2)誰かが君を嗤っても
下宿の二階に戻ると、アンキュウはデスクの引き出しを探った。クリフは元の席に、アンキュウがその向かいに椅子を持ってくる。ロアルは座らず、クリフの後ろで静かに腕を組んでいた。来客用テーブルに、一つの紙束が置かれる。
「実は、アータートン君と同じヨウに、私のほうでも君達に用事がアってね」
紙束を二人へと押し出し、アンキュウはゆっくりと一度頷いた。
「君たちが冒険者であルことと、実力を見込んで、依頼がしたい」
クリフは紙束を受け取り、表紙をめくった。
「報酬は、私が所有……というより、学院から与えられている研究室兼倉庫を一つでどうかな?」
紙束から顔を上げ、クリフとロアルは顔を見合わせる。紙束には、『外四番街における連続児童失踪事件について』と書かれていた。
クリフをギルドに置き去り、ロアルは町中の探索に出かけていった。アンキュウからの依頼について、調べごとがあるらしい。
ギルド所属の魔術師は、クリフが近付くと立ち上がり、挨拶の握手を指し出す。
「クリフォード殿。スカーレットさんからの紹介だそうで」
「あ、うん、はい」
デニスと名乗った初老の魔術師は朗らかに笑い、「そう緊張せずに」と椅子を勧めた。窓際の二人掛けの席は、窓からの光で少々眩しい。
「エキスパートの再鑑定と、魔力回路についても診るようにとのことだが」
「よろしくお願いします」
カフェの窓際席の小さなテーブルに、あれこれと器具が並べられる。三つの試験管にはそれぞれ、青、白、緑の液体が入っていた。その隣には、銀色の砂時計が置かれている。懐中時計のような、コンパスのようなものは魔力計だろう。
「ではエキスパートの方から」
「う……はい」
嫌な記憶に、クリフは顔をしかめながら左腕を差し出した。
魔術学院に入って三年目。エキスパートは緑魔術と橙魔術があり、素質の有無によりクラス分けが行われる。魔術の理論含め、魔術師が持っているべき基礎知識の詰め込みが終わり、いよいよ本格的に魔術に触れるという時期だった。
エキスパート適性がない。それは言ってしまえば、『ここから先にお前は入れない』と線引きされたということ。それでも生得魔法が有用ならばまだ救いもあっただろう。器を塞ぐ、ただそれだけという魔法でさえなければ。
エキスパートのない学生は、五百人を超える同学年でも十人もいない。エキスパートの授業が行われている間、繰り返し繰り返し、基礎魔術を磨かされた。きっといつかエキスパートが開花すると、気休めのように教師に激励されて。
『まあーその、そんなヘコむなよ。な? お前田舎から来たんだろ? だったら魔術師ってだけでステータスじゃん』
励ましてきたマティアスの顔が、どこか勝ち誇っていたのを、よく覚えている。
魔術師になれたからいい。それだけではダメだったのだ、クリフには。
「そんな顔をしなくても」
指先に針を刺し、血を一滴抜き取る。デニスは、クリフが痛みを堪えていると思っているらしい。魔術学院では一つの水盆で測っていたが、また違う方法だろうか。
血を青い液体に落とすと、落ちた雫を青白い光が包んだ。広がった血は光の中で雫に戻り、小さな結晶となる。
「緑魔術はなし」
白い液体に、また血を一滴。血は水面に浮かび、液体とは混ざり合わなかった。
「橙魔術もなし」
緑の液体に、また血を一滴。滴った血は液体と混ざり合うと、液体の表面に炎のような揺らめきが浮かび上がった。
「おや」
「え?」
そのまま、かき混ぜもしないのに液体は渦巻き、黒へと変化する。
「これは……」
デニスが言い淀む。黒々とした液体は、向こうも透けて見えないほどだった。インクだと言われればそうだろうと納得できるような漆黒だ。
三つ目のエキスパートには、クリフも思い当たるものがあった。
「死霊術……っすか?」
