにだからって調子に乗って」


 小首をかしげ、旅人の子供がグレンをのぞき込む。大きなオーロラ色の瞳に、グレンはぎょっとして半歩退いた。鮮やかな青緑色の虹彩に、紫の光が浮かんでいる。

 すんすんと鼻を鳴らし、少年はふいとグレンから顔をそむけた。無表情な横顔が、急に大人びて見える。少年は粉ひきの報酬に塩をひとつかみ受け取ると、その小袋を抱えてグレンの横を通り過ぎた。

 すれ違う一瞬、大きな双眸がグレンを見る。視界の端に光が瞬き、グレンはその光に目を奪われた。鮮烈な、空を切り裂くような光。一瞬で消えたそれを追って振り向くが、既に少年はグレンから離れ、その先で仲間を見つけて走り出していた。




 銀の腕輪を片手に、クリフは一本の木に手をかける。木登りなど数年ぶりだった。


「よっこい……、」


 先客がいた。よじ登ってきたクリフを三度見直して、刺青の女は起き上がる。もうじき日が暮れる。村民は広場に集まって食事の準備をしていたが、女は一人、壁もない寝床でペンを執っていた。かろうじて枝の間に屋根のようなものはあるが、うっかり寝返りを打てば落ちそうだ。


「あんた、飯は?」

「人の家に突撃して、まず言うことがそれか?」

「ごめんなさい!」


 大慌てで降りようとして、足を踏み外す。バランスを崩したクリフは、すんでのところで枝をつかんだ。


「すぐ降りるので!」


 そのまま空中を駆け上がり、枝の間にクリフは消える。だがボソボソと声がしたかと思うと、すぐに戻ってきた。


「あの」

「通信魔術なら、森から出なければ使えないぞ」

「あ、そう……、いえ、ええと」


 寝床近くの枝に腰掛け、クリフは言葉を探す。視線をぐるりと彷徨わせてから戻すと、刺青の女は不機嫌な顔でクリフの問いを待っていた。


「あんたも魔術師、だよな」


 疑念の中に、わずかに確信が混ざっていた。

 刺青の女は一度目を伏せ、それから真っ直ぐにクリフを見た。前髪の間から、真紅の左目が睨んでいる。

 降りろ、と女は地面を指差した。クリフが木の幹を伝って降りる間に、女はペンを置き、地面へと飛び降りた。


「お前、名は?」

「クリフ……だ」

「よろしい」


 集落に背を向け、女は歩き出す。クリフは数歩離れてそれを追った。

 夜に差し掛かる森は暗く、青白く発光する虫が空中に線を引いていた。鳥か獣か、小さな生き物が木々の間を移動している。振り向くと、風の集落に夜の明かりが灯っていた。


「このあたりで魔術師というと、お前、ザマルの出か」

「シーラー国立魔術学院を卒業した」

「なるほど。後輩というわけだ」


 女は足を止め、腕を組む。黒々とした刺青が、クリフの目に入った。


「ここまで離れればいいだろう。話がしたいんだろう? 後輩」

「はあ……。じゃあお名前は?」


 手近な石にクリフは腰掛ける。地面にあぐらをかき、女は首を横に振った。


「黒魔術師相手に名乗るバカはいない」

「……俺は黒魔術師じゃない」

「じゃあ何を話しに来たんだ。てっきり俺のことを知っているのかと」


 女が指を振ると、橙色の明かりがあたりに浮かぶ。


「こんな場所にも魔術師がいるのかって。魔術が使いづらいったらないのに」

「いろいろと事情があるんだ。魚は水がなければ息ができない。俺もそうだ」

「……?」


 眉根を寄せるクリフに、女は薄い笑みを見せた。薄明りの中に、よく整った顔が浮かび上がる。


「グレンという名を知っているか」


 小さな桃色の唇が、囁くように問うた。

 グレン。呟いて、クリフは一度下を向く。指先でゆっくりと円を描き、それからやや引きつった笑みを浮かべた。


「まさか……【人形師】?」


 恐る恐る問いかける。

 女、グレンの微笑が、正解だと告げていた。


「七賢人のグレン・リーデバルド……本人、なのか」


 七賢人。シーラー国立魔術学院でも、飛び抜けて優秀と讃えられる魔術師たちだ。彼らの時代には魔術は現代ほど細分化されておらず、まだ『魔法』の側面が残っていた。黒魔術が禁忌となる前の話である。ザマルを中心に、エストラニウスでは広く知られた偉人で、絵本にまでなっている。


