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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第二章 箱庭と仔犬
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3)魔法使い

 サデュラ支援会の家に入れられるまで、リュカは空腹というものを知らない子供だった。

 朝は、浅い皿に粥を一杯。昼はパンが一つと味のしないスープ。夜だけは少し豪勢で、パンが二つとマッシュポテト、ピーナッツクリーム。たまに塩魚の入ったスープがつく。それでも、おなかがいっぱい、ということはない。

 リュカの家は決して裕福ではないが、小さなパン屋を営んでいた。家はいつも香ばしいにおいがしていて、父の新作や母の失敗作が、リュカのおやつになっていた。

 父はいつもたくさんパンを焼いて、毎日、必ず少し売れ残っていた。その売れ残りを、翌日売って回るのがリュカの仕事だった。焼きたては一つ十ユルの小さなパンは、翌日になると五ユルになる。リュカの一日の小遣いと同じ値段だ。そんな安くて硬いパンを、美味しい美味しいと食べる人々がいた。父がいつも少し余計にパンを焼いていることを、母もリュカも知っていた。


『お腹が空くのは、悲しいことだから』


 そう笑う父に、母もそうねと言っていた。

 リュカは空腹を知らなかった。けれど、毎日、毎日パンをたくさん焼き上げる父の背中は、なんとなく、格好いいと思っていた。


「……、」


 目の前には、夕食のパンが二つ。天井がぐるぐるする午後がようやく終わる。ピーナッツクリームはたっぷり塗っても怒られない。今日は『せんせい』の機嫌がいいのか、スープに肉と豆が入っていた。配膳を終えた『おねえさん』が、全員が見える席に座る。リュカの席からは一番遠い。

 七人の子供と、一人の大人。子供は目の前のパンをじっと見て、全員が石像のように固まっていた。


「日々の糧に感謝をして。いただきます」


 そう『おねえさん』が言うと、子供たちは「いただきます」と声を揃え、一斉に食事に手を伸ばした。リュカはパンを丁寧に割り、間にたっぷりとピーナッツクリームを挟む。

 一日分の空腹を満たそうと、七人の子供たちは無言で食事を口に運ぶ。はち切れそうに膨らんだ頬に、『おねえさん』は優しく目を細めた。


「メリッサ」


 ノックの音が響き、『せんせい』が顔を出す。子供たちは一瞬手を止めるが、『おねえさん』が立ち上がるとすぐに食事を再開した。


「例の金髪の貴族のことだが――」


 背後の会話に耳を澄ませながら、リュカはスープ皿を取る。


「明日も来るそうだ。パピーを会わせたい」

「はい。それじゃあ五番の子はどうでしょう」


 五番。自分の番号だ。聞いていないふりをしてスープを啜りながら、もう片方の手でパンを握った。『おねえさん』が席に戻り、後ろでドアが閉まる音がする。自分に向いている目がなくなった一瞬、リュカはパンを服の下へ入れた。薄汚れた服を伸ばし、パンを包み込む。

 全員の皿が空になり、『おねえさん』に促されて部屋に戻る。


「あら? お腹痛いの?」


 リュカが腹を押さえていることに気付いた『おねえさん』が声をかけ、リュカはぶんぶんと首を横に振った。子供が二人、さっとリュカの隣に来る。


「そう、大丈夫なのね。早く寝なさい」


 二階から階段を降り、列を作って半地下の部屋へ。七人が横になるにはやや狭いが、身を寄せ合うには広すぎる。床は冷たいタイル製、壁にはそこかしこに落書きがされていた。折れたクレヨンがその壁際に散乱している。奥の壁には、檻が一つ固定されていた。

 マットレスは大人用が一枚、毛布は人数分。窓はなく、天井付近に小さな通気口があるのみ。それも鉄格子がはまっている。そもそも鉄格子がなくとも、よほど平たくなければ通れないだろう。その通気口から差し込む夕陽が、部屋をかろうじて照らしていた。