「極めて高い適性だ」
黒魔術。赤、青、白、緑、橙に連なる第六の魔術であり、かつてはエキスパートの一つでもあった。だが現在は禁術として、学ぶこと自体禁じられている。
遥か、魔法の時代の記録ですら、賢者クラスでなければ閲覧を許されない。現代の魔術師であるクリフは当然、存在と歴史を知っている程度だ。
「……黒魔術は、文字通り魂に干渉する術だ。他のエキスパートより高い魔力感応が求められる。これに関しては通常の魔術でも役に立つ素質だ。黒魔術に関しては……」
「あの」
クリフは右手を差し出し、その手の甲を指でなぞった。
「これ、黒魔術、ですか」
穂先の刻印が浮かび上がる。デニスの顔がサッと青ざめた。
恐らく、これをクリフに刻んだのは【八重塔遺跡】のガレッドだ。【大喰らいの幻影】を分解し、【亡霊】を魂へと還した。考えてみれば死した魂を操る術そのものだ。
そしてもう一つ考慮に入れるべきであるのは、あの時クリフが【千年竜】と唱えた魔術は、間違いなく現代魔術であったことである。
(ガレッドが知ってるはずねえんだ)
額に拳を当て、クリフは目を閉じる。あの時は、ガレッドがクリフの肉体を使って黒魔術を使ったと解釈していた。そうであってほしかったのだ。
スカーレットは察していたのだろうか。考えれば分かる。刻まれた魔術式を現代魔術に再編成し、誰に習うでもなく行使した。そんなことができるわけがない。普通なら。
(そうだよ……答えは目の前にあったんだ)
ただ、それを信じたくなかっただけで。
極めて高い黒魔術適性。これほど、無駄なものがあるだろうか。歯の間から息を吐き、クリフは眉間に皺を寄せる。
「……魔力回路の測定に移るが……」
「あ、ああ、はい。お願いします」
「気を落とさない……のは難しいかもしれないが。魔術とは求められて花開くものだ。それに高い適性を持つということは、それ以外の魔術の才も相応に備わっている」
慰めに礼を言う気力もなく、クリフは差し出された橙色の魔法薬を飲み下す。デニスが水銀時計をひっくり返すと、クリフは両手をそこに乗せて俯いた。
「ゆっくり呼吸しなさい」
「はい」
目を閉じ、じっとりとした熱が腹へと落ちるのを感じる。吐く息は一呼吸ごとに熱を持ち、やがて顔も熱くなってきた。両手を乗せた時計の中で、銀色の液体が滴る感触すら伝わってくる。鋭敏になった耳は、カフェのざわめきを全て正確に拾い上げた。
「いいよ」
「【術式解放】」
唱えると同時に、ばちん、と目の奥で光が弾けた。
魔力炉から四肢へ、直線が走る。全身に刻んだ魔術式が光を持って浮かび上がった。魔力結晶を破壊した時を思い出す、感覚の鋭敏化。擬似的な魔力過剰状態だ。デニスはクリフに魔力計を握らせる。カラカラカラ、と針が回る音がした。
魔術師は周辺から魔力を集め、それを操って魔術を使う。魔力回路の許容量が大きければ大きいほど、優れた魔術師に近付けることは確かである。クリフの魔力許容量は、デニスも目を見張るほどだった。
「……素晴らしいな」
それだけに惜しい。緑魔術や橙魔術の適性があれば、王国直属としても申し分ない素質だったろうに。
もし、黒魔術が禁術でなければ。デニスはクリフの顔を見る。恐らく、考えていることは同じだろう。
しばらく、クリフは黙ってテーブルに視線を落としていた。デニスも何と言ったものか、言葉を探している。無駄とまでは言わないが、エキスパートのない魔術師はどこまで鍛えても、秀才の域を出られない。特に、冒険者としては。
「ありがとうございました」
クリフが絞り出すと、デニスは首を横に振った。
「重ねて言うが」
「大丈夫です」
「気を落とさないほうがいい。大きな器は、願っても得られない才能だ」
「大丈夫ですって」
クリフはそれ以上の言葉を拒絶した。