「信じられないなら、連中の趣味と癖でも教えてやろうか」

「信じるよ。だけど」


 三百年前の人間が生きている。その程度なら、今のクリフなら飲み込める。村の長は百五十歳近いと言っていたし、そもそも日々隣でやかましいのが、八百年前を生きた魂だけの存在だ。

 クリフが納得できないのは、そこではない。


「あんた、もっと年かさの男だと思ってた」

「……ふふっ。さて、どうしてだと思う」


 グレンの外見は、二十になるかならないかという少女そのものだ。ザマルを出た後の【人形師】の足跡は、追放から三年ほどで姿を消しているが、それにしても。

 一つ、単純に考えられるのは、姿を消してすぐこの森に入り、精霊から不老の加護を授かった可能性だ。だがそうだとしても、外見が若すぎる。


「ヒントが少なすぎる」

「それを解明するのも、魔術師の仕事だろう」


 橙色の灯りを一つ地面に下ろし、グレンはその上に黒い円盤を置いた。円盤は揺れながら灯りの上に浮かび、ちりちりと音を立てる。むう、とクリフは腕を組んだ。

 真紅の左目。それを囲むように刻まれた黒い薔薇。腰帯に結びつけられた紐に、黒い石が繋がっている。あれが魔導鉱石だろうか。見える両手足の皮膚には、黒い蔦の紋様が描かれている。クリフが知る限りでは、魔術の術式ではない。かといって、風の集落特有のものでもないようだ。


「……やっぱり、呪いか」


 ぽつりとこぼした言葉に、グレンはどことなく満足そうな顔をしている。

 円盤の上で、木の実が爆ぜる。飛び上がった実を手のひらに受け止めて、グレンはそれをクリフに差し出した。


「でもなんか違和感が……」


 受け取った木の実を口に入れると、香ばしさと強烈な苦味が同時に襲ってきた。


「うっ……」

「他人から差し出されたものをホイホイ食べるんじゃない」

「あんたが食えみたいにっ……おげぇ」


 飲み込んでしまったものは吐き出せず、クリフは舌を出す。


「それで、俺が黒魔術師グレンだと知った上で、何を聞きたい。黒魔術でも教えてやろうか」

「そんなバカじゃねえよ。それに、禁忌に手を出して魔術師の資格証無くすのは困る」


 それで、わざわざ村から離れたのだろうか。クリフが集落の方角に目を向けると、グレンは円盤を火から下ろし、立ち上がった。


「魔術とは求められて花開く」

「知ってる。俺は黒魔術を求めてない」

「本当に?」

「俺は、」


 息を吸って、言葉に詰まる。見下ろしてくるグレンの瞳は全てを見透かすようで、クリフには直視できなかった。


「分かるとも。お前と俺は、きっと同じものを求めている」

「同じもの……」


 黒魔術は求めていない。たとえ、どれほど素晴らしい適性を持って生まれていると言われても。なぜならそれは禁忌だから。禁じられたことに手を出せば、自分は現代の魔術師を名乗る資格を失う。魔術師でなくなれば、冒険者ではいられない。

 そうなってしまえば、自分には何もない。


(……本当に?)


 グレンの問いを繰り返す。

 もし、黒魔術が使えたら。少なくとも、今現在扱えている魔術よりは遥かに多くの選択肢が現れる。ダンジョン内では【亡霊(マッドラム)】に出くわすこともなくはない。その時、調伏し、情報を引き出し、新たな武器とできたなら。

 今回のようにロアルが意識を失っても、慌てふためくこともないだろう。【亡霊】であるロアルのことが理解できる。それだけでも十分、価値はあるのではないか。


(……それは、きっと)


 今より、ロアルの役に立つ。


「……まあ、ゆっくり考えるといい。俺は後輩には優しいつもりだ」


 クリフの目の前に、銀色の箱が落とされる。


「俺にはもう不要なのでお前にやる。精霊には秘密にするように。魔術を教えろと言うのならいつでも来い」


 箱はこぶし大の立方体で、いくつかの立体が組み合わさったパズルのような見た目をしていた。拾うと外見よりも重く、氷のように冷たい。艶のない表面は、木々の色を吸い込んで緑色を浮かべていた。