 全員が入ると、鍵がかかる音が三度する。リュカはそれを確認してから、檻に駆け寄る。


「ベル」


 呼びかけると、鈴の音がした。金属同士が擦れる音を響かせながら、黒い毛玉のようなものが檻の奥から現れる。冷たい床に両手をつき、それは這うようにしてリュカに近付いた。


「はい、ご飯」


 服の下からパンを取り出すと、痩せ細った手が檻から差し出された。削れた爪に、ネズミの毛がついている。伸び放題の髪の間から、大きな瞳がリュカを見ていた。


「ごめん、足りないよな」


 檻の中の子供は、無言のままパンを口に運ぶ。可能な限り詰め込んだピーナッツクリームが隙間から溢れ出した。

 暗がりに目が慣れると、檻の子供の足元に、小さな骨が転がっているのが見て取れる。

 夕食が終わったばかりの自分たちでも満腹ではないのだ。今日のように、うまく『おねえさん』の目を盗める日ばかりでもない。そうなると、朝と昼だけで一日を過ごすことになる。どれほどの空腹だろう。

 袖を引かれ、リュカは振り返る。リュカの半分ほどの背丈の少年が、目を擦っていた。


「なんだ、眠れないのか? 今寝ないと、お腹が空いちゃうぞ」

「だって、寒いんだもん」

「そっか。そうだなあ」


 小さなマットレスを壁に寄せ、年長の数名が壁に背を預けて座る。その体にくっついた子供達を毛布で包み、骨が浮く背を軽く叩いた。


「ほら、寒くない」

「んぅ……」

「お話ししようか。魔法使いのお話」


 隣の少女とそっと身を寄せ合い、壁の冷たさを和らげる。


「遠い遠い昔のお話。空から天使が降りてきて、この世界には魔法ができたんだ。そのあと、七人の魔法使いが、世界中を旅して、困っている人を助けたんだ……」


 いつか、夢現で母に聞いた寝物語。七人の魔法使いは皆得意な魔法が異なり、力を合わせて問題を解決していく。山のように大きな竜を倒した逸話もある。魔族に苦しめられていた村を救った話もある。ザマルで育つ少年少女にとって、憧れであり、最も身近な偉人だった。


「……魔法使い、来てくれるかなあ」

「いい子にしてたら、きっとね」


 そんな気休めで機嫌をとって、夢の世界に逃げさせる。肩が重くなり、気付けばリュカの隣の少女も寝息を立てていた。


「……魔法使い……」


 眠たさと空腹が同時にやってくる。

 通気口を見上げると、外は暗くなっていた。裏通りに面したそこは人通りが少なく、隣家との距離も近い。隙間から見えるのは土埃と壁だけだ。願いをかけようにも星はない。眠れば空腹は忘れられるが、そうしたら朝が来てしまう。何も変わらないねと、互いに笑って絶望する朝が。


「……母さん……」


 鼻を啜り、リュカは唇を噛んで目を閉じた。




 ぐったりとして、ディーデリヒはソファに体を投げ出していた。向かいのソファには、脱ぎ捨てた服が丁寧に畳んで置かれている。部屋の主であるアンキュウは、空な目をしている教え子に苦笑した。


「お疲れ様」

「マジで疲れました」


 グシャリと前髪をかきあげ、ディーデリヒ……もとい、クリフォードは眉間の皺を伸ばす。ケープを畳んで服に重ねると、ロアルは「手袋も」とクリフに手を差し出した。


「あー……いつもの服がこんなに落ち着くなんて」

「でも様になってたね。さすが」

「三日でよく仕上げたものだ。その髪と眼鏡は、ロアルさんの提案だったね」

「化粧落とすから、じっとしてて」


 ロアルに頭を鷲掴みにされ、顔を布で拭われる。


「監視の類は?」

「いなかったっす。多分。ケープにも認識阻害かけてますし、一度見失ったら見つけられないですよ」

「ボクも見てたから、監視は大丈夫。でも今日は、ギルドの宿には行かない方がいいね」


 ロアルは、長くなったクリフの髪をつまむ。


「これ、目立つし」

「じゃあなんで伸ばさせたんだよ……」

「髪の手入れは手間と時間とお金がかかるからね。長くて綺麗な髪はそれだけで価値がある。昔は貴族とか王族って、儀式的なものと関係が深かったから、魔力が宿りやすいとか切り離せる体の一部としてとか、まあそういう由来があったり、なかったり」