分かっている。恵まれている。魔術の素質というのは天稟だ。生得魔法の有無で選別され、魔力回路の許容量でふるいにかけられ、学校で時間をかけて向き不向きを実感する。そのどこかで『ダメだ』と言われれば、自分は今も、長閑な農村で羊を追いかけ、畑を耕していただろう。
生得魔法はある。魔力回路も一級品。勉強も好きだった。分厚い本を何百冊と積み上げられても、それを全て自分の糧にできた。そもそも勉強ができる環境に送り出された、そのことすら十分、贅沢で。
恵まれている。
だというのに、持って生まれた素質が黒魔術とは。
「……そんなもの、何の役にも立たないのに」
乱暴に、椅子を置く音がした。クリフが顔を上げると、いつ戻ってきたのか、そこにロアルがいた。どっかりと椅子に座り、ロアルは腕を組む。
「どーぞ、続けて?」
「いや、もう終わった。私はこれで。……最後に、クリフォード殿」
「はい」
「ファミリーネームをお伺いしても?」
え、とクリフは言葉を詰まらせる。ロアルは首を傾げ、クリフを見上げた。
「えっと……俺、田舎の村、出身で」
エストラニウスでは基本的に、貴族、王族以外は姓を持たない。姓とは身分の証明であり、田舎ではさして重要視されない。同じ名前があれば、誰それの子供の、であるとか、どこそこに住んでいる、と付け加えれば通じるからだ。
「おかしいな。これほどの素質、代々魔術師として名をはせた家系かと思ったが」
「……ですよね」
口元に手を当て、クリフは目を閉じる。ゆっくりとひと呼吸、口の端を上げた。
「クリフォード・セル・アータートン。これでフルネームです。どっかのお貴族様の捨て子とかじゃないですかね。名前だけつけて、放り出したみたいで」
他人事のように言うクリフに、デニスは「そうか」とだけ返した。
カフェのテーブルに、紅茶と焼きパスタが置かれる。注文するだけ注文して、ロアルはぼうっと窓の外に顔を向けていた。空いたデニスの席には、布でくるまれた買い物袋が乗っている。
「……俺に食えって?」
「うん。お昼時だし」
「お前な、こっちの空気を少しは察せよ」
ロアルはフォークをつかみ、巻きつけたパスタをクリフの口へ押し付ける。
「どんな時でもご飯は食べなさい」
「あー分かった、食うから、わかっ、あっつ!」
フォークを受け取り、クリフは湯気の立つパスタを口に運ぶ。
「……美味い」
「なにより」
ぶつ切りの野菜を突き刺し、紅茶と一緒に流し込む。それからぽつぽつと、鑑定結果について説明した。ロアルは相槌を打ちながら、ポットから紅茶を注ぎ足してくる。
「……というわけで、今後もなんつーか、使える魔術の数は増えるかも知れねえが、幅は広がらない。以上」
「ふうん。君も難儀だねえ」
「ンな他人事みてぇに……いや他人事か……」
クリフにとってはいろいろと心に来る結果だったのだが、この双剣士にはまるで関係ないらしい。どうもこの双剣士は、自分を過大評価しているように思えてならない。
「君が何考えてるか、なんとなぁく分かるよ」
「そーかよ」
「でも、そう。そう言えば、ちゃんと君に言っていなかったと思って」
ロアルが、手のひらをクリフへと差し出した。
「……?」
「ボクが君に、パルを申し込んだ理由」
「魔術師が欲しかったんだろ?」
「そんな程度で運命なんて言わないさ」
「まあ……お前らしくない誘い文句ではあったけども」
そもそもロアルは基本的に、他人を信用していないふしがある。初対面の自分相手にあれほど好意的に近づいてきたことは、余程困っていたのだろうと思っていたが。
「あの日、ボクは空から落ちていっただろう?」
そういえばそうだったな、と、あの衝撃的な出会いを思い出す。種明かしをされたうえで考えても、あれ以上意味が分からない初めましてもないだろう。
「あれで、ボクも参っていたんだよ。右も左もわからないし、パーティに所属しても長続きしないし」