「それと、『兎』には気をつけろ」


 クリフをその場に残し、グレンは寝床へと戻っていく。遠ざかる足音を聞きながら、クリフは箱の表面に指を這わせた。指先が触れた場所から、箱の表面がジワリと黒くなる。

 箱そのものは、軽く振っても音はせず、引っ張っても形は変わらない。秘密箱のようなものだろうか。形の異なる立体の継ぎ目は、どこもぴたりと合わさって、わずかにズレもしない。


「にぃしゃ?」


 声に、はっと顔を上げる。いつ来たのか、ソルードが目の前に立っていた。箱の表面が、さっと黄色に塗り替わる。同じ色のフードを下ろし、ソルードは不思議そうに首を傾げた。


「ろぉ、さがしてる。ごはん」

「あ、ああ。ごめんごめん」


 クリフは箱を腰のポーチに入れて立ち上がる。ソルードは両手を広げ、抱っこを要求した。抱き上げると、尾がクリフの胴に巻き付く。多少肉はついてきたとはいえ、まだまだ年相応の重さには程遠い。


「今日はいっぱい遊んだか?」

「んー、はたらいた」

「遊んどけってのに。楽しかったか?」

「ん!」


 同じ年頃の子供たちと遊ぶのは、ソルードにはまだ難しいだろうか。


「にぃしゃ、あそぶ?」

「飯のあとでな」


 満足そうに息を吐いて、ソルードはぐりぐりと額をクリフに押し付ける。胸元に擦り付けられた黒髪から、ふわりと花の香りがした。




 夜の森は空気が冷えていた。そういえば外は冬だったか。しんと静まり返る集落を歩きながら、クリフは夜空を見上げる。白い月が、木々の間に浮かんでいた。

 集落の中心から離れ、墓所、とハユ・エ・トゥラが呼んだ場所へ。見上げるほどの白い建造物は、夜の闇の中でもはっきりとその輪郭が見てとれた。


「お悩み事でも?」


 背後からの声には驚かず、クリフはゆっくりと振り返る。湯気の立つカップを、ロアルは「どうぞ」と差し出した。


「別に、大したことじゃねえよ」

「悩みは共有しておくものさ。一人で背負うには重い荷物だって、二人で持てば案外、軽いものだろう?」


 カップには、甘い香りのするミルクが入っていた。一口啜り、その熱さに顔を顰める。その様子を見上げ、ごめんごめん、とロアルは手を合わせた。


「料理、苦手なんだ」

「これ料理って言わねえよ」


 五感がほぼ機能していないのに、ミルクを沸かしてカップに注いだだけですごいと言うべきではあるだろうか。魔力の濃いこの場所では、視覚の調整だけでも一苦労らしい。


「で、何を悩んでるのさ」

「……別に」

「君、その相談しない癖ばっかりは治したほうがいいと思うね」


 棘のある言葉だが、クリフは反論できなかった。ロアルも、自分を煽っているわけでも貶しているわけでもない。その程度は、声からでも読み取れる。


「当人が大したことねえって言ってるだろうが」

「で、また相談なしでアルターレの研究者のところにボクを連れていったりする?」

「すげぇ根に持つじゃん。別にアンキュウ先生にお前のことは話さなかったろ」

「察してただろう、あの人は。君があの国に興味を持つのは結構だけど、……いいや、今じゃないな。ともかく、君は思い立って行動に移すまで、合切自分の中で完結させすぎるって話」


 煽りでも貶しでもないその言葉が、今日は妙に心を逆なでした。自分の感情の裏側、自分自身が気付いていないやわなところに触れられたような居心地の悪さ。


「相談したって、解決しねえだろ」

「そう? 共感はできるかも知れないよ」

「お前には無理」


 会話を拒絶するように、足を速める。手の中のカップが熱い。


「そう寂しいことを言うんじゃないよ。傷付くなあ」

「わざとらしい」

「クリフ。がらんどうなボクにも傷付く心はあるんだぜ」

「でもお前は、」


 振り向いて、そこで言葉を切る。

 ロアルとの距離は、思ったよりも離れていた。月明りが、不思議なほどに目に眩しい。白い月に照らされた石畳と、その中に佇む黒い影。微笑する仮面が、どこか、悲しんでいるように見えた。

