ルカにこんな目で見られたことなど、一度もない
ぬかるんだ土にルカの革靴は汚れ、ズボンの裾は泥のしみになっている。
全身水をかぶったように濡れている彼は少しでも雨から逃れるかのように階段下のスペースに身を寄せている。
まるで何かから身を隠すように顔を埋めて蹲っている。
前の人生でも黒猫を追いかけた先で蹲る少年を見つけたのだった。
以前は何と言って声を掛けただろうか。
メアリは言葉を失った。
前の人生のルカからは以前に会ったことがあるなんて一度も聞かされたことなんてない。
彼もこのときに出会った少女がまさかメアリだったなんて知らなかったのかも知れない。
メアリも今の今まで思いつかなかったのだ。
「……こんにちは」
結局自分が以前何と言ったか思い出せなかったので無難に声を掛ける。
そもそもこのとき彼に何をしたかさえも思い出せない。
顔を上げてこちらを見上げたルカの碧の目は危うげに揺れ、メアリの姿を捉えるとぎりりと歯を食いしばった。
(見られたくなかったのね。それはそうか。こんな姿で、嫌ってる私には会いたくないよね……)
前はお互い知らないもの同士だった。お互い知らないもの同士の方が良かった場合なんてあるんだなあ。
「何しに来た」
ルカは敵意を隠すことなく吐き捨てるように小さく低く問う。
メアリがあわあわしていると、後ろの方で追いついた侍女が自分を呼んでいる声がした。
ルカだと分かっていてこのまま放ってなんておけない。
メアリの記憶によると、彼は今迷子で、なおかつ追っ手に追われているのだ。
「メアリ様、帰りましょう」
小さく腕をとり、そばに来たサラが耳打ちをする。
馬車の御者を待たせているのはわかっている。
サラからしてみるとメアリが見知らぬ子供に単に興味を持っているかのように見えるのだろう。
「彼はハニエル伯爵のところの子息だわ。護衛がついていないなんて何か事件でもあったのかもしれない。とりあえず馬車まで一緒に行ってもいい?」
そうサラに了承を得ると、こちらを威嚇していたルカの目の色がさらに鋭くなる。
その瞳の奥は冷たさを通り越して、もはや憎悪の青い炎が燃えているようですらある。
少なくともルカにこんな目で見られたことなど、一度もない。
たじろがなかったというと嘘になるが、今はそんなことよりもルカの命の方が心配だ。
多少なりとも強引に腕をとると、他に方法も思いつかないのか意外にも抵抗することなくルカは無言で馬車まで同行した。
前の人生ではルカをこの場所から移動させたことはなかったはずだ。
見ず知らずの他人にいくらなんでもそんなおせっかいはできない。
せいぜい手持ちのサンドイッチを渡すとか、連絡用に持たされている通信手段を貸すくらいだろう。
馬車の御者に事情を説明して、祖母に到着が遅れる連絡を入れると、先にルカを彼の自宅に送り届けるためにハニエル家に向けて出発した。
幸い馬車にはメアリの護衛もいる。あの場所にルカを置き去りにするより何倍も安全だろう。
馬車の中でルカは終始無言で窓の外ばかり見ていた。
何も口を開かないルカの代わりに御者にハニエル家の道案内をするメアリは、さぞかし奇妙に映ったことだろう。
以前の人生では何度もハニエル家に行ったことのあるメアリは、この人生ではハニエル家と何の交流もないのだから。
無事何事もなくハニエル家に着いたところで門番の方に事情を説明して先ぶれを出してもらう。
しばらく門で待っていると傘を差した執事が駆けつけてきた。
「よくぞご無事で!」
「ああ」
執事の感極まった様子に対して、ルカの返事はそっけなかった。
ジェーン家にものちほどお礼の連絡をいたします、と執事とアンナが大人同士の会話をしている間、ルカは忌々しいといった目でメアリを睨みつけていた。
「これがお前の目的か? 金で雇った荒くれ者をつかって恩を売るつもりか?」
周囲に聞こえないほど小さな呟きをメアリの耳元で低く呟いた。
このやりとりは最も近くにいたアンナですら気づいていないだろう。
メアリは心臓が捩じられるように苦しくなり目を伏せた、気を抜くと涙が溢れてしまいそうだ。
そんなメアリの様子を一瞥して、ルカは執事とともに門の中に消えていった。