「……ふーん」
怪訝な顔になり、クリフは紅茶にレモンを突っ込む。
「信じてないだろ? 失敬な。ボクにも心はあるんだぜ」
「信じてないことはねえけど、お前図太いじゃん」
「君には負けるね」
数秒、二人は黙って向かい合う。クリフが下手に笑って、ロアルも口元に手をやった。
「ともかくそんな状態で、挙句の果てに空に吹っ飛ばされてさ。そしたら、君が走ってきたんだ。まっすぐに」
思い出しているのか、ロアルはくすくすと笑い声を漏らした。
「眩しかったなあ」
よく喋り、よく動くから忘れがちだが、ロアルは【亡霊】だ。現代のことを知らず、顔も見せられない。無理に仮面を剥いだら、そこには何も存在しない。定住しない冒険者だからこそ、変わった奴、程度の認識で済まされているとも言える。素性の知れない人間をパーティに入れることのリスクを考えないリーダーはいない。
しかし同時に、ロアルは人間としての自我を持っている。アンキュウの研究室で零したように、寂しいという気持ちがないわけがない。ロアルが探しているものを考えれば、その目的も察せられる。
歴史から消された王国の亡霊。大戦を知る過去の残影。八百年前から現在までずっと、眠っていたというわけでもないだろう。語るのを拒否した過去を詮索するほど、クリフも無神経ではないつもりだ。
「……そう……かよ」
「照れた?」
「うっせぇな!」
ロアルを直視できず、クリフは窓の外へと視線を泳がせる。
嬉しくないわけがない。
「まあ君はギリギリ間に合わず、常人だったら死ぬなってくらいの勢いで地面に落ちたわけだけど」
「黙っとけよ、そこは」
「あはは! でも君が本気で解散したいっていうならいつでもそのつもりさ。ホントホント。魔術師じゃなくて、君という人間を気に入ったって話だからね。君が魔術師として立ち止まってしまうのなら、それはボクには助けられない」
この野郎、とクリフは心の中で悪態をつく。ロアルはしっかりクリフの魔術師としての技能も役に立てるつもりでいる。冒険者なのだから、それも当然ではあるのだが。
それでもロアルの隣は、居心地がいい。ふいに無茶を言ってくることがあっても。
「立ち止まらねえよ。止まったら、本当に俺は役立たずになっちまう」
できるだろう、と根拠もなく全力で信じてくるのだから、応えたくなってしまう。いくらでも。自分ができると信じられないようなことでも。
「安心してろ」
「期待してる」
紅茶を飲み干す。ロアルは腕を組み、満足げに頷いた。次に来るであろう問いへの答えを考えながら、カップを置く。
「で、アータートンって何さ」
「黙秘権を行使する」
「ずっるい」
「誰にだって知られたくねえことあるだろ。俺とアルの話聞いてたんだから、そっから勝手に推察してくれ」
話を切り上げ、クリフは食器をカウンターに返しに行った。ロアルは持ってきた椅子を片付け、買い物袋を抱える。
「じゃ、続きの話は宿で」
「おう」
今の時間であれば、宿には冒険者も少ない。ギルドのカフェから奥の階段を三階まで上がり、そこから隣家につながる細い道を抜け、四階へ。二人部屋としては最も安い部屋だ。
「先生のあれだろ。何か、手だて考えたのか?」
「んー、まあ。君は嫌かもしれないけど」
狭い階段で、クリフは「はあ?」と振り返る。
「クリフ、君さ。五千ユルの服、着たことある?」
アンキュウからの依頼は、とある孤児院の調査だった。
家庭教師として雇われているアンキュウは、その孤児院の子供達が妙に覇気がなく、痩せていることが気になっていた。そもそも渡来の学者であるアンキュウを家庭教師に選んだ時点で、いぶかしんではいたらしい。
「この国、奴隷制は?」
「禁止。建前、はっ……」