 話しながら、ロアルはクリフの髪を手早く三つ編みにした。アンキュウは二人分の紅茶を淹れ、テーブルに置く。


「では、今日はアータートン君はここで休むといい。ロアルさんは?」

「もうちょっと探ってみるよ。大丈夫、こう見えて隠密は得意だから。向こうの動きも把握しておきたいし」


 紅茶を啜り、クリフはほっと息を吐く。

 作戦自体には賛成だが、それはそれとして気疲れがひどかった。この三日間、毎日風呂に入れられ、髪や顔によく分からない液や油を塗らされた。加え、ロアルによる立ち振る舞いの指導はかなりのスパルタで、歩き方を身につけるために半日、ただひたすらに宿の廊下を往復させられた。姿勢の矯正用コルセットは、もはや見るのも嫌である。


「やっぱ俺に向いてないって……」


 気弱に呟くと、ロアルに「姿勢!」と檄を飛ばされる。


「潜入が終わるまでは君は『ディーデリヒ・グロースクロイツ』なんだから。生まれつきそう育てられて、そういう立ち振る舞いが当たり前なんだよ。思い込まなきゃ」

「わーかってるよ。厳しいな」


 紅茶を飲み終え、クリフはレポートの制作に取り掛かる。ロアルは衣装とアクセサリーの点検を終えると、横からレポートを覗き込む。クリフは支援会での会話を思い出しながら、ペンを走らせた。

 アンキュウはデスクの上に白紙を置くと、袖をまくり、ブレスレットに手を乗せる。蛇が巻き付いたようなデザインのそれは、蛇の頭が、尾の先端についた水晶に齧り付いていた。水晶がじわりと緑色の光を持つ。

 アンキュウは、緑魔術のエキスパート適性を持っていた。魔術を身につけたのはここ数年だが、これがなかなかどうして、使い勝手が良かった。本職の魔術師であればまた使い方は違うだろうが、アンキュウはもっぱら、ザマルの鳥や野鼠の視界を借りている。

 使役している野鼠は今日も順調に、サデュラ支援会の地下室へ潜り込んでいた。身を寄せ合って眠る子供の数を数え、最後に、部屋の隅に固定された檻へと野鼠を走らせる。

 八人目の子供は、その檻の中にいた。金属製の床には、ボロ切れが一枚だけ敷かれている。身を伏せ、握った両手の甲に口を当てているその様子は、傷ついた野生動物のようだ。大きな目だけがギラギラと、暗闇の中で光っている。

