第15話
「物朗、今日お父さんもお母さんも、外でご飯食べてくるらしい。ひとちゃんがよければ、ピザでも取ろう」
沙綾さんは、思い出したようにすぐに戻ってきて、俺たちに言った。
「いいの? ピザ高いでしょ」
「臨時収入があったんだ」
得意げな顔で、沙綾さんは茶封筒から取り出した一万円札を三枚、顔の前で広げて見せた。
ひとはスマホを取り出し、父親に許可をもらおうとメッセージを送信した。すぐに画面が明るくなり、沙綾さんに「大丈夫です」と伝えた。
「何食べたいか考えときな。ひゃっほー!」
十一歳上、二十七になる俺の姉、沙綾さんは小躍りしながら部屋を出て行った。
——地方の田舎町で暮らしていると、テレビCMで流れているようなピザチェーンのほとんどを食べたことがない。配達してくれた店も、二年前に地域に進出してきたばかりのピザチェーン店で、市内唯一のデリバリーピザだ。
俺たちは四種類の組み合わせのピザを二枚、それぞれ食べ分けて、サイドメニューのチキンとポテトも頰張った。沙綾さんはコーラを飲みながら、ずっと「ひゃっほー」とテンションの高い声を出していた。
臨時収入などと言っているが、俺は——おそらく両親も——沙綾さんがどんな仕事をして、何で収入を得ているのかを知らない。沙綾さんは語らないし、俺も訊かない。
何も知らないが、沙綾さんはいつも明るい人だ。ひとやるるといると、そう歳が違わないようなノリで楽しそうにしている。
しばらくリビングでテレビや動画を観ているうち、いつの間にか夜も更けていた。そろそろ、ひとを家に帰さないといけない。沙綾さんが車を出してくれ、ひとは助手席、俺は後部座席に乗り込んだ。
ひとの家は徒歩でも行ける距離だが、夜道は街灯も少なく、町の治安こそ悪くないものの万が一のことを考えると、沙綾さんの軽自動車は救いの神だ。
ひとの家にはすぐに到着し、降りる前に「また明日」と声をかけると、ひとも笑顔で手を振り返してきた。
「帰りにコンビニに寄っていこう。アイスが食べたくなってきた」
コンビニは家とは反対方向で、ひとの家よりさらに進んだ先にある。しばらく沙綾さんの運転で車を走らせていると、そいつはいた。
九——管理者の一人。軽薄さを身に纏った、危険な管理者だ。街灯の光に照らされた闇の中に、九の姿がくっきりと浮かび上がっている。まるで見えない椅子に腰掛けるように、高さ三メートルほどの空中に浮かび、指揮者のように両手を動かしながら、漆黒の壁を自在に操っている。
町の区画が分断されている。目の前の道路は突然途切れ、黒い壁に遮られていた。沙綾さんは慌ててブレーキを踏み、ハンドルを握りしめたまま前方を凝視していた。
「物朗、じっとして動くなよ」
そう言って沙綾さんは車のドアを開け、ポケットから年代物のデジタルカメラを取り出して、遠巻きに九の姿を狙い撮影を始めた。
「沙綾さん、何してるの!? 危ないって」
俺は慌てて窓を開け、沙綾さんを呼び戻そうとした。妙な行動を取れば、九に目を付けられる。るるのことがあったので、俺は九という存在の危険性を理解している。
「大丈夫だよ。動くなよ」
沙綾さんは意外にも落ち着いていて、冷静にシャッターを切り続けている。まるで何かを調査しているようだ。
不思議なことに、沙綾さんが九のほぼ真下で撮影を続けているにもかかわらず、空中の九は彼女の存在に全く気づいていないようだった。何枚か撮り終えると、沙綾さんは足早に車へ戻ってきた。
「物朗、明日はお寿司を食べに行こう。姉の奢りだ。ひとちゃんも、るるちゃんも来れるなら呼べばいい」
そう言って沙綾さんは、車をUターンさせ始めた。相変わらず漆黒の壁は、道路に立ち塞がっている。コンビニは諦めるしかなさそうだった。
俺は窓から九の姿を確認しようとしたが、街灯の光が反射してよく見えない。家に帰ってから掛けていなかった眼鏡を取り出し、つけてみた。——伊達眼鏡なのでなんの意味もないのだが。
瞬間、九の顔がこちらを向いて目が合った気がした。俺はびっくりして眼鏡を外した。しかし九はもう元の方向を向いていて、まるで俺など眼中にないかのように壁を操作し続けていた。
「物朗、家に帰るまで眼鏡は外しとけ」
「どういうこと?」
「今日の物朗は、この世界にいない物朗だからな。あいつに見つからない」
沙綾さんの言葉の意味が、よくわからなかった。
帰りの車中は静かだった。沙綾さんも俺も、見たものについて話す気はなかった。
家に着き、沙綾さんは「おやすみ」とだけ言って自分の部屋に引っ込んだ。俺も自室に戻り、ベッドに横たわる。
机の上のブックエンドに立てかけられた黒鷺中学の卒業写真を見つめた。写っている自分は、今とは少し違う。でも、その姿は前の世界の自分にも似ていない。
その晩、俺は夢を見た。俺も、ひとも、るるも、沙綾さんも、両親も、登場する人物が皆、同じ眼鏡を掛けていた。
朝の通学路で、いかに面白おかしく眼鏡の夢の話を披露するか——俺の頭はそのネタでいっぱいになった。
(了)