クリフが窓枠をつかみ、ロアルがその腰に膝を当てる。ロアルが紐を引くと、クリフは呻いて額に脂汗を浮かべた。
「ふーん。あちこち調べてきたけどさ。人身売買があるってことは奴隷制があるってことかなって」
「だから、建前っ……締めすぎじゃねえかなあ! メシ全部出る!」
「君ちょっと猫背なところあるからさあ」
コルセットをぽんと叩き、ロアルは紐を結ぶ。床に崩れ落ち、クリフは腹部に手を当てた。直線に固定された胴は、強制的に背筋をぴんと伸ばさせる。
「腹ぁこんな絞られて平気なのは、お貴族様の女だけだろ」
「ご存じないかもだけど、女性にも内臓ってあるんだよ」
「俺にもあるんだが?」
両腕の下に手を入れられ、立たされる。浅い呼吸をしながら、クリフは天井を仰いだ。狭い部屋の隅に蜘蛛の巣を見つけ、目を閉じる。
「フィッティング終わったら今日は歩き方やるからね。話戻すけれど。あの先生の話じゃあ、失踪届が出された子供が、まるっと支援会にいるって話じゃない。憲兵は何をやってるんだい? 流石に怠慢じゃないかな」
「だから、それを調べるんだろ。まともな支援会もあるんだ。俺も学院時代に家庭教師しに行ってたし」
シーラー国立魔術学院付属の孤児支援会は、文字の読み書きや計算の他、学院の寮生が定期的に勉強を教えている。
周辺に大きな町のないザマルでは、冒険者や商人に拾われた孤児が、ギルドや商会を通して孤児院に入ることが少なくない。しかし孤児院を出たとして、最低限の読み書きしか覚えておらず、伝手もない十七歳が就ける仕事などたかが知れている。そんな中で増えてきたのが、高等教育を施し、貴族や商人、憲兵などに紹介する孤児支援会だった。
定期的に憲兵の立ち入り監査を受けていれば、という条件付きだが、孤児支援会は就職の斡旋の代わりに、紹介料を受け取ることが許されている。
『君たちにお願イしたいのは、つまり、問題提起だ』
アンキュウが雇われた支援会は恐らく、誘拐してきた少年少女を孤児と偽って売買している。
『人身売買の根源は、この国が戦っていくベキ問題だ。孤児のコトも、支援会のコトも、憲兵のコトも。月に愛された民にとって、太陽に愛された民は、ずっと余所者。いつかいなくなる人間の言葉は、軽い』
ではどうするのか。
「じゃあクリフ、魔術でさあ」
買い物袋を小さく折りたたみ、ロアルはベッドに腰かける。
「でっ……かい拡声器とか作れない?」
「……お前何する気だよ」
「分かるだろ?」
「分かるけど理解したくないことってあるだろ」
青白い顔で、クリフは首を振った。
サデュラ支援会は、ザマルの北側、旧市街地の入り組んだ路地の先にある。分かりやすい道標も看板もないが、通行人に聞けば案内してもらえる程度の場所だ。白い壁に青い屋根、二階建ての一軒家。新しい塗装と古い柱が入り混じる外見だった。
呼び鈴に、一人の女が顔を出す。扉の隙間から半身を出し、女は怪訝な顔になった。
「お初にお目にかかります」
立っていたのは、金髪の青年だった。群青色のロングコートと空色のベスト。右側に寄った白いケープには金糸の刺繍が施されていた。襟元まで皺ひとつなく整えられたシャツは漆黒。それが尚更、白い肌を際立てている。浅く礼をすると、ケープのブローチにはめ込まれた石が、橙色に光った。
滑らかな金髪は、首元でゆるく束ねられていた。瞳も、太陽のような金。薄いメガネのレンズ越しに、穏やかに女を見下ろしてくる。
「こちら、サデュラ支援会でよろしいでしょうか?」
胸に手を当てて微笑むと、女ははっと息を飲んだ。「はい」と返事をすると、青年は安堵したように笑みを崩す。
「よかった。不案内なものでして」
「あの……何か御用ですか?」
警戒するような女の視線に、青年は「あっ」と声を漏らす。
「これは失礼しました。私、ディーデリヒ・グロースクロイツと申します。こちらが孤児の支援会と伺いまして、ぜひ寄付を、と」