 喉まで出かかった言葉を、苦労して飲み込む。


「……今は一人で悩みたい」


 ようやくそう絞り出すと、ロアルは視線を空に向け、「そう」とつぶやいた。


「分かった。けれど寝不足にならないようにね。見えない場所にいるから、いつでも呼んで」

「ん……うん。悪いな」

「いーえ」


 ロアルが離れ、クリフは一人、墓所に近づく。

 風の音しかしない夜だ。膝を折って夜空を見上げ、そこに瞬く星を見る。カップから立ち上る湯気のように、悩みも風にまぎれて消えてしまえばいいのに。そんなことを思いながら、息を吐き、ミルクを飲む。まだ熱いそれが、体の奥の熱を取り戻させてくれた。


 思えばずっと、こうして答えの出ない悩みを抱えている。それは変わらない現実と過去に対する不満であり、思い描く理想と事実の乖離への苛立ちである。こういうものだと割り切るまでに、何度もこんな夜が必要になる。

 はじめは、自分の出自についてだった。父とも兄とも似ていない容姿。血が繋がっていなくても家族だと言われて育った。けれど、本当の親は自分を棄てたのだ。

 次は生得魔法だった。魔法の発現を養父はとても喜んでくれた。けれど、大して役にも立たない魔法だった。才能があるのだと言われるたびに、劣等感がつのっていた。

 そして、特化魔術(エキスパート)。どれほど素晴らしかろうと、使うことができない才能。


「……俺は」


 評価されたい。認められたい。すごい、と手を叩かれたい。

 違う。自分が欲しているのは、もっと漠然とした――そう、例えば、ロアルにとっての【不夜の王国跡ルイン・ロスティペーロ】のような。そこへ向かってまっすぐに走っていける場所。

 それを手に入れるためには、自分は役立たずではいけない。実力を評価され、冒険者として、また魔術師として認められなければいけない。環境に恵まれているのならば、相応の実力を。もっと、もっと、もっと。


「……ロアル」


 絞り出すようにつぶやく。びゅう、と風が吹いて、黒いブーツが目の前に現れた。


「お前、【不夜の王国跡】に行きたいんだよな」

「うん」

「どうして?」


 目の前にあぐらをかいて、ロアルは「そうだなあ」と腕を組んだ。


「ボクにとって、大切だと間違いなく言えるから、かな?」

「……どうして大切なんだ?」

「んー……まあ君だからいいか。生まれた場所だから。思い出が残っているのさ。五百年とちょっと分の」


 思い入れ、という一言では計れない時間がそこにはある。まだ生まれて二十年も経たないクリフには、想像のしようがなかった。


「でも、じゃあ……なんで地上に来たんだ」

「何でだろうねえ」


 あっけらかんとしていた。てっきり明確な理由が返ってくると思っていたクリフは、少々面食らう。


「はっきりしてない……ってことか?」

「言語化しきれないだけで、理由はあるよ。君とおんなじ」


 ロアルが笑った気がした。声にもしぐさにも表れない、わずかな気配の変化。それは自分の黒魔術師としての血が感じ取っているのだと、今なら納得できる。


「ボクには大切なものがある。やりたいことがある。けれど、どうしてその『やりたいこと』を始めたかと言われれば、うーん、そうだなあ。悩んでしまう。それを考えるのは恐ろしいことだ」

「お前でも?」

「ボクでも」


 数百年の記憶を持っていても、まだ何かが恐ろしいのだろうか。幼いころ、大人というのは怖いものがないのだと思っていた。養父にその理由を聞くと、たくさんのことを知っているからだと言った。


「あのねえクリフ。たとえボクが千年生きた竜だって、怖いものはあるんだぜ」


 クリフの心を見透かすように、ロアルは胸に指先を当てた。夜風に揺れる外套が、そのシルエットを曖昧にする。人の輪郭を模した服と、それを包み込む長衣(ローブ)。夜を飲み込んだような出で立ちは、相も変わらず得体が知れない。