 子供の喉から唸り声がもれ、アンキュウは「すまない」と目を閉じる。檻に半歩踏み込んだ野鼠に、子供の手が迫っていた。


「……生きていてくれ」


 額に滲む汗を拭い、魔術の反動(キックバック)に唇を噛む。

 他の子供達と異なり、あの檻の子供には一度しか会ったことがない。食事はきちんと与えられているだろうか。眠っている様子を見たこともない。

 あと何日生きながらえられるだろう。もうすぐ本格的な冬が来る。金属の檻の中では、半日だって座っていられないような冬が。


「先生」


 声をかけられ、顔を上げると、教え子が心配そうな顔をしていた。矢面に立って体を張っているのは、彼だというのに。


「すまナい。ありがとう」

「いえ……、あの先生、野暮なこと聞きますけど」


 教え子の相方は、明日の服を点検しているようだった。貴族を名乗る以上、同じ服を何度も使い回すわけにも行かない。『ディーデリヒ』の衣装は、一週間分確保されている。


「先生の言った、問題提起、とか、そういうのは分かります。でも、その……俺は冒険者だから、どうしてもこういう考えになっちまうんですけど」

「いいヨ、言ってごらん」

「金、かかりすぎじゃないっすか? 一銭にもならないのに」


 正直な意見に、アンキュウは笑う。そして、教え子がどうやら、自分の懐事情を心配しているらしいことにも。


「問題ない。今回の作戦はスポンサーがいる」

「えっ?」

「ザマルは、魔術学院を中心とした学園都市。学問というのは未来を切り開く矛だ。未来を切り開くのは、未来を生きる人々のためとなる。未来がなければ、現在の我々の研究も、引き継がれない。であれば」


 立ち上がり、アンキュウは腰に手を当てて胸を張る。


「学問を生業とすル人間が、未来を生きる者を護ろうとするのは、至極当然ではないかな?」


 アンキュウを見上げ、クリフは少し黙った。それから視線を窓の外へと滑らせて、目を伏せる。


「熱心な先生方で」

「まアというわけで、予算は十分ある。しかし学者の身分(三等市民)では、いくら声をあげてもね。議会の連中は、研究成果以外に関しては耳が遠くなるらしい」

「……『線引き』ってやつですね。先生がよく言っていた」


 くだらない、と吐き捨てられもしない。クリフ自身、そうやって線引きして、日々の判断基準にしている。黒魔術のエキスパート素質が役に立たないというのも、役に立たなければ意味がないというのも、クリフ自身の線引きだ。


「耳が痛い」

「大事なのは線を自覚すること。差別も過ちも、乗り越える第一歩は自覚だよ、アータートン君」


 アンキュウの目が、ロアルへと向いた。ロアルは話を聞いているのかいないのか、こちらに背を向けて、じっと、冷めた紅茶を見下ろしている。


「それはとても難しく、勇気が要ることだけれど」


 穏やかなアンキュウの目線に、クリフは怪訝な顔になった。




 翌日。つつがなく大金を受け取ったらしいエドゥアは、上機嫌でディーデリヒを出迎えた。昨日と同じく応接室に通し、紅茶と茶菓子を用意する。


「さて、仔犬(パピー)をご所望とのことですが」

「ええ」

「理解していただけると思いますが、万が一、情報を売った場合……」


 エドゥアの指が、すうっ、と首の前を横切る。お互い笑みは崩さない。だが余裕を見せるように、ディーデリヒは足を組んだ。


「こちらの誠意は昨日の手形でお見せしたでしょう。良い仔犬が欲しいですね」

「ええもちろん。どのようなのをご希望で?」


 眼鏡の奥で目を細め、ディーデリヒは視線を落とす。思案するように唇を撫でると、爪の先まで磨き上げられた手がよく見えた。


「……可能であれば、直接見て判断したいところです」


 首を振り、エドゥアは指先を絡ませる。


「申し訳ありませんが、そればかりは。ポップ・パピーは一匹五千ユル。上は十二歳、読み書きはできます。変わり種をご所望でしたら、亜人種(クレセント)獣人(レイジー)もいますよ」

