第44話
俺が二つの世界の違いを最も実感するのは、自分自身のことよりも千年ウォークの存在だ。前の世界で売れっ子芸人だった彼らのファンだったが、こちらの世界では無名のままでいる。だが、この世界の俺が売れない千年ウォークをファンとして支え続けていたのかというと、おそらく違う。彼らの現状を把握したのは、転移した後になってからのことだ。
箸荷さん、比延さんも今の世界固有の記憶は持っていないようだ。先輩たちについては、その辺りの事情はよくわからない。
「あ。一人いる」
「誰だ?」
「玻璃先生。俺らの担任でオルタナティ部の顧問だよ。先生は二つの世界で、まったく異なる人生を歩んでるはず」
玻璃先生は俺にも気さくに自分の話をしてくれる人で、前の世界では現在とはまったく違う職に就いていたという話を聞いたことがある。
しかし改めて考えてみると、この世界での過去の経験について具体的に話してもらった覚えはない。
「そいつと直接話してみるしかねえな」
「え? 七弥さんが直接? チーさんが?」
「モノ、お前な。世界の転移とかいうわけのわかんねえ状況にいて、喋るイルカのぬいぐるみが現れたって、どうってことねえだろ」
どうなんだろう。玻璃先生、驚いて腰を抜かすんじゃないか。
だけどチーさんの秘密を共有できる相手が増えるのは、意外に悪くないかもしれない。本音を言えばオルタナティ部のメンバーくらいには、打ち明けられればと思うこともある。
何より先にひとの気持ちを聞かなければならないし、るるとも相談して決めるべき問題だろう。
それでも、チーさんが他の人との接触を望んでいることに、俺は内心喜びを感じていた。在りし日の七弥さんは人付き合いが得意で、常に多くの友人や仲間に慕われる存在だった。
俺は昔から、そんな七弥さんに強い憧れを抱いていたのだ。
「じゃ、モノ。戻るぞ」
「え、もう?」
「その玻璃って先生と話すために、お嬢とルルの許可貰わなきゃいけねえだろ」
七弥さんはやはり頼りになる。俺の意図を完全に理解して行動してくれる。
——オルタナティ部の部室に戻り、ひととるるに一部始終を報告すると、ひとはすんなりと同意してくれたものの、るるはあまり気が進まない様子で、しぶしぶ承諾してくれた。
だが、赤い実を隠し持っていたことに関しては、二人にきつく叱られることとなった。
上機嫌になったチーさんは、部室の床をトランポリン代わりにして、何度も何度も飛び跳ねている。イルカのなせる技なのか。
「誰かいるか? ……イルカ?」
玻璃先生が部室の扉を開け入ってきたものの、部室内で繰り広げられるチーさんのイルカショーを見て、まるで理解が追いつかないといった表情で立ち尽くしている。
絶好のタイミングと呼ぶべきか、最悪の瞬間と呼ぶべきか迷うところだが、チーさんと玻璃先生の邂逅は、予期せぬ形で実現した。
——チーさんが言葉を発した時には、腰を抜かして床にへたり込んだ玻璃先生だったが、チーさんの何気ない一言によって、冷静さを取り戻した。
「お前、曽我井か! オレだよオレ。中学で同級だった瀬加」
「私の知ってる瀬加君はゴリゴリのヤンキーで、そんな愛らしいイルカではなかったけどなあ……」
「バカ! こいつらの前で、体裁の悪いこと言うな」
今になって気がついた。俺の姉・沙綾さんと七弥さんは同い年だ。ならば玻璃先生とチーさんが知り合いだったとしても全く不思議ではなかった。
しばらくの間、昔の思い出話に花を咲かせていた二人だったが、やがてチーさんが本題を持ち出した。
「なあ曽我井。お前の記憶ってどうなってるんだ?」
「記憶?」
「お前の今の幸せは、前の世界で苦労の末手に入れたもんだろ。それは、この世界と同じものなのか? ガキのこともよ。お前の夫のこともよ。今の世界でまるで違う人生を歩んでいて、それでも手に入ったものなのか?」
チーさんの鋭い問いかけに、玻璃先生は俯いて「うーん」と苦悩するような声を漏らした。
「実際、こっちの世界の細かい記憶はないねん。勉強して得た知識や、経験で得たスキルなんかは残ってる。そうでないと保健室の先生なんてできひんからね。でも、どういう経緯で人生を歩んできたのか、私にはさっぱりわからへん」
「おかしいと思うか?」
「そうやね。今の環境との辻褄が合わへん」
「そうか」
そう短く答えて、チーさんは黙りこくってしまった。しばらく重い沈黙が続いた後、チーさんがようやく口を開いた。
「まあ……今はよ。何を考えても憶測でしかないからな。もう少し、いろんなやつの話を聞いた方がいいかもしれねえな。いろんな方向から」
チーさんの話を聞きながら、俺は脳裏に沙綾さんの姿が浮かんだ。管理者について調査を行っている姉。
チーさんの存在について、沙綾さんに伝えるべきなのかもしれない。
ただし、それは当然チーさん本人はもちろん、ひととるるの了承も得た上でのことだが。
「オレはちょっと眠くなってきたぜ。まだ体力は完璧じゃないからな。休ませてもらうぜ」
そう告げるとチーさんは、ひとの方へと跳んでいき、彼女の手首にくるりと巻きつくと、動きを止めて眠りについた。
残された俺たちは、言葉少なく、どこか不可思議な空気の中で時を過ごした。