「だって、ボクはまだ明日を経験していないんだから」


 それは、あまりに当たり前の言葉。

 明日、何が起きるかわからない。目指す先があったとしても、次の一歩が見つからない。夜空の星を追うためには、目の前が崖でないと確信を持たなければいけないのに。クリフからすれば底の知れないこの仮面の双剣士ですら、次の一歩が見えていないという。


「そう……か」


 だとすれば、追う星すらない自分には、到底。


「悩みの出口は見つかった?」


 じいっ、とロアルを見返して、首を横に振る。ロアルはしゃがみ、「そっか」と両手に顎を乗せた。黒い石に、色のないクリフが映っている。


「……俺は、夢ならあるし。現実的な目標も、ないわけじゃなくて」

「うん」


 石の中の自分が、不安げに視線を逸らす。指先を遊ばせる代わりに、温かいカップを握りしめた。


「誰かに、認めて……正当な実力で、順当に評価されたい……んだと、思う」

「……うん」


 静かな相打ち。肯定も否定もしない。ただ、手を伸ばせば届く距離で、クリフの次の言葉を待っている。


「俺は、自分を誇れる根拠が欲しい」


 曖昧で、理想に過ぎず、漠然とした願い。言葉として口にした瞬間、クリフはそれを恥じた。

 愚弄だ。目の前に、それを与えてくれた人物がいるのに。それに満足できない強欲さが、自分の最悪なところだ。


「……そっか」


 クリフは膝を抱え、腕に額を押し当てる。

 そう、自分を追い詰めているのは、ほかならぬ自分の傲慢さと、強欲さだ。

 良かったではないか。与えられたのが黒魔術で。青天井の欲望に、ようやく待ったがかけられたのだ。才能、努力、環境。恵まれてしまったがゆえに歯止めがきかなかった。

 自分は、何者か、特別な存在になれると夢を見ていた。そんな妄想を、ようやく棄てられる。グレンを見ただろう。自分はああはなれない。精霊の領域でやすやすと魔術を使うような賢者には。ここが、自分の限界だ。そう、あとは自分が認めるだけだ。


「どうして?」


 静かにロアルが言う。


「どうしてそれが、君にとって大切なんだい?」


 問いを返され、答えに窮す。欲しいのだから欲しい。けれど、そう、確かに。その欲求にだって、理由はあるはずで。


「……分からない」


 なんとなく恥ずかしくなって、クリフは蚊の鳴くような声でそう言った。


「じゃあ、それが君の旅の目的だ」

「……え?」

「いいじゃない。分からないって分かっているんなら。漫然と生きる有象無象より、一歩先に君はいる」


 立ち上がり、ロアルは右手を差し出した。


「一緒に探そうじゃないか。そのための仲間だろう?」


 少しだけ持ち上がったクリフの手を、ロアルは無理につかんで引き上げる。


「君には夢がある。ボクにはない。ボクには目的がある。君にはない。おあつらえ向き、破れ鍋に綴じ蓋ってね。うじうじ悩みながら行こうぜ」


 あっけらかんとした声音だった。宙ぶらりんにされた悩みを、指先でつつかれたような。だがそれだけで、少しだけ心が軽くなる。

 少なくともこの仮面の剣士は、自分の悩みを否定しなかった。欲張りだと説教を垂れ、もっと才能が乏しいのに頑張っている者もいると比較して、だから諦めろと指差してくることもなかった。


「この果てしない世界の片隅で、ボクたちは出会ったんだから。一緒にいるよ」


 ああ、ロアルが笑っている。きっと自分が感じ取っているより、ずっと優しい顔で。


「……お前ってば、俺にだけは甘いよな」

「あらー? 自覚あったんだ」


 こそばゆそうに身じろぎして、クリフは口元をほころばせた。


「……とう」

「うん? 何だい聞こえないね」

「ありがとうっつったんだ。もう寝る」

「うん、おやすみ」


 カップを拾い、クリフは墓所に背を向ける。だが数歩進んだところで戻ってきて、ロアルの外套を引っつかんだ。


「お前も戻るんだよ」

「ええ、ボク睡眠必要ないのに」

「ソルの安眠」

「すぐ戻ります」


 大股で歩くクリフに引かれ、ロアルは小走りになった。

 宿に戻ると、腕を組んだソル―ドが、頬を膨らませて待っていた。

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