「カタログは?」

「顔写真でしたら」


 七枚の写真を受け取り、ディーデリヒは子供たちの顔を確かめる。エドゥアはうっすらと笑顔を浮かべたまま、ディーデリヒの反応を慎重に確かめた。


「……ところで」


 眉一つ動かさないディーデリヒに、エドゥアは前屈みになって切り出す。


「当支援会は、ご覧のように小さいものですし、他の孤児院ほど知られていません。商売も商売、信頼を第一としています。ご友人からの紹介ということでしたが……」

「ああ、言っていませんでしたか」


 疑いをかけるような言葉にも、ディーデリヒは動揺した様子を見せなかった。


「アンキュウ博士ですよ」

「……ああ、なるほど。そう、そうでしたか。それで寄付を、と」

「ええ、善良が過ぎるのも考えものです」


 口に指を当て、ディーデリヒはわざと困ったような表情を作った。


「しかし、私は学者ではなく商人でもありますので。ご心配なく。口を閉ざすことは得意です」


 含みのある笑みで、ディーデリヒは口の前に指を立てた。


「もちろん、口を閉じさせることも」


 ぞくり。エドゥアの背筋に寒気が走る。

 アンキュウの紹介、というのは、信用するには値しない。アンキュウはあくまで家庭教師であり、実情を一切教えていない相手だ。異国から来ており、身寄りもない。万が一の時、面倒が起こりにくいとして決めた人選だった。朗らかで、疑うことを知らないような、間抜けな男。それがエドゥアによるアンキュウの評だった。

 だが、目の前にいる男はどうだろう。アンキュウを善良と評価し、寄付をしたのと同じ表情で、金で子供を買うという。

 イタズラな仔犬(ポップ・パピー)。その呼び方を、アンキュウが知っているはずもない。であれば、この青年もまた、こちらに見えない手段を持っている。それはおそらく、自分が消されないという絶対の自信となるような、後ろ盾。


「そう睨まないでいただきたい。グロースクロイツはこれから、本国で大きな事業を始めるのですよ。そのために少しでも、使い勝手のいい人手が欲しいのです」


 崩さない薄ら笑いは、仮面のようだ。商人というよりは詐欺師だな、とエドゥアは組んだ手に唇を当てた。


「それは、楽しみです」


 もし何もかもが嘘だったとして、ディーデリヒがザマルの人間でない以上、騒ぎが大きくなる心配はない。子供を騙し取られても、それ以上の金額が昨日、転がり込んできた。そう、すでに自分は、絶対に損をしないと決まっているのだ。

 であれば、作れる繋がりは、より強固に。


「では、二階へ。おすすめのパピーを待たせていますから」


 巡る思考に結論をつけて、エドゥアは立ち上がった。




 城壁前の広場で、歌劇をやっているようだった。人込みごしに、ロアルは壁を見る。水晶が地面に置かれ、そこから映像が壁に投影されていた。


映写機(プロジェクター)……?」


 映像を操っているらしい魔術師は、簡易の幕の後ろに座っていた。背景が次々と切り替わり、光の中で演者が踊る。

 眩しいな、と呟いた。くるくると舞う演者も、揺らめく映像も。熱を帯びた観衆も、ロアルには白い光だった。

 眼球も視神経も、脳すらない自分が、どうやってこの世界を見ているのだろう。たまにそう考えては、意味のない問いだと思考をやめる。白と黒の世界。布で人の形を真似て、魔力の奔流の中で、自分はぽつねんと立ち止まっている。

 視界が揺れて、布が擦れる音がする。誰かにぶつかっただろうか。振り向くと、白黒の世界でただ一人、金色の光を帯びた魂がそこにあった。焦点を合わせると、見覚えのある輪郭が浮かび上がる。


「クリフ」

「おう。観光しようぜ。そのあとでギルド行ってさ」


 クリフは両手をこすり合わせた。寒いらしい。ロアルと同じようにフードをかぶり、髪は短く見えるようにまとめていた。いつも通り、冒険者のクリフの格好だ。擦り切れた外套と色の抜けたズボン、くたくたの服。みすぼらしいとは言わないが、これなら金持ちには見えないだろう。


「観光、いいね。どこ?」

「スノウブラッド横丁。面白いモンがいろいろあるんだ」


 クリフに先導され、ロアルは小走りでそれを追う。

 眩しい群衆の間を縫って、細い路地を抜け、裏通りへ。そこからさらにしばらく進むと、古びたアパートが並ぶ旧市街に入る。クリフは唐突に、家と家の間に入った。


「せっまい」

「ここが一番入りやすいんだよ」


 よくよく見れば入り口に、小さな看板が吊るされている。箒に乗った魔女が、リンゴを掲げている形をしていた。

 通りから少し離れたところで、クリフは足を止める。ロアルが背伸びをして前を覗くと、クリフの目の前に、アーチ型の扉が現れていた。


「……変なの。あるのに、ないように見えるよ、その扉」

「認識阻害魔術だよ。鍵はいつでも開いてる。そこに扉があると気付ければ、な」


 古ぼけたドアノブに手をかけると、ドアのレリーフにゆっくりと光が走った。ドアノブを下ろし、押し開ける。キィ、と蝶番が軋んだ。ドアを押し開けながら、クリフはロアルを振り返る。