女の表情がやや和らぐ。「こちらへ」と扉を引くと、外の空気と同時に、ふわりと香水の匂いが入ってきた。
「珍しいものをお付けですね」
「グリッツェラーの流行りでして。本国では陛下のお気に入りというと、すぐ皆飛びつくのですよ」
「ですが、香水なんてお高いでしょう?」
「いえ、ひと瓶であればそれほどでもありません。お気に召したのでしたら、差し上げますよ。新しいものがありますから」
「いいえ、匂いが強いものは、子供が嫌がりますから……」
応接室にディーデリヒを通すと、女はその斜向かいの部屋へ駆け込んだ。
「会長!」
「なんだ騒がしい」
しかめっ面で、会長、と呼ばれた男は顔を上げる。
「寄付のお申し出なんですけど……」
「結構じゃないか。適当に相手して金だけ受け取っておけ」
壁に埋め込まれた本棚には、紙束が所狭しと積まれていた。デスクには、子供の顔写真が数枚置かれている。写真と折りたたんだ紙を封筒に入れ、封蝋を垂らす。女は落ち着かなく視線を彷徨わせた。
「それが、グリッツェラーからいらっしゃった、多分、ええと……貴族の方、だと」
会長の眉間に皺が寄る。手元から顔を上げると、会長はゆっくりと立ち上がった。
「分かった。私が対応する。子供を二人二階に回しておけ」
「はい」
客人は、紅茶に手をつけずに待っていた。振り向くと、髪留めと耳飾りがきらりと光る。よくもまあこれほどきらきらしい格好で、と会長は内心半笑いになった。
「支援会会長のエドゥアと申します」
「これは、ご丁寧にありがとうございます。私はディーデリヒ・グロースクロイツ。寄付にと伺いましたが、会長さんでしたら、他のお話もできるでしょうか」
眼鏡の奥の目が、怪しく細められる。
「他に、と申しますと」
「実はこの支援会は、とある友人に紹介していただきまして」
握手もそこそこに、ディーデリヒは微笑のまま指先を合わせた。
「イタズラな仔犬を融通していただけるとか?」
エドゥアの頬がぴくりと動く。ディーデリヒは背筋を伸ばし、表情を改める。
「ああ、寄付金ですが。ザマルには銀行もありますし、手形でもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。ありがとうございます。なにぶん、孤児の支援は何かとかかりますから」
「お役に立てていただけるのであれば」
手渡された手形の金額に、エドゥアは一瞬言葉を失う。だがすぐに笑顔を取り繕い、丁重に頭を下げた。
「それで。検討していただけるのであれば、明日、また伺いますので、その時に」
顔の笑顔を崩さないまま、ディーデリヒは立ち上がり、別れの礼をした。廊下に出ると、ぱたぱたと上から足音が聞こえてくる。
「元気な子供達ですね。今は何人いるのですか?」
「あはは……やんちゃばかりで。今は八人です。元々、それほど大きくない家ですから、十人までと決めていまして」
そうですか、と返すディーデリヒは、天井を見上げてグッと目を細めていた。
ディーデリヒを見送り、玄関扉に鍵をかけると、エドゥアは急ぎ足で書斎に戻る。
「グロースクロイツ……グロース……」
本棚から、金属で縁取られた装丁の名簿を取り出す。『グロースクロイツ』は、エストラニウスにもグリッツェラーにも、ザマルにも、貴族や王族の姓としては登録されていないようだった。だがこの名簿も二年前のものだ。エストラニウスの貴族は血筋で決まるが、グリッツェラーは財産規模で決まると聞いたことがある。
「成り上がりか?」
近年、グリッツェラーは工業の発展がめざましい。その中で成功し、一代で財を築いて貴族の地位を買った、そんな実例もなくはない。
「……まあ、異国の人間なのは都合がいい」
手形を見下ろし、エドゥアは口元を笑わせた。