「ようこそ、魔法使い(・・・・)の隠れ市へ」


 木製の敷居を超えた先は、黒い石畳の道になっていた。扉が全開になった瞬間、わっ、と、強烈な光がロアルを襲う。真夏の太陽を直視したような、痛いほどの眩しさだった。

 狭く薄暗い旧市街の路地裏は消え、開けた青空から、色とりどりの紙吹雪が降ってきていた。広い通りはまっすぐに伸び、突き当たりに三階建てのデパートがある。道の両側には、大きなショーウィンドウのある店がずらりと並んでいた。

 見上げれば、箒に跨った魔術師がすいっと空を横切ってゆく。大きな紙袋を抱えた少年が、ショーウィンドウに張り付いて目を輝かせていた。指を咥えた少女が、アイスクリームカートの前で親を引き止める。一際大きく店先を開いているのは、書店のようだった。難しい顔をした青年が、手に持ったリストと店先の本を見比べている。その隣の店では、学生らしき揃いの服を着た一行が、店員の説明に熱心に耳を傾けていた。

 冒険者の多い通りとは、また違ったにぎわい。眩しさにクリフの後ろに隠れつつ、ロアルは忙しくあちこちへと顔を向けていた。


「すごい」

「魔術師の道具は、やっぱこういうところじゃないとな。魔術師じゃなくても楽しいと思うぜ。魔道具とかなら、魔術師じゃなくても使えるし」

「魔道具って高いんだろう? ギルドで聞いたよ」

「まあなあ。どうしたって、魔力込めるのと設定は魔術師がしないといけねえし」


 鳥かごをひっつかんだ青年が、大急ぎで二人の横を通り過ぎる。振り向くと、煉瓦の壁にぽつんとドアがあった。暴れる梟をなだめながら、青年はドアをくぐり、薄暗い路地へと戻っていく。


「どっか、見たい店あるか?」

「君は?」

「俺は……薬種をいくらか調達したいくらいだな。あと古本屋」

「じゃあボクはそれに付き合うよ。ここ、ずいぶん魔力に満ちているようで、眩しくってかなわない」


 目をこするポーズをして見せて、ロアルはクリフの外套をつかんだ。


「というわけで、案内よろしく、迷子紐君」

「……へいへい」


 広い通りを歩きながら、クリフは店を紹介する。鉄鍋や匙、天秤などの道具の店。杖を加工する店。書店。魔法薬の薬種店。一般向けの魔道具店。使い魔にする、鳥やネズミ、爬虫類などを扱う店。何やら怪しげな古書店。子供向けの玩具店。掘り出し物があるかもしれない、ダンジョンから回収されたがらくたの骨董品店。

 突き当りのデパートは、一階が丸ごと菓子店になっていた。ずらりと並んだ瓶に、色とりどりの飴玉が入っている。チョコレートをまぶした果物の串が、柱に突き刺さっていた。


「クリフ、甘いの好きだっけ」

「いや。でも明日どうにかしてあそこのガキたちに持っていきたくてな……」

「ああ、子供は甘いもの好きだもんねえ」


 チョコレートが詰まった箱を取り、クリフはじっと裏面を見る。考え込むような横顔を見上げ、ロアルはしばらく黙った。


「あの服、隠すところがあるようでねえんだよな」

「魔術で小さくできないのかい?」

「そういう物理法則をまるっきり無視するのは難しい」


 砂糖菓子のほうが、溶けなくていいだろうか。星のような形は子供受けもよさそうだ。万一見咎められたとしても、多少は言い訳がつく。

 瓶入りの金平糖(コンフェッティ)を二つに、細長い筒に入ったキャンディを一つ買う。七色の透き通る飴玉は、軽く振ると内側で光が弾けた。


「ん」

「うん?」

魔力(オド)を水に溶かして砂糖でくるんでる。魔術師の非常食」


 飴玉を一つ受け取り、ロアルは困ったような笑い声を漏らした。両手で飴玉を挟むと、ぱちゅん、と水泡が弾ける音がする。


「……お味は?」

「しないねえ。でも、ありがとう」

「じゃあこれお前の」


 筒ごとロアルに押し付けると、クリフは道端のカフェを指差してそちらに向かった。落ちそうになった筒を空中でつかみ、ロアルは首を傾げる。


「別に魔力補填しなくても、消えやしないよ、ボク」

「絶対はねえだろ。うっかり寝て起きたら朝日で消えていましたとか」

「消えないってば」


 腰帯に筒を差し込んで、ロアルはクリフの背中を追った。




 サデュラ支援会の二階には、二つ部屋がある。そのうちの一つの部屋は、薄緑色の壁紙の中に、小さな机と椅子が置かれていた。入り口から遠い方の席に、連れてこられた少年は座る。

 少年は、痩せた指先を合わせて俯いていた。虚な瞳は、ディーデリヒの前に置かれた紅茶を見つめている。


「加減はどうかな?」


 二日前にそうしたように、ディーデリヒは笑顔で少年に声をかける。

 おすすめの、と紹介された少年は、名乗りもせずに座っていた。ディーデリヒは頭の中で資料をめくる。ずいぶん痩せているが、リュカ、という少年の面影があった。

 受付の女が出て行き、部屋には二人だけが残される。金平糖の瓶をテーブルに置くと、少年の目は瓶とディーデリヒの顔を行き来した。


「子供は甘いものが好きだろう? 君と仲良くなりたいんだ」


 少年は無表情なまま、目だけをディーデリヒに向ける。それから、そろそろと手を瓶に伸ばした。


「会長殿は、私が出国する際に君を譲るとのことだ。一緒に国を出ることになるね。長い旅になる」


 震える指が、コルク栓を引っ掻いた。縛り付けられた紐を引っ張って、ようやく瓶が開く。二粒の金平糖を口に入れると、少年は栓を戻した。薄い服の内側に瓶を入れ、両手で抱え込む。


「……少年。信じられないだろうけれど」


 チラリとドアを見、ディーデリヒは声をひそめた。

 指先が机をなぞり、その跡が光の線となる。書いた文字を反転させると、少年の目が文字を追い、はっとディーデリヒを見上げた。ディーデリヒは笑みを引っ込め、もう一度口の前に指を立てる。少年はこくこくと頷いた。

 にっこりと笑い、ディーデリヒは「では」と立ち上がる。


「また二日後に」


 眼鏡の奥の笑みに、少年は口元を僅かに緩めた。




 息を吸って、汗の滲む手をズボンにこすりつける。この七日間、手を変え品を変え、サデュラ支援会に切り込んだ。今日が、その成果の日。

 クリフは、既に何度も通った道を歩く。そしてその道すがら、伊達メガネをかけ、自分に言い聞かせる。

 自分は、ディーデリヒ。笑顔で人を売買する、人でなし。


「……よし」


 目を閉じ、瞼の裏に、あのやせっぽっちな少年の顔を浮かべる。ロアルは予定通り動けているだろうか。心臓が嫌に脈打って、表情が崩れていないかと心配になる。襟につけた装飾を撫でると、冷たい石がいくらか冷静さを取り戻させてくれた。

 予定通りに。

 長い息を吐いて、クリフは顔を上げる。

 呼び鈴を鳴らし、数秒。


 乱暴に開け放たれた扉から、太い腕が伸びてきた。

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